第一二四章 午前零時の手前
時計が止まった。
アポロンは、壁に掛けられた時計を見つめた。
十一時五十九分。
秒針だけではない。長針も短針も、そこから動いていなかった。
部屋の中は静かだった。
冷蔵庫の低い駆動音が聞こえる。窓の外では車が走り、遠くから誰かの笑い声が届いていた。
世界そのものが止まったわけではない。
止まったのは、この時計だけだった。
アポロンは椅子から立ち上がり、時計を壁から外した。
電池を取り出し、入れ直す。
秒針が動き始めた。
しかし、数秒後。
再び十一時五十九分で止まった。
「……なるほど」
理解したわけではない。
ただ、偶然ではない可能性が高くなった。
アポロンは時計を机に置き、スマートフォンを手に取った。
石碑の写真を開く。
今度は何も表示されなかった。
画像を拡大しても、記号の下に文字は現れない。
彼は画面を閉じ、時計を見た。
午前零時まで、あと一分。
時計の針は動いていない。
それでも、スマートフォンの表示は正常に進んでいた。
アポロンは時計を机に戻した。
無理に動かそうとは思わなかった。
何かが起きている。
そして、その何かは、自分が調べ始めてから反応を示すようになった。
だが、反応したからといって、こちらに敵意があるとは限らない。
彼は、かつて世界を創造した存在だった。
世界の仕組みを変えることも、時間の流れを止めることもできた。
しかし、今の彼には、知らない相手の意図を決めつけないという選択肢もあった。
翌朝。
目を覚ましたアポロンは、まず時計を確認した。
針は十一時五十九分のままだった。
電池を取り出したまま、一晩置いていたはずなのに。
アポロンは新しい電池を入れた。
秒針が動く。
十二時を過ぎる。
何事も起きなかった。
時計は、何もなかったかのように時を刻み始めた。
「おはよう、アポロン」
美咲が部屋の入口から顔を出した。
「おはようございます」
「何してるの?」
「時計を直していました」
「壊れたの?」
「昨夜、止まってしまいまして」
美咲は壁の時計を見上げた。
「直ってよかったね」
「そうですね」
それだけの会話だった。
美咲は朝食の準備に戻った。
アポロンも、時計のことをそれ以上説明しなかった。
まだ、自分でも何が起きたのか分からない。
分からないことを、分かったように話す必要はなかった。
朝食を終えたあと、アポロンは商店街の事務所へ向かった。
昨日見つけた人物、黒田修一。
まずは、彼の住所が現在どうなっているのかを確かめるつもりだった。
ところが、事務所に着く前に、健一から電話が入った。
『アポロン、今どこだ?』
「商店街へ向かっています」
『ちょうどよかった。店に来る前に、ちょっと神社のほうを見てくれないか』
「神社ですか?」
『ああ。警察から連絡があったらしい。昨日まで閉鎖されていた境内で、妙なことがあったそうだ』
アポロンは足を止めた。
「何があったのでしょうか」
『詳しいことは分からない。ただ、警察官の一人が、参道の奥から人の声が聞こえたと言っているらしい』
「人の声……」
『誰かが入り込んだんじゃないかって話もある。まあ、俺たちが行って何かできるわけじゃないけどな』
「分かりました。様子を確認してみます」
電話を切ったあと、アポロンは進路を変えた。
神社に着くと、入口には昨日よりも多くの人が集まっていた。
警察官が規制線の前で説明している。
「現在、安全確認を行っています。境内には入らないでください」
アポロンは人だかりの外側から、参道を見た。
石畳は、昨日と同じところで途切れていた。
しかし、その先に違いがあった。
参道の奥に、白いものが落ちている。
紙のように見えた。
風もないのに、ゆっくりと揺れている。
アポロンは目を凝らした。
紙には文字が書かれていた。
距離があるため、すべては読めない。
ただ、一番上の文字だけは、はっきりと見えた。
黒田修一。
アポロンの表情が変わった。
昨日、古い新聞で見つけた名前だった。
偶然だろうか。
三十七年前に行方不明になり、証言だけが記録されていなかった人物。
その名前が、今、参道の奥に現れている。
「すみません」
アポロンは規制線のそばにいた警察官へ声をかけた。
「奥に何か落ちているようですが」
警察官は参道を振り返った。
「何もありませんよ」
「白い紙のようなものです」
「……白い紙?」
警察官は目を細めた。
次の瞬間、顔色が変わった。
「ちょっと待っていてください」
彼は無線で誰かに連絡を取り、別の警察官を呼んだ。
二人で参道を確認する。
一人は、何もないと言った。
もう一人は、奥に何か見えると答えた。
昨日と同じだった。
見る者によって、見えるものが違う。
だが、今回はさらに奇妙なことが起きた。
奥に何かが見えると言った警察官が、突然、無線を落とした。
彼は参道の奥を見つめたまま、動かなくなった。
「おい、どうした?」
同僚が肩を揺する。
返事がない。
警察官の唇が、わずかに動いた。
「……帰ってきた」
アポロンは、その言葉を聞き逃さなかった。
「誰がですか?」
問いかけた瞬間、警察官がこちらを向いた。
目が合った。
その目には、明らかな恐怖が浮かんでいた。
「あなた……」
警察官はアポロンを指さした。
「あなたも、あちら側にいたんですか?」
周囲が静まり返った。
同僚の警察官が、彼の腕をつかんだ。
「何を言っているんだ。しっかりしろ」
しかし、彼はアポロンから目を離さなかった。
「違う……あなたは、戻ってきたんじゃない」
その声が震えた。
「あなたが、いなくなったから……」
言葉は、そこで途切れた。
警察官の身体から力が抜けた。
同僚が支え、すぐに救急車を呼ぶよう無線で指示する。
周囲にいた人々がざわめき始めた。
アポロンは、動かなかった。
警察官の言葉が、頭の中に残っていた。
――あなたが、いなくなったから。
何を意味しているのか。
彼は知らない。
だが、あの警察官が、単なる幻を見ていたとは思えなかった。
救急隊が到着するまでの間、アポロンは参道の奥を見つめた。
白い紙は、もう見えなかった。
代わりに、石畳の途切れた場所に、一つの影が立っていた。
昨日と同じ、黒い服の人影。
今度は、顔が見えた。
見知らぬ男だった。
男はアポロンを見ていた。
そして、口を動かした。
声は聞こえなかった。
それでも、アポロンには分かった。
男は、確かにこう言った。
「遅かったな」
次の瞬間、影は消えた。
参道の奥には、何も残っていなかった。
アポロンは、ゆっくりと息を吐いた。
三十七年前の記録。
石碑に現れた文字。
止まった時計。
そして、今の警察官の言葉。
それらが、一つの方向を指しているように思えた。
自分が人間になったことは、世界のどこかに影響を与えている。
それだけではない。
その影響を、以前から知っていた者がいるのかもしれない。
アポロンは規制線から離れた。
今すぐ、あの場所へ踏み込むことはできる。
世界のあらゆる法則を変え、境界の向こうを無理やり開くこともできるだろう。
しかし、何が起きるのか分からないまま、力だけで押し通すのは危険だった。
彼が知りたいのは、ただ向こう側に何があるのかではない。
なぜ、そこに自分の名前が関わっているのか。
その理由だった。
スマートフォンが震えた。
美咲からのメッセージだった。
『今日、帰りに少し話せる? ニュースを見て、気になってることがあるんだ』
アポロンは返信した。
『はい。帰ったら話しましょう』
画面を閉じ、もう一度、神社を振り返る。
今度は、何も見えなかった。
けれど、彼はもう、ただの異常現象として片づけるつもりはなかった。
三十七年前に消えた証言。
今朝、目の前で語られた言葉。
そして、見知らぬ男が告げた一言。
――遅かったな。
まるで、ずっと前から自分が来るのを待っていたかのようだった。




