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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一二二章 境界の向こう側

翌朝、アポロンはいつもより早く家を出た。


美咲には、店の準備を少し手伝いたいと伝えてある。


嘘ではなかった。


ただ、店へ向かう前に、一つだけ確かめたいことがあった。


神社の異常が、あの場所だけの現象なのか。


それとも、別の場所にも同じような異常が存在するのか。


駅へ向かう途中、アポロンは昨日の神社とは反対側の道へ入った。


住宅街を抜け、小さな公園の前を通る。


そこには、古い石碑が立っていた。


地域の歴史を記したものらしい。


アポロンは足を止めた。


石碑の表面には、長い年月で削れた文字が並んでいる。


その一番下に、見慣れない記号があった。


文字ではない。


少なくとも、現在使われている言語ではなかった。


アポロンは、その記号を見つめた。


神だった頃、世界に存在するあらゆる文字を知っていた。


人間が作ったものだけではない。


世界が形を持つ以前から存在する、法則の記述さえ理解していた。


だが、その記号は違った。


意味が分からないのではない。


意味を読み取ろうとする意識そのものが、記号の前で行き止まりになる。


アポロンは、石碑に触れた。


冷たい石の感触が指先に伝わる。


何も起きない。


風が吹き、公園の木々が揺れた。


通勤途中の男性が、石碑の前を通り過ぎていく。


世界は、何事もないように動いていた。


「お兄さん、何か探してるの?」


声をかけてきたのは、公園を掃除していた年配の女性だった。


「いえ、この石碑が気になりまして」


「ああ、それね。昔からあるけど、私も何が書いてあるのか知らないのよ」


「いつからあるのでしょうか」


「さあ。私が子供のころには、もうあったからね」


女性は箒を動かしながら言った。


「市役所に聞いたら、何か分かるんじゃない?」


「そうかもしれません」


「でも、そんなに大事なものでもないと思うけどね」


女性は笑って、掃除を続けた。


アポロンは石碑から手を離した。


重要かどうかは、まだ分からない。


ただ、昨日の神社で感じたものと、この記号には共通点がある。


世界を理解するための仕組みが、ここでも働かない。


偶然だと片づけるには、似すぎていた。


アポロンはスマートフォンで石碑の写真を撮った。


今度は、写真にも記号が写っていた。


神社の異常とは違う。


この石碑そのものは、普通に記録できるらしい。


しかし、記号の部分を拡大すると、画像が不自然にぼやけた。


何度撮り直しても同じだった。


アポロンは写真を保存し、公園を離れた。


店に着くと、健一が厨房で仕込みをしていた。


「今日は早いな」


「少し調べたいことがありまして」


「神社のことか?」


「それもあります」


健一は包丁を置いた。


「何か分かったのか?」


「まだ、確かなことはありません。ただ、似たようなものを別の場所でも見つけました」


「別の場所?」


「古い石碑です」


アポロンは写真を見せた。


健一は画面を覗き込んだ。


「これ、どこだ?」


「駅の反対側にある公園です」


「へえ。こんなのあったんだな」


健一は少し考えた。


「昔、この辺りの歴史を調べていた人がいた気がする。商店街の会長なら、何か知ってるかもしれないぞ」


「ありがとうございます」


「ただし、仕事が終わってからな」


健一は笑った。


「今日は予約が多いんだ」


「分かっています」


その日の営業は、予想以上に忙しかった。


昼前に団体客が入り、注文が一気に増えた。


佐藤が厨房から声を上げる。


「アポロンさん、こっちの料理が先です!」


「分かりました」


「あと、三番テーブルの追加注文もお願いします!」


「はい」


調べたいことは頭に残っていた。


それでも、今ここで必要なのは、注文を間違えずに運ぶことだった。


料理を出し終えたころには、時計の針が午後二時を過ぎていた。


健一が水を飲みながら言った。


「助かった。今日は本当に忙しかったな」


「そうですね」


「で、その石碑のことだけど」


健一は、商店街の会長に電話をかけてみたらしい。


「昔の資料なら、自治会の倉庫に残っているかもしれないってさ。明日、見せてもらえることになった」


「ありがとうございます」


「俺も少し気になるしな」


健一は写真をもう一度見た。


「ただ、変なものだからって、すぐに何かの事件だと決めつけるのは早いぞ」


「はい」


その言葉は、アポロンにも理解できた。


異常を見つけたことと、その原因を知ったことは同じではない。


一つの事実から、結論を急ぐ必要はない。


夕方。


仕事を終えたアポロンは、公園へ戻らずに家へ向かった。


美咲が玄関で靴を脱いでいた。


「おかえり。今日は早かったね」


「ただいま帰りました」


「何か分かった?」


アポロンは少し迷ったあと、石碑の写真を見せた。


美咲は画面を拡大した。


「これ、文字なの?」


「分かりません」


「アポロンにも?」


「はい」


美咲は驚いたように彼を見た。


「珍しいね」


「そうですね」


「でも、分からないなら、調べてみればいいんじゃない?」


「そのつもりです」


「じゃあ、頑張って」


美咲はそれ以上、深く聞かなかった。


夕食の準備を始める。


アポロンも手伝いながら、石碑について考えていた。


神社の参道。


古い石碑。


写真に残らない異常と、写真に残るのに読み取れない記号。


今のところ、それらを結びつける証拠はない。


しかし、どちらも世界を理解するための仕組みが届かない場所に関係している。


もし、同じ原因によるものなら。


この異常は、昨日突然始まったわけではないのかもしれない。


人間が気づかなかっただけで、ずっと以前から存在していた可能性がある。


食事を終えたあと、アポロンは再び写真を開いた。


記号を見つめる。


その瞬間。


画面が一度だけ暗くなった。


スマートフォンの電源が落ちたわけではない。


数秒後、画面は元に戻った。


写真も残っている。


ただし。


さっきまでぼやけていた記号の下に、一行の文字が現れていた。


アポロンは息を止めた。


それは、彼が知っている言語だった。


短い一文。


読み間違える余地はなかった。


――創造主不在。


アポロンは画面を見つめた。


自分が人間になったことを、誰かが知っている。


そう考えるのは、まだ早い。


文字が何を意味するのかも、誰が残したものなのかも分からない。


それでも。


この記号は、ただの古い文字ではなかった。


アポロンはスマートフォンを閉じた。


初めて、人間としての自分の選択が、世界のどこかで記録されている可能性を考えた。


そして、その記録が意味するものを知るためには。


今度こそ、神社の奥にあるものから目を背けるわけにはいかなかった。

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