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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一二一章 映らない人影

翌朝、神社の異常はニュースになっていた。


ただし、報道の内容は現場で起きていることとは少し違っていた。


『大阪府内の神社で、参道の一部が見えなくなるという現象が報告されています。警察は現地の安全確認を進めていますが、撮影された映像では異常が確認できず、目撃者の証言との食い違いが続いています』


美咲が朝食を食べながら、スマートフォンの画面を見せた。


「昨日の神社、もうニュースになってる」


「そうですね」


「でも、映像だと普通なんだって。何なんだろうね」


アポロンは画面を見つめた。


昨日、彼自身が確認した現象だ。


見えているものと、記録されているものが一致しない。


それだけでも異常だった。


だが、彼が気になっていたのは、別のことだった。


「美咲さん。昨日、神社で写真を撮ったとき、参道の奥に人がいましたか?」


「人?」


「はい」


美咲は少し考えた。


「警察の人と、神社の人はいたけど。それ以外は……どうだったかな」


「分かりました」


アポロンはそれ以上聞かなかった。


仕事へ向かう途中、彼は神社の前を通った。


入口には規制線が張られ、警察官が一人立っていた。


その向こうに、昨日と同じ鳥居が見える。


アポロンは歩きながら、何気なく境内を見た。


そして、足を止めた。


鳥居の向こう。


途切れた参道の、その先。


誰かが立っていた。


黒い服を着た人影だった。


顔は見えない。


こちらを向いているのか、それとも社殿を見ているのかも分からない。


ただ、そこに立っていた。


アポロンは目を細めた。


昨日、あの場所を確認したとき、そこには何も認識できなかった。


今は違う。


確かに、何かが見えている。


「すみません」


アポロンは警察官に声をかけた。


「中に人がいるようですが」


警察官が境内を振り返った。


「え?」


彼は鳥居の向こうを見た。


しばらくして、首をかしげる。


「誰もいませんよ」


アポロンは再び人影を見た。


消えていた。


最初から、そこには誰もいなかったかのように。


「……そうですか」


「何か見えましたか?」


「いえ。見間違いかもしれません」


アポロンはその場を離れた。


けれど、今度は見間違いだとは思わなかった。


人影が消える直前。


ほんの一瞬だけ、彼は妙な感覚を覚えていた。


それは、何かを見られたときの感覚に似ていた。


神だった頃、アポロンは世界を見ていた。


世界のすべてを知り、必要があれば干渉する。


その立場が逆になることなど、考えたこともなかった。


しかし今朝は。


自分が何かを見たのではなく、向こうから自分を認識されたような気がした。


店に着いても、その感覚は消えなかった。


「アポロン、どうした?」


健一が声をかける。


「少し考え事をしていました」


「昨日の神社か?」


アポロンは顔を上げた。


「どうして分かったんですか?」


「朝からニュースでやってるだろ。美咲ちゃんと行ったんだって?」


「はい」


健一は腕を組んだ。


「まあ、原因が分からないなら、あんまり近づかないほうがいいな」


「そうですね」


「気になるのは分かるけどさ。分からないものに、いきなり近づく必要はないだろ」


健一はそう言って、厨房へ戻った。


アポロンは、その背中を見ていた。


神だった頃の自分なら、原因を確かめることに迷いはなかった。


知ることができるなら、知ればいい。


問題があるなら、解決すればいい。


だが今は、知らないものに近づくことで、誰かを危険にさらす可能性がある。


人間の立場に立つということは、単に力を使わないことではない。


自分の行動が、ほかの人間にどう影響するかを考えることでもある。


昼の営業が終わったあと、アポロンは店の裏でスマートフォンを開いた。


神社の報道には、新しい情報が追加されていた。


目撃者の一人が、参道の奥に人影を見たと証言している。


ただし、警察が確認した際には誰もいなかった。


アポロンは画面を見つめた。


自分だけではない。


ほかにも、あの場所で何かを見た人間がいる。


それなら、現象そのものが特定の人間にしか見えないのかもしれない。


あるいは、見える時間が限られているのか。


まだ断定はできない。


そのとき、スマートフォンが震えた。


美咲からのメッセージだった。


『神社のこと、またニュースになってるね。今日も帰りに寄るの?』


アポロンは少し考えた。


『今日は行かないつもりです』


返事はすぐに届いた。


『そっか。気になると思うけど、無理しないでね』


アポロンは画面を見たまま、しばらく動かなかった。


無理をする。


人間になってから、何度か聞いた言葉だった。


疲れているのに仕事を続けること。


痛みを我慢すること。


分からないまま、一人で何とかしようとすること。


それらは、神だった頃の自分には必要のないものだった。


だが、人間には限界がある。


限界があるからこそ、立ち止まることにも意味がある。


アポロンは返信した。


『ありがとうございます。今日は帰ります』


夕方、店を出るころには、空が曇っていた。


神社の前を通ると、規制線の向こうで警察官が交代していた。


アポロンは立ち止まらなかった。


ただ、一度だけ鳥居を振り返った。


そこには何もいない。


参道の奥は見えない。


それでも、彼は確信していた。


あの場所には、自分が知らない何かがある。


そして、その何かは、少なくとも一度、自分を見た。


帰宅すると、美咲が夕食の準備をしていた。


「おかえり」


「ただいま帰りました」


「今日は神社、行かなかったんだね」


「はい」


「何か分かった?」


「まだ、何も」


美咲は頷いた。


「じゃあ、今日はご飯を食べよう」


「そうですね」


二人は食卓についた。


食事の途中、美咲が仕事であったことを話した。


同僚が失敗したこと。


予定が変更になったこと。


帰りに買おうと思っていたものを忘れたこと。


アポロンは、それを聞いていた。


世界の異常は、まだ解決していない。


けれど、目の前の生活も続いている。


どちらか一方だけを選ぶ必要は、まだなかった。


夜。


美咲が眠ったあと、アポロンは一人で窓際に立った。


意識を広げようとはしなかった。


ただ、静かに考えた。


もし、あの人影が本当に自分を見ていたのなら。


向こうは、自分が誰なのか知っているのだろうか。


それとも。


自分と同じように、知らないものを前にして、こちらを見ていただけなのだろうか。


答えはなかった。


アポロンはカーテンを閉めた。


明日になれば、また何かが分かるかもしれない。


しかし、今度は一つだけ、以前とは違うことがあった。


彼は、何かが起きるのを待っているだけではなかった。


自分から、確かめる必要がある。


そう考え始めていた。

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