第一二〇章 消えた参道
祭りの翌朝、神社の境内には、まだ片付けの終わっていない屋台が残っていた。
昨日まで人で埋まっていた参道には、紙くずや落ち葉が散らばっている。商店街の人たちが箒を手に、黙々と掃除をしていた。
アポロンは、美咲と一緒に神社へ向かっていた。
「昨日、楽しかったね」
美咲が言った。
「はい。人が多かったです」
「そこ?」
「食べ物も、いろいろありました」
「そっちのほうが大事だったんだ」
美咲が笑った。
アポロンも、少しだけ笑った。
鳥居が見えてきた。
その瞬間、アポロンの足が止まった。
昨日まで、鳥居の向こうには石畳の参道があった。両側には古い木が並び、その奥に小さな社殿が建っていた。
しかし、今は違った。
鳥居の向こうに、参道がなかった。
正確には、道が途中で途切れていた。
石畳は鳥居から数メートル先まで続いている。そこから先は、土でも草地でもない。朝の光を受けているはずなのに、何もない場所のように見えた。
その向こうには、昨日まで見えていた木々がある。
社殿もある。
だが、そこへ続く道だけが、消えていた。
「……何、これ」
美咲が立ち止まった。
境内の入口にいた老人も、異変に気づいたらしい。
「おかしいな。昨日、こんなことはなかったぞ」
老人は鳥居をくぐり、参道へ近づいた。
アポロンが口を開くより先に、老人の足が止まった。
「おい、危ないぞ」
老人の後ろにいた男性が声をかける。
「いや、道が……」
老人は自分の足元を見た。
そこには、確かに石畳がある。
けれど、その先には何もない。
老人は一歩、後ろへ下がった。
「昨日まで、ここを歩いていたんだ」
声に戸惑いが混じっていた。
美咲がスマートフォンを取り出した。
「写真、撮っておこう」
カメラを向ける。
画面には、鳥居と参道が映っていた。
しかし、撮影した写真を確認した美咲の顔から、笑みが消えた。
「……写ってない」
「何がですか?」
「この先。画面だと、普通に道が続いてる」
アポロンはスマートフォンを受け取らず、画面を覗き込んだ。
写真には、昨日と変わらない参道が写っていた。
石畳。
木々。
社殿。
何も異常はない。
「もう一度、撮ってみてください」
美咲が撮影する。
結果は同じだった。
肉眼では道が途切れている。
写真には道がある。
「目の錯覚かな……」
美咲が呟いた。
「いいえ」
アポロンは答えた。
「これは、錯覚ではありません」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
彼には分かっていた。
これは、昨日まで感じていた異常の延長にある。
停電。
止まった時計。
神社の奥で感じた、認識できない何か。
それらが、今、目の前で一つの現象になっていた。
アポロンは鳥居の前に立った。
かつての自分なら、世界の構造を見ればよかった。
何が存在し、何が欠けているのか。
原因はどこにあり、どう修復すればいいのか。
答えは、意識を向けるだけで得られた。
アポロンは、目を閉じた。
世界へ意識を広げる。
街の形が浮かび上がる。
人々の位置。
風の流れ。
遠くで動く車。
地面の下を通る水道管。
電線を流れる電気。
すべてが、そこにあった。
そして、神社の参道に意識が触れた瞬間。
何かが、途切れた。
情報がないのではない。
情報を受け取るためのつながりそのものが、そこだけ存在していなかった。
アポロンは目を開いた。
初めてだった。
自分が知らないものを見つけたのではない。
知るための仕組みが、届かない場所を見つけたのだ。
「アポロン?」
美咲の声がした。
彼女は不安そうに、アポロンの顔を見ていた。
「どうする?」
アポロンは、鳥居の向こうを見た。
このまま力を使えば、何かを変えることはできるかもしれない。
しかし、何を変えるべきなのか分からない。
見えないものを、ただ消せばいいのか。
途切れた道を、無理に元へ戻せばいいのか。
それとも、この現象そのものに、何か意味があるのか。
答えはなかった。
「まず、人を近づけないようにしましょう」
アポロンは言った。
美咲が頷いた。
二人は境内の入口へ戻り、老人たちに状況を説明した。
神社の管理をしている男性が呼ばれ、警察にも連絡が入った。
しばらくして、警察官が二人到着した。
一人が参道を確認し、もう一人が周囲の人々に話を聞いている。
ところが、確認を終えた警察官は、困惑した様子で戻ってきた。
「参道に異常はありませんよ」
「でも、そこに……」
美咲が振り返る。
鳥居の向こうでは、石畳が途中で途切れていた。
警察官もそちらを見た。
数秒間、黙っていた。
「……おかしいですね」
今度は警察官にも、異常が見えていた。
しかし、もう一人の警察官がスマートフォンで撮影した写真には、やはり何も写らなかった。
現場にいた全員が、同じものを見ているわけではない。
そう考えたとき、アポロンは一つの可能性に気づいた。
この異常は、ただ場所を変えているのではない。
世界の中にあるものを、誰もが同じように認識できなくしている。
そして、その影響は、少しずつ広がっているのかもしれない。
「今日は、ここから先には入らないでください」
警察官が周囲に呼びかけた。
人々は不安そうに境内を離れ始めた。
美咲もアポロンの隣に戻ってきた。
「これ、どうなるんだろう」
「まだ分かりません」
「直るのかな」
アポロンはすぐには答えなかった。
「直すためには、何が起きているのかを知る必要があります」
「そっか」
美咲は鳥居を見つめた。
「じゃあ、分かるまで待つしかないね」
その言葉を聞いて、アポロンは彼女を見た。
待つ。
これまで何度も経験してきたことだった。
しかし、今回の待ち時間には、これまでと違う意味があった。
ただ結果を待つだけではない。
自分が何をすべきかを決めるために、知らないことと向き合わなければならない。
その日の午後、神社は立ち入り禁止になった。
テレビ局の車が一台、商店街の入口に止まった。
撮影された映像では、参道は普通に続いている。
記者は困惑しながらも、現場に異常があるという証言を伝えていた。
夕方には、神社の管理者が「安全確認のため、当面の間は閉鎖する」と発表した。
だが、原因については何も説明できなかった。
帰宅したアポロンは、部屋の椅子に座った。
美咲は台所で夕食の支度をしている。
包丁の音が聞こえる。
水が流れる。
鍋が火にかけられる。
いつもと同じ生活の音だった。
アポロンは、そっと目を閉じた。
今度は、意識を広げる範囲を少しだけ狭める。
神社の場所を探す。
その周辺を確認する。
何も起きていない場所と、異常が起きている場所を比較する。
しかし、参道の奥に触れようとした瞬間、また同じ断絶があった。
その向こうに何があるのか。
まだ分からない。
アポロンは目を開いた。
かつて世界のすべてを知っていた神は、今、自分の知らない場所を前にしていた。
そして、その場所は。
自分が知らないままでいることを、許してくれるとは限らなかった。




