第一一九章 祭りの前日
土曜日の朝。
店へ向かう途中、アポロンはいつもより人が多いことに気づいた。
商店街の入口に、小さな看板が出ている。
「今日から祭りなんだね」
美咲が言った。
「昨日は何もありませんでした」
「準備してたんじゃない?」
通りの奥を見る。
神社へ続く道には、赤い提灯が並んでいた。
まだ店が開く前なのに、何人かの人が忙しそうに動いている。
「午後から行ってみようか」
「はい」
店に着くと、健一も祭りの話をしていた。
「今日は少し早く閉めるぞ」
「分かりました」
「商店街の人から手伝ってくれって言われてるんだ」
午後。
店の営業が終わる。
健一は入口に小さな札を掛けた。
『本日は祭りのため、少し早く閉店します』
「じゃあ、行くか」
三人で商店街へ向かう。
通りには、いつの間にか屋台が並んでいた。
焼きそば。
たこ焼き。
りんご飴。
くじ引き。
小さな子供たちが走り回っている。
美咲が立ち止まった。
「何食べる?」
「分かりません」
「じゃあ、見てから決めよう」
アポロンは屋台を一つずつ見ていった。
普段の店とは違う匂いがする。
油の匂い。
甘い匂い。
焼いた醤油の匂い。
人の声。
笑い声。
遠くから太鼓の音も聞こえてくる。
そのとき。
アポロンは、神社の方角を見た。
ほんの一瞬。
空気が変わった。
昨日まで感じていたものと同じだった。
遠い場所からではない。
今度は、すぐ近くにある。
神社の奥。
「どうしたの?」
美咲が聞いた。
「少し、見てきてもいいですか?」
「うん。私、ここで待ってる」
アポロンは一人で神社へ向かった。
境内には、人が少なかった。
祭りの音はここまで届いている。
けれど、社殿の周りだけ妙に静かだった。
アポロンは立ち止まる。
何もない。
ただの神社。
古い木。
石の階段。
小さな社。
しかし。
社殿の奥から、微かな気配がした。
アポロンは目を閉じた。
意識を広げる。
ほんの少しだけ。
その瞬間。
――見えなかった。
アポロンは目を開いた。
「……」
もう一度、試す。
やはり。
何も見えない。
世界のすべてを知っていた頃なら。
この程度のことは、考える必要さえなかった。
けれど今は。
何かが、自分の認識から外れている。
それは初めての感覚だった。
怖いわけではない。
ただ。
不思議だった。
「アポロン?」
美咲の声が聞こえた。
振り返る。
「こんなところにいたんだ」
「はい」
「何かあった?」
「いいえ」
アポロンは少し考えた。
「まだ、分かりません」
美咲はそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、戻ろう」
二人で境内を出る。
祭りの音が再び近くなる。
美咲がりんご飴を買った。
「一口食べる?」
「はい」
赤い飴を少しだけかじる。
甘い。
少し硬い。
「どう?」
「甘いです」
「それだけ?」
「……美味しいです」
美咲が笑う。
「それならよかった」
夜。
祭りの灯りが商店街を照らしている。
アポロンは人の流れを眺めていた。
誰も知らない。
この街の片隅で。
自分が、かつて世界そのものだったことを。
そして。
自分でさえ知らない何かが。
今、世界のどこかに存在していることを。
神だった頃。
知らないものなどなかった。
だからこそ。
初めて見るものに、人間がなぜ惹かれるのか。
少しだけ分かった気がした。
帰り道。
美咲が言った。
「今日は楽しかったね」
「はい」
「また来よう」
「そうですね」
アポロンは神社を振り返った。
提灯の明かりが、夜の中で小さく揺れている。
そこに何があるのか。
まだ分からない。
それでも。
明日、もう一度見てみようと思った。
それだけで。
今日とは違う明日が、少しだけ楽しみになった。




