第一一八章 朝の掲示板
翌朝。
駅へ向かう途中、アポロンは商店街の掲示板の前で足を止めた。
昨日まで貼られていたチラシの一枚が、剥がれていた。
その下から、古い紙が見えている。
「どうしたの?」
美咲が振り返る。
「少し気になりました」
「掲示板?」
「はい」
古い紙には、近くの神社で行われる小さな祭りの案内が書かれていた。
日付は、十年前のものだった。
「ずいぶん古いね」
「そうですね」
美咲は紙を見てから、駅の時計を確認した。
「行かないと遅れるよ」
「分かりました」
二人は駅へ向かった。
その日は、朝から店が忙しかった。
昼前には予約の客が続き、料理を出す順番が何度も変わった。
「アポロン、この皿を先に」
「はい」
「いや、やっぱりこっち」
「分かりました」
佐藤が横から笑った。
「今日、注文の変更多いですね」
「そういう日もある」
健一が言う。
昼の営業が終わったあと。
健一が売上を確認していると、古い注文票が一枚出てきた。
「これ、まだ残ってたのか」
紙には、十年以上前の日付が書かれていた。
「今朝の掲示板と同じくらい古いですね」
アポロンが言う。
「たまたまだろ」
健一は笑いながら、紙を箱に戻した。
「昔のものって、意外と残ってるんだな」
午後。
店の前を掃除していると、近所の老人が声をかけてきた。
「この店、昔からありますよね」
「はい」
「昔は、あの角に薬屋があったんですよ」
老人が向かい側を指差す。
今は小さな駐車場になっている。
「ここも、昔は魚屋だった」
「そうなんですか?」
アポロンが聞くと、老人は嬉しそうに話し始めた。
「この辺もずいぶん変わったよ」
アポロンは黙って聞いていた。
人間の街は、少しずつ形を変えている。
昨日まであったものがなくなり。
知らなかったものが現れる。
その変化の中で、人間は暮らしている。
夕方。
仕事を終えて帰ろうとしたとき。
健一が言った。
「アポロン」
「はい」
「朝の掲示板にあった神社の祭り、知ってるか?」
「いいえ」
「今週末らしいぞ。昔からやってるみたいだ」
アポロンは少し考えた。
昨日までなら、特に気にしなかったかもしれない。
しかし最近。
神社。
古いもの。
止まった時計。
そして、世界のどこかで感じる小さな違和感。
それらが続いている。
「見に行ってみますか?」
健一が笑った。
「祭りの日なら、店も少し暇になるしな」
帰宅すると、美咲にその話をした。
「神社のお祭り?」
「はい」
「行ってみようか」
「いいですね」
「でも、人多いかもよ」
「それも見てみたいです」
美咲は少し笑った。
「アポロン、最近そういうの好きだね」
「そうかもしれません」
夜。
二人で夕食を食べた。
週末の予定が、一つ決まった。
それだけだった。
アポロンは寝る前にスマートフォンを見た。
神社の名前を検索する。
古い祭りの情報。
地域の歴史。
数年前の記事。
そして、一つの古い記事に目が止まった。
――十年前、この神社で一時的に停電が起きた。
アポロンの指が止まる。
記事には、それ以上のことは書かれていない。
設備の不具合。
復旧まで数十分。
人的被害なし。
それだけだった。
アポロンは画面を閉じた。
偶然かもしれない。
まだ何も分からない。
それでも。
明日の予定とは別に。
少しだけ確かめたいことができた。
窓の外を見る。
街の明かりは、今日も普通についている。
アポロンはその光を見ながら、静かに思った。
世界には、自分が知らないことがある。
そのこと自体は。
もう、怖くなかった。




