第一一五章 止まった時計
朝。
目を覚ますと、美咲が時計を見ていた。
「遅い……」
「どうしましたか?」
「目覚まし、鳴らなかった」
アポロンも時計を見る。
いつもなら、もう家を出る時間だった。
美咲が慌てて着替える。
「先に行ってていいよ」
「大丈夫ですか?」
「うん。今日は私が遅いだけだから」
アポロンは少し考えた。
「駅まで一緒に行きます」
「でも、アポロンも遅れるよ」
「少しくらいなら問題ありません」
二人で家を出る。
駅まで歩く。
いつもより早足だった。
交差点で信号が赤になる。
美咲が時計を見る。
「間に合わないかも」
「そうですね」
信号が青になる。
二人は急いだ。
駅に着いたとき、電車の扉が閉まった。
「行っちゃった」
美咲が息を切らしながら言う。
「次は?」
「七分後」
二人はホームで待った。
美咲は少し笑った。
「結局、急いでも同じだったね」
「そうですね」
アポロンも笑った。
七分後。
次の電車が来る。
美咲はそれに乗った。
「じゃあ、行ってくるね」
「はい」
扉が閉まる。
電車が動き出す。
アポロンはホームに残った。
本来なら。
ほんの一言で時間を戻すこともできる。
電車を止めることもできる。
美咲が遅刻しない世界を作ることもできる。
けれど。
それをしなかった。
遅刻しそうになって。
電車を一本逃して。
七分待った。
それだけの朝だった。
店に着くと、健一が時計を直していた。
「昨日の夜から止まってたんだ」
壁に掛かっていた古い時計だった。
アポロンは昨日の神社を思い出した。
止まった時計。
そして、今朝の時計。
「壊れていたんですか?」
「電池が切れただけみたいだ」
健一が新しい電池を入れる。
秒針が動き出した。
カチ。
カチ。
小さな音が店の中に響く。
「動いたな」
「はい」
昼の営業が始まる。
時計は正確に時間を刻んでいく。
客が来る。
料理が出る。
皿が戻る。
いつもの一日だった。
午後。
一人の客が注文した料理を待ちながら、壁の時計を見た。
「この時計、まだ使ってるんですね」
健一が答える。
「古いけどな」
「昔からありましたよね」
「よく覚えてるな」
「この店、昔から好きだったので」
客はそう言って笑った。
アポロンはその会話を聞いていた。
古い時計。
古い写真。
昔の客。
昨日まで存在していたものが、今日も残っている。
それは神の記憶とは違った。
人間は、すべてを覚えているわけではない。
忘れてしまう。
間違える。
思い出せなくなる。
それでも。
何か一つだけ残っていることがある。
写真だったり。
時計だったり。
料理の味だったり。
誰かの名前だったり。
夕方。
美咲からメッセージが届いた。
『今日は少し遅くなる』
アポロンは画面を見る。
『分かりました』
以前なら、彼女が何時に帰るのかを知ることができた。
今なら、尋ねることもできる。
けれど。
尋ねなかった。
夕食をどうするかも決めなかった。
帰ってきたときに考えればいい。
仕事を終えたアポロンは、一人で帰った。
家に着いてから、時計を見る。
まだ美咲は帰っていない。
静かな部屋だった。
アポロンは窓を開ける。
夜の街を見る。
そのとき。
また、あの感覚がした。
遠い。
非常に遠い場所。
何かが動いた。
今度は、はっきりと分かった。
世界のどこかで。
何かが一つ、以前とは違う形になった。
アポロンは目を閉じる。
意識を向ければ、すぐに分かる。
場所も。
原因も。
その先に起きることも。
すべて。
けれど。
アポロンは目を開けた。
「……まだいい」
そう呟いた。
その直後。
玄関の鍵が回った。
「ただいま」
美咲の声だった。
「おかえりなさい」
「ごめんね、遅くなって」
「大丈夫です」
美咲が靴を脱ぐ。
「ご飯、どうする?」
アポロンは少し考えた。
「今から考えましょう」
「うん」
二人で冷蔵庫を開ける。
残っている食材を確認する。
何を作るか。
まだ決まっていない。
そのことが。
今は、少し心地よかった。
窓の外では、時計の針が進んでいる。
一秒ずつ。
知らない明日へ向かって。




