第一一四章 忘れられた場所
その日は、朝から少し忙しかった。
店に着くと、健一が入口の前で段ボール箱を抱えていた。
「アポロン、ちょっと手を貸してくれ」
「はい」
「倉庫の奥から古い食器を出したいんだ」
店の裏にある小さな倉庫には、普段ほとんど使わないものが置かれている。
季節外れの看板。
古いメニュー。
使わなくなった鍋。
何年も開けていない箱。
アポロンが一番奥まで入ると、棚の下に小さな木箱があった。
「これは?」
「ああ……それ、まだあったのか」
健一が少し笑った。
「昔の店のものだよ」
箱を開ける。
中には、古い写真が何枚か入っていた。
今より若い健一。
まだ小さかった店。
見覚えのない客。
そして、店の前に立っている数人の人間。
「この人たちは?」
「昔の常連さんだな」
健一は写真を一枚ずつ見ていった。
名前を覚えている人もいれば、思い出せない人もいた。
「この人は……たしか近所の人だった」
「今は?」
「さあ。引っ越したかもしれないし、まだ近くにいるかもしれない」
健一は写真を箱に戻した。
「こういうの、残ってるんだな」
その言葉を聞いて、アポロンは木箱を見つめた。
神だった頃。
世界中の出来事は、彼の中にあった。
誰が生まれ。
誰が死に。
誰が何を願い。
誰がどこへ行ったのか。
忘れられるものなど、存在しなかった。
けれど人間の世界では。
時間が過ぎれば、名前さえ思い出せなくなる。
それでも写真だけは残っている。
「捨てないんですか?」
「うん」
健一は少し考えてから答えた。
「別に、何かに使うわけじゃないけどな」
「では、なぜ?」
「昔のことだから」
それだけだった。
昼前。
店が混み始めた。
アポロンが料理を運んでいると、入口の近くで一人の男性が立ち止まった。
店内を見回している。
健一が気づいた。
「あれ?」
男性も健一を見た。
「もしかして……」
二人とも少し黙った。
「健一さん?」
「お前、久しぶりだな」
昔の常連だった。
十年以上前に、この近くで働いていたらしい。
今日はたまたま近くまで来たという。
「まだ店やってたんですね」
「なんとかね」
二人は笑った。
男性は昔よく注文していた料理を頼んだ。
アポロンが料理を運ぶ。
男性は一口食べてから、
「懐かしいな」
と言った。
食事を終えると、男性は店を出ていった。
健一は入口まで見送った。
「また来ます」
「おう」
扉が閉まる。
健一はしばらくその場に立っていた。
「本当に、また来るかな」
アポロンが聞く。
「分からないな」
健一は笑った。
「でも、来たら嬉しいだろ」
「はい」
夕方。
仕事を終えて帰る途中。
アポロンは古い神社の前を通った。
普段なら気に留めない場所だった。
小さな鳥居。
少し色の落ちた看板。
境内には誰もいない。
アポロンは足を止めた。
その瞬間。
微かな感覚があった。
昨日の朝と同じだった。
遠い場所から、何かが触れてくるような感覚。
今度は、ほんの一瞬だった。
「……」
アポロンは鳥居を見た。
境内の奥から、風が吹く。
木の葉が揺れる。
それだけだった。
けれど。
アポロンには分かっていた。
これは、ただの風ではない。
何かが変わった。
ほんの僅かに。
世界のどこかにあるものが、以前とは違っている。
調べれば分かる。
昔の自分なら、そうしていた。
だが。
アポロンは鳥居の前で立ち止まったまま、何もしなかった。
やがて、美咲からメッセージが届いた。
『帰りに牛乳お願い』
アポロンは画面を見る。
少しだけ笑った。
『分かりました』
スマートフォンをしまう。
そして神社を離れた。
帰り道に牛乳を買う。
家に着く。
美咲が受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
夕食を食べる。
今日あったことを話す。
健一の昔の写真。
久しぶりに来た客。
古い神社。
ただし、神社のことは話さなかった。
それが何なのか。
まだ確かめる必要はないと思った。
夜。
アポロンは眠る前に、もう一度窓の外を見た。
街の明かりが並んでいる。
誰かが帰宅している。
誰かが仕事をしている。
誰かが眠っている。
そして。
誰かが、明日のことを考えている。
アポロンは目を閉じた。
世界には、忘れられていくものがある。
それでも。
すべてが消えるわけではない。
誰かが覚えている限り。
どこかに残っている限り。
その時間は、完全にはなくならない。
そう思いながら。
アポロンは眠りについた。
その夜。
遠い場所で、古い時計が一度だけ止まった。
誰も、そのことを知らなかった。




