第一一〇章 知らない味
朝。
「アポロン、これ食べてみる?」
美咲がテーブルの上に小さな瓶を置いた。
「何ですか?」
「昨日、友達にもらったジャム」
蓋を開ける。
赤い色をしている。
「何のジャムですか?」
「聞くの忘れた」
アポロンは瓶を見つめた。
「分からないんですか?」
「うん。でも、たぶん果物」
「たぶん」
美咲が笑った。
「食べれば分かるよ」
パンに少し塗る。
アポロンも同じようにした。
一口。
甘い。
そのあと、少し酸っぱい。
「どう?」
「……何かに似ています」
「何だろう?」
アポロンは考えた。
「分かりません」
「じゃあ、分からないままでいいんじゃない?」
美咲はパンを食べた。
アポロンももう一口食べた。
「悪くないですね」
「気に入った?」
「はい」
朝食を終えて、仕事へ向かった。
店に着くと、健一が厨房で何かを切っていた。
「今日は新しいソースを試すんだ」
「新しいソース?」
「昨日、仕入れ先からもらった材料があるからな」
小さな鍋に材料を入れる。
火をつける。
香りが広がる。
佐藤も興味深そうに覗き込んだ。
「これ、何に使うんですか?」
「まだ決めてない」
「決めてないんですか?」
「味を見てから決める」
アポロンは鍋を見た。
完成する前に用途が決まっていない。
少し不思議だった。
神だった頃なら、結果を先に知ることができた。
何を作れば、どんな味になるのか。
どの材料を使えば最も適した料理になるのか。
すべて分かる。
けれど健一は、味を見てから決めると言った。
鍋を火から下ろす。
三人で少しずつ味を見る。
「……酸っぱいな」
健一が言う。
「ですね」
佐藤も頷く。
アポロンも食べる。
「朝のジャムに少し似ています」
「そうか?」
健一がもう一度味を見る。
「じゃあ、肉料理に使ってみるか」
昼。
そのソースを使った料理を一つだけ試してみる。
最初の客に出す。
しばらくして、客が食べ終わった。
「これ、おいしいですね」
健一が少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます」
客が帰ったあと、健一は笑った。
「使えそうだな」
「はい」
ところが午後。
別の客に同じ料理を出すと、
「少し酸っぱいですね」
と言われた。
健一は少し考えた。
「やっぱり、万人向けじゃないか」
佐藤が言う。
「じゃあ、やめます?」
「いや。少し調整してみよう」
砂糖を少し加える。
もう一度試す。
今度は酸味が弱くなった。
アポロンも味を見る。
「こちらのほうが食べやすいです」
「そうだな」
それでも、最初の味が好きな人もいる。
健一は最終的に、二種類のソースを用意することにした。
「好みが違うなら、無理に一つにする必要もないだろ」
アポロンはその言葉を聞いた。
同じ料理でも、人によって好きな味が違う。
どちらが正しいという話ではない。
仕事を終える。
帰宅すると、美咲が朝のジャムを出してきた。
「結局、何のジャムか分かったよ」
「何でしたか?」
「赤い果物を何種類か混ぜたやつだって」
「そうですか」
「朝より味が分かる気がする」
美咲がパンに塗る。
アポロンも食べる。
朝と同じ味だった。
けれど、少し違って感じた。
「どう?」
「今は、少し分かります」
「何が?」
アポロンは瓶を見る。
「名前を知らなくても、味は覚えられるんですね」
美咲は笑った。
「そりゃそうだよ」
夕食のあと。
アポロンは今日のことを思い返した。
人間は、知らないものを食べる。
知らないものを作る。
食べてみて、違うと思えば変える。
それでも気に入る人がいれば、残す。
最初から正解を決める必要はない。
アポロンは冷蔵庫の中のジャムを見た。
名前は、まだ覚えていない。
それでも。
明日の朝、また食べたいと思った。




