第一〇九章 知らない約束
朝。
アポロンが目を覚ますと、テーブルの上に一枚の紙が置かれていた。
『先に出ます。夕方には帰ります』
美咲の字だった。
アポロンは紙を手に取った。
昨日までなら、本人に聞けば済むことだった。
けれど今日は、もう家を出ている。
「夕方には帰る」
その言葉だけが残っている。
アポロンは紙を元の場所に戻した。
仕事へ向かう。
店に着くと、健一が困った顔をしていた。
「どうしました?」
「今日の予約、人数が一人増えた」
「問題がありますか?」
「料理は足りる。でも席がな」
店内を見回す。
昼の予約は、普段より少し多い。
「隣の席を動かせば入ります」
「そうだな。じゃあ頼む」
椅子とテーブルを動かす。
佐藤も手伝った。
ところが、昼になる直前。
予約していた客の一人から電話が入った。
「一人、来られなくなった」
健一は電話を切ってから笑った。
「結局、元の席でよかったな」
「そうですね」
さっき動かしたばかりのテーブルを、また元に戻す。
佐藤が苦笑した。
「何だったんだろうな、これ」
「必要だったんだと思います」
「どっちが?」
「分かりません」
佐藤は少し笑った。
昼の営業が始まる。
今度は別の問題が起きた。
注文された料理の一つが、材料不足で作れない。
健一が伝票を見る。
「昨日、思ったより出たんだな」
「どうしますか?」
「別の料理を提案してみよう」
客に事情を説明する。
客は少し考えたあと、
「じゃあ、こっちにします」
と別の料理を選んだ。
厨房では、予定していなかった料理を作ることになった。
アポロンは材料を確認し、佐藤と手分けして準備する。
忙しかった。
けれど、料理は無事に出せた。
昼の営業が終わる。
「今日は予定変更ばっかりだな」
健一が言った。
「そうですね」
「まあ、店なんてそんなもんか」
アポロンはその言葉を聞いて、少し考えた。
店だけではない。
人間の一日も、そうなのかもしれない。
夕方。
仕事を終える。
外に出ると、空が赤くなっていた。
アポロンはスマートフォンを見る。
美咲から連絡はない。
朝の紙には、夕方には帰ると書いてあった。
だから、アポロンはその言葉を信じて帰ることにした。
家に着く。
部屋は静かだった。
時計を見る。
まだ少し早い。
アポロンはテレビをつけた。
ニュースを見た。
料理番組を見た。
それから、冷蔵庫を開けて中を確認する。
夕食をどうするか考える。
一人で食べることもできる。
けれど。
「帰る」と言った人を待ってみることにした。
しばらくして、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
美咲が入ってくる。
「ごめん。思ったより遅くなった」
「大丈夫です」
「待ってた?」
アポロンは少し考えた。
「はい」
美咲は笑った。
「じゃあ、何食べようか」
「まだ決めていません」
「じゃあ、一緒に決めよう」
二人で冷蔵庫を覗く。
残っている食材を並べる。
「これなら、鍋できるね」
「鍋ですか」
「うん」
夕食を作る。
切る。
煮る。
味を見る。
二人で食べる。
特別な料理ではない。
けれど、温かかった。
食べながら、美咲が言った。
「朝のメモ、見た?」
「はい」
「ちゃんと帰ってきたでしょ」
「そうですね」
「だから約束は守った」
アポロンは箸を止めた。
約束。
神だった頃、人間たちは神に様々な約束を求めた。
祈り。
誓い。
契約。
けれど。
人間同士の約束は、もっと小さい。
「夕方には帰る」
ただ、それだけ。
それでも、その言葉を覚えている人がいて。
帰ってきた人がいる。
アポロンは鍋の中を見た。
「明日も何か約束しますか?」
美咲は少し考えてから答えた。
「明日は分からないから、明日考えよう」
「……そうですね」
約束できないこともある。
それも、人間の生活の一部だった。




