第一〇八章 知らない場所
朝。
いつもの道を歩いていると、アポロンは工事中の建物の前で足を止めた。
昨日までは、そこに古い看板があった。
今日はなくなっている。
「何か変わった?」
後ろから美咲が聞いた。
「ここに店がありました」
「ああ。先月閉店したよ」
「そうでしたか」
アポロンは建物を見上げた。
知っている場所がなくなる。
それは、世界そのものが変わったわけではない。
けれど。
昨日までそこにあったものが、今日はもうない。
人間の生活では、そういう変化が珍しくない。
「行こう」
美咲に言われて、歩き出した。
昼休み。
健一が一枚の紙を持ってきた。
「これ、今日の配達先」
「配達ですか?」
「ああ。いつもと違う店なんだ。道、分かる?」
アポロンは紙を見る。
住所は分かる。
地図を見れば、道も分かる。
「大丈夫です」
「じゃあ、これお願いしていいか?」
「はい」
午後。
荷物を持って店を出る。
いつもの道ではない。
一つ角を曲がる。
さらに細い道へ入る。
知らない住宅街だった。
アポロンは歩きながら周囲を見る。
小さな公園。
古い自転車。
玄関先に置かれた植木鉢。
どれも特別なものではない。
それでも、いつもの街とは違って見えた。
しばらく歩くと、道が二つに分かれた。
地図を見る。
右。
そう思ったところで、前から自転車に乗った男性が来た。
「すみません」
アポロンが声をかける。
「この住所は、こちらで合っていますか?」
男性は紙を見る。
「ああ。それなら左ですよ」
「左ですか?」
「そう。右に行くと似たような名前の通りがあるから、間違えやすいんだよ」
「ありがとうございます」
左へ進む。
少し歩くと、目的の店が見えてきた。
「ここか」
荷物を渡す。
店の主人が確認して、受け取った。
「助かったよ。今日は人手が足りなくてね」
「いえ」
帰ろうとすると、主人が言った。
「帰り、そっちじゃないよ」
指差された方向を見る。
「駅なら、こっちのほうが近い」
「ありがとうございます」
教えてもらった道を歩く。
途中で、小さな商店を見つけた。
店先に、見たことのない菓子が並んでいる。
アポロンは足を止めた。
「これ、何だろう」
一つ買ってみる。
包装を開ける。
甘い。
少し塩辛い。
「……不思議な味です」
一人で呟く。
それから、また歩いた。
帰り道は、行きとは違う景色だった。
店に戻ると、健一が聞いた。
「どうだった?」
「無事に届けました」
「よかった」
「ただ、帰り道を教えてもらいました」
「そういうこともあるな」
「知らない道でした」
「俺もこの辺、全部は知らないよ」
アポロンは健一を見る。
「健一さんでも?」
「当たり前だろ。住んでる街だからって、全部知ってるわけじゃない」
その言葉が少し残った。
神だった頃。
世界のどこに何があるのか、知らない場所などなかった。
けれど人間になってからは。
自分が暮らしている街の中にさえ、知らない道がある。
夜。
美咲に今日のことを話した。
「知らない道って、ちょっと楽しいよね」
「迷う可能性もあります」
「それも含めてじゃない?」
美咲は笑った。
アポロンは昼間に買った菓子を見せた。
「これも買いました」
「何それ?」
「分かりません」
「分からないのに買ったの?」
「はい」
美咲が笑う。
「じゃあ、食べてみよう」
二人で一つずつ食べる。
「どう?」
「甘いです」
「私は結構好き」
「そうですか」
アポロンは残った菓子を見た。
知らない道。
知らない店。
知らない味。
以前なら、知らないことはただの情報不足だった。
今は。
知らないまま歩くことそのものに、少しだけ意味があるように感じる。
窓の外を見る。
明日の道は、まだ決まっていない。
アポロンはそのことを、以前ほど不思議には思わなくなっていた。




