第一〇七章 知らない約束
朝。
アポロンが玄関を出ると、美咲が後ろから呼んだ。
「アポロン」
振り返る。
「今日、帰りに牛乳買ってきてくれる?」
「分かりました」
「忘れないでね」
「大丈夫です」
そう答えて、アポロンは家を出た。
牛乳を買う。
それだけのことだった。
店に着くと、健一が今日の仕入れについて話していた。
「午後、業者が来るから、これを受け取ってくれ」
「分かりました」
「冷蔵庫のこともあるから、ちゃんと確認してくれよ」
「はい」
午前中は順調だった。
昼前になって、客が一気に増えた。
注文が重なる。
佐藤が厨房から料理を運び、アポロンも客席を走り回る。
その途中、健一が突然言った。
「アポロン、悪い。午後の業者、俺が出られないかもしれない」
「何かあるんですか?」
「銀行に行かなきゃならなくなった」
「分かりました。私が受け取ります」
「助かる」
健一は伝票を渡した。
「これと照らし合わせて、問題なければ受け取ってくれ」
「はい」
午後。
客が減る。
佐藤が休憩に入り、店内が少し静かになった。
アポロンは時計を見た。
業者が来る時間まで、まだ少しある。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
美咲からだった。
『ごめん。今日、帰り遅くなる』
アポロンは返信する。
『分かりました』
少し考えてから、もう一度送った。
『牛乳は買って帰ります』
『ありがとう』
短い返事だった。
しばらくして、店の前に車が止まった。
業者が来た。
「こんにちは。冷蔵庫の部品を持ってきました」
アポロンは伝票を確認する。
数量も合っている。
「こちらで大丈夫です」
「ありがとうございます」
荷物を受け取る。
そのあと、業者が帰っていった。
アポロンは伝票を整理した。
すべて予定通りだった。
夕方。
健一が戻ってきた。
「助かった。問題なかった?」
「はい」
「ありがとう」
その言葉を聞いたとき、アポロンは少しだけ立ち止まった。
神だった頃。
何かを頼まれることは多かった。
祈り。
願い。
命令。
けれど、それらは「お願い」ではあっても、今の健一の言葉とは少し違った。
健一は、アポロンが自分の代わりに仕事をしてくれたことに対して、ただ礼を言った。
それだけだった。
仕事が終わる。
アポロンは駅へ向かう前に、スーパーへ寄った。
牛乳を買う。
それから、少し考えてパンも一つ買った。
家に帰る。
美咲はまだ帰っていなかった。
冷蔵庫に牛乳を入れる。
パンをテーブルに置く。
そして時計を見る。
しばらくして、玄関の鍵が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
美咲が入ってくる。
「牛乳、ありがとう」
「はい」
「パンも?」
「買いました」
「私が頼んだの、牛乳だけだったよね」
「そうですね」
美咲が笑った。
「じゃあ、一緒に食べようか」
「はい」
二人でパンを分ける。
美咲が一口食べて言った。
「こういうのって、なんかいいね」
「何がですか?」
「頼んだものを買ってきてもらって、それを一緒に食べるの」
アポロンはパンを見た。
牛乳も。
どちらも特別なものではない。
けれど。
誰かに頼まれたことを覚えていて。
その人のために買って。
帰ってきた人と一緒に食べる。
それだけで、一日の中に小さなつながりができていた。
「明日は何か頼みますか?」
アポロンが聞くと、美咲は笑った。
「明日は自分で考えるよ」
「そうですか」
「でも、またお願いするかもしれない」
「分かりました」
約束というほど大きくはない。
けれど。
次に頼まれるかもしれないということを、アポロンは少し楽しみにしていた。




