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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一〇六章 知らない声

朝。


アポロンが店に着くと、健一が入口の前でスマートフォンを見ていた。


「どうしたんですか?」


「電話があったんだけどな」


健一は画面を見ながら言った。


「昔ここで働いてた人からだった」


「昔の人?」


「ああ。十年くらい前にいた人」


健一は少し笑った。


「店の近くまで来てるらしい」


午前中は、その話をする時間もないほど忙しかった。


注文が重なり、佐藤が厨房と客席を何度も往復する。


アポロンも料理を運び続けた。


昼を過ぎたころ。


入口の扉が開いた。


「久しぶり」


四十代くらいの男性だった。


健一が顔を上げる。


「おお……」


二人は少しの間、見つめ合った。


「変わってないな」


「そっちは変わったな」


「十年経ってるからな」


男性は笑った。


その後ろには、妻らしい女性と、小学生くらいの女の子がいた。


「今日は家族で来たんだ」


「そうか」


健一は嬉しそうだった。


男性は店内を見回した。


「まだこの席あるんだな」


「そのままだよ」


昔の話が始まった。


誰がよく遅刻したとか。


誰が一番料理を失敗したとか。


健一も笑いながら話している。


アポロンは料理を運びながら、その会話を聞いていた。


十年前。


アポロンにとっては、数字として理解できる時間だった。


十年という長さ。


日数。


時間。


それらはすべて計算できる。


けれど。


人間にとっての十年は、数字だけではなかった。


この人には家族ができていた。


子どもが生まれていた。


仕事も変わっていた。


それでも、昔働いていた店に戻ってくる。


昼食を食べ終えたあと、男性が健一に言った。


「また来るよ」


「いつでも来いよ」


「今度は一人じゃなくて、もっと連れてくる」


二人は笑った。


家族が先に店を出る。


男性も続こうとしたところで、アポロンに声をかけた。


「君、新しく入った人?」


「はい」


「健一さん、昔から人をよく残すんだよ」


「そうなんですか?」


「うん。俺も何度も辞めようと思ったけどな」


健一が遠くから叫んだ。


「余計なこと言うな!」


男性が笑う。


「じゃあ、また」


「はい」


扉が閉まった。


店の中が少し静かになった。


アポロンは健一を見る。


「十年後も、ここで働いていますか?」


健一は少し考えた。


「分からないな」


「分からない?」


「ああ。店を続けてるかもしれないし、別のことしてるかもしれない」


「そうですか」


「十年後のことなんて、誰にも分からないだろ」


健一はそう言って、厨房へ戻った。


午後。


佐藤が食器を片づけながら言った。


「十年後、俺は何してるんだろうな」


「分かりません」


「即答だな」


「私にも分かりません」


佐藤が笑う。


「まあ、そうだよな」


仕事が終わる。


帰宅すると、美咲が夕食を作っていた。


「今日は遅かったね」


「昔の従業員の人が来ました」


「へえ」


アポロンは今日聞いた話をする。


美咲は料理を盛り付けながら聞いていた。


「十年か……」


「長いですか?」


「長いと思う。でも、気づいたら過ぎてるかも」


「そうですか」


美咲は皿をテーブルに置いた。


「十年後、何してるんだろうね」


アポロンは答えなかった。


神だった頃。


十年後も。


百年後も。


千年後も。


すべて知っていた。


だから、未来を想像する必要がなかった。


けれど今は。


目の前にいる美咲でさえ、十年後にどこにいるのか分からない。


自分自身についても。


分からない。


それなのに。


不安だけではなかった。


アポロンは箸を持った。


「明日の朝は、何を食べますか?」


美咲が笑った。


「明日になってから決めようか」


「はい」


それで十分だった。


未来を知らないということは。


何もないということではない。


まだ決まっていないということだった。


その夜。


アポロンは眠る前に、十年後の世界を想像しようとした。


けれど、途中でやめた。


今は、知らないままでいたかった。

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