第一〇五章 知らない休日
朝。
目を覚ますと、アポロンはスマートフォンを確認した。
今日は仕事がない。
予定もない。
美咲に連絡する。
『今日は休みです』
少しして、返信が来た。
『私も。どこか行く?』
アポロンは画面を見た。
どこか。
その言葉だけでは、行き先は決まらない。
「どこがいいんだろう」
独り言を言ってから、着替えた。
リビングに行くと、美咲がコーヒーを飲んでいた。
「おはよう」
「おはようございます」
「まだ決めてない?」
「はい」
美咲はスマートフォンを見せた。
「じゃあ、ここは?」
画面には、少し離れた場所にある小さな水族館が表示されていた。
「水族館ですか」
「行ったことある?」
「ありません」
「じゃあ、行ってみよう」
電車に乗る。
休日だから、平日より人が多い。
駅を出たところで、突然、美咲が立ち止まった。
「どうしたんですか?」
「……財布、ない」
美咲がバッグの中を探す。
何度も確認する。
「さっき電車の中で出したかも」
二人で来た道を戻る。
駅員に聞く。
落とし物として届いていない。
美咲の表情が少し曇った。
「どうしよう」
「最後に財布を使ったのは?」
「駅の売店」
二人で戻る。
店員に確認すると、レジの横に小さな財布が置かれていた。
「これですか?」
美咲の顔が明るくなる。
「それです!」
財布を受け取る。
中身も全部揃っていた。
「よかった……」
美咲が大きく息を吐く。
「すみません。時間取らせちゃった」
「大丈夫です」
「水族館、まだ行く?」
アポロンは時計を見る。
予定していた時間より、かなり遅くなっていた。
「行きましょう」
二人は再び電車に乗った。
水族館に着いたころには、昼を過ぎていた。
館内は人が多かった。
子どもたちの声が聞こえる。
大きな水槽の前で、美咲が立ち止まった。
「きれい」
アポロンも水槽を見る。
青い光の中を、魚が泳いでいる。
魚の動きを見ていると、不思議な感覚があった。
アポロンは魚の行動を予測できる。
次にどこへ向かうのか。
どの魚がどの方向へ動くのか。
それらを知ることは簡単だった。
けれど。
美咲が何を思っているのかは、聞かなければ分からない。
「どうしたの?」
「いえ」
アポロンは水槽から目を離した。
「ただ、見ていました」
「何を?」
「あなたを」
美咲は少し驚いたあと、笑った。
「魚じゃなくて?」
「魚も見ています」
「そっか」
そのあと、二人は館内を歩いた。
昼食を食べる。
土産物を見て回る。
美咲が小さなペンギンのキーホルダーを手に取った。
「これ、かわいい」
「買いますか?」
「どうしようかな」
少し迷ってから、棚に戻した。
「今日はいいや」
帰り道。
美咲が言った。
「財布なくしたとき、本当に焦った」
「そうでしょうね」
「でも、見つかったからよかった」
「はい」
「水族館も行けたし」
駅へ向かう途中、美咲が笑った。
「最初から全部うまくいくより、こういう日のほうが覚えてるかも」
アポロンは黙っていた。
朝は何も決まっていなかった。
財布をなくした。
予定も遅れた。
それでも、一日は終わろうとしている。
人間の休日には、予定表に書かれていないことがいくつも起きる。
それらを一つずつ拾いながら、一日が形になっていく。
帰宅すると、美咲は玄関で靴を脱いだ。
「今日は疲れたね」
「そうですね」
「でも、楽しかった」
「私もです」
美咲が笑う。
アポロンはその笑顔を見ながら、朝には存在しなかった一日が、今は確かにここにあることを思った。
未来は、最初から一つの形になっているわけではない。
少なくとも、人間として過ごす一日の中では。
そう思いながら、アポロンは静かに照明をつけた。




