第一〇三章 知らない知らせ
朝。
目を覚ますと、スマートフォンが鳴っていた。
アポロンは画面を見た。
美咲からだった。
『今日は少し遅くなるかも』
短い文章だった。
アポロンは、
『分かった』
と返した。
それから布団を出た。
いつもの朝だった。
顔を洗い、簡単に朝食を食べる。
窓を開けると、少し冷たい風が入ってきた。
空は曇っている。
雨が降るかどうか。
アポロンには分かっていた。
けれど、天気予報を見ることにした。
画面には、午後から雨と表示されていた。
「やはり降るのか」
そう呟いて、傘を玄関に置いた。
店へ向かう。
午前中は、それほど忙しくなかった。
健一は仕込みをし、佐藤は食材を確認している。
アポロンも皿を並べながら、いつもの仕事をしていた。
ところが、昼前。
健一が突然、冷蔵庫を開けたまま動かなくなった。
「……おかしいな」
「どうしました?」
「冷えてない」
アポロンも冷蔵庫の中を覗いた。
確かに、いつもより温度が高い。
「故障ですか?」
「たぶんな」
健一は時計を見た。
昼まで、あと三十分。
「どうする?」
佐藤が聞いた。
「業者に電話する。でも、今日中に来てもらえるか分からないな」
店には、昼の食材が入っている。
そのままにしておけば、使えなくなるものもある。
アポロンは冷蔵庫を見つめた。
直すことならできる。
壊れた部品を元に戻すことも。
時間を戻すことさえできる。
けれど。
「先に、食材を移しましょう」
アポロンは言った。
「氷を買ってきて、使えるものと使えないものを分けたほうがいいと思います」
健一が頷いた。
「そうだな」
三人で動き始めた。
近くの店から氷を買い、食材を移す。
昼の準備も同時に進める。
予定していた料理を一部変更することになった。
「今日のランチ、これに変える?」
健一がメニューを見せる。
「それなら大丈夫です」
佐藤が答えた。
思ったより忙しくなった。
注文を受ける。
料理を作る。
皿を運ぶ。
予定していたものがなくても、できるものを探していく。
昼が終わるころには、三人とも少し疲れていた。
「何とかなったな」
健一が言った。
「はい」
アポロンも頷いた。
午後、業者が来た。
部品を確認し、
「今日中には直せます」
と言った。
その言葉を聞いて、健一は明らかに安心した。
アポロンはその様子を見ていた。
神なら。
「直る」と言う必要すらない。
直せばいい。
それだけだった。
けれど、人間は違う。
結果が分からないからこそ、誰かの言葉を待つ。
そして、その言葉を聞いて安心する。
夕方。
仕事を終えて店を出ると、雨が降り始めていた。
傘を開く。
駅まで歩いていると、スマートフォンが鳴った。
美咲からだった。
『思ったより早く終わった。今から帰るね』
アポロンは少し考えてから返信した。
『分かった。気をつけて』
送信する。
以前なら、すぐに美咲がどこにいるのか知ることができた。
今も、知ることはできる。
けれど、見なかった。
駅に着く。
電車が来る。
人が降りてくる。
その中に美咲はいなかった。
次の電車を待つ。
やがて、スマートフォンがもう一度鳴った。
『雨、思ったより強いね』
アポロンは外を見た。
「そうですね」
誰に言うでもなく呟いた。
その数分後。
美咲が駅の階段を上がってきた。
「待った?」
「少しだけ」
「ごめん」
「大丈夫です」
美咲は笑った。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
二人で駅を出る。
雨はまだ降っている。
帰り道、アポロンは今日のことを考えていた。
冷蔵庫が壊れた。
予定していた料理が変わった。
修理を待った。
美咲からの知らせを待った。
どれも、事前に全部決められたことではなかった。
それでも、一日は終わろうとしている。
アポロンは隣を歩く美咲を見た。
「今日は、何を食べますか?」
「まだ決めてないよ」
「そうですか」
それを聞いて、アポロンは少し笑った。
明日のことだけではない。
人間は、その日の夜のことさえ、まだ決めていない。
それなのに。
ちゃんと一日を歩いている。
二人は雨の中を、そのまま歩いていった。




