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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一〇二章 知らない役目

朝。


アポロンが店に着くと、入口の前に段ボール箱がいくつか置かれていた。


「これ、何ですか?」


アポロンが聞くと、健一が振り返った。


「商店街のイベント。今日、昼からやるんだって」


「イベント?」


「小さいやつだけどな。子ども向けのゲームとか、食べ物とか。うちも少し手伝うことになってる」


健一はそう言って、段ボールの中から紙皿を取り出した。


「今日は忙しくなるかもしれない」


「分かりました」


アポロンは頷いた。


忙しくなる。


それだけなら、これまでにも何度も経験している。


だが、昼になると、予想していた忙しさとは少し違っていた。


店の前の通りに人が増えた。


小さなテントが並び、子どもたちの声が聞こえる。


普段は車の音しか聞こえない場所が、今日は別の場所のようだった。


アポロンは料理を運びながら、何度か外を見た。


「アポロン、これ持ってって」


「はい」


皿を受け取り、外へ出る。


そこで、小さな男の子とぶつかりそうになった。


アポロンは反射的に足を止めた。


男の子も止まった。


「ごめんなさい」


「大丈夫です」


男の子はそう言って走っていった。


その直後。


背後から大きな声がした。


「危ない!」


振り返る。


テントの端を固定していた紐が外れ、風に煽られた布が大きく持ち上がっていた。


周囲の人が一斉に避ける。


アポロンは一瞬だけ、世界を止めることができると思った。


いつものように。


一言で。


止まれ。


そうすれば、何も起こらない。


だが。


今日は、手を伸ばした。


風に煽られた布を掴み、近くにいた健一と一緒に支える。


「こっち押さえて!」


「はい!」


数人が集まってきた。


誰かが紐を拾い、別の誰かがテントの柱を押さえた。


しばらくして、布は元の位置に戻った。


「危なかったな」


健一が息を吐いた。


「すみません」


テントを担当していた男性が頭を下げる。


「いや、怪我がなかったならいいよ」


健一は笑った。


アポロンは黙ってテントを見た。


もし自分が神であることを誰かに話せば。


もし世界を止めれば。


今の出来事は、一瞬で終わっていた。


けれど。


そうしなかった。


誰かが紐を拾い、誰かが柱を押さえ、誰かが布を引っ張った。


それぞれが、自分のできることをした。


結果として、テントは元に戻った。


「アポロン」


声をかけられて振り返る。


健一がいた。


「手、大丈夫か?」


「大丈夫です」


「ならよかった。昼、まだ忙しいぞ」


「分かりました」


店に戻る。


午後になると、今度は本当に忙しくなった。


料理が次々に注文される。


皿が足りなくなる。


紙コップがなくなる。


佐藤が倉庫まで走る。


アポロンは料理を運び、健一は厨房に立つ。


予定していた作業など、ほとんど意味を持たなくなった。


それでも。


一つずつ片づけていく。


夕方。


イベントが終わるころには、店の前には大量の紙皿と空の箱が残っていた。


「疲れた……」


佐藤が椅子に座った。


健一も厨房から出てきて、肩を回す。


アポロンは店の外を見た。


昼間あれだけいた人が、もうほとんどいない。


テントも片づけられている。


通りには、いつもの静けさが戻り始めていた。


「今日は大変でしたね」


アポロンが言うと、健一が笑った。


「まあな。でも、たまにはこういう日もいいだろ」


「そうですね」


店の片づけを終えたあと、アポロンは帰宅した。


玄関を開ける。


美咲がいた。


「おかえり」


「ただいま」


「今日はどうだった?」


アポロンは少し考えた。


「予定していた通りには、なりませんでした」


美咲が笑った。


「それ、いつものことじゃない?」


「……そうかもしれません」


夕食を食べながら、アポロンは昼間のことを話した。


テントが飛びそうになったこと。


みんなで押さえたこと。


そして、自分が何もしなかったこと。


「何もしなかった?」


美咲が聞き返す。


「正確には、できることはありました。でも、しませんでした」


「それでよかったんじゃない?」


「そう思います」


アポロンは箸を置いた。


以前なら。


世界を止めればいいと思っていた。


危険があれば取り除けばいい。


問題があれば、原因ごと消せばいい。


けれど、人間の世界では。


問題が起きたあとに、誰かが手を伸ばす。


その手が別の誰かにつながっていく。


その過程そのものが、一日の一部になっている。


「神様だったら、全部簡単にできるのにね」


美咲が何気なく言った。


アポロンは少しだけ黙った。


「……そうですね」


それ以上は言わなかった。


夜。


窓の外を眺める。


今日一日も、思い通りにはならなかった。


だからこそ。


最後まで、自分が何をするのか分からなかった。


アポロンは、明日の予定を確認した。


仕事。


それだけだった。


画面を閉じる。


そして、何も決めないまま眠った。

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