第一〇一章 知らない人の一日
朝。
アポロンは、いつもより少し早く家を出た。
美咲はまだ寝ていた。
今日は、アポロンの方が先に仕事へ行く。
玄関で靴を履く。
鍵を確認する。
昨日と同じ場所にある。
「よし」
小さく呟いて、家を出た。
駅へ向かう。
朝の街は、まだ完全には目を覚ましていなかった。
コンビニの前で、店員が商品を並べている。
道路を清掃している人がいる。
自転車で駅へ向かう学生がいる。
それぞれが、自分の一日を始めている。
アポロンは歩きながら、ふと思った。
この街には。
自分が知らない一日が、いくつあるのだろう。
神だった頃なら。
この問いに答える必要はなかった。
すべて知っていた。
けれど今は。
駅へ向かう一人の老人が、今日は何をするのかさえ知らない。
それが。
少し気になった。
駅に着く。
ホームには、いつものように人が並んでいる。
一人の男性が、何度も時計を見ていた。
隣では、若い女性がスマートフォンを見ている。
学生が眠そうに欠伸をしている。
誰も。
アポロンのことを知らない。
もちろん。
アポロンも、彼らのことを知らない。
電車が来る。
人が乗る。
アポロンも乗る。
席は空いていなかった。
吊り革につかまる。
次の駅で、一人の老人が乗ってきた。
老人は周囲を見回した。
空いている席はない。
アポロンは少し横へ移動した。
老人が吊り革をつかむ。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
「どういたしまして」
それだけだった。
老人は窓の外を見る。
アポロンも見る。
二人は話さない。
けれど。
同じ電車に乗っている。
それだけの関係だった。
駅に着く。
老人が降りる。
一度だけ振り返り、軽く頭を下げる。
アポロンも頭を下げた。
仕事へ向かう。
店に着くと、健一が言った。
「今日は早いな」
「少し早く出た」
「珍しい」
「朝、早く起きたから」
「なるほど」
開店準備をする。
しばらくして、佐藤が来た。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日の手、もう大丈夫です」
佐藤が手を見せる。
赤みはほとんど消えていた。
「よかった」
「昨日はすみませんでした」
「謝る必要はない」
「でも、鍋を落として」
「怪我がなかったなら、それでいい」
佐藤は少し黙ってから。
「ありがとうございます」
仕事が始まる。
午前中。
一人の女性客が来た。
メニューを見て、しばらく悩んでいる。
「おすすめはありますか?」
アポロンは少し考えた。
以前なら。
一番人気のものを答えていただろう。
けれど。
今日は、その人の好みを知らない。
「私はこれが好きです」
メニューを指す。
「でも、人によって違うと思います」
女性は少し笑った。
「じゃあ、それにします」
注文が入る。
料理を運ぶ。
女性はゆっくり食べていた。
食べ終わると。
「おいしかったです」
「ありがとうございます」
女性は会計を済ませて帰っていった。
健一が言う。
「珍しい答え方したな」
「何が?」
「おすすめを聞かれて、自分の好きなものを答えるとは思わなかった」
「嘘は言っていない」
「それはそうだな」
昼過ぎ。
店の外で、小さな騒ぎが起きた。
道路の向こうで、子どもが泣いている。
母親が困った顔をしている。
アポロンは店の入口まで出た。
「どうしました?」
「この子が、帽子をなくしてしまって……」
子どもは泣きながら道路の先を指差している。
帽子は見えない。
アポロンは周囲を見る。
少し離れた植え込みに、帽子が引っかかっていた。
「そこにある」
帽子を取る。
子どもに渡す。
「これ?」
「……うん」
子どもは帽子を抱きしめた。
母親が頭を下げる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
子どもは泣き止んだ。
帽子をかぶる。
そして。
母親の手を握って歩いていった。
アポロンはその後ろ姿を見ていた。
ほんの数分の出来事だった。
名前も知らない。
どこから来たのかも知らない。
明日また会うこともないだろう。
それでも。
今日という一日の中で。
少しだけ関わった。
それだけで。
その子にとっては、帽子が戻った日になる。
午後。
店に戻る。
健一が言った。
「今日は人助けが多いな」
「そうなのか?」
「朝から老人に席を譲って、昼は子どもの帽子」
「それは別の人だ」
「分かってるよ」
健一が笑う。
「でも、そういう日もあるんだな」
仕事が終わる。
帰り道。
アポロンは駅のホームで電車を待つ。
朝に見た人たちは、もういない。
同じ場所なのに。
違う人が立っている。
一日の中でも。
人は入れ替わっていく。
電車が来る。
乗る。
窓の外を見る。
街の明かりが流れていく。
家に帰ると、美咲が夕食を作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は早かったね」
「うん」
「何かあった?」
アポロンは少し考えた。
「知らない人と、少しだけ話した」
「へえ」
「それから、子どもの帽子を拾った」
「いろいろあったんだね」
「そうみたいだ」
夕食を食べる。
美咲が言う。
「私の知らないところでも、アポロンはいろんな人に会ってるんだね」
「そうだな」
「私もそうだけど」
「うん」
アポロンは箸を止めた。
美咲にも。
自分の知らない一日がある。
それは当たり前のことだった。
神だった頃。
誰かの一日を知らないことなど、一度もなかった。
今は。
一番近くにいる人間でさえ。
自分の見ていない時間を持っている。
それを考えて。
アポロンは少しだけ笑った。
「何?」
美咲が聞く。
「いや」
「何か思った?」
「人間は、一人につき一日が一つあるんだなと思った」
美咲は首を傾げた。
「当たり前じゃない?」
「そうだな」
アポロンも笑った。
その夜。
美咲が眠ったあと。
アポロンは窓の外を見た。
この街のどこかで。
今日、自分が知らなかった一日を終えた人たちがいる。
その中には。
二度と会わない人もいる。
明日、また会う人もいる。
何も起こらない人もいる。
大きな出来事があった人もいる。
アポロンは。
それらを知らないまま、窓を閉めた。
以前なら。
知らないことは、欠けていることだった。
今は。
知らないままでも。
世界はちゃんと続いている。
そして。
そのことが、少しだけ嬉しかった。




