俺、応援する。
トントンと軽やかな包丁の音。
パタパタと忙しないママの足音。
春輝は薄らと目を開け、様子を伺っていた。
『……ママ、朝から早いなあ』
春輝は、タオルから一歩踏み出し、ブルブルと体を振るう。
柔らかい白い毛がふんわりと広がった。
テクテクとリビングを散策すると、クーラーボックス。
ママの手にはお重型のお弁当箱。
『もしかして……今日が運動会か!』
春輝は大きく尻尾を振る。
なぜか血が騒いでいた。
『陽菜に気合い入れてやんねえとな!』
春輝はお気に入りの窓の前に座ると、フンッと鼻を鳴らした。
『陽菜、早く起きてこいよ』
春輝の尻尾はフリフリと揺れていた。
「ママ〜、ハルちゃん!おはよ!」
少し眠そうに目を擦りながら陽菜がリビングにやってくる。
『楽しみで寝れなかったんだろ?』
『俺もそうだったぞ!』
春輝は人間の頃を思い出していた。
陽菜が春輝の側に来て、ちょこんと膝に乗せる。
「……ハルちゃん。陽菜、早く走れるかな?」
『陽菜、別に一番じゃなくても大丈夫だぞ!』
『適度に頑張れ!』
春輝は陽菜の目を真っ直ぐ見る。
陽菜は頬を上げた。
「ママ〜!ハルちゃんが応援してくれたよ!」
『おっ!ちゃんと伝わったな!』
「陽菜ちゃん!朝ごはん食べましょうね」
優しいママの声。
「は〜い!」
パタパタと陽菜の足音がリビングに響いていた。
パパが車に荷物を乗せていく。
クーラーボックスに大きなお弁当。
『いよいよって感じだな!』
春輝は玄関の前でリードを咥えて待っていた。
自然と背筋がピンッと伸びる。
その横を陽菜とママが通過する。
「あら、ハルちゃんはお留守番よ」
「じゃあ待っててね、ハルちゃん!」
パタン。
扉の閉まる音。
『……俺、犬なの忘れてた』
春輝は咥えていたリードをポトリと落とすと窓の下に駆けていく。
車は家の前を通り、小学校へ向かう。
春輝はしばらく目を細めて見つめていた。
窓からは柔らかい日が差し込む。
春輝の体は静かに上下に揺れていた。
「ただいま〜!」
陽菜の元気な声。
春輝はパタパタと一直線に玄関に向かった。
『陽菜!遅かったじゃねえか!』
春輝は尻尾を激しく振りながら近づいていく。
尻尾に釣られて尻ごと揺れる。
「ハルちゃん!陽菜ね、三番だったよ!」
『おっ!三位か!やったな陽菜!』
パパがカメラを覗きながらテレビに繋ぐ。
「ちゃんと撮れてるかな?」
『見せてみろ!』
テレビには、緊張した顔の陽菜が映っていた。
両手をぎゅっと握りしめる。
「よぉ〜い。スタート!」
合図と共に一斉に走り出す。
陽菜は真っ直ぐ走る。
距離は五十メートル。
唇を噛み締めながら足を動かす姿。
最後のゴールまで走り切った陽菜。
それだけ。
それだけなのに。
春輝は胸の奥がじんわりと熱くなっていた。
『なんだ、これ?』
春輝は不思議そうに首を傾げた。
くるりと陽菜を向く。
『陽菜!良い走りだったぞ!』
陽菜は頬を上げて、春輝を抱き上げた。
「ハルちゃんと毎日走ったらもっと早くなるかな?」
『そろそろ俺の本気を見せてやるか』
春輝は変なスイッチが入っていた。
その日の夜。
カラン。
グラスの氷が溶ける音。
『パパは珍しく晩酌か?』
春輝はソファに座るパパの隣で丸くなっていた。
リモコンを操作し、昼間の運動会の様子が映し出される。
しばらくすると、鼻を啜る音。
『……まじか』
パパは静かに目を潤ませていた。
春輝はそっと体を寄せ、隣に座り直す。
パパは春輝の体を撫でた。
「陽菜が結婚して家を出ちゃったら……どうしよう」
パパは感傷に浸っていた。
陽菜はまだ六歳だった。
春輝は、パパの手の中で小さく震えるグラスを見つめていた。
『それは……どうしようもねえだろ』
その夜、春輝はパパに寄り添い続けた。




