俺、諦める。
サークルの中で器をペロペロと舐め続ける子犬。
春輝は何かを忘れていた。
忘れていた方が幸せな気がした。
陽菜がソファの上のランドセルを背負う。
器を舐め終えた春輝の頭を撫でた。
「ハルちゃん、がんばってね!」
『ん?』
パタパタと玄関へ向かう足音。
「いってきま〜す!」
パタン。
扉が閉まった。
春輝は目を見開いていた。
すぐにふわふわの尻尾を両足の中に引っ込めた。
──全てを、思い出していた。
『に、逃げるぞ!』
春輝は急いでサークルから飛び出し、玄関へ向かった。
玄関にはキャリーケースが置かれていた。
待ち構えていたように扉が開いている。
『ひぃっ!』
ゆっくりと後ずさる。
「ハルちゃん?どうしたの?」
ママの優しい声。
『こうなったら……これしかねえ!』
春輝はくるりと振り返りママの足元で腹を見せた。
『ママ!頼む。俺の元気玉、取らないでくれ!』
「ハルちゃんは今日は甘えん坊ね」
ママはクスッと笑った。
春輝を抱き上げ、優しくふわふわの体を撫でた。
『ママの撫で方うまいんだよな』
春輝は気持ち良さそうに、うっとりと目を細めた。
ママは、そっと春輝をおろす。
キャリーケースの中に。
春輝は、キャリーケースの扉がしまるまで、ママの優しい手の余韻を感じていた。
カチッ。
無情な音。
『ま、ママ……話し合わないか?』
春輝が扉の隙間から舌をペロペロと必死で動かす。
『俺、たぶん付いてても使わないと思うし!』
『ちょっと揺れるだけだって!』
春輝は必死だった。
ママは扉から春輝を覗き込む。
「これもハルちゃんの為だからね」
眉を落とし、少しだけ悲しそうなママの顔。
春輝は抵抗をやめた。
黙ってママに背中を向け、自分の両足の二つの袋を見つめた。
ガタガタと揺れる車の中。
さらにキャリーケースの中で。
春輝は肩を落とし、両足を広げていたのだった。
そして、車は止まる。
「……ハルちゃん、着いたわよ」
『……』
揺れるキャリーケース。
聞き覚えのある音が鳴る。
カラン。
春輝は隅っこで小さく丸まっていた。
ママが受付で何かを話すと、一人の看護師がやってくる。
「ハルちゃん、行こっかぁ!」
『……』
春輝の大きな目が咄嗟にママを探す。
扉の隙間から必死で舌を伸ばした。
『……ママッ!』
ママも涙ぐんでいた。
『なんでママが泣くんだよ!』
『泣きてえのは俺だよ!!』
子犬の切ない鳴き声は、受付の飼い主たちの胸を締めつけ、心を揺さぶっていた。
足元の犬たちは、ハッハッと呆れたように冷たく笑っていた。




