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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第9話 ぷるぷるした働き手

第1部:辺境領と教会編

第2章:スライムと詰まった水路


 翌朝、ミナはまず木札を見た。


 水路側に一本。畑側に一本。その間に張った細い縄は、夜露を吸って少し重たそうに垂れていた。縄の下の土には、昨日みんなが立っていた跡が残っている。大人の靴跡。トマの足跡。バルドの杖の丸い跡。


 子どもの足跡は、木札の手前で止まっていた。


 ミナはそれを見て、少しだけ息を吐いた。


「越えてないね」


「昨日、エル婆がリオたちに言ってたからな」


 隣でトマも一緒に足跡をみつめている。


「何を?」


「木札を越えたら、薬草干しを三日手伝わせるって」


「それは効くね」


「効きすぎて、今朝は木札から三歩くらい離れてた」


「えらい」


「怖がってただけかもしれないぞ」


「それでも、離れてたならいいよ」


 ミナは縄を結び直した。ゆるんではいない。でも、水路のそばに張るものは、何度見てもいい。古い縄だ。丈夫とは言えない。ちょっとしたことで切れるし、濡れたままにすれば朽ちる。


 それでも、今はこれが境目になる。


「縄、替えたいね」


「替える縄があればな」


 トマは肩にかけた古い縄を見た。


「これも、もう毛羽立ってる」


「水路が落ち着いたら、縄も見ないと」


「水路が落ち着いたら、って言葉、最近ずっと言ってる気がする」


「うん」


 水路の中では、細く緩やかな流れが軽い音を立てていた。ちろ、ちろ、と、途切れながら流れている。まだ、きれいな音ではない。でも、一昨日のような、ぬるく詰まった音とは少し違う。


 ミナは水路の曲がり角を覗いた。


 いた。


 スライムは、水路の浅い泥の中に留まっている。


 昨日より、少し丸い。


 丸いと言っても、きれいな玉のようではない。体の中にはまだ泥の筋が残り、腐った草の繊維も浮いている。表面にも、ところどころ白っぽく乾いた跡がある。それでも、べたりと平たく沈んでいた頃よりは、ほんの少しだけ厚みが出ていた。


 水に触れている端が、ゆっくり揺れている。


「逃げてないな」


「うん」


「それで、いいのか?」


「畑に行ってないなら、今はいい」


「今は、な」


「今は」


 そこは曖昧にしない。水路の中にいるからよい。畑へ出たら困る。子どもへ近づいたら、もっと困る。水が少し戻ったからといって、安全になったわけではない。


 バルドも同じことを考えていたらしい。


 少し離れたところから、杖をついて近づいてきた。村人が数人、その後ろにいる。昨日と同じ顔もあれば、昨日より遠くから見ている顔もあった。


「木札より前に出るな」


 バルドが、ミナより先に言った。


「水路の中だけじゃ。畑側へ出すな。子どもは触るな。大人も触るな」


「うん」


 ミナはうなずいた。


「今日はまず、水がどこまで行くか見る」


「先に魔物を見るのではないのか」


「水を見る。スライムも見る。畑も見る」


「全部じゃな」


「全部少しずつ」


 バルドは渋い顔をした。


「少しずつで済むなら、村長はいらん」


「いるよ。みんな止める人が必要だから」


「わしは止めるためだけにおるわけではない」


「でも、止めるの上手いよ」


 トマが横で咳をした。笑いかけたのをごまかしたらしい。


 バルドはトマをにらみ、ミナをにらみ、それから水路を見た。


「……近づけすぎるなよ」


「うん」


 ルシェラは、少し後ろの石の上に立っていた。


 昨日から覚えたらしい。水路へ近づきすぎない。木札は強く刺さない。縄はまたがない。今のところ、三つのうち二つは守っている。


「ルシェラ」


「なんだ」


「縄」


 ルシェラは足元を見た。


 片足が、細い縄の上をまたいでいた。


「……これは、越えたうちに入るのか」


「入る」


「わたしは子どもではない」


「子どもに見えるように張った縄だから、大人にも見えるでしょ」


「小娘、これはわたしには低すぎる」


「低くても境目は境目」


「面倒な境目だな」


「だから大事なの」


 ルシェラは不満そうにしながら足を戻した。


 スライムの表面が、ほんの少し縮む。


 ミナはそれを見る。


 やっぱり、ルシェラの気配は強い。本人が何もしていなくても、水路の泥まで少し固くなりそうなくらい。


「ルシェラはそこで」


「分かっておる」


「本当に?」


「水路は弱い」


「うん」


「スライムも弱い」


 ルシェラは少しだけ目を細めた。


「弱いなりに、少しだけましになっておるな」


「それ、分かるの?」


「濁りが少し軽い。水のおかげだな」


「そっか」


「ただし、まだ腹の中は泥だ」


「うん。だから、今日も見る」


 ミナは籠を地面に置いた。


 中には、しなびた根菜の端と、傷んだ葉が少しだけ入っている。昨日より、ほんの少しだけ多い。多いと言っても、小さな籠の底が見えるくらいだ。


 村人の女がそれを見て、眉を寄せた。


「今日も、やるのかい」


「うん。先にあげない。水路を少しきれいにしたら、少しだけ」


「畑の葉は?」


「だめ」


 ミナはすぐ答えた。


「食べられるところは、人が食べる。食べにくいところだけ」


「魔物にまで分ける余裕なんて、うちにはないよ」


「だから少しだけ。畑の葉を勝手に食べられるよりは、こっちの方がいい」


 女は黙った。納得した顔ではない。でも、昨日水が少し動いたのを見ている。言い返す言葉を探して、結局、水路の方を見た。


 トマが小声で言う。


「信じてなさそうだな」


「信じなくていいよ」


「いいのか?」


「怖いなら離れてていい。役に立つのと、安全なのは別だから」


「それ、村長に聞こえるように言った方がいいぞ」


「聞こえておる」


 バルドが低く返した。


「そして、その通りじゃ」


 ミナは水路の端にしゃがんだ。昨日と同じ位置。真正面ではなく、横。水の逃げ道を塞がない場所。棒は水路の泥へ置く。スライムへ向けない。


「今日は、ここから」


 ミナは小枝で、腐った草の塊を少しだけ水路側へ寄せた。畑の方へは置かない。水を含ませ、スライムより少し手前の泥に乗せる。


「水路の草。こっち側」


 スライムは動かなかった。


 体の端が、かすかに震えるだけだ。昨日より丸くなった分、震え方も少し違う。べたりと泥が動くのではなく、表面だけがぷる、と揺れる。


 リオが木札の向こうで両手を口に当てて、言いたいのを我慢している。


 ナナはその袖を引いていた。


 ミナは二人を見て、首を横に振る。二人とも黙った。


 えらい。


 声に出すと調子に乗るので、言わない。


 ミナは水路の端の泥を、棒で少しだけ動かした。水が腐った草の方へ回る。


 スライムの端が伸びた。


 昨日より、迷いが少ない。


 水へ。腐った草へ。そして、泥へ。


 草の端がスライムの中に沈み込む。黒い繊維が体内に浮かび、泥が濁る。すぐにきれいになるわけではない。けれど、草の塊は少しずつ小さくなった。


「……本当に食ってる」


 若い男がつぶやいた。


 昨日も見ていたはずなのに、もう一度言った。たぶん、一度見ただけでは足りないのだ。魔物が水路掃除をしている、なんて、そう簡単に飲み込める話ではない。


「食ってるっていうか、溶かしてるのか?」


「たぶん、取り込んでる」


「それで水路掃除になってるのか?」


「見て」


 トマに示すように、ミナは水を指した。


 腐った草が減ったところへ、水が通った。ちろ、という音がする。昨日より、少し長く続いた。水は引き込み溝の入り口を越え、細い溝に入っていく。泥に吸われながら、それでも進む。


 畝の手前。


 昨日はそこでほとんど消えた。


 今日は、少しだけその先へ伸びた。


「水」


 ナナの母親が、水路の先へ身を乗り出した。


「端まで行った?」


 隣の女も、畑の奥をのぞき込む。


「まだ。端まではまだ」


 ミナは水の流れから目を離さずに答えた。


「でも、昨日より先に行ってる」


 そう口にしてから、ミナは自分でも水の先を追った。


 細い。


 頼りない。


 それでも、畑の端の一番手前の土が、じわりと色を変えた。


「あ」


 トマが先に気づいた。


「届いた、か?」


「少しだけ、本当に少しだけ」


「少しでも水だろ」


「うん」


「水は水だな」


「うん」


 トマは少し笑った。


 バルドは笑わなかった。けれど、水の先を見ていた。眉間のしわは深いままだが、目は水から離れない。


「畑の端まで、少し届いたな」



 村人たちがざわめいた。怖がるざわめきではない。まだ安心ではない。でも、昨日より少し違う。


「水が戻った」


 見守っていた誰かが、ぽつりとこぼした。


「戻ったってほどじゃない」


 ミナは水路の端から目を離さなかった。


「少し届いた。まだ詰まりはある。見張りもいる」


「それでも、戻ったんだろ」


 若い男が、困ったように笑った。魔物がいる水路を怖がりながら、水が流れたことだけは否定できない顔だった。


 人は、そういう顔をするのだとミナは思った。


 スライムが、もう一度腐った草へにじる。今度は泥も一緒に取り込んだ。濁った水の中で、体内の泥筋がゆっくり崩れていく。吐き出しているのではない。押し流しているのでもない。中でほどいているように見える。


 泥の塊が小さくなり、水が細く抜ける。


「ぷる……」


 リオが、今度は声を出さずに口だけ動かした。


 ナナがそれを見て、まねをした。


 ぷる。


 ミナは気づいたが、何も言わなかった。


 先に水路だ。


「もう一つだけ」


 ミナは腐った草の小さな塊を水路側へ寄せた。


「これを取ったら、今日はくず野菜」


「もうやるのか」


 バルドが眉間にしわを寄せる。


「働いた分だけ」


「昨日も聞いた」


「今日も言うよ」


「言われんでも覚えたわ」


「じゃあ、村の人にも聞こえるように言う」


 バルドはさらに渋い顔になった。でも、止めなかった。


 ミナは村人の方へ少し顔を向けた。


「先にあげない。水路の泥と腐った草を取った分だけ。畑の葉はだめ。くず野菜も少しだけ」


「それで、また来るようにならないかい?」


 女は畑の葉を気にするように、腕の中の籠を抱え直した。


「来る場所を水路にする。畑じゃなくて」


「そんなにうまくいくのかい」


「分からない。だから、明日も見る」


「明日もか」


 トマの目が、水路の先へ動く。


「明日も」


「しばらくずっとだな」


「うん。水路だから」


「水路だから、か」


 そう繰り返しても、トマの顔は半分くらいしか納得していなかった。


 スライムは、最後の草の塊に触れた。昨日より少し、動きが早い。けれど、早すぎない。畑の葉へ飛びつくような動きではない。水と匂いをたどって、にじる。触れる。沈める。取り込む。


 その間、ミナは棒を握ったまま、スライムの端を見ていた。


 急に跳ねたら止める。畑の方へ寄ったら止める。子どもが近づいたら、もっと先に止める。


「……ちゃんと見てるな」


 トマは感心したような、呆れたような顔で水路をのぞいていた。


「見てないと怖いから」


「怖いのか?」


「怖がってるよ。でも、怖がってるだけだと森番は務まらない」


 返す言葉を探すように、トマの視線がミナとスライムの間を行き来した。


「それ聞くと、ちょっと安心する」


「なんで?」


「お前、たまに怖がってないように見えるから」


「怖がってるよ」


 ミナは短く返して、棒の先を水路へ戻した。


 腐った草の塊が崩れた。


 水がまた通る。今度は、引き込み溝の中で細い筋が二本に分かれた。一本はすぐ泥に消えた。もう一本が、畑の端の土まで届いた。


 ほんの少し。


 でも、届いた。


「端まで行った」


 ナナの小さな声が、水路の上に落ちた。


 静かな声だった。だから、みんなに聞こえた。


 水は細い筋になって、畑の端の土を濡らしている。根菜の葉がすぐに元気になるわけではない。でも、土の色が変わる。乾いた白っぽい色から、少し濃い土の色へ戻る。


 それだけで、村人たちは黙った。


「……水が来た」


 ナナの母親は、濡れていく土から目を離せなかった。


「少しだけ」


 ミナは水路の細い流れを見たまま、そう返す。


「でも、来た」


 今度は、誰もすぐには言い返さなかった。


 ミナは籠から、根菜の端を一つ取った。昨日と同じように、村人へ見せる。小さい。食べられる部分はほとんどない。皮が固く、端が黒くなっている。


「これだけ」


「昨日より小さくないか」


 トマが根菜の端をのぞき込む。


「今日は水が少し届いたけど、まだ少しだから」


「そこも分けるのか」


「分ける」


「細かいな」


「細かくしないと、足りなくなる」


 バルドの眉間のしわが、少しだけ深くなった。


「そこは正しい」


「そこは?」


「全部正しいとは言っておらん」


「うん」


 ミナは根菜の端を、水路の中の石の上に置いた。畑側ではない。スライムから少し離れた場所。


「働いた分だけ」


 スライムは、すぐには動かなかった。


 水の中で、表面が一度、ぷる、と揺れた。それから、根菜の端へゆっくり伸びる。昨日より、少し丸くなった体が、石の上に乗りかける。


 根菜の端に触れる。


 角が沈む。


 スライムの体が、今度は二度、小さく揺れた。


 ぷる。


 ぷる。


 リオが両手で口を押さえたまま、目を輝かせる。


「……ぷるぷるした」


 小さな声だった。


 今回は、ミナも止めなかった。大きくなかったからだ。


 ナナがこくりとうなずく。


「ぷる」


「名前みたいに言うなよ」


 トマが顔をしかめる。


「でも、呼びやすい」


 ナナは真面目な顔のまま、水路を見た。


「スライムって言うより、ぷる」


 リオもこくこくとうなずいた。


「ぷるだよ。ぷるってしたし」


「したけどな」


 トマは困った顔でミナを見る。


「どうするんだ、これ」


「名前?」


「名前」


 ミナは水路のスライムを見た。


 スライムは根菜の端を取り込んでいる。こちらを見ているのかは分からない。そもそも目がどこなのかも分からない。ただ、畑には向かっていない。水路の中にいる。


 泥と腐った草を吸収し、水の流れを少し良くした。働いた分だけ、与えたくず野菜を食べている。


「呼びやすい方がいいなら……ぷる?」


 正式に名づけるつもりではなかった。ただ、スライム、あれ、それ、魔物、と呼ぶよりは、呼びやすい。村人に説明する時も、子どもを止める時も、その方が早い。


「ぷる」


 リオの顔がぱっと明るくなる。


「リオ」


 ミナが名前を呼ぶだけで、リオの足が止まった。


「近づかない」


「分かってる」


「呼ぶだけ。触らない」


「分かってるって」


「棒でつつかない」


「それも分かってる」


「木札を越えない」


「三つ言われた」


「大事だから」


 リオは少しむくれたが、木札の手前から動かなかった。ナナも動かない。そのまま、少し嬉しそうに水路を見ている。


 バルドが重い息を吐いた。


「名前までつけるのか」


「呼びやすい方がいいだけ」


「呼びやすいと、近づく者が増える」


「だから、木札と縄」


「名前で気が緩む」


「緩んだら叱る」


「お前がか」


「私も。バルドさんも。エル婆も」


 遠くで、リオの肩が跳ねた。


 トマの口元が少し緩む。


「エル婆は強いな」


「強いよ」


 ミナは真面目な顔のままだった。


 バルドはまだ不満そうだった。それでも、水路を見て、畑を見て、ぷるを見て、また水路へ目を戻す。


「……大丈夫そうなら……まあ」


 若い男がそこまで口にして、すぐに黙った。


 バルドの視線が飛ぶ。


 男は肩をすくめた。


「いや、まだ怖いですよ。怖いけど、水は来たから」


「怖いなら近づかぬことじゃ」


「はい」


 男は素直に一歩下がった。


 ナナの母親は、水路と畑の端を見比べていた。


「水が来るなら、助かるよ。でも、子どもは近づけない方がいいね」


「うん」


 ミナはぷるのいる水路を見たまま、うなずいた。


「見張りは続ける。畑側に出たら止める。水路だけ」


「水路だけ」


 トマが、確かめるように繰り返す。


「働いた分だけ」


 今度はリオが、小声でまねをした。


「リオ」


「近づかない。触らない。棒でつつかない」


「よし」


「俺、覚えた」


「明日も覚えてて」


「明日も言われるのか」


「言うよ」


 リオは少しがっかりした。


 ルシェラが、離れた石の上で低く笑った。


「食と役。境界。名。小さきものに居場所を示すか」


「ルシェラ」


 ミナは顔を上げた。


「たいそうに言わない」


「まだ何も言っておらぬ」


「言いかけてる」


「顔か」


「顔」


「顔とは不便だな」


「あと、縄またいでない?」


 ルシェラは足元を見た。


 またいでいた。


「……これは、縄が悪い」


「足を戻して」


「むう」


 ルシェラは足を戻した。


 スライム――ぷるは、水路の中で根菜の端を取り込んでいる。その表面が、また小さく揺れた。


 ぷる。


 今度はリオもナナも、声に出さなかった。でも、二人とも顔に出ていた。


 村人たちはまだ笑わない。バルドも笑わない。


 それでいい。


 昨日まで畑を溶かすかもしれない魔物だったものが、今日いきなり村の仲間になるわけがない。水路の中にいて、水を少し通した。報酬のくず野菜を少し食べた。名前らしきものがついた。


 今日は、それくらいで十分だった。


「水は戻った」


 バルドのしわが少し緩む。


 ミナはすぐに首を振りかけたが、バルドが手を上げた。


「全部ではない。分かっとる」


「うん」


「だが、畑の端には届いた」


「うん」


「そこは認める」


「うん」


「ぷるは認めん」


「名前を?」


「魔物をじゃ」


「うん」


「うんばかり言うな」


「全部そうだから」


 トマが笑いをこらえた。


 バルドは杖で土を一度だけ押した。


「今は止めん。それだけじゃ」


「うん」


「明日も見る」


「見る」


「畑に出たら」


「止める」


「子どもが近づいたら」


「止める」


「くず野菜は」


「少し」


「働いた分だけじゃ」


 ミナは少し目を丸くした。トマもバルドを見る。


 バルドは顔をしかめた。


「言わせるな。わしまで覚えただけじゃ」


「覚えてくれたんだ」


「覚えざるを得んほど言われた」


「大事だから」


「それも覚えた」


 水路の水が、また細く鳴った。


 ちろ、と続いて、畑の端へ向かう。まだ弱い。でも、完全には止まっていない。


 ミナは木札の根元を押さえ直した。水路側。畑側。その間の縄。


「今日はここまで。午後にまた見る」


「またか」


 トマの肩が少し落ちる。


「また。水が戻っても、明日も見る」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


「あと、道具も見ないと」


「道具?」


「昨日から棒も鋤もぎりぎり。水路板の釘も足りない。水が戻っても、道具が壊れたら畑仕事が止まる」


 トマは畑の脇に置かれた道具の山を見て、顔をしかめた。


「そうだった。水路が少し戻っても、あれやこれや大変だ」


「それは前から」


「問題が順番待ちしてるな」


「待ってくれるならいいんだけど」


 バルドは畑の端へ歩いた。足元を見ながら、慎重に。水が届いた場所の土を杖の先でつつく。少し湿っている。


 それを確かめてから、今度は畑の脇に置いてあった古い鋤へ目を移した。


 柄の割れ目が、昨日より広がっていた。


「これは、次は無理だな」


 トマが鋤を持ち上げると、みし、と嫌な音がした。ミナはすぐに手を出して止める。


「持ち上げないで」


「今ので分かった」


「分かりたくなかった」


「俺も」


 バルドは水路板の端にしゃがんだ。浮いた板を押さえている釘が、一本斜めになっている。長い釘ではない。曲がった釘を打ち直して使っていたものだ。


「釘も足りん」


「うん」


「鉄も柄も足りん」


「うん」


「水が来ても、道具がなければ畑は動かん」


「うん」


 ミナは答えながら、畑の泥に目を落とした。


 水が少し来たせいで、乾いていた土がやわらかくなっている。そこに、小さな跡があった。


 鳥ではない。


 角兎でもない。


 人の子どもの足跡よりずっと小さい。でも、形はどこか人に近いようにも見えた。細い指のような跡が、泥に三つ。


 水路の方ではない。


 道具置き場へ向かう細い道の方へ、二つ、三つ。


 ミナはしゃがんだ。


「トマ」


「何?」


「ここ、踏まないで」


 トマの足が、ぴたりと止まる。


「足跡か?」


「うん」


 バルドも顔を上げた。


「誰のじゃ」


「まだ分からない」


 ミナは小さな跡を見た。


 泥は浅い。跡も薄い。でも、確かに何かがいた。水路の騒ぎの間に来たのか、夜のうちに来たのか。道具置き場の方を覗いたのかもしれない。畑の端を通っただけかもしれない。


「ぷるじゃないよな」


「ぷるは足跡つけない」


「だよな」


 トマは道具置き場の方へ目を向けた。


「じゃあ、また別か」


 ミナは答えず、足跡の先を見た。


 古い鍬。


 割れかけた鋤。


 曲がった釘。


 緩んだ柵。


 その向こう、道具置き場の影。


 水路の水は、細く戻った。でも、村の困りごとは、まだ水路の中だけでは終わってくれないらしい。


 ミナは木札の残りを一本取り出した。今度は水路ではなく、小さな足跡の横に立てる。


「ここも、あとで見る」


 トマがため息をついた。


「また見るものが増えた」


「見つけたら増えるんだよ」


「それ、あまり聞きたくない」


「本当にね」


 ぷるが、水路の中で小さく揺れた。


 ぷる。


 水は細く、畑の端へ届いている。


 ミナは足跡の先を見たまま、道具袋の紐を結び直した。


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