第8話 くず野菜と水路掃除
第1部:辺境領と教会編
第2章:スライムと詰まった水路
翌朝、ミナは畑の端で、葉っぱを三つに分けていた。
一つ目は、まだ畑につながっている葉。これは触らない。二つ目は、折れたり虫に食われたりして、人が食べるには少し厳しい葉。三つ目は、昨日から水路のそばに置いてあった、黒ずんだくず葉と腐った草だった。
どれも似たような緑に見える。
けれど、ミナにとっては全然違った。
「これ、ほんとに分ける意味あるのか?」
トマが横で籠を持っている。籠の底には、しなびた根菜の端と、傷んだ葉が少しだけ入っていた。
「それを確認する」
「確認ねえ」
「今日は、比べる」
「お、ちょっと進んでる感じするな」
「進んでるといいんだけど」
ミナはくず葉をさらに二つに分けた。まだ緑の強いものは手前へ。黒ずんで、水を吸って、もう形が崩れかけているものは水路側へ。食べられるかどうかではなく、食べさせていいかどうかで分けているので、見た目以上にややこしい。
ナナが木札の向こうから、じっと見ていた。リオもいる。昨日より木札から少し離れている。たぶん、エル婆に何か言われたのだろう。
「ミナ姉、俺、籠くらい持てるよ」
「木札のこっちまでならね」
「そこから先は?」
「トマが持つ」
「トマ兄ばっかりずるい」
「ずるい大人だからな」
トマが籠を少し持ち上げた。
「あと、これ軽くないぞ。根菜の端って、地味に重い」
「貸して」
「だめ」
ミナとトマの声が重なった。
リオは少しむっとしたが、今日はそこで止まった。昨日よりは、ちゃんと止まっている。
「じゃあ、俺、見張り」
「うん。誰かが木札より向こうへ行こうとしたら呼んで」
「大人も?」
「大人も」
リオは少しだけ背筋を伸ばす。
「分かった」
バルドは、少し離れたところで杖をついていた。村人も何人かいる。ナナの母親、若い男、畑仕事をしていた女。全員、手には何かしら持っていた。
棒。桶。縄。
誰も手ぶらではない。でも、近づきたがっているわけでもなかった。
水路の奥にいるものを、もう見ている。畑の葉を溶かす魔物だと知っている。弱っているからといって、怖くなくなるわけではない。
バルドが低く言った。
「条件を言うぞ」
「うん」
「水路の中だけじゃ」
「うん」
「畑に近づけるな」
「近づけない」
「子どもに触らせるな」
「触らせない」
「水路を壊すな」
ミナは少しだけルシェラを見た。
ルシェラは腕を組んで、当然のような顔をしている。
「なぜわたしを見る」
「念のため」
「昨日も壊しておらぬ」
「今日もね」
「小娘はしつこいな」
「水路のためだからね」
トマが横から小さく言う。
「それ、もう合言葉みたいになってるな」
「便利ではある」
ルシェラが言った。
「便利じゃないよ。大事なの」
ミナはそう返してから、水路へ向かった。
木札の先は、昨日より少しだけ湿っていた。夜の間に水が溜まったのか、スライムが動いたのか、どちらかは分からない。腐った草の塊は、昨日より形が崩れている。ただ水にふやけたのとは違う。端が薄く溶けて、ぬるい膜になっていた。
その奥に、乾いたスライムがいる。
昨日より丸い、というほどではない。けれど、完全にしぼんだままでもなかった。白っぽく乾いた膜の下に、少しだけ水の光が戻っている。濁った体の中には、泥の筋と葉の繊維がまだ残っていた。
スライムは水路の浅い泥場にべたりと沈んでいる。動いていないようで、端だけがゆっくり水の方へ伸びていた。
「まだいるな」
トマの声は低い。
「うん」
「逃げてない」
「水が欲しいんだと思う」
「畑の葉も欲しがるんだろ」
「そこを見る」
ミナはしゃがんだ。昨日と同じように、真正面ではない。水の逃げ道を塞がない横の位置だ。
棒は持っている。でも、先はスライムへ向けない。水路の縁の泥へ置く。
「近づきすぎないで」
村人たちへ言う。
「声も小さめに。びっくりしたら、どっちへ跳ねるか分からないから」
「跳ねるのか?」
若い男が聞いた。
「分からない。分からないから、跳ねると思っておく」
「それは、まあ……そうだな」
男は一歩下がった。
ルシェラも水路から少し離れている。不満そうではあるが、昨日より距離を取っていた。
スライムの表面は、ルシェラが一歩動くたびにかすかに縮む。ミナが近づいても、同じようには縮まない。ただ、動きが止まる。止まったように見えるだけかもしれない。
「わたしでは縮む。小娘では逃げぬか」
ルシェラが小さく言った。
「まだ分からないよ」
「分からぬ、分からぬばかりだな」
「分かってたら、こんなに怖くないでしょ」
ルシェラは黙った。
ミナは、トマから籠を受け取った。中から、まだ緑の残った葉を一枚取り出す。
水路へは入れない。
石の上に置く。
スライムから少し離れた、畑側の石だ。
「こっちは、食べちゃだめな葉」
「スライムに理解できるのか?」
トマが聞く。
「分からない。だから確かめる」
「もどかしいな」
「うん。でも確認したい」
次に、ミナは黒ずんだ腐った草を、小枝の先で水路側へ寄せた。水を少し含ませ、スライムから離れた泥の上へ置く。
「こっちは、水路の草」
スライムは動かない。
いや、表面だけが、ゆっくり震えた。
「お、反応した?」
「分からない」
「匂いか?」
「たぶん」
「たぶんばっかりだな」
「今日は、たぶんを減らす日」
ミナは水路の端の泥を、棒で少しだけ動かした。流れを作る。スライムの方へ押し込むのではなく、腐った草の方へ水が回るようにする。
細い水が、泥の溝を通って草へ触れた。
すると、スライムの端が、ゆっくり伸びた。
緑の葉へではない。
水路の腐った草の方へ。
村人たちが息をのむ。
「動いた」
ナナが小さく言った。
リオが「見えない」と背伸びしかけ、トマが片手で制した。
「木札のこっち」
「分かってる」
「背伸びで越えるな」
「越えてない」
「気持ちが越えてる」
「気持ちはいいでしょ」
「今日はだめ」
そのやり取りの間に、スライムの端が腐った草へ触れた。
触れたところから、草がゆっくり沈む。食べているというより、沈み込む。草の形が崩れ、黒い繊維がスライムの中へ入った。体の中がまた少し濁る。
けれど、昨日よりも動きが鈍くない。
水が触れているからかもしれない。腐った草の方が、畑の葉より崩しやすいのかもしれない。
スライムは、べたりとしたまま、草の塊を少しずつ取り込んでいく。
「本当に食ってるのか」
若い男が言った。
「食べてる、のかな」
トマも答えに困った顔をした。
ミナは水の流れを見ていた。草の塊が少し減ったせいで、詰まっていた泥の上を水が通る。
ほんの少し。
でも、昨日より軽い音がした。
ぬる、ではなく、ちろ、と細い音。
「水」
ナナの母親が言った。
「少し動いたわ」
バルドがすぐに水路を覗き込んだ。
「どこまでじゃ」
「まだ入り口だけ」
ミナは答えた。
「畑の端までは無理。水路の奥も詰まってる。これだけじゃ足りない」
「分かっとる」
バルドの声は固かった。でも、目は水を追っていた。
水が少しでも動くと、どうしても見てしまう。
村人も同じだった。
怖い。
でも、水は欲しい。
スライムがまた、少しにじった。今度は、緑の葉の方へ向きかけた。石の上に置いた、まだ水気のある葉だ。
ミナは息を吸った。
大きな声は出さない。
「そっちはだめ」
低く言う。
スライムの表面が、かすかに震える。
分かったのか、音に驚いたのか、流れが止まっただけなのか。
分からない。
ミナはすぐ、腐った草の塊を小枝で少し動かした。
「こっち。水路の草なら、こっちにある」
スライムはしばらく動かなかった。
村人たちも動かない。リオまで黙っている。
やがて、スライムの端が、ほんの少しだけ緑の葉から離れた。そして、泥と腐った草の方へ沈む。
トマが小さく息を吐いた。
「今の、通じたのか?」
「分からない」
「でも、畑の葉には行かなかった」
「うん。今は」
「今は、か」
「今は」
ミナは、緑の葉を石の上から回収した。食べさせない。比べるために置いただけだ。
それを見ていた村人の女が、少しだけ肩を下げた。
「畑の葉までやるのかと思った」
「やらないよ」
ミナはすぐ答えた。
「畑の葉は、村の食べ物だから」
「くず葉は?」
「食べられるところは、人が食べる。食べにくいところだけ」
「それでも魔物にやるのか」
別の男が言った。不安の混じった声だった。
「ただで畑を食べられるよりは、こっちの方がいい」
ミナは言った。
「でも、先にあげない。水路の泥と草を取った分だけ」
「働いた分だけ、か」
トマがつぶやく。
「うん」
「魔物にも?」
「畑を守れるなら」
バルドが杖の先で土を押した。
「わしは認めたわけではないぞ」
「うん」
「餌付けではないのか」
「そう見えると思う」
「思う、ではない」
「でも、食べるものを分けないと、畑に来る」
ミナは水路のスライムを見た。腐った草を抱え込み、泥の中で重そうに動いている。
「畑に来たら困る。だから、食べていいものを覚えるか確認する」
「覚えるのか、あれが」
「覚えないかもしれない」
「またそれか」
「だから、少しずつ」
バルドはしばらく黙っていた。
水路の水は、細く動いている。動いたからといって、安心できる量ではない。でも、動いた。
「……少し流れたからといって、油断はせん」
「うん」
「水路の中だけじゃ」
「うん」
「畑に出たら止める」
「止める」
「止まらなければ」
ミナは少し黙った。
「その時は、退治も考える」
バルドは何も言わなかった。
それが一番聞きたかった答えだったのかもしれない。
スライムは腐った草の塊を、半分ほど取り込んでいた。体の中が少し濁る。でも、表面の白っぽい乾きは、さっきより薄くなっている。水を少し含んだのだろう。
体の端が、かすかに丸く戻る。
張りはまだない。
けれど、べたりと沈んでいた昨日よりは、少しだけ膨れた気がする。
「水、もう少し動かす」
ミナは言った。
「無理するなよ」
トマがすぐ言う。
「しない。奥までは行かない」
「本当だな」
「本当」
「今日の返事は?」
「いいやつ」
「よし」
ミナは棒で、スライムから少し離れた泥を寄せた。詰まりの中心ではない。端に溜まった柔らかい泥だけ。その泥を、水路の底から少しだけ浮かせる。
すると、スライムの端がそこへ伸びた。
泥を抱え込む。
泥の中に混じっていた細い根と腐った葉が、ゆっくり体の中へ入る。すぐには消えない。繊維が残る。でも、泥のかたまりは小さくなった。
水がまた、少し通る。
ちろ、という音が二度した。
水は引き込み溝の入り口まで進み、昨日より少し先へ流れた。畝の手前。畑の端までは、まだ届かない。
「届かないな」
トマが言った。
「うん。まだ足りない」
「でも、昨日よりは」
「少しだけ」
「少しだけか」
「少しだけでも、水」
ミナがそう言うと、トマは口を閉じた。
水路のそばで、ナナの母親が小さくうなずいた。村人の顔は、まだ明るくない。でも、全員が水路を見ていた。
スライムだけを見ているのではない。
水も見ている。
そこが、昨日と少し違った。
ミナは籠から、小さな根菜の端を一つ取った。人が食べるには固すぎるところだ。皮に傷があり、端が少し黒くなっている。
それを、すぐにはスライムへ近づけない。
まず、村人たちに見せる。
「これだけ」
「少ないな」
トマが言った。
「多くあげたら、働かなくても来るかもしれない」
「そこまで考えるのか」
「うん。あと、そもそも少ない」
「それが一番だな」
「一番ではないけど、大事」
ミナは根菜の端を、水路の泥のない石の上に置いた。スライムから少し離れた場所。水路の中。畑側ではない。
「働いた分だけ」
ミナは言った。
「ここを少しきれいにした分だけ」
スライムは動かなかった。
根菜の端は、ただ石の上にある。
村人たちも、息をひそめて見ている。
しばらくして、スライムの端が、ゆっくり伸びた。水へ伸びる時より、少し迷うような動きだった。
にじる。
止まる。
また、にじる。
それから、根菜の端に触れた。
触れたところが、少しだけ沈む。根菜の角が丸くなる。スライムの体が、ほんの少し揺れた。
ぷる、と。
本当に、小さく。
「今の」
トマが言った。
「喜んだのか?」
「分からない」
ミナは答えた。
「でも、畑の葉よりはよさそう」
「よさそう、か」
「うん。まだそれくらい」
リオが遠くから、我慢できない声を出した。
「ぷるってした!」
「リオ、静かに」
「ごめん」
声は大きかったが、すぐ謝った。
スライムは少し縮んだ。けれど、奥へ逃げはしなかった。根菜の端に触れたまま、ゆっくり取り込んでいる。
ナナが小さく言った。
「食べてる」
「たぶん」
ミナも小さく返した。
バルドは、まだ渋い顔をしている。渋い顔のまま、水路を見て、スライムを見て、畑を見た。
「……今は止めん」
それだけ言った。
「認めたわけではないぞ」
「うん」
「水が少し動いただけじゃ」
「うん」
「明日も同じようにいくとは限らん」
「うん」
「うんばかり言うな」
「だって、全部そうだから」
バルドは眉間を深くした。けれど、杖は振らなかった。
村人たちも、水路へ近づかなかった。誰も、スライムを叩こうとはしなかった。
それだけで、今日は十分だった。
ルシェラが、ミナの横へ来ない距離で立った。水路から離れた石の上だ。昨日より、少し学んでいる。
「弱きものに、食と役を分けて示すか」
「くず野菜と水路掃除の話だよ」
「畑を荒らすものを、水路へ回す。大きく見れば同じだ」
「大きく見ないで」
「では小さく見る」
「小さく見ても水路掃除」
「小娘、おぬしは――」
「その前に、この札持って」
ルシェラは言いかけた口を閉じた。
ミナは木札を差し出す。ルシェラはしぶしぶ受け取った。
「わたしは札持ちではない」
「今は札持ち。強く刺しすぎないで」
「刺すだけであろう」
「ルシェラが刺すと全部埋まる」
トマが吹き出しかけた。
バルドの眉間も、少しだけ動いた。
ルシェラは不満そうにしながらも、木札をそっと持った。
ミナは水路と畑の間に、木札を一本立てた。水路側に一本。畑側に一本。その間に、細い縄を張る。
子どもでも見える高さ。
大人ならまたげる。でも、またいだら分かる高さ。
「ここから畑側は、スライムの場所じゃない」
ミナは言った。
「水路だけ」
「スライムに言ってるのか、村人に言ってるのか」
トマが聞いた。
「両方」
「両方か」
「どっちにも分かる方がいいでしょ」
「まあな」
ミナはスライムを見た。根菜の端は、半分ほど丸くなっていた。スライムの中には、まだ泥が残っている。葉の繊維も、根も、完全には消えていない。
でも、水路の詰まりは少し崩れた。水は昨日より、ほんの少し動いている。
畑を救うには足りない。
村人が安心するには、もっと足りない。
それでも、スライムは畑の葉ではなく、水路の泥と腐った草へ行った。くず野菜にも、少し反応した。
今日は、それだけを見る日だった。
「明日も、同じ場所から見る」
ミナは言った。
「水路の中だけ。畑の葉はだめ。泥と腐った草を取ったら、くず野菜を少し」
「少し、だな」
バルドが念を押す。
「少し」
「働いた分だけ」
トマが言った。
ミナはうなずく。
「働いた分だけ」
スライムが、石の上の根菜の端にもう一度触れた。
ぷる、と小さく揺れる。
リオがまた何か言いかけ、両手で自分の口を押さえた。ナナは、それを見て少しだけ笑った。
村人はまだ笑わない。
バルドも笑わない。
水路の中には、まだ危ない魔物がいる。
けれど、水は少しだけ動いていた。
ミナは最後に、木札の根元を石で押さえた。水路側。畑側。その間に、細い縄。
今日決められる境目は、それくらいだった。
でも、何もないよりはいい。
「ここまで」
ミナが言うと、スライムは泥の中で、また小さく揺れた。
喜んだのか、食べただけなのか、分からない。
ただ、畑の葉ではなく、水路の中にいた。
それを見て、バルドはもう一度だけ言った。
「認めたわけではないからな」
「うん」
「……だが、今は止めん」
水路の水が、細く、ちろ、と鳴った。
ミナはその音を聞いて、少しだけ息をついた。




