第7話 乾いたスライム
第1部:辺境領と教会編
第2章:スライムと詰まった水路
木札の先へ行く朝は、村の音がいつもより小さかった。
薪を割る音も、屋根を叩く音も、ちゃんと聞こえる。けれど、誰も大きな声で笑っていない。畑の水がよくない。それだけで、村の声は少し小さくなる。
ミナは道具袋の口を結び直し、腰の縄を確かめた。小刀。乾いた布。薬草の小袋。木札。そして、長い棒。古いが、先を削ってある。
水路に入るための棒ではない。つつくためでもない。足元を確かめるためのものだ。
「子どもはここまで」
ミナが言うと、リオが不満そうに口を尖らせた。
「昨日も言われた」
「今日も言うよ」
「遠くからなら?」
「木札のこっち側なら」
「ちょっとだけ向こうは?」
「だめ」
「まだ何も言ってないのに」
「言いそうな顔してた」
リオはぐっと黙った。
隣でナナが、小さな両手を胸の前で握っている。昨日、ぬるく溶けた葉を見つけたせいか、水路の方を見たり、ミナを見たりしていた。
「ナナも、ここからね」
「うん」
「葉っぱを見つけても、拾わない」
「うん」
「誰かが近づこうとしたら、大人を呼ぶ」
「うん」
「俺も呼ぶ」
「叫びすぎないでね」
「え、なんで」
「水路の奥に何かいたら、びっくりするかもしれないから」
「俺の声で?」
トマが隣でうなずく。
「お前の声は、村の端まで届くからな」
「そんなに?」
「うん」
「ちょっとすごいな」
「今はすごくなくていい」
リオはまた口を尖らせたが、木札の手前で止まった。止まっただけで、今日は十分だった。
ミナは水路の方へ向き直る。昨日刺した木札は、石で根元を押さえたまま、どうにか立っている。その先、曲がり角の手前から、水路の匂いが濃くなっていた。
泥。
腐った葉。
湿った草の根。
そこに、ぬるいものが混じる。
水の匂いなのに、すっきりしない。
トマが鼻をしかめた。
「昨日よりきつくないか」
「うん」
「水が腐ってる?」
「腐った葉が溜まってる。水も弱い」
「最悪の合わせ方だな」
「本当にそう」
バルドは少し後ろに立っていた。杖をついているが、ただ見に来ただけの顔ではない。村長として見に来ている顔だ。そのさらに横に、ルシェラがいる。
腕を組み、黙って水路の奥を見ていた。
普段なら何か言うところだ。「わたしが見れば早い」とか、「小娘、道を空けよ」とか。でも、今日は静かだった。
ミナはそれを少しだけ気にしてから、木札の先へ足を入れた。
「トマ、右の縁を踏まないで。板がずれてる」
「見えてる」
「見えてるならいい」
「ちゃんと気づいてたよ」
「えらい」
「子ども扱いするなよ」
「水路に落ちなければいいよ」
「落ちないよ」
「うん」
軽口を言いながらも、トマの足は慎重だった。
水路の曲がり角は、昨日より荒れていた。草の根が板の隙間から出ている。腐った葉が水面に沈み、泥と一緒に黒っぽく固まっている。板は一枚、内側へ少し傾いていた。新しいずれではない。端に古い泥が固まっているから、前から少しずつ動いていたのだろう。
ミナは棒で水路の底を押した。
ずぶ、と鈍い感触が返る。
「ここ、前から詰まりかけてるみたい」
「スライムのせいじゃなく?」
トマが言ったあと、はっとしたように口を閉じた。
まだ名前を出すには早い。でも、もう村人の多くはそう思っている。魔物がいる。畑を溶かした。水を止めている。そう考えた方が、分かりやすいからだ。
「水路は先に悪くなってたと思う」
ミナは言った。
「草と根と泥。板もずれてる。これだけで流れは弱くなる」
「じゃあ、奥の何かは関係ないのか」
「関係ないとは言えない」
「はっきりしない言い方だな」
「まだ確認中だから」
ミナは水路の縁にしゃがんだ。
泥の表面に、薄い膜がある。昨日見たものより広い。ところどころ、光を受けて白っぽく見えた。水面の泡とは違う。油とも違う。乾いた糊を薄く伸ばしたみたいな膜だった。
その膜の上を、小さな線が通っている。
何かが這った跡。
けれど、足跡ではない。
「……いるね」
トマの声が低くなった。
バルドがすぐに聞いた。
「見えたのか」
「いや。跡だけ」
ルシェラが、ようやく口を開いた。
「奥だ」
その声は、いつもより静かだった。村人の何人かが、息をのむ。
ルシェラは水路の曲がり角の先を見ている。水が少しだけ溜まり、泥の底が浅くくぼんでいる場所だ。腐った葉が集まって、小さな淀みになっている。
「乾ききってはおらぬ。だが、水が足りぬ」
「見えるの?」
ミナが聞くと、ルシェラは目を細めた。
「見えるというより、濁っている。弱い。泥を抱えすぎている」
「泥を?」
「食ったものを抱えたまま、濁っておるようなものだ」
「腹……」
トマが顔をしかめた。
「食べてるのに弱ってるのか?」
ルシェラは答えなかった。
代わりに、ミナが浅い泥場の方を見る。水路の奥。曲がり角の陰。腐った草の下で、何かが少しだけ動いた。
ぷる、ではない。
べたり、と泥がずれるような動きだった。
半透明のかたまりが、浅い泥に沈んでいる。水を含んでいるはずなのに、丸くない。しぼんだ皮袋みたいに平たく、表面の一部が白っぽく乾いていた。内側には、泥の筋と、葉の繊維のようなものが浮いている。
見ただけで、きれいな水の生き物ではないと分かる。
でも、元から汚いものというより、汚れたものを抱えて動けなくなっているように見えた。
「……あれか」
誰かが後ろで言った。
「魔物だ」
「畑を溶かしたやつか」
「棒で追い出せ」
「近づいたら跳ねるんじゃないか」
声が重なりかけた。
ミナは片手を上げる。大きく振らない。ただ、止めるだけ。
「近づかないで」
村人たちの足が止まった。
止まったが、ざわめきは消えない。バルドの顔も固い。
「ミナ」
「うん」
「畑を溶かしたのは、あれか」
ミナはすぐには答えなかった。
水路の奥のかたまりは、ゆっくり動いた。ほんの少し、水のある方へにじる。その途中で、腐った葉の端を取り込んだ。取り込んだ、というより、葉の方が体にめり込んだように見える。
しばらくして、葉の端がゆっくり崩れた。
でも、崩れたものは消えない。
体の中に、細い繊維が残ったままだ。
「畑の葉も、溶かすと思う」
ミナは言った。
「それは困る」
バルドの眉が深く寄る。後ろの村人も、またざわめいた。
「やっぱり退治するしかないんじゃないか」
「畑をやられたら終わりだぞ」
「でも、水路の中で暴れたら板が落ちる」
「こっちへ跳ねてきたら?」
怖がるのは、当たり前だった。
ミナも怖くないわけではない。スライムは小さい。弱っているようにも見える。でも、魔物だ。畑を溶かす。子どもの手に触れれば、何が起こるか分からない。
だから、なんとかしなきゃ、で近づくのは違う。
「畑を溶かすのは困る」
ミナはもう一度言った。
「でも、今叩くのも問題がある」
トマが水路の板を見る。
「崩れるな、これ」
「うん。水路も壊れる。弱ってるなら、逃げ道も分からないまま暴れるかもしれない」
「じゃあ、どうする」
バルドの声は低かった。怒っているというより、決めなければならない人の声だった。
ミナは棒を持ち替える。棒の先をスライムへ向けない。水路の縁に置くだけ。
「どう動くかを見る」
「見るだけで畑が戻るか」
「戻らない」
「なら――」
「追い込んだら、もっと悪くなるかもしれない」
バルドは言葉を飲んだ。
その時、ルシェラが一歩前へ出た。
水路の泥が、かすかに震える。
スライムが縮んだ。
本当に縮んだ。
しぼんだ体をさらに小さくするみたいに、泥の中へ身を寄せた。白っぽい膜がひきつれ、体の中の葉の繊維が揺れる。
村人たちが一斉に黙った。
ルシェラは止まった。
「わたしの気配を恐れているな」
「じゃあ、近づかないで」
ミナが言うと、ルシェラは少しだけ不満そうにした。
「小娘」
「水路のためだからね」
「まだ何もしておらぬ」
「これからしそうだった」
「……否定はせぬ」
トマが小声で言う。
「否定しないんだな」
「潰せば早いとは思った」
「思うなよ」
「だが、水路ごと潰れるのは困るのであろう」
「覚えてた」
「水路は弱い」
「そう」
ルシェラは石の上に戻った。
スライムはまだ縮んだままだ。けれど、完全に奥へ逃げたわけではない。
ミナはしゃがむ位置を変えた。真正面ではなく、少し横。水の逃げ道を塞がない場所。村人からは遠く、ルシェラからも遠い。水路の縁が崩れにくい石のそば。
「ミナ、近くないか」
トマが言った。
「まだ近くない」
「俺の感覚だと近い」
「じゃあ、トマはそこで止まって」
「お前も止まれって言いたいんだけどな」
「止まるよ。ここで」
ミナはそこで、本当に止まった。
棒を置き、片手を膝に添える。声を落とす。
「わたしは踏まない。あなたも跳ねないで」
「通じるのか?」
トマが小声で聞く。
「分からない」
「分からないのに話してるのか」
「威嚇するよりはいいでしょ」
「それはそう」
スライムは、動かなかった。
いや、ほんの少しだけ表面が揺れた。
ぷるぷるではない。
べたりとした体の端が、水の方へ薄く伸びる。
ミナは水路の横に溜まっていた小さな葉の塊を見た。腐って黒ずんだ草。根。泥。昨日まで邪魔なものとして見ていたものだ。
スライムの体の端が、そちらへ向いている。
でも、その先には、畑から落ちた新しい葉もあった。まだ緑が残っている。水気もある。
スライムが、そちらへにじりかけた。
「だめ」
ミナは低く言った。
自分でも、少し驚くくらい短い声だった。
スライムの端が、わずかに震えたように見えた。偶然かもしれない。声に反応したのかもしれない。緑の葉へ伸びるほどの力がなかっただけかもしれない。
「畑の葉はだめ」
ミナはゆっくり言った。
「こっち」
棒で腐った草の方を指す。
近づけない。触らない。ただ、向きを示すだけ。
スライムは動かなかった。
村人たちの息だけが、水路の上に溜まる。
しばらくして、スライムの端がほんの少し、腐った草の方へにじった。
本当に、ほんの少し。
選んだのか、流れたのか、ミナには分からない。けれど、緑の葉からは少し離れた。
「……今、そっち行ったか?」
トマが言った。
「分からない」
「分からないって顔じゃないぞ」
「分からないから、見てる」
ミナはスライムの中を見る。半透明の体の奥に、泥の筋が残っている。葉の繊維も、細い根も、溶けきらずに浮いている。
食べている。
でも、うまく食べられていない。
水はある。
けれど、足りない。
流れが弱く、浅く、ぬるい泥ばかりで、体をきれいに動かせていないのかもしれない。
「乾いてる……というより、水が足りてない」
ミナはつぶやいた。
バルドが聞き返す。
「水路におるのにか」
「水はある。でも、足りない。流れてない。泥と葉ばかり抱えてる」
「そんなことがあるのか」
「分からない」
「また分からないか」
「うん。でも、見えるところはある」
ミナは指で示した。
「泥と葉を食べてる。でも、体の中に残ってる。動きも遅い。水の方へ寄ろうとしてる。畑の葉にも反応する」
「つまり?」
トマが聞く。
「畑に来たら困る」
「そこは分かる」
「でも、水を探してる」
「それも、なんとなく分かる」
「食べるものを選べるなら、畑じゃない方へ動かせるかもしれない」
バルドが顔をしかめた。
「魔物に選ばせるのか」
「選ばせないと、また畑に来るでしょ」
「退治する、という選択は」
「ある」
ミナははっきり言った。
バルドも、トマも、少し黙った。
「あるよ。危ないなら退治する。畑に来るなら止める。子どもに近づくなら離す」
スライムが、泥の中で小さく揺れた。
ミナは目を離さなかった。
「でも、今はまだ、どう動くか見たい」
バルドはしばらく何も言わなかった。その沈黙は、許した沈黙ではない。受け入れた沈黙でもない。考えるための沈黙だった。
後ろの村人たちは不安そうにしている。畑の葉を溶かす魔物が、目の前にいる。それをすぐ叩かないと言われて、安心できるわけがない。
「村長」
トマが低く言った。
「今叩いたら、水路の板はたぶん落ちる。あの泥、下が抜けてる」
「分かっとる」
「あと、跳ねたら誰かにかかるかもしれない」
「それも分かっとる」
「じゃあ、今は離れた方がいい」
「お前に言われんでも分かっとるわ」
バルドは少しだけ苛立った声を出した。でも、その場から動かなかった。
ミナは、スライムを見ていた。
スライムは腐った草の端を取り込み、少しだけ体を丸める。だが、また繊維が残る。うまくいかないらしい。動きは鈍い。水の方へ行きたいのに、泥に体を取られているように見える。
「水を少し動かす」
ミナは言った。
トマがすぐ反応した。
「水路さらうのか?」
「少しだけ。流れを変えるだけ。触らない」
「無茶するなよ」
「うん」
「その返事、信用していいやつか?」
「今日はいいやつ」
「今日は、か」
ミナは棒を持ち、スライムから離れたところの泥を少しだけ寄せた。水路の端に溜まった小枝を外す。
水が細く動いた。
スライムへ向かってではない。スライムの横を通るように。逃げ道を塞がない流れ。
水が動くと、スライムの体の端がそちらへ伸びた。
今度は少しだけ早かった。
「水だ」
トマが言った。
「水、探してるのか」
ミナはうなずいた。
スライムは水へ寄る。腐った草へも寄る。緑の葉にも反応する。なら、畑の葉より水路の腐った草を選ばせる方法があるかもしれない。
まだ、分からない。
でも、まったく分からないよりはましだった。
ルシェラが静かに笑った。声には出さない。ほんの少し、口の端が上がっただけだった。
ミナはそれに気づいて、少し警戒する。
「ルシェラ、変なこと言わないでね」
「まだ何も言っておらぬ」
「顔が言ってる」
「顔とは不便だな」
「何を言いそうだったの」
「弱きものの腹と水を見て、道を示すか。小娘らしいと思っただけだ」
「水路の話だよ」
「知っている」
「本当に?」
「半分ほど」
トマが小さく息を吐いた。
「半分は違うんだな」
「半分も分かれば十分だ」
「十分じゃないから、黙っててくれ」
「若造、おぬしも言うようになったな」
「水路のためだからな」
ルシェラは少しだけ楽しそうだった。けれど、水路へ近づきはしなかった。
スライムは、彼女の気配を恐れている。
それを分かっているからだろう。
しばらく見ていると、スライムは腐った草の方へもう一度にじった。水に引かれたのか、草に引かれたのか。どちらかは分からない。
でも、畑の緑の葉からは離れている。
ミナは立ち上がった。
「今日はここまで」
「ここまで?」
トマが驚いた顔をする。
「捕まえないのか」
「捕まえない」
「追い出さない?」
「追い出さない」
「じゃあ、放ってくのか」
「木札を増やす。近づかない。見張りは遠くから。畑の葉とくず葉は分ける。水路側に腐った草を少し残す」
バルドが眉を寄せた。
「腐った草を残すのか」
「全部取ると、畑へ来るかもしれない」
「魔物の餌を置くようなものではないか」
「餌にするかどうか、まだ分からない」
「分からぬことが多すぎる」
「うん」
ミナはうなずいた。
「だから、明日、選べるか見る」
トマが目を丸くした。
「魔物に?」
「うん」
「選ばせるのか」
「選ばせないと、また畑に来るでしょ」
トマは口を開きかけ、閉じた。何か言いたげだったが、言葉にならなかったらしい。
バルドも同じだった。
何か言いかけて、水路の奥を見る。それから畑を見た。昨日から水がよくない畑。葉先が下を向いたままの畑。冬まで残さなければならない根菜の畑。
バルドは長く息を吐いた。
「……認めたわけではないぞ」
「うん」
「村に近づけるな」
「近づけない」
「子どもには触らせるな」
「触らせない」
「畑を溶かしたら」
「止める」
「止まらなければ」
ミナは少し黙った。
「その時は、また考える」
バルドの眉が動く。
「また考える、か」
「今はそれしかない」
「……そうじゃな」
村長は、認めたわけではなかった。ただ、今ここで棒を振るよりはましだと判断した。
それだけだった。
それだけで、今は十分だった。
ミナは新しい木札を取り出し、水路の縁に深く刺した。昨日の札より手前。子どもにも分かる場所。
札には、二本の線を入れた。
近づくな。
見るなら大人を呼べ。
という印だ。
リオが遠くから声を上げた。
「終わった?」
「終わってない」
ミナは振り返らずに答えた。
「じゃあ、どうなった?」
「明日も見る」
「また見るの?」
「うん」
「それ、終わってないじゃん」
「だから言ったでしょ」
トマが少し笑った。
ナナは水路の方をじっと見ている。怖がっている。でも、目をそらしてはいない。
ミナはスライムへ視線を戻した。
泥の中のかたまりは、また少しだけ動いた。緑の葉ではなく、水路の腐った草の方へ。
それが偶然なのか、選んだのか、まだ分からない。
分からないなら、もう少し見る。
畑のためにも、水路のためにも。
それから、あの乾いた魔物が村を害さないためにも。
ルシェラだけが、少しだけ笑っていた。
ミナはそれを見て、念のため言った。
「ルシェラ」
「なんだ」
「明日も、水路は壊さないでね」
「まだ壊しておらぬ」
「明日も」
「……小娘は信用というものを知らぬな」
「水路のためだからね」
「水路は弱い」
「そう」
水路の奥で、乾いたスライムが、ぬるい泥を抱えたまま動いた。
ほんの少し。
それでも確かに、畑の葉ではなく、腐った草の方へ。
ミナはそれを最後まで見てから、木札の根元に石を置いた。




