第6話 水の来ない畑
第1部:辺境領と教会編
第2章:○○○と詰まった水路
午後の水運びは、早々に限界が見えはじめていた。
水そのものは、村の井戸にも洗い場にもある。まったくないわけではない。けれど、畑の端まで運ぶとなると、話が変わる。桶は古い。縄も古い。道も、畑へ近づくほど土がやわらかくなる。
トマが桶を持ち上げた瞬間、底の板が、みし、と鳴った。
「……今の、聞こえたか」
「聞こえた」
ミナはすぐに桶の中を覗いた。
水は半分より少し下。朝に決めた通り、入れすぎてはいない。それでも、底の合わせ目から、細い水が一筋だけ染み出していた。
「それ以上入れないで」
「もう入れてない」
「歩く時も揺らさないで」
「また無茶を……」
「桶が弱いから」
「俺じゃなくて桶に言ってくれ」
「桶は返事しないでしょ」
「たまには俺にも優しくして」
トマは文句を言いながらも、桶を両手で抱えるように持ち直した。
畑の端では、ナナの母親と若い男が、別の桶で水を運んでいる。水をかける場所はあらかじめ決めてあった。全部の畝ではない。葉が垂れ始めている端の畝だけ。根元に少しずつ。土が流れないように、ゆっくり。
それでも足りない。
水は土に吸われ、運んだそばから消えていく。
「飲んでるみたいだな」
トマが言った。
「畑だからね」
「いや、そんなかわいい感じじゃない。底なしみたいに見える」
ミナはしゃがみ、根菜の葉をそっと持ち上げた。
朝より、少し重さがない。枯れてはいない。まだ、どうにかなる。けれど、昨日より葉先が下を向いている。土の表面は白っぽく乾き、指で押すと、ほろりと崩れた。
指を少し深く入れると、下はまだ湿っている。
まだ全部は死んでいない。
だから余計に急がないといけない。
「こっちは、もう一杯いる」
ミナが言うと、トマは桶を置いたまま空を見た。
「一杯で足りるか?」
「足りない」
「だよな」
「でも、今は一杯ずつ」
「一杯ずつで冬までいけたら楽なんだけどな」
「冬まで水運びはしないよ」
「しないよな?」
「したくない」
「そこは、しないって言い切ってくれ」
ミナは答えず、根元に水を流した。細い水は、土の小さなひびへ吸い込まれて消えていく。
畑の端には、村人が何人か立っていた。憂い顔の者もいる。必死な顔の者もいる。でも、みんな動きが少し鈍い。朝から薪を割っていた若者は肩を回しているし、屋根に上がっていた男は、梯子のそばで膝に手をついていた。保存食の作業に戻らなければならない女たちは、空のざるを気にしている。
水は必須だ。
でも、冬支度も残っている。
村の方からは、薪割りの音が聞こえていた。かん、かん、と続いていた音が、いつの間にか少し間遠くなっている。屋根を叩く槌の音も、さっきから止まっていた。
バルドはそれを聞いていた。水路の方ではなく、村の方を見ている。それから、畑の端の葉を見た。
「人を増やすか」
低い声だった。誰かに聞いているようで、半分は自分に言っているようでもある。
トマが桶を抱えたまま振り返る。
「水運びに?」
「水運びにも、水路にもじゃ」
「でも、屋根も薪もあるだろ」
「分かっとる」
バルドの声が少し荒くなる。すぐに、荒くなったことを自分で嫌がるように口を閉じた。
「水は急ぐ。だが、薪も屋根も止められん」
トマは村の方を見る。
「水路に人を出したら、冬支度が遅れるよなあ」
「遅れるだけならまだいい。雨が来れば屋根が漏る。薪が足りねば冬に凍える。保存食をしくじれば、腹が減る」
バルドは杖の先で土を押した。押された土は、ぱさりと崩れる。
「だが、水が来なければ畑が弱る。畑が弱れば、冬の食い物が減る」
誰もすぐには返事をしなかった。
水の問題も、冬支度の問題も、どちらも後回しにすると後で困る。困るものが多すぎると、何から困ればいいのか分からなくなる。
ミナは水路の方を見た。
朝に刺した木札がある。
その先。曲がり角の向こう。
まだ見ていない場所。
「全員は出さないでいい」
バルドがこちらを見る。
「水運びは交代。桶は半分まで。水路の端へ入るのは、足元に慣れてる人だけ。子どもと老人はだめ」
「それで足りるか」
「足りない」
トマが横で、少しだけ顔をしかめる。
「だから、奥を見る。水を運ぶだけじゃ、追いつかない」
バルドは長く息を吐いた。怒った息ではない。重いものを、胸の中で置き直すような息だった。
「……分かった」
「村長」
「分かったと言っただけじゃ。納得はしとらん」
「私も納得はしてない」
「なら同じじゃな」
「たぶん」
バルドは少しだけ眉を動かした。
「たぶんをつけるな」
トマが小さく笑いかけて、すぐ桶を持ち直した。水が揺れる。桶の縁から少しこぼれた。
「あ」
「こぼした」
「ちょっとだろ」
「大切な水」
「はいはい」
「はいは一回」
「今の、お前エル婆に似てたぞ」
「それは強そう」
「強いけどさ」
少しだけ空気がゆるんだ。
けれど、畑の土は乾いたままだった。
*
水運びは続いた。
桶を半分だけ満たし、畑の端まで運ぶ。根元に少し流す。戻る。もう一度汲む。何度も繰り返す。半分しか入れられない桶で、畑全体を潤すことはできない。
分かっていても、誰も手を止めなかった。
ナナの母親が、水を流し終えて腰を伸ばす。
「端の畝だけで、こんなにいるんだね」
「本当なら、水路がやってくれることだから」
ミナが言うと、女は苦笑した。
「水路に給金を出したいくらいだよ」
「ミナ姉、俺も運ぶ」
リオがいつの間にか近くに来ていた。両手には小さな木椀。水を入れるつもりらしい。
「だめ」
ミナは即答した。
「なんで」
「足元がぬかるんでる。水路も近い。転んだら泥だけじゃ済まない」
「木椀なら重くない」
「軽くても、落ちたら危ない」
「じゃあ、畑のこっち側だけ」
「水を運ばない手伝いならいいよ」
リオの目が少しだけ明るくなる。
「何したらいい?」
「空の桶を並べる。使った布を広げる。水路に近づこうとする子がいたら止める」
「それ、大人の仕事?」
「大事な仕事」
「本当に?」
「本当。リオが落ちないだけでも助かる」
「それ、手伝い?」
トマが横から言った。
「手伝いだぞ。俺も子どもの頃、よく『そこにいるな』って言われた」
「それ、邪魔ってことじゃん」
「だいたいそうだ」
「トマ兄、だめじゃん」
「今は役に立ってるだろ」
「桶、こぼしてた」
「見てたのかよ」
リオは少し笑い、木椀を抱えて離れた。水は運べないと分かったらしい。それでも、空の桶のそばに立って、妙に真剣な顔をしている。
ナナはその横で、使った布を石の上に広げていた。
危ないところへ行かせない。でも、何もできないと子ども扱いもしない。村では、そうやって手を余らせない。
手が足りないからだ。
昼を過ぎる頃、畑の端の土は少し濡れた。
少しだけだった。
水をまいた場所は色が濃くなったが、その隣はまだ白っぽい。葉先は上を向いてはいない。すぐには戻らない。けれど、根元だけは乾ききらずに済んだ。
「これ、毎日やるのは無理だな」
トマが言った。額に汗が浮いている。秋の入り口なのに、水運びをすると暑い。
「毎日は無理」
ミナも噴出した汗を拭う。
「今日も、これ以上は減らした方がいい。水運びに人を使いすぎると、他が止まる」
バルドはうなずきかけて、やめた。
「止めると言えば、畑の者が不安がる」
「言い方を変える」
「どう変える」
「午後は交代。水運びは端の畝だけ。残りは水路の奥を見る。水が戻れば、運ばなくて済むかもしれない」
「戻らなければ?」
ミナは少し黙った。
「また考える」
「軽いな」
「軽くないよ。今考える余裕がないだけだよ」
トマがぽつりと言った。
「それもそうだよな」
「何か言いたげ」
「そりゃあな」
「なに?」
「無茶しすぎの心配」
ミナは返事に困った。
心配されるのは嫌ではない。でも、心配だけしていても水はよくならない。
「行こう」
ミナは木札の方へ歩き出した。
トマが桶を置き、縄を肩にかける。バルドも杖をついた。ルシェラはいつの間にか水路のそばに立っていた。
午前の水運びでは、桶を持とうとしてミナに止められた。底の弱っている桶を握り潰しそうだったからだ。
本人は納得していない。
「小娘、わたしは水を運ぶことすら禁じられた」
「桶が弱いの」
「わたしではなく、桶がか」
「そう」
「ならば桶を強くすればよい」
「鉄も木も人手もいる」
「また足りぬのか」
「また足りない」
ルシェラは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「足りぬものばかりだな、この村は」
「うん」
ミナはそれを否定しなかった。
足りない。
それでも、ここで暮らしている。
*
水路の木札は、昨日より少し傾いていた。水が土をゆるめたのか、誰かが近づいた時に足を引っかけたのかもしれない。ミナは木札を立て直し、周りの土を手で押さえた。
「ここから先は、私とトマ。バルドさんは少し後ろで。ルシェラは石の上だけ」
「わたしへの扱いだけ細かいな」
「細かくしないと壊すから」
「壊さぬ」
「水路が壊れたら困る」
「……水路は弱い」
「そう」
トマが笑った。
「だいぶ覚えてきたな」
「若造、わたしを子どものように言うな」
「子どもは水路に入ろうとするからな」
リオが遠くで「入らない!」と叫んだ。聞いていたらしい。
ミナは笑いそうになったが、すぐ水路へ目を戻した。
木札の先は、朝よりぬるい匂いが強かった。腐った草の匂い。泥の匂い。水の匂い。そこへ、何か薄く甘いような、すえたような匂いが混じっている。
ミナは小枝で水面の草を押した。
草は浮いた。
でも、葉の端がぬるりと崩れた。
昨日より、崩れるのが早い。
「増えてる」
トマが低く言う。
「うん」
水路の縁には、細い筋があった。何かが這ったような、柔らかい跡。水が通っただけではない。泥の表面に、薄い膜が残っている。ところどころ、ぷるっと光る。
ミナは布を指に巻き、泥に触れる前で止めた。
触らない。
まだ触らない。
「ルシェラ」
「奥だ」
聞く前に、ルシェラが言った。
「奥に、弱ったような気配がある」
バルドの顔が険しくなる。
「何がじゃ」
「分からぬ。小さい。濁っている。水にしがみついているような気配だ」
「魔物か」
また、その言葉が出た。
近くにいた村人が息をのむ。ナナの母親が、手にしていた空桶を胸元へ抱え直した。
「まだ見てない」
ミナはすぐに言った。
「見てないものを、魔物だって決めない」
「だが、何かいるのなら」
バルドの声には焦りがある。無理もない。畑の水が来ない。村人は疲れている。奥に何かいるかもしれない。その何かが危ないなら、村長は村人を守らなければならない。
「いるなら、追い込まない方がいい」
ミナは水路の曲がり角を見た。
「狭いところにいるものを、こっちから棒でつついたら暴れるかもしれない。弱ってるならなおさら」
「弱っているものでも危ないぞ」
「うん。だから見てから」
「またそれか」
トマが言った。責める声ではない。もう聞き慣れた、少し困った声だった。
「またそれ」
ミナも返した。
ルシェラが水路の奥を見つめている。
「潰すだけなら簡単だ」
「潰さない」
「まだ何も言っておらぬ」
「顔が言ってた」
「顔とは不便だな」
「あと、潰したら水路も潰れそう」
「それは……まあ、あり得る」
「あり得るんだ」
トマがつぶやいた。
バルドが顔をしかめる。
「水路を壊すな。魔物より先に村が干上がる」
「わたしにだけ厳しい村だな」
「厳しくしてもふてぶてしいからじゃ」
「それは褒めて……はいないな?」
「注意じゃ」
ルシェラは不満そうだったが、足は動かさなかった。
その時、畑側の端でナナが声を上げた。
「ミナ姉、これ」
ミナは振り返った。
ナナは水路から離れた安全な場所にいる。手には、落ちた根菜の葉を一枚持っていた。
「そこから動かないで」
ミナが近づく。
ナナの手のひらにある葉は、畑の端に落ちていたものらしい。水運びの時に引っかけて落ちたのか、もともと弱って落ちたのかは分からない。
葉の端が、丸く溶けていた。
虫に食われた穴ではない。噛まれた跡でもない。薄く、ぬるりと透けるように欠けている。
「触った?」
「端だけ。ぬるってした」
「手、見せて」
ナナは素直に手を出した。
ミナは持っていた布で指先を拭く。赤くなってはいない。痛がってもいない。
「痛くない?」
「うん。でも変な感じ」
「この葉、どこにあった?」
「あっち。畝の端。くず葉をまとめてたところ」
ミナはその場所を見た。
畑の端に、傷んだ葉や折れた根菜の欠片をまとめて置いた小さな山がある。あとで畑の外へ出すか、腐らせて土へ戻すためのものだ。
その端だけ、少し形が崩れていた。
全部ではない。
一部だけ。
誰かが舐めたように、柔らかくなっている。
トマも近づいてきて、顔をしかめる。
「虫じゃないよな」
「虫なら、もっとかじった形になる」
「獣?」
「獣なら、くず葉だけで済まない」
「じゃあ、何だよ」
ミナは答えなかった。
答えられなかった。
ルシェラが少し離れたところから言う。
「水の気配が、そこにも薄く残っている」
「水?」
「何かが、水を探したようにも見える跡だ」
バルドの杖を握る手に力が入った。
「それは、やはり魔物ではないのか」
「かもしれない」
ミナは言った。
今度は、否定しなかった。
「でも、まだ分からない。分からないまま騒ぐと、子どもが近づく。棒でつつく人も出る。追い立てたら、水路の板を崩すかもしれない」
「なら、どうする」
バルドが聞く。
ミナは、くず葉の山と、水路の曲がり角を見比べた。どちらにも、ぬるい跡がある。奥の水はまだ見えない。草の陰で、水面だけが少し光っている。
「今日は、ここから奥へは入らない」
トマがすぐこちらを見た。
「行かないのか」
「行かない」
「行きたそうな顔してるぞ」
「してる」
「正直だな」
「でも、行かない。水運びでみんな疲れてる。道具も直してない。今入ったら、何かを追い詰めるかもしれない」
「明日か」
「うん。明日、奥を見る」
バルドは村の方を見た。
薪割りの音は、さっきよりさらに少ない。干し場の方で、誰かが薬草の棚を動かしているのが見える。雲が少し出てきた。雨ではないかもしれない。でも、薬草を濡らしたくない。
水運びだけで一日を使うわけにはいかない。
バルドは歯を噛むように口を閉じ、それからうなずいた。
「このあとは水運びを減らす。端の畝だけじゃ。薪と屋根に人を戻す」
「うん」
「水路の見張りは?」
「近づかないように木札を増やす。子どもは近づかない。大人も一人では見に行かない」
「分かった」
「あと、くず葉はそのままにしておいて。誰も触らないように」
「腐るぞ」
トマはくず葉を見つめていた視線をミナに移す。
「もう変に溶けてる。動かして広げる方が嫌」
「それは嫌だな」
「でしょ」
リオが遠くから声を出した。
「見張りなら俺できる!」
「遠くからなら」
ミナが返す。
「近づいたら?」
「怒る」
「誰が?」
「私とトマとバルドさんとエル婆」
リオは一瞬で口を閉じた。
ナナが小さく言う。
「エル婆はだめ」
「そこが一番怖いんだな」
トマが笑った。
笑いは少しだけだった。すぐ、みんな水路の奥へ目を戻す。
ミナは木札をもう一本取り出した。昨日刺した札の少し先、でも曲がり角の手前。そこへ、深く刺す。土がぬるく、少し入りすぎた。ミナは石を二つ拾い、札の根元に置いた。
「ここから先は、明日。足元を見てから」
「俺もいくよ」
トマの声が後ろかかかる。
「うん」
「俺は、子どもじゃないからな」
「分かってる」
「けど、危ないところは止めるよ」
「……そこは止めるのか」
「止める」
「じゃあ、止められないように気をつける」
「助かる」
バルドが杖をつき直した。
「わしもいく」
「バルドさんは、足元が悪いところはだめ」
「わしは村長じゃ」
「村長が落ちたら困る」
「俺も言われた」
「お前と一緒にするな」
「落ちる時は一緒だって」
「縁起でもないことを言うな」
ミナは少しだけ笑った。
ルシェラは、じっと水路の奥を見ている。いつものような軽口が、少し遅れて出た。
「弱いな」
「何が?」
「奥の気配だ。飢えているのか、弱っているのか。どちらにせよ、強くはない」
「危なくない?」
「弱いものほど、強く触れば壊れるか、跳ねる」
ルシェラの言い方は大げさではなかった。
珍しく、静かだった。
ミナは水路の曲がり角を見る。草の影が濃い。その下で、水面が一度だけ、ぷる、と揺れた。
風ではない。
小石でもない。
けれど、何かの姿が見えたわけではない。
トマが息を止めたのが分かった。バルドも動かない。
ミナは手を伸ばさなかった。棒でもつつかなかった。
「明日、奥を見る」
自分に言うように、ミナは言った。
それから、畑の端へ目を向ける。ナナが見つけたくず葉の山。その端が、ほんの少しだけ広がっている。溶けた跡が、朝より丸くなっていた。
水はまだよくない。
でも、水路の奥には、なにかある。
たぶん、放っておくのはよくないものだ。
ミナは木札をもう一度押し込み、手を離した。
追い詰めない。
でも、見ないままにもできない。
明日は、木札の先へ行く。




