第10話 折れた鍬と小さな足跡
第1部:辺境領と教会編
第3章:ゴブリンの子と壊れた農具
朝の水路は、まだ細い音を立てていた。
ちろ、ちろ、と、泥の縁をなでるように水が流れている。昨日よりはよいけれど、勢いが戻ったとは言えない。ミナは木札の根元を押し直し、水路の中を覗いた。ぷるは浅い泥の中に丸く沈んでいて、昨日より少し透明で、昨日より少しだけ重そうだった。
「ぷる、畑には行かないでね」
返事はない。
ただ、水に触れている端が、ゆっくり揺れた。反応したのか、水が動いただけなのかは分からない。それでいいと思った。水路の中にいる。畑側には出ていない。
今は、それだけで十分だ。
「水は来てるな」
トマが畑の端でしゃがみこむ。乾いていた土の色が、少し濃くなっている。けれど、手で触れば表面だけだと分かる。指の腹でこすると、すぐ下はまだ白っぽい。
「少しだけね」
ミナは水路の細い流れから目を離さなかった。
「端の根菜は、まだ弱い」
「でも、昨日よりはましだろ」
「うん。昨日よりは」
「それ、言い方が怖いんだよな」
「慎重に見ないと、あとで畑が困るよ」
「そういう意味じゃない」
トマは立ち上がり、肩にかけていた古い鋤を下ろした。柄の真ん中に、細い割れ目が入っている。昨日までは、まだ線だった。今朝見ると、その線が少し開いていた。
「これ、やっぱりまずいな」
「持ち方、気をつけて」
「分かってる」
トマは鋤を横にして持ち、畑の端の泥を少しだけ起こそうとした。
短く、みし、と鳴る。
「止めて」
トマの手は、その声より早く止まっていた。鋤の柄に入った割れ目が、指一本分ほど開いている。
「……今ので終わったかも」
「終わらせない」
「いや、終わりかけてる」
「終わりかけなら、まだ終わってない」
「ミナってたまに、ものに厳しいよな」
「人にも言ってるよ」
「よく知ってる」
トマは鋤をそっと地面に置いた。
その横で、バルドが畑の端へ杖をついた。朝からずっと眉間にしわが寄っている。水が来たことで少し浅くなるかと思ったが、今度は鋤を見て深くなった。
「昨日の板も、まだ仮止めじゃ」
「うん」
「鋤もこの通り。鍬も一本、柄が裂けておる。柵の杭も緩い」
「うん」
「水が来ても、道具が死んだら畑は動かん」
「死んではないよ」
「似たようなものじゃ」
「まだ直せるか見る」
バルドは鼻から息を吐いた。
「見るのはよい。だが、見るだけで柄は生えん」
「生えたら助かるけど」
「森の木でも生えるまで待つか」
「それは冬が先に来るね」
トマが鋤を拾い上げた。
「道具置き場に持っていくか」
「うん。ついでに昨日の足跡ももう一回見る」
ミナは畑の泥に立てた木札を見た。
昨日、小さな足跡の横に刺したものだ。朝露で土が少し崩れているが、足跡はまだ残っていた。鳥ではない。角兎でもない。小さく、細い。片方だけ、少し深い。
「踏むなよ」
バルドの杖が、足跡の手前で地面を軽く押さえた。
「見えておるものを潰すな。見えんものは、ミナに聞け」
「私も全部は分からないよ」
「お前が一番ましじゃ」
「それは、よくない褒め方だと思う」
「褒めてはおらん」
ミナは足跡の横にしゃがみ、泥の縁を見た。夜露で柔らかくなった土に、足の形が残っている。浅いものと、深いもの。深い方の後ろに、細く引きずったような線があった。
「昨日より、見えやすい?」
トマも足跡の横へ目を落とす。
「湿ったから、少し」
「何の足跡だ」
バルドの声は低い。
村人の一人が、顔をしかめた。
「ゴブリンじゃないのか」
その言葉で、周りの空気が少し固くなった。
ゴブリン。小さい魔物。臆病だが、道具を使う。群れる。追い詰めれば噛む。村の古い話では、畑を荒らし、鶏を盗み、罠を壊すものとして語られる。
ミナも、それを知らないわけではない。
「まだ決めない」
ミナは足跡から目を離さなかった。
「足跡を見てから」
「見たらゴブリンになるのか?」
不安そうな声が、村人の間から出た。
「見ても、まだ分からないことはあるよ」
「小さいなら子どもだろ」
「小さい。でも、安心って意味じゃない」
そこで、バルドが杖を一度だけ地面に押した。
「聞いたか。小さいから近づいてよい、ではない。子どもでも、魔物なら油断するな」
「魔物って決めてないよ」
バルドの顔が渋くなる。
「お前はすぐそう言う」
「まだ見てないから」
「見てからでは遅いこともある」
「だから、追いかけない。残ってるところだけ見る」
バルドはしばらく黙った。怒っているというより、考えている顔だった。
「森の奥までは行くな」
「行かない」
「一人で行くな」
「行かない」
「ルシェラを先に歩かせるな」
少し離れたところで、ルシェラが顔を上げた。
「なぜだ」
「足跡がだめになるから」
ミナとバルドの声が重なった。
ルシェラは不満そうに鼻を鳴らす。
「わたしの足跡は美しいぞ」
「美しくても邪魔」
「小娘、最近わたしへの扱いが軽くないか」
「最近じゃない、ここしばらくずっとだよ」
トマが笑いかけて、鋤の柄を見てやめた。
笑っている場合ではない。
*
道具置き場は、畑の脇の低い小屋だった。
屋根は斜めに傾き、壁板にはいくつも当て木がしてある。扉は閉まるが、下の方に少し隙間があった。風が吹くと、かた、と鳴る。中には、乾いた土と古い鉄の匂いがこもっていた。
鍬、鋤、鎌、斧、古い罠の金具。曲がった釘を入れた小箱。まだ使う木片。縄の切れ端。割れた桶の底板。
どれも捨てられない。
捨てるには、まだ早いものばかりだ。
ミナはトマから鋤を受け取り、壁に立てかけた。
「ここまで開いてるなら、縛るだけじゃだめだね」
「当て木をするか」
トマが木片の束を探る。
「合うやつがあれば」
「短いのしかないな」
「短いなら二枚合わせる?」
「釘がいる」
「長い釘は?」
トマが小箱を開けた。
曲がった釘が、いくつか転がっている。まっすぐなものは少ない。折れた釘の頭だけも入っている。
「……これ、釘って言っていいのか」
「言って。言わないと悲しくなる」
「悲しいのは釘か、俺たちか」
「両方」
バルドが小箱を覗き、指先で一本つまんだ。
「短い」
「水路板に使ったから」
「長いのは、もうないな」
「昨日の板、縄で仮止めしたところもある」
「そこも戻るかもしれん」
「うん」
「水路が少し戻れば、今度は板と鋤が足を引っぱる」
「足が多いね」
「笑うところではない」
「笑ってないよ」
ミナは曲がった釘を二本、指で転がした。一本は叩けば使える。一本は、たぶん無理だ。それでも、無理な方を捨てる手は止まる。
「これ、細い板の仮止めなら使えるかも」
「こんなになってまで働かせる気か」
トマが曲がった釘をのぞき込む。
「死んでない」
「村の道具、全員ぎりぎりで生きてるな」
「そうだよ」
ミナは真面目な顔のまま、釘を小箱の端へ分けた。
トマは少し困った顔をした。
「そこは笑うところじゃなかったか」
「笑ってもいいけど、釘は戻して」
「はい」
トマが釘を小箱へ戻そうとした時、扉の外でリオの声がした。
「ミナ姉!」
「木札よりこっちに来ないで」
ミナの声に、扉の外の足音がぴたりと止まった。
「木札ないよ!」
「じゃあ扉の前まで」
「扉の前!」
「大声は一回だけね」
「はい!」
トマが小さく指を二本立てる。
「大声、二回だったぞ」
「数えない」
ミナは扉を開けた。
リオが両手で何かを持っている。黒パンの端だった。固い皮の部分が少し欠けていて、歯でかじったようにも、石で削ったようにも見える。
「これ、干し場の下に落ちてた」
「食べたの?」
「食べてない!」
「よし」
「俺じゃないって!」
「だから、よし」
リオは少しむくれた。
その後ろで、ナナが小さな籠を抱えていた。中には、傷んだ根菜の端と、葉くずが入っている。
「家畜用の葉、少しなくなってた」
ナナは籠の中の葉くずへ目を落とした。
「母さんが、昨日より減ってるって」
ミナは籠を見た。
全部なくなったわけではない。荒らされたというほどでもない。でも、誰かが選んで持っていったように、端の方だけが抜けている。
「ぷるじゃないよな?」
リオの目が、水路の方へ動く。
「ぷるは水路から出てない」
「だよな。足ないし」
「あと、木札越えたらエル婆の薬草干し三日だから」
リオは一歩下がった。
「覚えてる」
「よし」
バルドが黒パンの端を受け取り、眉間にしわを寄せた。
「食い物を盗られたか」
「少しだけ」
ミナは黒パンの欠けた端を見た。
「少しでも、盗られたことには変わらん」
「うん」
そこは軽くしない。
ミストル村では、食べ物は余っていない。傷んだ根菜でも、葉くずでも、家畜の腹に入る。家畜の腹に入れば、乳や卵や糞になる。糞は畑へ戻る。黒パンの端だって、水でふやかせば食べられる。
「でも、派手に荒らしてない」
ミナは黒パンの欠け方を見たまま、指先で固い皮をなぞった。
「持てるだけ盗った、って感じかもしれない」
「庇うな」
バルドの声が少しきつくなった。
「庇ってない。見てる」
「同じに聞こえる時がある」
「違うよ」
「分かっておる」
バルドは、ため息をついた。
「分かっておるが、村長としては、食い物を盗られたことを軽くはできん」
「うん。だから、誰か見る」
「誰か、では済まんかもしれん」
「うん。一人かどうかも分からない」
リオの顔から、少しだけ好奇心が消えた。
「一人じゃないかもしれないの?」
「分からない」
ミナはリオを見る。
「だから、近づかない」
「分かってる」
「見つけても追わない」
「分かってる」
「棒でつつかない」
「それはぷるの時も言われた」
「今回も言う」
「はい」
ナナが、道具置き場の裏を指した。
「裏にも、土がついてた」
ミナはすぐに外へ出た。
道具置き場の裏は、畑と森の間にある細い通り道へ続いている。普段は大人もあまり通らない。壁の隙間から、古い柄や木片の匂いがする場所だ。
そこに、小さな足跡があった。
昨日、畑の泥にあったものと似ている。けれど、今度はもっとはっきりしていた。片方の足跡が深い。もう片方は浅く、後ろに細い擦れ跡が残っている。
「足、引きずってる?」
トマの声が低くなる。
「たぶん」
ミナはしゃがむ。
足跡は、道具置き場の裏で一度止まっている。そこから、扉の隙間へ近づいた跡。小箱を置いた壁の方へ寄った跡。それから、木片の束の前で少し乱れていた。
「食べ物だけじゃない」
ミナは扉の隙間から、木片の束の方へ視線を移した。
「道具を見てた」
「見てどうするんだよ」
トマも鍬の柄へ目をやる。
「分からない。でも、鍬の柄の方に寄ってる」
「盗むつもりか」
後ろにいた村人の声が、少し硬くなった。
「こんな割れた柄を?」
トマが思わず顔をしかめる。
「ゴブリンなら何でも持っていくって聞くぞ」
「まだゴブリンって決めない」
ミナは足跡の向きから目を離さなかった。
でも、今度は自分の声が少し硬いのが分かった。
道具置き場に近い。食べ物を少し盗った。足を引きずっている。そして、森側へ戻っている。ただの獣ではないかもしれない。けれど、だからといって、すぐ森へ踏み込むのはあぶない。
「夜に来たんだと思う」
ミナは足跡の向きを見た。
「ここ、朝露の上に土がついてる。でも、日が出てからの跡じゃない。夜か、明け方」
「誰も見てないな」
トマの視線が、道具置き場の裏から森の縁へ移った。
「うん。日が出る前には戻ってる」
「戻ったなら、もう森か」
「でも、遠くまでは行ってないかも」
「なんで分かる」
バルドの杖が、足跡の少し手前で止まる。
「足跡が浅くなってない。引きずった線も続いてる。急いでるけど、ちゃんと走れてない」
ミナは道具袋から木札を取り出した。
足跡の横に刺す。
「足跡が消える前に見る」
「今からか」
「今から。雨はないと思うけど、人が通ったら消える」
「森の奥までは行くな」
「行かない。境界まで」
「わしも行く」
バルドはもう杖を握り直していた。
ミナは首を振りかけて、やめた。
たぶん、言っても聞かない。
「杖で足跡を踏まないでね」
「分かっとる」
「本当に?」
「わしをリオ扱いするな」
後ろで、リオが小さくむくれた。
「俺は踏まないよ」
「リオはだめ」
ミナとトマの声が重なった。
リオは口を閉じた。ナナがその袖を引く。
「来ない方がいいよ」
「分かってるって」
分かっている顔ではなかった。
ミナはナナに目で頼んだ。ナナは真面目にうなずく。
「見張っとく」
「ありがとう」
「俺、見張られるの?」
「そう」
リオは不満そうだったが、木札の手前に座りこんだ。
ルシェラが、道具置き場の壁に寄りかかっていた。
「小さな気配だな」
「分かるの?」
「森の端に残っておる。弱い気配だ。腹も、空いているのかもしれぬ」
「そっか」
「潰すほどではない」
村人の何人かが、ほっとしたような、逆に不安になったような顔をした。
ミナはルシェラを見た。
「潰すかどうかで考えないで」
「では、どう考える」
「どこにいるか。何を取ったか。怪我してるか。ひとりかどうか。村へ戻ってくるか」
「面倒だな」
「森番だから」
ルシェラの口元が少しだけ上がった。
「ならば、わたしが先に森を――」
「だめ」
「まだ言い終えておらぬ」
「言い終わる前に足が出るから」
ルシェラは足元を見た。
確かに、足跡の近くへ一歩出かけていた。
「……これは地面が悪い」
「地面は悪くない」
トマが足元の土を見て、小さく首を振った。
「最近、ルシェラさんの言い訳が雑になってきたな」
「椀を洗うようになったから」
「関係あるのか?」
「たぶんない」
*
ミナは足跡を追って歩き始めた。
畑の端から、道具置き場の裏。そこから、低い柵のすき間へ。柵は壊されてはいない。でも、下の草が寝ている。小さなものが、身を低くして通ったのかもしれない。
「ここ、昨日は?」
トマの視線が、寝た草の上で止まる。
「見てない」
「全部は見られないよな」
「うん」
「責めてない」
「分かってる」
柵の向こうは、村と森の間の草地だった。朝の光が斜めに入り、露が細かく光っている。けれど、森の縁だけは暗い。黒枝の森は、昼でも奥が見えにくい。
足跡は草地を横切っていた。
小さい。浅い。ときどき、片方だけ深い。そのたびに、細い草が横に倒れている。
「やっぱり、足を引きずってる」
「怪我か」
バルドの声が硬くなる。
「怪我している魔物は危ない」
「うん」
「腹が減っている魔物も危ない」
「うん」
「小さくてもじゃ」
「分かってる」
バルドはそれ以上言わなかった。
ミナが分かっていることを、バルドも分かっている。それでも言わないといけない顔をしていた。村長だからだ。
草地の途中に、くず芋の皮が落ちていた。
小さく、湿っている。かじり跡がある。
「ここで食べた?」
トマがくず芋の皮を指す。
「少しだけ。急いでたのかも」
「急ぐなら、道具なんか見るか?」
「気になったのかも」
「何が」
「割れた柄とか、釘とか」
トマは眉を寄せた。
「食べ物より?」
「食べ物も見てる。道具も見てる」
「なんのために」
「まだ分からない」
「そればっかりだな」
「分かってないことが多いから」
「それもそうか」
ミナは、倒れた草の端を手で持ち上げた。土に、小さな指のような跡がついている。手をついたのかもしれない。転んだのかもしれない。逃げる途中で、痛い足をかばったのかもしれない。
ミナはそこに木札を立てた。
「増やすのか」
トマが新しい木札を見下ろす。
「帰り道で踏まないように」
「なるほど」
「あと、リオが来た時に怒る目印」
「来る前提なのか」
「来ないでほしい」
「そうだな」
「うん」
森の縁が近づいた。
黒枝の森の手前には、倒れた古い木がある。半分腐り、苔がつき、根元のところに草が茂っている。小さなものなら、その裏に隠れられる。
足跡は、その手前で薄くなっていた。
土が硬い。落ち葉が多い。そこから先は、目だけでは追いにくい。
ミナは足を止めた。
「ここまで」
「奥へ行かぬのか」
後ろに、いつの間にかルシェラがいた。
足跡は踏んでいない。たぶん。
「行かない」
ミナは森の縁を見た。
「足跡が残ってるところまで。奥へ追ったら、追い詰める」
「そこにおるぞ」
ルシェラの声だけが低く落ちた。
トマが弓に手をかける。バルドも杖を握り直す。
ミナは手を上げた。
「まだ」
森の縁は静かだった。
鳥の声も、虫の音もある。でも、倒木の陰の草が、ほんの少しだけ不自然に揺れていた。風とは違う。獣が走る音でもない。
何かが、息をひそめている。
小さく。
近く。
こちらを見ているのか、見ないようにしているのかも分からない。
「いるな」
トマの手が、弓の近くで止まる。
「うん」
「ゴブリンか」
バルドの杖を握る手に力が入った。
ミナはすぐには答えなかった。
倒木の陰。足を引きずった跡。食べ物を少し取った痕。道具置き場を覗いた痕。そして、森の奥まで戻れず、境界の近くで止まった気配。
「まだ、見えてない」
ミナは倒木の陰から目を離さなかった。
「でも、いる」
「どうする」
トマの声には、少し緊張が混じっていた。
ミナは道具袋の紐を確かめた。小刀。縄。布。薬草。それから、朝に見た鋤の割れ目を思い出した。
水が少し戻っても、道具がなければ畑は動かない。食べ物を取られれば、村は困る。でも、怪我をしたものを追い込めば、あぶないかもしれない。
「今は、ここまで」
ミナは道具袋の紐を握り直した。
「村に戻って、近づかないように言う。私は布と薬草を取ってくる。あと、少しだけ食べ物も」
「戻るのか」
バルドの目は、倒木の陰から動かなかった。
「見失うぞ」
「だから、見張りを残す」
ミナはルシェラを見た。
ルシェラは、少しだけ眉を上げた。
「わたしか」
「うん」
「小娘、わたしを見張りに使うとは、なかなか――」
「たいそうに言わない」
「まだ何も言っておらぬ」
「言いかけてる」
「顔か」
「顔」
ルシェラは口の端を上げたまま、倒木の陰へ目を戻した。
「よかろう。見ていればよいのだな」
「近づかない。脅さない。踏まない」
「三つもあるのか」
「ある」
「倒木ごと持ち上げるのは」
「だめ」
「息を吹きかけるのは」
「だめ」
「小娘、では何が許される」
「そこにいて、見てるだけ」
ルシェラは、いかにも不満そうに鼻を鳴らした。
「わたしを置物にする気か」
「ルシェラが動くとやっかい」
「なにも壊さぬ」
「不安」
トマが小さく息を吐いた。
「ルシェラさんが見てるなら、誰も近づかないだろうな」
「わしも残る」
バルドが一歩、倒木の方へ体を向ける。
ミナは首を振った。
「バルドさんは村に戻って。子どもたちと村の人に、ここへ来ないよう言わないと」
「トマに言わせればよい」
「村長が言った方が早い」
バルドは渋い顔をした。
けれど、言い返さなかった。それが村長の仕事だと、自分でも分かっている顔だった。
「……子どもでも、ゴブリンなら危ない」
「うん」
「怪我をしておるなら、なおさら危ない」
「うん」
「だが、今ここで大人が三人も四人も寄れば、暴れるかもしれん」
「うん」
「うんばかり言うな」
「今のは、うんで合ってたから」
トマの口元が少しだけ緩んだ。
すぐに顔を戻したけれど、張りつめていた空気がほんの少しだけ薄くなった。
ルシェラは倒木の陰を見たまま、楽しそうに目を細めている。
「小さきものが、食と道具に寄るか」
「ルシェラ」
「分かっておる。たいそうには言わぬ」
「ならいい」
「しかし、小娘」
「何?」
「鍬が先か、腹が先か、怪我が先か。忙しいな」
ミナは倒木の陰から目を離さなかった。
「畑も道具も、この子も、放っておくと村が困るから」
「それが忙しいと言うのだ」
「そうかも」
森の縁で、草がまた少しだけ揺れた。
ミナはそれ以上近づかなかった。
木札を一本、倒木から離れた場所に刺す。村側から見えるように。森側へ踏み込まないように。
「ここから先は、今は入らない」
トマがうなずく。バルドも、渋い顔のまま杖を引いた。
ルシェラは木札を見て、それから自分の足元を見た。
「わたしは、どこまで動いてよい」
「そこから動かない」
「厳しいな」
「見張りだから」
「見張りとは退屈な仕事だ」
「大事な仕事だよ」
ルシェラは少しだけ黙った。
それから、ふん、と短く息を吐く。
「ならば、飽きるまではやってやる」
「飽きてもやって」
「小娘」
「お願い」
ルシェラは、もう一度倒木の陰を見た。
「……戻るまでだ」
「うん。すぐ戻る」
水路の方から、かすかに水の音がした。
ちろ、ちろ、と、まだ細い音だ。畑の端には少し水が届いている。道具置き場では、折れかけた鋤が壁に立てかけられている。森の縁では、小さな何かが息をひそめている。
ミナは帰り道の足跡を踏まないように、一歩だけ横へずれた。
「布と薬草。あと、やわらかい食べ物を少し」
トマがこちらを見た。
「ゴブリンを手当てするのか?」
「わからない」
ミナは木札をもう一度見た。
「でも、持ってきて困るものじゃないから」
倒木の陰は、何も答えなかった。ただ、草の奥で、小さな息だけが一度、浅く震えた。
ルシェラがその前に立つ。
近づかず、踏まず、けれど誰よりも動かしがたい見張りとして。
ミナは道具袋の紐を結び直し、村の方へ急いだ。




