第11話 怪我をしたゴブリンの子
第1部:辺境領と教会編
第3章:ゴブリンの子と壊れた農具
ミナは、森番小屋へは戻らなかった。
村まで戻ると、炉のそばに置いていた小さな包みを取る。乾いた布。潰した薬草を入れた小袋。水を含ませるための小さな木椀。薄い麦粥を少し。柔らかく煮えた根菜の端。水でふやかした黒パンの欠片。
どれも多くはない。
多くできるほど、ミストル村には余裕がない。
「それ、持っていくのか」
扉の外で待っていたトマの手には、短い棒がある。武器というより、近づきすぎないための目印に近い。
「うん」
「村の分じゃないよな」
「私とルシェラの分」
「ルシェラさん、怒らないか」
「む、とは言うと思う」
「言うだけか?」
「たぶん」
ミナは椀の中身を布で包み、腰の縄を確かめた。小刀もある。でも、まず使わないで済むなら、その方がいい。
外へ出ると、村の方が少しざわついていた。リオが行きたそうにしているのを、ナナが袖をつかんで止めている。エル婆は少し離れた場所で腕を組んでいた。目だけが鋭い。
「ミナ」
エル婆が腕を組んだまま、あごで森側を示す。
「手を出すなら、噛まれない距離を先に作りな」
「うん」
「傷を見るのは、それからだ」
「分かってる」
「分かってる顔はしてる。けど、あんたはたまに思いっきりが良い」
「今日は慎重にいく」
「ならいい」
エル婆の視線が、ミナの持つ包みへ落ちた。
「足りなけりゃ呼びな」
「まだ呼ばない。近づけるかも分からないから」
「それもそうだ」
リオが一歩出かけた。
「俺、見に行きたい」
「だめ」
「何も触らない」
「だめ」
「遠くから」
「だめ」
三回言うと、リオは口を尖らせた。ナナがその袖を引く。
「行かない方がいいよ」
「分かってるって」
「分かってない顔してる」
「してない」
ミナは木札を一本、リオの前の地面に刺した。
「ここから森側へ来ないで」
「ここ?」
「ここ」
「村の中なのに?」
「今はここ」
リオは木札を見て、がっくり肩を落とした。
「木札、強いな」
「強くないよ。約束の目印」
「約束なら、もっと強い」
ナナはリオの袖をつかんだまま、真面目な顔で木札を見ていた。
ミナは少し笑った。
「じゃあ、ナナ、見てて」
「うん」
「リオが木札を越えたら?」
「エル婆に言う」
リオが本気で嫌そうな顔をした。
「それはやめよう」
「じゃあ越えない」
「はい」
村の端へ戻ると、バルドがすでに人を下げていた。畑側に二人。道具置き場の前に一人。森へ続く細い道には誰も入れていない。木札が、倒木から少し離れた場所に刺さっている。
その向こうに、ルシェラが立っていた。
本当に立っているだけだった。
めずらしい。
腕を組み、足も動かさず、倒木の陰を見ている。ただ、退屈そうな顔だけはしていた。
「戻ったか」
「うん。ありがとう」
「見張りとは、思ったより地味だな」
「地味でよかった」
「褒めておらぬ」
「私は褒めてる」
「ならよい」
ルシェラは少しだけ顎を動かした。
「まだ、そこにおる」
「動いた?」
「少し。逃げてはおらぬ」
「近づいた人は?」
「おらぬ。近づこうとした男は――」
バルドが咳払いをした。
「にらまれただけで戻った」
「それでいい」
ミナは倒木の陰を見た。
草が低く倒れている。その奥、腐った木の根元の隙間に、小さな影があった。最初は、丸まった獣のようにも見えた。けれど、耳が違う。
伏せた耳。
細い腕。
汚れた指。
膝を抱えるように丸めた体。
そして、こちらだけを見ている目。
黄色く濁ったような目が、草の間でぎらついていた。
トマが息をのんだ。
「……ゴブリン」
後ろから、小さな声が漏れた。すぐに、村人たちの空気が固くなる。
「やっぱりゴブリンじゃないか」
「子どもでも魔物だぞ」
「親が近くにいるんじゃないのか」
「昨日の食べ物を盗ったのも、あいつか」
声が重なりかける。
ミナは片手を上げた。大きく振らない。ただ、止めるだけ。
「近づかないで」
「ミナ」
トマの声が低くなる。
「近い」
「まだ近くない」
「お前の近くないは、俺にはじゅうぶん近い」
「じゃあ、ここで止まる」
ミナは木札の手前でしゃがんだ。立ったまま見下ろすより、少しだけ低くなる。ただし、手は伸ばさない。
子ゴブリンは、倒木の陰で体をさらに丸めた。痩せている。肋骨が見えそうなくらい細く、頬はこけ、腕には泥がついていた。片足を体の下に隠しているが、その足首のあたりの布切れが黒く汚れている。
血か、泥か。
遠目には分からない。
手には、短い木片を握っていた。もう片方の手には、曲がった釘。釘と言っても、武器には短い。それでも、握る子ゴブリンの指は白くなるほど力が入っている。
近づけば刺すつもりかもしれない。刺せるかどうかは別として、そうしないと怖いのだと思う。
「木片を持ってる」
トマの視線が、子ゴブリンの手元で止まる。
「釘も」
「噛むより先に、それが飛んでくるか?」
「分からない。だから手は出さない」
バルドが一歩前へ出た。杖の先で、地面を押さえる。
「ゴブリンか」
声は低い。
子ゴブリンの耳がびくりと動いた。歯を見せる。小さく、鋭い歯だった。
「子どもでも油断するな」
バルドの杖の先が、そこで止まる。
「分かってる」
「村に近づけるな」
「うん」
「食い物を盗ったなら、また来る」
「だから、今見てる」
「親や群れが近くにいるかもしれん」
「うん。だから騒がないで」
バルドは、口を閉じた。言いたいことはまだある顔だった。でも、子ゴブリンが歯を見せたまま震えているのも見ている。
「囲まないで」
ミナは振り返らず、後ろへ声をかけた。
「逃げ道がなくなる」
村人の一人がすぐに反応した。
「逃がすのか」
「逃げ道がないと、こっちに来るかもしれない」
「来たら叩けばいい」
「噛まれる」
トマが先に口を挟んだ。
「あと、誰かが転ぶ」
ミナも同じ方を見た。
「逃げる先を見る。追い詰めない」
「庇ってるのか」
「庇ってない。見てる」
バルドが小さく息を吐いた。その言葉を、前にも聞いた顔をした。
「全員、下がれ」
杖の先が、倒木の正面から畑側へ動く。
「畑側を空けるな。だが、倒木の正面には立つな。子どもは絶対に近づけるな」
「村長、追い払わないのか」
「今は追い詰めぬ」
「今は?」
「今はじゃ」
それで、村人たちは少しだけ下がった。完全には納得していない。怖い顔のまま。でも、下がった。
ルシェラは倒木の陰を見たまま、目を細める。
「弱いな。腹も、空いておるようだ」
ミナは包みを持ち直した。
「牙はある?」
「ある」
「噛む?」
「手を出せば、噛むかもしれぬ」
「じゃあ、出さない」
「そうしろ。怪我した獣ほど噛む」
「獣じゃないけど、同じだね」
ルシェラは少し笑った。
「群れの匂いは薄い。薄いが、ないとは言わぬ」
「分かった」
トマが顔をしかめた。
「親がいるかもしれないってことか」
「いないとは言えない」
ミナは倒木の陰から目を離さなかった。
「だから、ここで大声を出さない。森の奥へ入らない。村の子を近づけない」
「やることが増えたな」
「増えた」
「またか」
「また」
トマは短く息を吐いた。それでも、棒を低く構え直す。構えるというより、境目を作るように、地面へ斜めに置いた。
ミナは包みを開いた。
薄い麦粥の匂いが少しだけ立つ。黒パンを水でふやかした匂い。柔らかく煮えた根菜の匂い。
子ゴブリンの目が動いた。
木片を握る手は緩まない。でも、視線だけが、ミナの手元へ落ちた。
「ミナ」
バルドの声が、低く落ちる。
「村の備蓄を使うな」
「使ってない」
ミナは包みの端を少し開いた。
「私の分」
「む?」
ルシェラがすぐに反応した。
本当に、む、だった。
トマが少しだけ横を向いた。笑いそうになったのをこらえた顔だ。
「小娘」
ルシェラの目が、包みを見ている。
「それは、わたしの粥でもあるのではないか」
「少しだけ」
「少しとは、どのくらいだ」
「子どもが暴れないくらい」
「それは量の説明ではない」
「空腹で噛まれるよりいいでしょ」
ルシェラは黙った。理屈は分かる顔だった。腹は納得していない顔でもあった。
「……理屈は分かる」
「うん」
「腹は納得しておらぬ」
「あとで、きのこを足す」
「肉は」
「ない」
「むう」
そのやり取りを、子ゴブリンがじっと見ていた。言葉を分かっているかは分からない。でも、ミナが包みの中身を少し取り、ルシェラが不満そうにして、それでも止めないことは見えていたと思う。
ミナは粥を木椀へ少しだけ移した。黒パンの欠片をさらに小さく割る。根菜の端を指で潰して、噛まなくても飲み込めるくらいにする。
「手で渡すなよ」
トマの棒が、境目の上で少し動いた。
「渡さない」
「近づきすぎるなよ」
「ここから置く」
ミナは木札を越えないまま、腕だけを伸ばした。子ゴブリンが飛びかかってきても、トマが間に入れるくらいのぎりぎりの場所に木椀を置く。
子ゴブリンからは遠い。
けれど、見える。
匂いも届く。
そのまま、ミナは後ろへ下がった。
一歩。
もう一歩。
「食べ物を置く。近づかないよ」
ミナの手は、もう木椀から離れている。
「取ってもいい。でも、畑には行かないで。村の方へも」
子ゴブリンは動かない。歯を見せたまま、木片を握っている。目だけが、木椀とミナの間を行ったり来たりした。
長い沈黙だった。
村人の誰かが息を吸いかけた。バルドが手だけで止める。声を出すな、という合図だった。
子ゴブリンが、ゆっくり動いた。
片足を引きずっている。
やっぱり、足をかばっていた。
草の上に、細い擦れ跡が残る。木片は離さない。釘も離さない。体を低くしたまま、少しずつ、木椀へ近づく。
近づいて、止まる。
耳が伏せる。
また歯を見せる。
「こっち見ながら怒ってるぞ」
トマの声も、小さくなる。
「怖いから」
「怖いのはこっちもだ」
「うん」
子ゴブリンは木椀の縁に手を伸ばした。触る。すぐ引っこめる。また触る。今度は椀を引き寄せた。
中身を見て、匂いを嗅ぐ。
それから、ほんの少しだけ口をつけた。
食べた。
飲み込むまでが、早かった。次も早い。三口目で、むせた。
「ゆっくり」
思わず、ミナの声が出た。
子ゴブリンがびくっと体を縮め、木片を上げた。ミナはすぐに両手を止める。
「ごめん。近づかない」
子ゴブリンはしばらくこちらを見ていた。それからまた、椀へ顔を戻す。今度は、少し遅く食べた。
分かったのか、ただむせたのが嫌だったのかは分からない。
でも、食べている。
村人たちは黙っていた。怖いからでもある。たぶん、見てしまったからでもある。ゴブリンの子が、痩せた体で、木片を握ったまま、粥を食べているところを。
「……昨日盗ったのは、こいつか」
若い男が、倒木の陰を見たままつぶやいた。
「分からない」
ミナは子ゴブリンの手元を見ていた。
「でも、食べ物を探してたのはたぶんこの子」
「また盗るぞ」
「だから、今は暴れないようにする」
「食わせたら居つくんじゃないか」
「居つかせようとは思ってない」
「じゃあ、何してるんだ」
「距離を作ってる」
男は分からない顔をした。
ミナも、うまく言えたとは思っていない。でも、それが一番近かった。
助けると決めたわけではない。追い払うと決めたわけでもない。ただ今、倒木の陰から飛び出して噛んだり、村へ逃げ込んだり、森の奥へ傷の足で消えたりしないようにしている。
それだけだ。
「食べ物より、手元の方を見てるな」
トマの視線が、木椀から子ゴブリンの指へ移る。
子ゴブリンは、椀の中身を食べながら、ときどき道具置き場の方へ目を動かしていた。それから、自分の手の中の木片を見る。曲がった釘を見る。また、道具置き場の方を見る。
「食べ物だけじゃないかも」
ミナも同じ方を見た。
「道具を見てた?」
「なんのために」
トマが道具置き場へ目をやる。
「まだ分からない」
「出た」
「分からないものは、分からない」
「知ってる」
子ゴブリンは、椀の中身を半分ほど食べたところで止まった。全部は食べない。食べたいのに、警戒しているようにも見える。
片足を少し動かし、痛そうに顔を歪めた。
今度は、村人の何人かにも見えた。
「怪我してるのか」
村人の小さな声に、誰もすぐには動かなかった。
「たぶん」
ミナは子ゴブリンの足から目を離さない。
「近づくな」
バルドの声がすぐに飛ぶ。
「怪我してるなら、なおさら噛む」
「うん」
ミナは子ゴブリンの足を見た。
泥と血が混じっている。布切れは、ただ巻かれているだけに近い。傷を押さえているというより、引っかかって固まっている。
あれを今触れば、痛い。
痛ければ暴れる。
暴れれば、誰かが怪我をする。
「今は、ここで手は出さない」
ミナは薬草の包みを握ったまま、膝の上に置いた。
「傷を見るには、まだ怖い」
「じゃあ、どうする」
トマの棒が、地面に軽く触れる。
「エル婆を呼ぶ」
バルドが顔をしかめた。
「村へ入れるとは言っておらんぞ」
「入れない。エル婆にここまで来てもらう」
「危ない」
「だから、近づけるかどうかもエル婆に見てもらう」
「お前が全部決めるな」
「決めてない。相談する」
バルドはしばらく黙った。その間に、子ゴブリンがまた一口食べた。
木片は離さない。
曲がった釘も離さない。
「今日だけじゃ」
バルドの杖が、木札の横で止まった。
「村に入れるとは言っておらん」
「うん」
「見張りを置く」
「うん」
「子どもは絶対に近づけん」
「うん」
「食べ物も、村の備蓄からは出さん」
「うん」
「うんばかり言うな」
「全部そうだから」
トマが、少しだけ笑いそうになった。でも、子ゴブリンが木片を握っているのを見て、すぐに表情を戻す。
「ミナ」
「何?」
「お前の分、もうほとんどないぞ」
「あとで何か食べる」
「何かって何だよ」
「たぶん、薄い粥」
「今のも薄い粥だろ」
「もっと薄くなる」
ルシェラが、たいへん不満そうな顔をした。
「小娘」
「きのこ入れるから」
「肉は」
「ない」
「むう」
その、むう、を聞いて、子ゴブリンの耳が少しだけ動いた。怯えとは違う。驚きとも少し違う。
ミナを見る。ルシェラを見る。木椀を見る。そして、自分の手の中の釘を見た。
何を考えているのかは分からない。
でも、逃げなかった。
食べ終えても、倒木の陰へすぐ戻らなかった。木片と釘を握ったまま、低い姿勢でこちらを見ている。
バルドが木札をもう一本持ってきた。ミナに渡す。
「ここから先、村の者は入るな」
「うん」
ミナは倒木から少し離れた場所に、木札を刺した。近すぎない。遠すぎない。ゴブリンの子の逃げ道を塞がない位置。村人がうっかり踏み込まない位置。
「今は、暴れないようにするだけ」
ミナは木札の位置を確かめた。
「手当ては?」
トマが倒木の陰を見たまま聞く。
「まだ。エル婆を呼んでから」
「道具は?」
「今は触らせない」
「食べ物は?」
「少しだけ。手渡しはしない」
「多いな」
「多いね」
トマは頭をかいた。
「森番って、もっと森を見る仕事じゃなかったか」
「森の端を見てる」
「端にいろいろ来すぎだろ」
「本当にね」
水路の方から、ぷるが小さく水を動かす音がした。畑では、折れかけた鋤がまだ道具置き場の壁に立てかけられている。倒木の陰では、怪我をしたゴブリンの子が、木片と曲がった釘を握ったまま、こちらを見ている。
ミナは布と薬草の入った包みを抱え直した。
まだ、近づけない。
でも、目を離すには近すぎる。
「トマ、エル婆を呼んできて」
「俺が?」
「走れるでしょ」
「走れるけど」
「リオを連れてこないで」
「それが一番難しいかもな」
「ナナに頼んで」
「分かった」
トマは村の方へ走り出した。
バルドは木札の横に立つ。ルシェラは、相変わらず退屈そうに見張っている。子ゴブリンは、残った粥へもう一度目を落とした。
食べるか、逃げるか、噛むか。
まだ油断はできない。
ミナは手を伸ばさず、その場に座った。倒木の陰から、黄色い目がこちらを見る。ミナも、ただ見る。
急がない。
囲まない。
手を出さない。
まずは、暴れない距離を作る。
それだけで、もう十分に難しかった。




