第12話 薬草と小さな手
第1部:辺境領と教会編
第3章:ゴブリンの子と壊れた農具
トマが戻ってきた時、エル婆はもう文句をこぼしていた。
「まったく、朝から薬草と布を持って森の端まで歩かされるとはね」
「ごめん」
「謝るくらいなら、噛まれないでおくれ」
「それは気をつける」
「気をつける、で済めば薬師はいらないよ」
エル婆は肩にかけた古い布袋を揺らしながら、木札の手前で足を止めた。
現場には、子どもはいない。リオもナナも、村の中に下げられている。見に来たがる声は遠くで一度だけ聞こえたが、バルドの一声と、エル婆の名前で静かになった。
倒木のまわりにいるのは、大人だけだった。
ミナ。トマ。バルド。エル婆。ルシェラ。それから、必要な人数だけ残された村人が数人。みんな、木札の内側には入らない。
倒木の陰には、子ゴブリンがいた。
さっきより少しだけ、体を起こしている。けれど、丸まったままだ。片足はまだ隠していて、手には木片と曲がった釘を握っている。
木椀は空になっていた。子ゴブリンは、それを自分の近くへ引き寄せてもいない。食べ終えた後、少し離した場所に置いたままにしている。
また食べ物が出てくるかもしれないと思っているのか。
触ると叱られると思っているのか。
分からない。
ただ、ミナが戻ってきた時、黄色い目が少し長くこちらを見た。それから、すぐにルシェラを見る。
体が固まった。
耳が、ぺたりと伏せる。
木片を握る指が止まる。
「さっきより大人しいな」
村人の一人が、ほとんど息だけの声でこぼした。
ミナは、そうは思わなかった。
大人しいのではない。
動けないだけかもしれない。
「ルシェラ」
「なんだ」
「少し横向いて」
「なぜだ。見張れと言ったのは小娘だ」
「見張って。見つめないで」
「同じではないか」
「違う」
ルシェラは不満そうに鼻を鳴らしたが、少しだけ顔をずらした。
子ゴブリンの肩が、ほんの少し下がる。
「……本当に違うんだな」
トマの声も、自然と低くなっていた。
「たぶん」
「見られてるだけで、あれか」
「うん」
「ルシェラさん、怖すぎるだろ」
「わたしは何もしておらぬ」
「それが怖い時もある」
ミナの視線は、子ゴブリンの伏せた耳から離れなかった。
ルシェラは少し黙った。納得はしていない顔だった。けれど、倒木を正面から見ないようにはしてくれた。
エル婆はそのやり取りを見て、短く息を吐く。
「なるほどね。動かないのと、落ち着いてるのは違う」
「うん」
「で、やるのかい」
「やる」
「誰が」
「私がやる」
ミナは、布と薬草の包みを抱え直した。
「エル婆は、手順だけ教えて」
「手順だけ、ね」
エル婆は目を細めた。
「わたしは噛まれる距離には入らないよ。噛まれる距離に入るのは、あんたが決めたことだ」
「うん」
「薬草は少しだけだ。村の子にも、年寄りにも使うんだからね」
「分かってる」
「その顔なら、まあ大丈夫そうだ」
「今日は慎重にやる」
「なら、そのまま手をゆっくり動かしな」
バルドが杖をつき直した。
「薬草を使うのか」
「少しだけ」
「少しでも薬草じゃ」
「うん」
「手当てしたからといって、相容れるわけではないぞ」
「うん。わかってる」
バルドの眉間にしわが寄る。
「うんばかり言うな」
「全部そうだから」
トマが少しだけ笑いそうになり、すぐ子ゴブリンを見て表情を戻した。
子ゴブリンは、村人の声が重なるたび、歯を見せる。細い歯だ。でも、噛まれれば血は出る。怪我をして、空腹で、逃げ場が狭い相手なら、なおさら強く噛むかもしれない。
「近づく前に、見せな」
エル婆は布袋の口へ手を添えたまま、順番を示す。
「布。水。薬草。順番に」
「うん」
ミナは、まず空の手を見せた。
近づかない。
しゃがんだまま、木札の手前にいる。それから、薄い布を広げた。新しい布ではない。古い服から切った、薄くて細い布だ。洗って干してあるが、端は少しほつれている。
「布」
ミナの声は短く、低すぎない。
子ゴブリンは、布を見た。木片を握り直す。でも、歯は少しだけ引っ込んだ。
「次」
エル婆の声が横から落ちる。
ミナは木椀に水を少し入れた。
「水」
子ゴブリンの目が動く。
木椀。
ミナ。
倒木の陰。
ルシェラ。
ルシェラを見たところで、また固まる。
「ルシェラ」
「見ておらぬ」
「見てる」
「横目だ」
「横目でもだめ」
「面倒な小娘だな」
ルシェラは、今度は少し後ろを向いた。
「これでよいか」
「うん。ありがとう」
「礼を言われるほどのことではない」
「でも助かる」
ルシェラはまた黙った。
子ゴブリンの指が、少しだけ動く。
ミナは薬草の小袋を開いた。青臭く、少し苦い匂いがした。子ゴブリンが顔をしかめる。
「薬草」
ミナは小袋を見せる。
「痛いところに少しだけ使う」
言葉が分かるかは分からない。でも、声を急に上げないことには意味がある。同じ高さで、同じ早さで、同じ距離から言う。
エル婆が横から口を出した。
「足からいきなり触るんじゃないよ。痛いところから触れば暴れる」
「どこから?」
「まず泥。傷に触らず、周りを落とす。傷は見えるだけでいい。きれいにしようとしすぎるな」
「きれいにしすぎない」
「そう。手当てじゃないよ。悪くならないようにするだけだ」
「うん」
「押さえつけるんじゃない。逃げ道は残す」
「うん」
「噛まれそうなら?」
「下がる」
「よし」
トマが、ミナの横に立った。
近すぎない。でも、子ゴブリンが飛びかかってきたら、ミナの前に棒を出せる位置だ。
「俺はここ」
「うん」
「近いと思ったら言う」
「先に言って」
「言う」
ミナは木椀を取った。昨日、食べ物を置いた場所より、少しだけ近い。でも、倒木の陰には入らない。子ゴブリンが飛びかかってきても、トマが間に入れるくらいの場所。
ミナはそこへ水を置き、自分は一歩下がった。
「水。足の泥を少し落とす」
子ゴブリンは動かなかった。動けなかったのかもしれない。木片を握っている。釘も握っている。ただ、目は水を見ている。
ミナは布の端を水に浸し、指で絞った。
「近づくよ」
「ミナ」
トマの棒が、ほんの少し上がる。
「近い」
「まだ」
「俺には近い」
「じゃあ、ここまで」
ミナはそこから腕だけを伸ばした。
子ゴブリンの隠していた足が、ほんの少し見えた。足首の布切れは、泥と血で固まっている。古い草の繊維も絡んでいた。
思ったより悪い。
エル婆が、目だけでそれを見ていた。
「布切れは、今は剥がすな」
「うん」
「周りだけ」
「うん」
ミナは濡らした布で、足の横の泥に触れた。
傷には触らない。
泥だけを、少しずつ湿らせる。
子ゴブリンの体がびくりと震えた。歯を見せる。木片が上がる。トマが棒を半歩前に出した。
「下がるか?」
「まだ」
ミナは手を止めた。
動かさない。
布も置かない。
そのまま、子ゴブリンの息が落ち着くのを待つ。
ルシェラが、少しだけ振り向きかけた。子ゴブリンの肩が固まる。
「見すぎ」
「まだ見ておらぬ」
「見かけた」
「それもだめか」
「今はだめ」
ルシェラは、わざとらしく空を見た。
「空を見ておる」
「ありがとう」
「空は面白くない」
「少し我慢して」
「腹も納得しておらぬ」
「あとできのこ」
「肉は」
「ない」
「むう」
その、むう、で子ゴブリンの耳がぴくりと動いた。
怖がっているのに、耳だけが少し反応する。
ミナはそれを見て、声を落とした。
「続けるよ」
子ゴブリンは答えない。木片も釘も離さない。でも、木片を振り下ろしはしなかった。
ミナは、もう一度布を動かした。
泥が少し落ちる。黒く固まっていたところの下に、赤く腫れた皮膚が見えた。
深い傷ではない。
けれど、浅くもない。
土が入っている。このまま放っておけば、熱を持つかもしれない。
「悪いね」
エル婆の声に、同情は少ない。ただ、見慣れた怪我を見た時の響きだった。
「走れない足だ」
バルドの眉が寄る。
「それで食い物を盗りに来たのか」
「たぶん」
ミナは濡れた布を持ったまま、傷の周りを見ていた。
「たぶん、じゃ困る」
「うん」
「だが、あの足なら森の奥へ戻るのも難しい」
そこまで口にして、バルドは余計なことを言った顔になった。
ミナはうなずくだけにした。
「薬草」
エル婆が指先で量を示す。
「ほんの少しだ。多くしても治りが早くなるわけじゃない。逆に嫌がる」
「これくらい?」
ミナは指先に取った薬草を見せた。
「半分じゃ」
「半分」
「村の子にも使うんだからね」
「うん」
ミナは薬草をさらに減らした。
それを濡れた布の上に少しだけ乗せる。
「しみるかも」
言ってから、言葉が通じないかもしれないと思った。でも、言わないよりはいい。
ミナは傷の近くへ、薬草を当てた。
子ゴブリンが、短く息を吐いた。
声にならない音だった。
木片を握る手に力が入る。釘を握った指も、白くなる。トマが息を止めている。バルドも、村人も、誰も声を出さない。
ルシェラだけが、空を見たまま口を開いた。
「動かぬな」
「動けないだけかも」
ミナは手元を見たまま返す。
「わたしは何もしておらぬ」
「してないのに、そうなるの」
「不便だな」
「うん」
「わたしがか」
「少し」
ルシェラは、むっとした顔をした。でも、まだ空を見ていた。
薬草を当てると、子ゴブリンの足が小さく震えた。
ミナはすぐに手を引いた。
「ここまで」
「布」
エル婆が次を促す。
「巻くなら、下からじゃない。こっちから。傷に布の端が当たらないように」
「こう?」
「違う。もう少し斜め」
「こう?」
「そう。強く締めるな。歩けなくなる」
「歩けるように?」
「歩かせるためじゃない。腫れすぎないようにだ」
「うん」
ミナは薄い布を子ゴブリンの足へ回した。
片手では難しい。近づきすぎると危ない。遠いままだと巻けない。ミナが少しだけ体をずらすと、子ゴブリンの目が釘の先へ落ちた。
釘を持つ手が動く。
「ミナ、手」
トマの声より先に、棒の先が少し下がった。
「見てる」
ミナは止まった。
子ゴブリンも止まった。
また、ルシェラの気配を探すように目だけが動く。ルシェラは空を見ている。それを見て、子ゴブリンの釘を握る手が、ほんの少し下がった。
ミナはゆっくり布を回した。
その時だった。
子ゴブリンの空いている指が、布の端を押さえた。
逃げようとしたのではない。
払いのけようとしたのでもない。
巻きかけた布が戻らないように、端を押さえた。
ミナの手が止まる。
トマも気づいた。
「……今、押さえた?」
「うん」
エル婆の目が細くなる。
「そのまま。端を押さえてるなら、無理に外すんじゃないよ」
「うん」
子ゴブリンは、布の端を押さえたまま、ミナの指の動きを見ていた。見ているというより、少しでも痛くない場所を探しているようだった。指は震えている。それでも、巻きかけた布が戻らないように、端だけは離さなかった。
「今の、手伝ったのか?」
トマは布の端から目を離せない。
「分からない」
ミナも、布から目を離さなかった。
「でも、外さないでくれてる」
「それだけでも助かるな」
「うん」
ミナは布を一周させた。子ゴブリンの指が、また布の端を押さえる。今度はさっきより少し上手い。巻きやすい角度に、布を少し引いている。
ミナは、言いそうになった言葉を飲み込んだ。
上手いね。
そう言えば、子ゴブリンが驚くかもしれない。村人が反応するかもしれない。バルドが止めるかもしれない。
だから、言わない。
ただ、布を巻く。
「結ばないで、差し込む」
エル婆が布の端を見ながら指示する。
「結ぶと腫れた時に食い込む」
「差し込む」
「そう。布がずれるなら、あとで替える。今、きれいに仕上げようとするな」
「うん」
ミナは布の端を折り、ゆるく差し込んだ。
子ゴブリンは、それをじっと見ている。指が動く。差し込んだ布の端を、ほんの少し押した。外れないように。
ミナは手を引いた。
「終わり」
子ゴブリンは、まだ固まっていた。痛い足に触られた。薬草はしみた。けれど、叩かれてはいない。木片も、曲がった釘も、まだ手の中にある。
子ゴブリンは、布の巻かれた足を見た。
それから、ミナを見る。
歯は見せない。
逃げもしない。
ただ、どうしていいか分からないような目で、しばらく見ていた。
「ミナ」
トマが息を落とした。
「下がった方がいい」
「うん」
ミナは一歩下がった。
もう一歩。
子ゴブリンは追わなかった。逃げもしなかった。布の巻かれた足を気にしながら、木片と釘を握ったまま倒木の陰に残っている。
エル婆が肩を回した。
「最低限だね」
「足りない?」
「足りるわけないだろう」
「うん」
「けど、悪くなるのは少し遅くできる」
「うん」
「明日も見る。腫れたら布を替える。熱が出たら面倒だ」
「薬草は?」
「少しだけだよ。さっき使った分でも惜しいくらいだ」
「分かってる」
「分かってるなら、村の子にも同じ顔をしな」
「同じ顔?」
「怪我したら、まず落ち着けって顔だよ」
ミナは少し困った。
「してるつもり」
「つもりは当てにならないね」
エル婆はそう言いながら、子ゴブリンの手元を見た。
「……指は動くね」
「エル婆」
バルドの声がすぐに飛ぶ。
「分かってるよ。褒めてるんじゃない。傷の具合を見てるだけだ」
「それならよい」
子ゴブリンは、まだ木片と釘を握っている。武器というほど立派なものではない。けれど、今の子ゴブリンにとっては、手から離せないものらしい。
「まだ持ってるな」
トマの視線が、釘の先で止まる。
「うん。今取ろうとしたら、暴れるかもしれない」
「だよな」
「だから、今は取らない」
「今は、ばっかりだな」
「今日はそういう日」
ミナは、倒木から離れた場所にもう一本木札を刺した。
昨日より少し広く。
でも、森側への逃げ道は残す。
「ここから先は、大人でも近づかない。用がある時は、声をかけてから」
「返事するのか?」
村人の一人が木札の向こうを見たまま、眉をひそめる。
「しないかもしれない。でも、急に近づくよりはいい」
「ゴブリンに声をかけるのか」
「噛まれるよりはいい」
その言葉には、村人も返せなかった。
バルドが杖を握り直す。
「見張りを置く。子どもは近づけん。森側も見る。群れの気配があれば、すぐ知らせる」
「うん」
「ミナ、お前も一人では来るな」
「来ない」
「本当か」
「本当」
「トマ」
「見ときます」
「頼んだぞ」
「俺、最近それ多くないですか」
「多い方がよい」
「よくはないです」
エル婆が布袋を閉じた。
「次に布を替えるなら、水もいる。粥も少しは持ってきな。ただし、手から渡すんじゃないよ」
「うん」
「食べ物で懐柔するわけじゃない。落ち着く時間を稼ぐだけだ」
「分かってる」
「それから、布を外そうとするようなら止めな。あれで少しは悪くなるのを遅らせてる」
「うん」
「指は動く。痛みで力が入らないわけじゃない。だから、油断はしないこと」
「うん」
バルドが、倒木の陰を見た。
「道具には近づけるな」
「分かってる」
ミナは木札の位置を確かめる。
「今は手当てだけ」
「今は、な」
「うん」
子ゴブリンは、まだこちらを警戒している。けれど、逃げてはいない。布を外そうともしていない。釘も木片も離していない。
それだけで、今は十分だった。
水路は少し戻ったけれど、畑はまだ弱い。鋤も鍬も、釘も足りない。薬草も布も、余ってはいない。
それでも倒木の陰には、怪我をした子ゴブリンがいる。
そして、その小さな手は、さっき巻いた布の端をまだ押さえている。
「今日は、ここまで」
ミナは少しだけ声を通した。
「手当てはした。でも治ったわけじゃない。道具にも近づけない。木札はそのまま」
「うん」
トマがうなずく。
バルドも、しぶしぶうなずいた。
エル婆は何も言わず、布袋を肩にかけ直した。
ルシェラは、やっと倒木の陰をまっすぐ見た。子ゴブリンはまた固まった。
「ルシェラ」
「分かっておる」
ルシェラはすぐに目をそらした。
「見張りとは、案外むずかしいものだな」
「うん」
「うんばかり言うな」
「今日はみんな言うね」
「小娘のせいだ」
ミナは少しだけ笑った。
子ゴブリンは、それを見ていた。
笑った意味は分からないはずだ。でも、叩かれていない。釘を奪われていない。足には布が巻かれている。
それだけは、たぶん残る。
倒木の陰で、子ゴブリンの小さな指が、布の端をもう一度押さえた。
そのあと、遠くに立てかけられた折れた鍬の柄へ、一度だけ目が動いた。




