第13話 森番小屋の小さな場所
第1部:辺境領と教会編
第3章:ゴブリンの子と壊れた農具
数日のあいだ、ミナは毎日、森の端へ通った。
水を置く。少しの食べ物を置く。汚れた布だけ替える。薬草は、むやみに足さない。エル婆に言われた通り、傷が熱を持っていないか、布がきつくなっていないか、悪くなっていないかだけを見る。
子ゴブリンは、そのたびに歯を見せた。最初よりは短く。でも、見せた。
木片も、曲がった釘も、まだ手の近くに置いている。眠る時も抱えているのか、朝に見ると、倒木の陰の土に細い跡が残っていた。食べ物を置くと、まず食べる。水も飲む。それから、ミナを見る。
ルシェラがいる日は固まる。トマが近づくと、耳を伏せて歯を見せる。逃げはしない。けれど、近づいてもこない。
そういう距離が、何日か続いた。
足は、少しだけよくなったが、走れはしない。森の奥へ戻るには、まだ頼りない。しばらくすると、子ゴブリンは倒木の陰から、森番小屋の方へ移ってきていた。
村の方へは来ない。木札の内側へも入らない。森の奥へも消えない。
黒枝の森と森番小屋のあいだ、薪置き場の端のさらに外側。
そこが、子ゴブリンのいる場所になり始めていた。
「近づくよ」
ミナは、木札の手前でしゃがんだ。
子ゴブリンは、薪置き場の陰にいた。陰と言っても、薪の山の中ではなく、薪置き場の端から少し離れた、古い根っこのそばだ。そこなら、村側からは見えにくい。森へ逃げるにも、低い草の間を通れる。
子ゴブリンは、今日も身構えた。
でも、逃げなかった。
「水」
ミナは木椀を置いた。
子ゴブリンから見える。でも、飛びかかってきてもトマが間に入れるくらいの距離。
「食べ物」
今日は、煮崩れた豆を少しと、根菜の端だった。
子ゴブリンの目が、すぐそちらへ動く。子ゴブリンは、食べ物が最優先だと分かってきて、ミナは少し安心した。
「うん。食べていい」
子ゴブリンは動かない。ミナを見る。椀を見る。トマを見る。またミナを見る。目だけじろじろと動かした。
トマは、椀と子ゴブリンの間から目を離さなかった。
「逃げなくなったな」
「逃げないだけ」
「そうだな」
「近づいていいって意味じゃない」
「分かってる。俺も近づきたくはない」
子ゴブリンが、低い姿勢のまま木椀へ近づいた。右足を少しかばっている。布はまだ巻かれている。少し汚れているが、外してはいない。足を引きずる音は、前より軽かった。けれど、痛そうではある。
木椀の縁に手をかけ、まず水を飲み、それから豆を食べた。早い。でも、むせるほどではない。
ミナは「ゆっくり」と喉から出しかけて、やめた。
子ゴブリンは、食べ終えるとすぐに下がった。木椀は置いたままだ。持っていかない。木札の内側へも入らない。
「覚えたのか?」
トマの視線が、置いたままの木椀へ落ちる。
「分からない。でも、同じ場所は覚えてきたかも」
「同じ場所?」
「水を置く場所。食べ物を置く場所。私が止まる場所」
「ミナが止まる場所を覚えるのか」
「たぶん」
「怖いな、それ」
「便利でもあるよ」
「便利って言うな。ゴブリンだぞ」
「うん。だから木札」
ミナは木札を軽く叩いた。
子ゴブリンの耳が動く。木札の音は、もう何度も聞いている。止まる場所。入ってはいけない場所。食べ物が置かれる場所。まだ、それを言葉で分かっているとは思わない。
でも、何かの合図にはなり始めている。
「布、見るだけ」
ミナは、布の包みを見せた。
子ゴブリンは顔をしかめる。薬草の匂いは嫌いらしい。木片を握る。歯を少し見せる。
「今日は替えない。見るだけ」
言葉が全部通じるとは思っていない。だから、ミナは布を持ったまま近づかなかった。自分の足を指し、子ゴブリンの足を指し、布を指す。
子ゴブリンは、布の巻かれた足を見た。それから、ミナを見る。逃げない。でも、足を前には出さない。
「今日は大丈夫そう」
ミナは布をしまった。
「汚れてるけど、替えるほどじゃない」
「エル婆が見たら?」
トマの目が、汚れた布へ向く。
「替えるなって言うかも。薬草も足さないと思う」
「けちるな」
「けちるよ。村の子にも使うから」
「そうだった」
「忘れないで」
「忘れてない。ちょっと言っただけだ」
子ゴブリンは、二人の声を聞いていた。意味は分からないはずだ。それでも、私にはすぐには歯を見せなることはなくなった。
でも、トマが一歩動くと、歯を見せる。
ルシェラが小屋の戸口から顔を出すと、固まる。
そこは、まだ変わらない。
「また固まったぞ」
小屋の戸口で、ルシェラが子ゴブリンを覗き込んでいた。
「だから見ないで」
「わたしは何もしておらぬ」
「顔を出した」
「顔くらい出す」
「今はだめ」
「では、わたしは小屋の中で黙っておればよいのか」
「うん」
「小娘、最近わたしの扱いが雑だ」
「最近じゃないよな」
トマの口元が、少しだけ動いた。
ルシェラはトマを見る。トマの背筋が少し伸びた。
「何か言ったか」
「言ってません」
「言ったように聞こえた」
「風です」
「風にしては軽かったな」
「俺は軽くないです」
「そういう話ではない」
ミナは小さく笑いかけて、すぐ子ゴブリンを見た。
子ゴブリンは、ルシェラの方を見たまま固まっている。
「ルシェラ」
「分かっておる」
ルシェラは小屋の中へ引っ込んだ。
子ゴブリンの肩が、ほんの少しだけ下がる。
「本当に怖いんだな」
トマが木札の内側から、子ゴブリンの手元を見ている。
「うん」
「でも、ミナの声では逃げない」
「それも、まだ分からない」
「分からないばっかりだな」
「分かったと思って間違えるよりいいよ」
「それはそう」
食べ物を食べ終えた子ゴブリンは、森へ戻らなかった。薪置き場の外側を、少しずつ移動する。痛い足をかばいながら、古い根っこのそばへ戻る。
そこで、枯れ草を引っ張った。
一つ。二つ。
短い枝を拾う。薄い樹皮を、木片で引き寄せる。何をしているのか、最初は分からなかった。
「……寝る場所か?」
トマは根っこのくぼみをのぞき込む。
「寝床ってほどじゃないと思う」
ミナは目を細めた。
子ゴブリンは、枯れ草を根っこのくぼみに押し込んでいる。風が通る側には、薄い樹皮を立てかける。落ち葉は上に乗せない。横へ寄せている。森側へ抜ける道は空けてある。
村側から見ると、根っこの影と薪の端にまぎれて見えにくい。でも、子ゴブリンの方からは、森番小屋の戸口が見える。ミナが来る道も見える。
「隠れてる」
「うん」
「でも、こっちを見られる場所だな」
「うん」
「嫌だな」
「そうかも」
「なのに、近くに置いとくのか」
「村には入れてない。森にも戻れてない。ここなら見える」
「見えるのがいいのか悪いのか分からないな」
「私も」
子ゴブリンは、短い枝を一本、根っこの隙間へ差した。折れた枝の先を、別の枝の下へ滑り込ませる。枯れ草をその上から挟む。
うまい。
そう思って、ミナはすぐに言葉を飲み込んだ。判断にはまだ早い。たまたまかもしれない。
でも、手の動きは器用だった。布の端を押さえた時と、少し似ている。力任せではない。木片を持ち替え、枝の向きを変え、枯れ草を抜けにくい場所へ押し込んでいる。
「ミナ?」
トマが、ミナの顔をのぞき込む。
「何か気づいた顔してる」
「手」
「手?」
「動きが細かい」
「隠れ場所を作ってるってことか?」
「たぶん。でも、家じゃない。風をよけて、見えにくくして、逃げ道を残してる」
「ずいぶん考えてるな」
「考えてるのか、そういうものなのかは分からない」
「またそれか」
「またそれ」
子ゴブリンは、枯れ草をさらに引いた。
その時、古い縄の切れ端に手が届いた。薪置き場の端に落ちていたものだ。村側の木札の少し内側。
子ゴブリンが、痛い足をかばいながら、そちらへにじるように近づく。
ミナの声が、先に出た。
「だめ」
子ゴブリンが止まった。
トマも止まった。たぶん、呼吸も少し止めた。
子ゴブリンは、ミナを見る。縄を見る。木札を見る。もう一度、ミナを見る。
「……だめ?」
小さな声だった。声というより、喉の奥で擦れた音に近い。
でも、聞こえた。
トマが目を丸くした。
「今、しゃべったか?」
「分からない」
ミナは子ゴブリンから目を離さない。
「でも、止まった」
「だめ、って言ったぞ」
「まだ一回」
「一回でも、言ったぞ」
「うん。でも、まだ一回」
嬉しそうにしない。決めつけない。近づかない。
ミナは自分にそう言い聞かせた。
「そこから先は、だめ」
ミナは木札を指した。
「こっち、村側。だめ」
それから、木札の外側に落ちていた別の枯れた蔓を拾う。近づきすぎない場所へ置いた。
「こっちは、いい」
子ゴブリンは動かなかった。
「いい?」
ミナは自分の口を少しだけ押さえた。
しまった、と思うほどではない。でも、言葉を増やしすぎたかもしれない。
子ゴブリンは、蔓を見る。ミナを見る。木札を見る。そして、ゆっくり蔓の方へ手を伸ばした。
木札は越えない。
「止まったな」
トマが木札の内側から、子ゴブリンの手元を見ている。
「うん」
「お前、嬉しそうにするなよ」
「してない」
「ちょっとしてた」
「してない」
「してた」
「トマ」
「はい」
子ゴブリンは、蔓を引き寄せると、根っこの隙間へ通した。結ぶというほどではない。ただ、枝が戻らないように、くるりと回して挟む。
小さな指が、蔓の細いところを押さえる。
曲がった釘は、今は地面に置いている。使ってはいない。ただ、すぐ取れる場所にある。食べ物を食べる時も、蔓を扱う時も、そこは変わらない。
「手が器用そう」
ミナの声は、小さく落ちた。
「何か考えてるのか?」
トマの視線が、ミナの顔へ戻る。
「まだ分からない」
「言うと思った」
「試してみたいことができたかも」
「明日か?」
「明日。今日はここまで」
「何をする気だよ」
「見るだけ」
「ミナの見るだけは広がるからな」
「広げない」
「本当か?」
「私の責任でできることだけ」
「そこがもう怖い」
バルドが来たのは、その時だった。
村の方から、杖をついて、薪置き場の外側で止まる。子ゴブリンを見る。小さな隠れ場所を見る。木札を見る。そして、ミナを見る。
「小屋の近くまで来ておるのか」
「村には入ってない」
「近い」
「うん」
「道具には近づけるな」
「近づけてない」
「壊れた鍬でも村のものじゃ」
「うん」
「子ども一人でも、ゴブリンはゴブリンじゃ」
「うん」
「大人や群れが来たら、話は別じゃ」
「うん」
バルドは、いつものように「うんばかり言うな」と言いかけて、やめた。今日はもう、言っても同じだと思ったのかもしれない。
「で、何を見ておる」
「隠れ場所」
「寝床か」
「寝床ってほどじゃない。身を隠すところ」
「それを作らせるのか」
「作らせたんじゃない。勝手に作ってる」
「止めんのか」
「木札の外側なら、今は止めない。村側へ来たら止める」
バルドは、根っこの陰の子ゴブリンを見た。
子ゴブリンは、バルドを見るとすぐ歯を見せた。釘へ手を伸ばす。
「まだ危ない」
バルドの杖先が、木札の手前で止まっている。
「うん」
「それだけは忘れるな」
「忘れてない」
「ならよい」
横で、トマの肩が少しだけ揺れた。
「村長、最近よく『ならよい』って言いますね」
「ならよい時だけじゃ」
「それもそうですね」
「お前は軽い」
「最近よく言われます」
「軽くても、見張りはしろ」
「はい」
ミナは、子ゴブリンの作った小さな隠れ場所をもう一度見た。
枝は雑だ。枯れ草も多すぎる。風が強ければ崩れるかもしれない。雨が降れば濡れる。寝床とは呼べない。
でも、村側から見えにくい。森へ逃げる道は空いている。ミナが来る道は見える。木札の線も、ぎりぎり越えていない。
偶然かもしれない。
でも、手つきは覚えておく。
「明日、木片を持ってくる」
「壊れてもいいやつな」
トマが折れた柄の方へ目をやる。
「うん。折れた柄の、もう使えないところ」
バルドが目を細める。
「鍬はまだ触らせんぞ」
「分かってる。鍬じゃない。折れた端だけ」
「それでも村のものじゃ」
「私が見てるところだけ」
「ミナ」
「分かってる。勝手には触らせない」
「……本当じゃな」
「本当」
バルドは答えなかった。嫌そうな顔はしている。でも、止めるとは言わなかった。
子ゴブリンは、枯れ草の中に半分隠れたまま、こちらを見ていた。
ミナを見る。トマを見る。バルドを見る。最後に、木札を見る。
「だめ?」
今度は、声にはならなかった。口だけが、少し動いたように見えた。
ミナは、すぐには答えなかった。
そのかわり、木札を指す。
「そこから先は、だめ」
それから、子ゴブリンのいる根っこの陰を指した。
「そこは、今はいい」
子ゴブリンは、分かったのか、分からないのか。ただ、木札を越えなかった。
それで、今日は十分だった。
森番小屋の裏で、ルシェラがまた顔を出した。
「終わったか」
子ゴブリンが固まる。
「終わってない。見ないで」
「わたしの小屋でもあるのだが」
「居候だよ」
「小娘、そこは譲らぬか」
「譲らない」
トマの声が、小さく落ちた。
「そういう線は、絶対譲らないよな、ミナ」
「生活だから」
「そういうところだぞ」
「何が?」
「なんでもない」
子ゴブリンは、ミナの声を聞きながら、枯れ草の奥へ少しだけ沈んだ。
逃げたわけではない。隠れただけだ。木片を胸に抱え、曲がった釘を手元に置き、傷の足をかばう。そして、小さな指で、蔓の端をもう一度押し込んだ。
ミナはそれを見ていた。
明日、壊れてもいい木片を持ってくる。ただ見るだけ。
今日のところは、木札の外側に小さな隠れ場所ができた。
子ゴブリンは、村へ入っていない。
歯を見せる。ルシェラには固まる。それでも、ミナが「だめ」と言った場所では止まった。
そして、小さな手は、枯れ草と蔓を器用に扱っていた。




