第14話 直った鍬と残る怖さ
第1部:辺境領と教会編
第3章:ゴブリンの子と壊れた農具
翌朝、ミナは森番小屋の戸口で、持っていくものをひとつずつ並べた。木片、短く切った縄、曲がった釘を三本、折れた柄の端。どれも、もうまともな道具とは呼びにくいものばかりだった。
木片は、古い棚板の欠けたところ。縄は、何度も結び直されて毛羽立っている。曲がった釘はまっすぐにはならないが、捨てるにはまだ早い。折れた柄の端は、鍬だったものから外した、ひびの入った木だ。
「それ、全部持っていくのか」
トマが戸口の外からのぞきこんだ。
「うん」
「食べ物は?」
「先」
ミナは小さな包みを別にした。煮崩れた豆を少し。根菜の端。水でふやかした黒パンの欠片。
昨日、蔓を通した手つきは気になっている。けれど、ミナが包みを分けると、子ゴブリンの目は先に食べ物へ動いていた。
それでいい。
「鍬は?」
トマの目が、まだ空の道具袋へ動く。
「まだ」
「持ってきてないのか」
「最後。まず壊れてもいいものだけ」
「それで分かるのか?」
「分からない。だから見る」
「出た」
「見るだけ」
「ミナの見るだけは、それで終わらないよな」
「今日は広げない」
「本当か?」
「木札の線は越えないよ」
その言葉に、トマは少しだけ安心した顔をした。けれど、すぐに道具の包みを見る。
「釘は気をつけろよ」
「うん。武器にもなるから」
「分かってるならいい」
「だから三本だけ。短いの」
「それでも刺さる」
「うん」
ミナは釘を布に包み直し、腰の縄を確かめた。
森番小屋の裏では、ルシェラが腕を組んでいる。朝から退屈そうな顔だった。
「小娘」
「何?」
「わたしは見張りか」
「今日は小屋の中」
「なぜだ」
「子ゴブリンが固まるから」
「わたしは何もしておらぬ」
「顔を出すだけでだめ」
「顔もだめか」
「今日はだめ」
ルシェラは、たいへん不満そうに目を細めた。
「では、わたしは何をすればよい」
「鍋を見てて」
「見張りより地味ではないか」
「焦げたら困る」
「小娘、わたしの扱いがまた下がったぞ」
「鍋は大事」
「むう」
トマの肩が小さく揺れた。ミナはそれを見て、少しだけ肩の力を抜く。でも、道具の包みを持つ手はゆるめなかった。
森番小屋の外、木札の向こうに、子ゴブリンはいた。
昨日作った小さな隠れ場所は、夜の風で少し崩れている。枯れ草が片側に寄り、樹皮が一枚倒れていた。それでも、根っこの陰は残っている。子ゴブリンはそこに座り、傷の足をかばいながら、木片を手元に置いていた。曲がった釘は、近くの土に刺してある。
村には入っていない。
木札の内側にも来ていない。
ミナが近づくと、耳が伏せた。歯も見えた。でも、逃げなかった。
「近づくよ」
ミナは木札の手前でしゃがんだ。
「まず食べて」
木椀に水を入れる。その横に、煮崩れた豆と根菜の端を置く。子ゴブリンの目が、すぐ食べ物へ動いた。
よかった。
ミナは胸の奥で、小さく息を吐いた。
「食べてから」
子ゴブリンはしばらくミナを見る。トマを見る。小屋の戸口を見る。ルシェラが出てこないことを確かめるように、何度かそちらへ目を向けた。それから、低い姿勢で木椀へ近づいた。
右足はまだ少しかばっている。けれど、昨日より動きは軽い。水を飲み、豆を食べ、黒パンの欠片を両手で抱えるようにしてかじる。
早い。
でも、むせない。
水路の方を気にしていたトマが、声を落とした。
「よく食べるんだな」
「うん」
「それ聞いて、ちょっと安心するのも変だな」
「変じゃないよ。お腹が満たされれば、少しは凶暴じゃなくなるかも」
「凶暴じゃないゴブリンって何だよ」
「なんだろう。分かんない」
子ゴブリンは食べ終えると、木椀から少し離れた。
木札は越えない。
ミナは、そこで道具の包みを開いた。
「今は、見るだけだよ」
子ゴブリンの耳が動く。
「これ」
ミナは木片をひとつ持ち上げた。
「もう使えないところ。壊れてもいいところだけ」
言葉がどこまで通じているかは分からない。だから、ミナは木片を自分の手で軽く曲げて見せた。欠けているところ。ひびが入っているところ。それから、木札の外側、子ゴブリンに近すぎない場所へ置く。
子ゴブリンは、すぐには触らなかった。まず木片を見る。ミナを見る。トマを見る。また木片を見る。それから片手を伸ばし、木片をつかんだ。
匂いを嗅ぐ。
食べない。
かじりもしない。
指で、ひびをなぞった。
トマが息を止めたのが分かった。ミナも、声を出さなかった。
子ゴブリンは木片を裏返した。ひびの入った面を上にして地面に置き、近くにあった細い枝を拾って、その割れ目へ差し込む。
枝はすぐ外れた。
子ゴブリンはもう一度、向きを変えて差し込む。今度は少しだけ止まった。
「……入れた」
トマの声も、小さくなる。
「うん」
「それ、直してるのか?」
「まだ分からない」
「またそれか」
子ゴブリンは、枝を外した。今度は短い縄に目を向ける。
ミナはすぐ手を上げた。
「待って」
子ゴブリンが止まる。少しだけ歯を見せた。
「縄は、これだけ」
ミナは短く切った縄を一本だけ置いた。長い縄は出さない。からまると危ない。引っぱれば武器にもなる。
子ゴブリンは、縄を指でつまんだ。古い縄のほつれを見て、顔をしかめる。それから、木片と枝の上に、ぐるりと一回巻いた。
すぐ緩む。
もう一回。
今度は、ひびの少し下を通す。木片を押さえる指が、細かく動いた。力任せではない。逃げる枝を押さえ、縄をかける場所をずらし、ほどけやすい方を避けている。
「手、やっぱり器用だな」
トマの視線は、子ゴブリンの指先に釘づけになっていた。
ミナはうなずきかけて、やめた。子ゴブリンを見ていた。
子ゴブリンはまだ、ミナたちを警戒している。木片を直している、という顔ではない。ただ、ずれたものを見ると、手が動く。割れたものを噛み合わせる。緩むものを、緩みにくい場所へ回す。
そういう手だった。
「次、折れた柄の端」
ミナは布の包みに手を伸ばした。
トマが少し身を固くした。
「もう出すのか」
「端だけ」
「鍬じゃないな?」
「まだ鍬じゃない」
ミナは、折れた柄の端を見せた。古い鍬から外した、もう使わない部分だ。片側は割れ、片側には昔のくさび跡が残っている。
子ゴブリンの目が動いた。食べ物の時ほどではない。でも、木片の時より長く見た。
「これは、もう使えないところ」
ミナは割れ目を指した。
「見るだけ」
子ゴブリンが、喉の奥で小さく音を出した。言葉にはならなかった。でも、目は折れた柄の端から離れない。
子ゴブリンは、折れた柄の端へ手を伸ばした。ミナは釘の包みをまだ開けない。先に、木だけ。
子ゴブリンは柄の割れ目に指を入れた。強くは引かない。割れが広がる向きを見ている。それから、さっきの木片を持ってきて、割れ目の横へ当てた。
合わない。
子ゴブリンは木片を回す。角を合わせる。また外す。今度は、別の細い枝を差し込んだ。くさびの代わりのように。
「……なおす?」
擦れた声だった。
ミナの手が止まる。
トマも固まった。
子ゴブリンは柄を見ている。ミナを見ているのではない。言葉の意味を聞いたのか、ミナが何度か使った音を出しただけなのか。
分からない。
「直す、かもしれない」
ミナは声を急がせないようにした。
「でも、まだ鍬はだめ」
子ゴブリンは、柄の割れ目へ視線を戻した。
「うん。見るだけ。壊してもいいところだけ」
ミナは木札を指した。
「木札の内側はだめ」
子ゴブリンの目が、木札へ動く。
「だめ」
かすれた声が、子ゴブリンの喉から出た。
ミナは息を止めそうになった。でも、笑わない。近づかない。
「うん。だめ」
トマが横から声を落とす。
「お前、嬉しそうにするなよ」
「してない」
「してる」
「してない」
「顔」
「トマ」
「はい」
その時、森番小屋の戸口が少し開いた。
「進んでおるか」
ルシェラが顔を出した。
子ゴブリンが固まった。折れた柄の端を握ったまま、耳がぺたりと伏せる。
「ルシェラ」
「わたしは何もしておらぬ」
「見てる」
「少しだけだ」
「だめ」
「またそれか」
「またそれ」
ルシェラは不満そうに戸口から顔を引っ込めた。
「小さき手で、折れたものを留めるか」
中から声だけがする。
「食と役が結ばれ――」
「鍬の柄の話」
ミナは戸口の方を見ない。
「まだ鍬でもない」
「では、柄の端の話か」
「そう」
「ずいぶん狭いな」
「狭くていい」
トマが肩を震わせた。
子ゴブリンは、ルシェラが見えなくなると、少しずつ動きを戻した。
ミナは、ようやく釘の包みを開いた。
「釘」
子ゴブリンの目が、釘へ向く。曲がった釘。見慣れているのか、怖がりはしない。けれど、すぐには手を出さなかった。
ミナは一本だけ置く。先を子ゴブリンの方へ向けない。横に寝かせる。
「ゆっくり」
子ゴブリンは釘をつまんだ。先端を見る。曲がったところを見る。それから、折れた柄の割れ目へ当てた木片の横に、斜めに置いた。
釘を打つわけではない。
曲がりを利用して、木片がずれないように引っかけているように見えた。
「叩かないのかな」
トマが石の方へ目をやった。
「叩くものがない」
「石ならあるぞ」
「まだ」
ミナは止めた。
子ゴブリンは石を見た。でも、取らない。釘を少しずらす。縄をもう一回だけ巻く。くさび代わりの枝を、少し押し込む。
折れた柄の端は、不格好なまま、少しだけ動きにくくなった。
「……これ、本当に何かしてるな」
トマの声から、いつもの軽さが少し消えた。
疑いではなく、見てしまった声だった。
ミナも、同じものを見ていた。
直す。
まだ、そう言っていいかは分からない。でも、壊れたものの動きを止めようとしている。
その時、村の方からバルドが来た。後ろには、遠巻きの村人が二人いる。どちらも近づきすぎないようにしている。けれど、顔は硬い。
「本当にやっておるのか」
バルドは木札の手前で足を止めた。
子ゴブリンがすぐ歯を見せる。釘を手の近くへ引き寄せる。
「近づかないで」
ミナの手が、木札の線を示す。
「分かっておる」
バルドの渋い顔は変わらなかった。
「しかし、釘を持たせておるではないか」
「一本だけ」
「一本でも釘じゃ」
「うん」
「壊れた柄でも、村のものじゃ」
「うん」
「道具を勝手に触らせるな」
「勝手には触らせてない」
「……うんばかりではないな」
「そこは違ったから」
バルドは顔をしかめた。
村人の一人が、後ろで声をひそめた。
「本当に持たせるのか」
別の村人の目も、釘に向いていた。
「釘だぞ」
「ゴブリンだぞ」
どちらの声にも、怒りより不安があった。ミナはそれを無視しなかった。
「怖いなら、離れてていい」
「近くはないが……」
「もっと離れてもいい」
村人たちは少しだけ下がった。子ゴブリンの耳が動く。声の意味は分からなくても、人数が下がったことは分かったらしい。
歯はまだ見せている。
でも、釘を振り上げはしなかった。
「鍬はまだだめ」
ミナは自分にも言い聞かせるように、木札の線を見た。
「まず、この端だけ」
子ゴブリンは、折れた柄の端をいじっている。木片を当てる。縄を巻く。釘の曲がりを、止める場所へ使う。くさび代わりの枝を、ずれない場所へ押す。
その手は早くない。きれいでもない。何度も失敗している。縄は緩むし、木片はずれる。子ゴブリンは苛立ったように、小さく歯を鳴らした。
けれど、やめない。
食べ物はもうない。水も飲んだ。安全な場所は根っこの陰にある。その上で、手を動かしている。
「ミナ」
トマの声が低くなる。
「これ、鍬の方もいけるかもしれない」
「うん」
「やるのか」
「最後に少しだけ」
「本体だぞ」
「だから、トマが持って。木札の内側から子ゴブリンに届くように」
「俺が?」
「近づけすぎたら下がって」
「俺、最近そういう役ばっかりじゃないか」
「助かってる」
「それ言われると断りにくい」
バルドの顔が険しくなる。
「ミナ」
「村長、壊れたままでも困る」
「直るとは限らん」
「うん。だから、少しだけ」
「壊れたら?」
「私の責任で、柄の端を薪にする」
「薪にするには短すぎる」
「じゃあ、炉の焚き付け」
「そういう話ではない」
「分かってる」
バルドは深く息を吐いた。
「わしは認めたわけではない」
「うん」
「村に入れるとも言っておらん」
「うん」
「道具を勝手に触らせるな」
「うん」
「……見ているときだけじゃ」
「うん」
「うんばかり言うな」
「今のは、うんで合ってたから」
トマが取りに行った鍬は、ひどい状態だった。
鉄刃はまだ使える。でも、柄の付け根がぐらついている。くさびは痩せ、古い縄は水を吸って黒ずみ、曲がった釘が変な角度で残っている。村の端の畑で、何度もだましだまし使っていた鍬だ。
捨てるには早い。
でも、使うたびに折れそうになる。
そういう道具が、ミストル村には多い。
トマは鍬を両手で持ち、木札の手前で止まった。
「近いか?」
「まだ」
「俺には近い」
「じゃあ、そこ」
トマは膝をつき、鍬の柄の付け根だけを子ゴブリンの方へ見せた。
子ゴブリンは、まず下がった。歯を見せる。釘を握る。
ミナはすぐに手を止めた。
「まだ触らない」
トマも動かない。バルドも黙っている。村人たちも、息をひそめていた。
子ゴブリンは、しばらく鍬を見ていた。
食べ物ではない。水でもない。逃げ道でもない。でも、割れた柄と、ずれた木片と、緩んだ縄と、曲がった釘がそこにある。
子ゴブリンの目が、そこを順番に動く。
「……なおす?」
また、小さな声だった。
今度は、トマにも聞こえた。
村人にも聞こえた。
バルドにも聞こえた。
ミナは、すぐには答えなかった。嬉しがらない。決めつけない。
「直るか見る」
答えは、それだけにした。
「鍬は村のもの。勝手には触らない」
子ゴブリンは、ミナを見た。
「だめ?」
「木札の内側はだめ。鍬を持っていくのもだめ」
ミナは鍬の付け根を指した。
「ここだけ。見るだけ」
子ゴブリンは、ゆっくり手を伸ばした。鍬を奪おうとはしなかった。鉄刃にも触らない。柄の付け根に指を当て、ぐらつきを確かめるように、ほんの少し揺らした。
トマが思わず鍬を押さえる。
「こわ」
「動かさないで」
「いや、動いたんだよ」
「だから押さえて」
「押さえてる」
子ゴブリンは、古い縄を指で引いた。ぽろ、と泥が落ちる。縄はほとんど役に立っていなかった。
子ゴブリンは、その縄を外そうとした。
「全部はだめ」
ミナが手元を指す。
子ゴブリンが止まる。
「少しだけ」
ミナは、ゆるんだ部分だけを指した。
子ゴブリンは分かったのか、分からないのか。けれど、全部は外さなかった。ゆるいところだけをずらす。短い縄を、別の向きに巻く。鍬の付け根を締めるのではなく、ずれないように引っかける。
くさびの位置を、爪で押す。古い木片を、柄の割れ目の横へ当てる。曲がった釘を、まっすぐ打つのではなく、釘の曲がりで木片を押さえる向きに置く。
「これ、打たないと止まらないんじゃないか」
トマは鍬を押さえたまま、釘の位置を見た。
子ゴブリンは小さな石を見た。ミナも見た。
「少しだけ」
「大丈夫か?」
「トマ、手を離さないで」
「離したら折れる気がする」
「離さないで」
子ゴブリンは石を拾った。小さな石だ。釘を叩くというより、押し込む。
こつ。
小さな音。
こつ。
二度目。
三度目は、ミナが止めた。
「そこまで」
子ゴブリンは止まった。歯は見せない。でも、不満そうに釘を見る。
「そこまで」
ミナはもう一度、同じところを指した。
子ゴブリンは石を置いた。それから、短い縄の端を木片の下へ差し込んだ。指で押す。布の端を押さえた時と同じ、細かい動きだった。
不格好だった。
鍬は、見るからに古いままだ。柄の付け根には木片が増え、縄は妙な方向に巻かれ、曲がった釘が少し斜めに入っている。
でも、トマが手を離しても、すぐにはぐらつかなかった。
「……待て」
トマの手が、鍬の柄を握り直す。
「これ」
鍬を持ち上げる。軽く振る。前なら、付け根がかた、と鳴った。今は鳴らない。少しは動く。でも、前よりずっとましだった。
トマは地面の柔らかいところへ鍬を入れた。強くはしない。土を少しだけ起こす。
鍬の刃が入る。
柄は、折れない。
トマがもう一度、軽く土を返した。
「……使えるぞ」
遠巻きの村人から、声が漏れた。
「本当に?」
「ぐらついてない」
「直した……のか?」
喜ぶ声ではなかった。
困惑した声だった。
バルドは、鍬を見ていた。子ゴブリンを見る。木札を見る。ミナを見る。それから、もう一度鍬を見る。
「整ってはいない」
「うん」
「強く振れば折れるかもしれん」
「うん」
「……だが、前よりはましじゃ」
「うん」
「直ったのは、見た」
その一言で、村人たちの空気が少し変わった。
安心ではない。
受け入れでもない。
ただ、見たものをなかったことにはできなくなった空気だった。
鍬を持ったまま、トマが困ったように笑う。
「喜んでいいのか、怖がっていいのか分からないな」
「怖いままでいい」
ミナは子ゴブリンから目を離さなかった。
「でも、直ったのは本当」
子ゴブリンは、トマの持つ鍬を見ていた。それから、ミナを見る。食べ物をもらった時より、少し長く。でも、近づいてはこない。
ミナは木札を指した。
「直したら入っていい、じゃないよ」
子ゴブリンの耳が動く。
「木札の内側は、だめ」
「だめ」
子ゴブリンがかすれた声で返す。
「うん。だめ」
ミナは、子ゴブリンの足元を指した。
「そこ。今はそこ」
子ゴブリンは、木札を見た。鍬を見る。ミナを見る。それから、ゆっくりと自分の小さな隠れ場所へ戻った。
森番小屋の近く。
木札の外側。
根っこの陰。
まだ村ではない場所。
釘を一本、手元へ引き寄せる。木片を胸に抱える。歯は見せていない。けれど、完全に気を抜いてもいない。
バルドの低い声が落ちる。
「わしは認めたわけではない」
「うん」
「村に入れるとは言っておらん」
「うん」
「子ども一人でも、ゴブリンはゴブリンじゃ」
「うん」
「大人や群れが来たら話は別じゃ」
「うん」
「だが」
バルドは、トマの持つ鍬を見た。
「この鍬は、今日の畑で使う」
トマは鍬と自分の手を見比べた。
「俺が?」
「お前が持っておる」
「そうですけど」
「折れそうならすぐやめろ」
「はい」
「子どもには触らせるな」
「はい」
「村人にも、勝手に近づくなと言え」
「はい」
トマは三回返事をしてから、ミナを見た。
「なんか、俺の仕事が増えてないか」
「増えたね」
「他人事か」
「助かってる」
「またそれか」
森番小屋の戸口が、また少し開いた。ルシェラが今度は顔を半分だけ出している。
「終わったか」
子ゴブリンが固まる。
「見ないで」
「半分だけだ」
「半分でもだめ」
「小娘、わたしの顔の扱いが厳しい」
「今は鍬の方が大事」
「わたしより鍬か」
「鍬は畑で使える」
「わたしも使えるぞ」
「畑に出たら土がへこむ」
「失礼な」
トマの口から、ぼそっと漏れた。
「へこみそうではある」
ルシェラの目がトマへ向く。トマはすぐ鍬を持ち直した。
「畑行ってきます」
「逃げたな」
「仕事です」
ミナは少し笑った。
村人たちは、まだ子ゴブリンを見ている。怖い顔のまま。けれど、さっきより目が揺れている。
怖い。
でも、直した。
ゴブリンだ。
でも、鍬は使えるようになった。
その二つが、同じ場所に並んでしまった。
ミナは木札をもう一度確認した。倒れていない。線は残っている。
「今日は、ここまで」
ミナは木札の根元を押さえ直した。
「鍬は畑で試す。子ゴブリンは木札の外。村には入らない。道具も勝手には触らせない」
バルドの杖先が、地面を一度ついた。
「それでよい」
少し間を置いて、言い直す。
「今は、それでよい」
子ゴブリンは、小さな隠れ場所の奥で、こちらを見ていた。食べ物はもうない。水も飲んだ。手元には木片と釘がある。
遠くでは、トマが畑へ向かって鍬を持っていく。
子ゴブリンの目が、その鍬を追った。ほんの少しだけ。それから、ミナへ戻る。子ゴブリンの口が、ほんの少し動いた。
声にはならなかった。
ミナは近づかなかった。
「今日は終わり」
子ゴブリンは、答えなかった。
ただ、木札は越えなかった。
森番小屋の近くに、警戒するものがいる。でも、そのものが、壊れた鍬をもう少し使えるようにした。
ミナはそれを見た。
バルドも見た。
トマも、村人も見た。
だから、なかったことにはできない。できないまま、複雑な気持ちだけは残っている。
木札の外側で、子ゴブリンは木片を抱え直した。
そして、直った鍬が畑へ運ばれていく音を、じっと聞いていた。




