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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第15話 木札の外の名前

第1部:辺境領と教会編

第4章:魔狼の夜回り


 直った鍬は、今も畑で使われている。


 朝の畑で、トマがその鍬を持って土を起こしていた。柄の途中には縄が巻かれ、くさびのところには色の違う木片が噛ませてある。鉄刃は古いままだ。黒ずんで、端も少し欠けている。新品には、どう見ても見えない。


 それでも、前みたいに振るたびぐらつくことはなかった。


「強く振りすぎないで」


 ミナは畑の端で、鍬の柄へ目を細めた。


「分かってる」


 トマは鍬を土から抜き、柄を見る。


「分かってるけど、思ったよりちゃんとしてるな、これ」


「思ったより、でしょ」


「まあな。これで畑全部やれって言われたら折れる」


「言わないよ」


「ミナは言わなくても、畑が言うんだよ。土の固さで」


 それは少し分かる。雨が少ない日が続くと、畑の土はすぐ固くなる。水路が少し戻っても、全部の畝がやわらかくなるわけではない。根菜を掘るにも、豆の支柱を立てるにも、鍬はいる。


 鍬が一本、今日も使える。


 それだけで、朝の仕事の順番が少し変わる。


 村長のバルドは、畑の畦に立って腕を組んでいた。眉間のしわは相変わらず深い。


「無理はするな」


「はいはい」


 トマが返事をすると、バルドのしわが一つ増えた。


「はいは一回でよい」


「はい」


「軽く扱うな。古い鍬じゃ。直ったように見えても、折れる時は折れる」


「分かってますって」


「増えた」


 ミナの目が、バルドの眉間へ動いた。トマの手もそこで止まる。


「何が」


「村長のしわ」


「それは俺のせいじゃないだろ」


「半分くらい」


「多いな」


 畦の上で、咳払いが一つ落ちた。


「ミナ」


「うん」


「鍬は使える。そこは認める」


「うん」


「だが、あれを直したものを村へは入れん」


「うん。木札の外」


 返事が早すぎたのか、バルドは一度口を閉じた。言うつもりだったことを先に言われた顔だった。


「分かっておるならよい」


「分かってる。村の道具も、まだ触らせない」


「まだ、ではなく」


 バルドはそこで少し言葉を止め、畑の土に刺さった鍬を見た。その鍬は、確かに立っていた。


「……勝手には、だ」


「うん。勝手には、だめ」


 ミナはうなずいた。


 バルドは苦い顔をする。完全に認めたわけではない。それでも、鍬を畑で使っている。その二つは、今日も同じ畑にあった。


 ミナはそれを見てから、水路の方へ歩いた。


 水路には、朝の光が細く落ちている。春よりは水が少ない。けれど、前みたいに泥で止まりかけてはいない。水はゆっくり流れていた。石の間を抜け、細い草の根を揺らしながら、畑の端へ向かっていく。


 その途中で、ぷるがいた。


 水路の中で、丸い体を半分ほど沈めている。泥と腐った草を少しずつ取り込み、またぷるっと震える。


「おはよう」


 水路の中で、ぷるが小さく跳ねた。


 水がはねた。


 ミナの靴の先に、泥まじりのしずくがつく。


「こっちには跳ねない」


 ぷるは、もう一度ぷるっとした。分かっているのか、ただ揺れただけなのかは分からない。でも、畑側へは出ていない。


 ミナは道具袋から、くず野菜を少し取り出した。根菜の皮。固い葉の端。虫の食った豆のさや。食べられるところは村の鍋に入る。これは、鍋にも干し場にも向かない部分だ。


 それでも、多くはない。


 ミナは水路の縁、ぷるの届くところへ置いた。


「水路だけ」


 指で水路を示す。


「畑はだめ」


 畑の土を指す。


 ぷるが、くず葉の方へ伸びた。


「先に、こっち」


 枝の先が、泥の詰まったところを示す。


 ぷるは少し止まる。それから、ゆっくり泥の方へ戻った。


「うん。そこ」


 水路の泥が少し動く。腐った草が、ぷるの中に取り込まれていく。ぷるは食べているのか、掃除しているのか、どちらもしているのか、見ていてもよく分からない。


 けれど、水は流れる。


 村人はまだ近づきすぎない。子どもたちは、近づきたい顔をする。バルドは、まだ眉間に力を入れる。それでも、朝の水路にぷるがいることを、誰も大声で騒がなくなった。


 慣れた、というより、毎日見るものになったのだと思う。


 毎日見るものでも、危ないものは危ない。


 ミナは、くず野菜の量をもう一度見た。


「今日はこれだけ。畑に出たら、なし」


 ぷるは、ぷるっと震えた。


「うん、たぶん返事じゃないね」


 ミナはくず野菜の袋をしまい、立ち上がった。



 森番小屋へ戻る道の途中で、トマが追いついてきた。


 肩に鍬をかけていない。鍬は畑に置いてきたらしい。


「鍬、まだ折れてない?」


「折れてない。けど、俺の腕が先に折れそう」


「腕は替えがないから大事にして」


「鍬より扱いが軽くないか」


「腕は自分で休めるでしょ」


「鍬は休まないもんな」


「休ませてるよ。強く使わないようにって言った」


「鍬に優しいな」


「村の道具だからね」


 トマは少し笑ったあと、森番小屋の方を見た。笑いが、すぐ薄くなる。


「……今日は、あいついるか」


「いると思う」


「逃げてないのか」


「逃げてない。でも、入れてもない」


「それが不思議なんだよな」


「たぶん、食べ物があるから」


「まあ、分かりやすい理由だな」


「あと、水」


「もっと分かりやすい」


 森番小屋は、村と森の間にある。小屋の前には薪置き場があり、その先に古い木札が立っている。黒い線が二本、横に引かれた札だ。


 そこから内側は、森番小屋の仕事場。


 そこから外側は、森のものが近づく場所。


 はっきりした壁ではない。ただの木札だ。それでも、このところずっと、その木札は倒れずに立っていた。


 木札の外側に、小さな隠れ場所がある。倒木の陰と、古い布と、折れた枝を組んだだけのものだ。最初は雨を少し避けるくらいだったが、今は上に樹皮が差し込まれている。横には細い枝が二本、斜めに立てられていた。


 風が吹くと倒れそうだ。


 でも、前よりは隠れ場所に見える。


 その奥から、小さな目がこちらを見ていた。


 子ゴブリンだ。


 耳がぴくりと動く。


 ミナを見て、逃げない。トマを見て、体を少し低くする。歯は、少しだけ見せた。


「ほらな」


 トマの声も、小さくなる。


「俺、まだだめなやつだろ」


「だめじゃないよ。近いだけ」


「近くないぞ」


「キキには近いんだと思う」


「キキ?」


「……なんでもない」


「子ゴブリンに名前つけたのか?」


 ミナは、少しだけ目をそらした。


 子ゴブリンは、こちらを見ている。ミナはゆっくりしゃがみ、木札の内側で止まった。いつもの場所だ。


 それ以上は近づかない。


「水」


 木椀を置く。


「食べる」


 小さな黒パンの端と、煮た根菜を布の上に置く。


 子ゴブリンの鼻が動いた。ミナが手を引くより先に、子ゴブリンは一歩だけ出てきた。


 トマが少し動きかける。


 子ゴブリンの歯が見えた。


「トマ、止まって」


「止まってる」


「肩」


「あ、悪い」


 トマは肩にかけていた縄を下ろしかけて、そのまま止めた。たぶん無意識だった。


 子ゴブリンは、ミナを見る。それから、食べ物を取った。


 前より早い。


 ミナが下がりきるまで待たなくなっている。ただし、ミナの手には触れない。触れそうになると、自分から少し指を引いた。


「うん。食べていい」


 子ゴブリンは黒パンの端をかじった。小さく、早く食べる。途中で一度、水を飲む。


 それから、またミナを見る。


「キ、キ」


 小さな声だった。鳴き声にも聞こえた。自分を呼んだのか、食べ物を求めたのか、ただ喉が鳴ったのかは分からない。


 少し迷って、同じ音を返してみる。


「キキ?」


 子ゴブリンの耳が動いた。


「……キ、キ」


 今度は、胸のあたりに小さな指が触れた。木片を握ったままだったから、指先だけだった。


 トマが眉を寄せる。


「名前ってわかってるのかな」


「分からない」


「分からないのかよ」


「でも、呼ぶと振り向くから、今はそれでいい」


 今度は、もう少しゆっくり呼んだ。


「キキ」


 子ゴブリンは、黒パンを口に入れたまま顔を上げた。


 逃げない。歯も見せない。ただ、見た。


「うん。今はキキ」


「今はって、名前も仮なのか」


「違ったら、あとで直せばいいよ」


「名前って直すものか?」


「木札の紐も直すでしょ」


「一緒にするなよ」


 ミナは少し笑った。キキは笑った意味を分かっていない顔で、根菜を口に入れた。


 その時、水路の方から、ぷる、と小さな音がした。


 水が揺れた音だ。


 森番小屋の下を通る細い水路は、木札の外側からも少し見える。そこに、ぷるがいた。いつの間にか少し上流まで来ていたらしい。


 水路の中から、丸い体がぷるっと揺れる。


 キキの手が止まった。


 黒パンを持ったまま、ぷるを見る。


 ぷるも、たぶんキキの方を見ている。


 目はない。


 でも、そう見える。


 キキの指が、足元の細い木片へ伸びた。


「だめ」


 キキの指が止まる。木片に触れる手前だった。


「ぷるを突かない」


 ミナは水路を指した。


「ぷるは水路」


 次に、木札の外側を指す。


「キキは、ここ」


 畑の方を指す。


「畑はだめ」


 村の方を指す。


「村も、まだだめ」


 キキは、ミナの指を見ていた。全部分かった顔ではない。でも、「だめ」は分かったらしい。


 小さく、口が動く。


「……だめ?」


「うん。だめ」


「みず」


 キキが水路を見た。


「水は飲んでいい。でも、水路には入らない」


「……みず」


「木椀の水」


 ミナは椀を指した。


 キキは椀を見る。ぷるを見る。また椀を見る。


 それから、木片から手を離した。


 ぷるは水路の中で、ぷるっと揺れる。


「お前、よく止めたな」


 トマの声が低くなる。


「だめは、少し覚えたみたい」


「便利だな」


「便利って言うと、ちょっと違う」


「じゃあ、何だ」


「危なくなる前に止まれる言葉」


 トマは少し黙った。


「それは、便利より大事か」


「うん」



 キキは、ぷるを見ながら根菜を食べ終えた。


 水を飲む。


 そのあと、ミナの道具袋を見た。前から見ていた。ミナの手元。袋の留め具。木札の紐。腰の小刀。針を入れた小さな革包み。


 食べ物と水が先なのは変わらない。でも、食べ終わったあとに、道具を見る時間が少し長くなっている。


 ミナは道具袋の紐を見下ろした。


 昨日から、少し緩んでいる。留め木が古くなって、歩くたびに袋の口が少し開く。小刀や薬草は落ちないが、針の包みが上へずれる。


 村の共有道具ではない。


 ミナのものだ。


 壊れても、畑は困らない。少し困るのは、ミナだけだ。


「見る?」


 トマの目が、すぐこちらへ向いた。


「ミナ」


「私の道具袋」


「そういう問題か?」


「村の道具じゃない。畑の鍬でもない。壊れても、私が縫えばいい」


「縫えるのか」


「たぶん」


「私物なら……いいのかな」


「うん、今は私のだけ」


 ミナは道具袋を外し、木札の内側に置いた。まだキキの手が届かない位置だ。


 まず、自分で留め具を外す。小刀は抜いて、後ろへ置いた。針の包みも抜く。薬草の小袋も抜く。残したのは、革の袋と、緩んだ留め紐と、小さな木の留め具だけ。


「これは、私の」


 ミナは自分の胸を指した。


「村のじゃない」


 畑の方を指す。


「畑は困らない」


 キキは、袋を見ていた。手を伸ばしたいのが分かる。でも、木札は越えない。


 ミナは袋を、木札の外側へ半分だけ押し出した。


「ここだけ。私が見てる」


 キキは、すぐには触らなかった。ミナを見る。トマを見る。ぷるを見る。


 最後に、森番小屋の戸口を見た。


 ルシェラはいない。たぶん、小屋の中で鍋か何かを見ている。見ているといい。


 キキは、袋へ手を伸ばした。


 まず匂いを嗅ぐ。


 次に、留め紐を指で引いた。


 紐はほどけかけていた。ミナが自分で結ぶ時は、いつも同じ向きに引いてしまうから、片側だけが擦り切れている。


 キキは、木片を持っていない方の手で紐をつまんだ。細い指が、紐の通り道を探る。留め木を外す。付け直す。一度、逆に通して、すぐ戻す。


 食べる時とは違う顔だった。


 怖がっていないわけではない。トマが少し動くと、耳は伏せる。でも、手は止まらない。


 ミナは口を出さなかった。急いでほしいわけではない。直してほしいというより、どう触るかを見たい。


 キキは、紐の端を少しずらした。留め木の穴に、斜めではなく、まっすぐ通す。それから、袋の口を閉じて、留め木を横にした。


 落ちかけていた袋の口が、ぴたりと止まる。


 きれいではない。


 紐の端は少し曲がっている。


 でも、開かない。


「……直った?」


 トマの視線が、袋の口へ寄る。


 キキは袋を少し見てから、そっと木札の内側へ押し戻した。


 ミナは袋を持ち上げ、軽く揺らした。袋の口は開かない。もう少し強く揺らす。


 まだ開かない。


「落ちにくくなった」


「直ったって言わないのか」


「まだ分からない。歩いてみないと」


「慎重だな」


「道具袋の中身が森に落ちたら困るから」


「それは困るな」


 キキは、ミナの手元を見ていた。ミナが袋を揺らすたび、耳が少し動く。褒められるのを待っているようにも見える。


 でも、たぶん違う。


 袋が開くかどうかを見ている。


「キキ」


 名前に反応して、キキは顔を上げた。


「ここまで」


 ミナは袋を自分の方へ戻した。


「終わり」


 キキは、袋を追って少し手を伸ばしかけた。


「だめ」


 手が止まる。


「終わり」


 同じ言葉を、もう一度重ねる。


 キキの口が小さく動いた。けれど、声にはならなかった。


 それでも、手は戻った。


「うん。終わり」


 トマは大きく息を吐いた。


「俺、今すごい緊張してた」


「分かる」


「お前、分かってる顔じゃなかったぞ」


「私も緊張してたよ」


「そうか?」


「道具袋、けっこう大事だから」


「そこか」


「小刀も針も抜いたし」


「そういう問題だけじゃないんだよな……」


 トマが額を押さえた。


 その時、畑の方からバルドが歩いてきた。遠目にも分かるくらい、眉間が深い。


「ミナ」


「うん」


「今、何を触らせた」


「私の道具袋」


「村の道具ではないな」


「うん」


「刃物は」


「抜いた」


「針は」


「抜いた」


「薬草は」


「抜いた」


「紐だけか」


「留め木も」


 バルドは木札の外側を見た。キキは、隠れ場所の半分後ろに戻っている。歯は見せていない。けれど、耳は伏せていた。


 バルドが一歩近づくと、歯が少し見える。バルドは、それ以上近づかなかった。


「名をつけたと聞いた」


「つけたというか、拾った」


「拾った?」


「この子が、キキって」


「言ったのか」


「たぶん」


「たぶんで名になるのか」


 横で、トマが小さく口を挟む。


「俺も聞いた」


 バルドはトマを見る。


「お前が聞いたなら、余計に不安じゃ」


「なんでですか」


「お前はミナに引っ張られがちじゃ」


「俺、止めてる側です」


「止めきれておらん」


「それは……はい」


 トマは少し負けた顔をした。


 ミナは、キキを見た。


「キキ」


 キキは顔を上げた。


 バルドも見た。トマも見た。ぷるが水路で、ぷるっと揺れた。


 バルドは長く息を吐いた。


「名があっても、村には入れん」


「うん。木札の外」


「道具も、勝手には触らせん」


「うん。私が見てるところだけ。しかも、私のものだけ」


「子どもは近づけん」


「うん」


「ルシェラ殿は――」


 森番小屋の戸口が、かすかに動いた。


 ミナはそちらを見る。


 戸が少しだけ開いている。


「ルシェラ」


「……まだ何も言っておらぬ」


 戸口の奥から、声だけが返ってきた。


 キキが少し固まる。


「声は抑えて」


「小娘、わたしは鍋の見張りをしていただけだ」


「鍋は逃げないよ」


「焦げる」


「それは見て」


「わたしの役目が鍋以下に落ち着いておる」


 トマは戸口をちらりと見て、声を落とした。


「鍋は大事ですから」


「聞こえておるぞ」


「すみません」


 バルドは咳払いした。怒っているようで、少し疲れているようでもあった。


「名前で呼ぶことまでは止めん」


 ミナは顔を上げた。


 バルドは、すぐに次を重ねる。


「だが、呼べば村の者になるわけではない」


「うん」


「木札は、そのままじゃ」


「うん」


「水と食べ物も、村の備蓄から勝手には出すな」


「私とルシェラの分から。あと、くず野菜」


「ルシェラ殿の分から出して足りるのか」


 戸口の奥で、何かが動いた。


「足りぬ」


「足りる分だけ出す」


 その返事に、ルシェラのため息が聞こえた。


「わたしの肉がまた遠のく」


「昨日、干し肉つまんだでしょ」


「鼠の仕業だ」


「器用な鼠?」


「……最近の鼠はなかなかやりおる」


 トマが笑いをこらえた。


 キキは、笑い声に少し肩を動かした。でも、逃げなかった。



 夕方になると、森番小屋の影が長くなった。


 ミナは、水路の様子をもう一度見た。ぷるは水路の中にいる。くず野菜はもうない。泥のたまりは、朝より少し薄くなっていた。


「今日は終わり」


 ぷるが、ぷるっと揺れた。


「畑はだめ」


 ぷるは水路の中にいた。


「うん。そこ」


 次に、木札の外側へ行く。


 キキは隠れ場所の近くにいた。手元には木片がある。曲がった釘もある。でも、道具袋へ手を伸ばす様子はなかった。


「キキ」


 キキは振り向いた。


「今日は終わり」


 キキは、ミナの道具袋を見た。それから、自分の手元の木片を見る。


 でも、手は伸ばさなかった。


「うん。終わり」


 ミナは木椀を回収した。


 水を少し残している。全部飲める時もあれば、残す時もある。今日は残した。


 食べ物は残していない。


「明日は水、少し少なめでいいかな」


 口にしてから、ミナは首を横に振った。


「いや、暑かったら足りないか」


 キキは分からない顔で、ミナを見ていた。


「水は、いるよね」


「……みず」


「うん。水」


 ミナは椀を持ち上げた。


「洗って、また持ってくる」


 キキは椀を目で追った。


 奪いには来ない。


 ミナが持っていくものだと、少しずつ覚えている。


 その時だった。


 森の奥で、鳥の声が止まった。


 ぴたりと。


 最初は、風が変わったのかと思った。けれど、違う。枝が揺れていない。葉の擦れる音も、さっきまでと同じだ。


 止まったのは、声だけだった。


 水路の中で、ぷるが小さく震えた。いつものぷるぷるではない。水面が細かく揺れる。


 キキの耳が伏せた。木片を握る。それから、木札の内側へは入らないまま、ミナの近くへ半歩だけ寄った。


 半歩。


 それでも、今までより近い。


 ミナは動かなかった。急に触らない。急に下がらない。ただ、森を見る。


 小屋の戸が開いた。


 ルシェラが立っていた。


 今度は、キキを見ていない。まっすぐ黒枝の森を見ている。眠そうな顔ではなかった。


「ルシェラ」


 その小さな呼びかけに、ルシェラは目を細めた。


「獣が、獣を避けておる」


「どういうこと?」


「森の奥で、弱いものが息を潜めている。逃げるのではなく、動かぬようにしておる」


 トマが、畑の方から戻ってきたところで足を止めた。


「何かいるのか」


 ミナは答えなかった。


 まだ見ていない。


 見ていないものは、決めない。


 森の奥で、低い唸りがした。


 遠い。


 けれど、胸の奥に触るような音だった。


 キキが小さく喉を鳴らす。


 ぷるの水面が、また震える。


 黒枝の森の木々の間で、何かが光った。


 金色だった。


 一つ。


 それから、少し離れて、もう一つ。


 目だ。


 たぶん。


 瞬きをしたように消えた。


 トマが息を呑む。


 バルドの声が、畑の端から飛んだ。


「ミナ、下がれ!」


 ミナは下がらなかった。でも、進みもしなかった。木札の内側に立ったまま、森を見る。


「まだ、こっちへ来てない」


「来てからでは遅い!」


「うん。だから、見る」


 ルシェラが口の端を少し上げた。


「小娘」


「何」


「次は森の境を見ることになるな」


 ミナは、森と、水路と、キキの隠れ場所を順番に見た。


 ぷるは水路。


 キキは木札の外。


 畑はだめ。


 村の中も、まだだめ。


 その線の外側で、何かがこちらを見ていた。


「うん」


 ミナは小さくうなずいた。


「森の境を見る。あと、南の柵も」


「柵もかよ」


 トマの声が少し裏返った。


「柵が弱いと、獣が来た時に困るでしょ」


「今の見て、最初に柵か」


「柵も大事」


 遠くで、もう一度唸りがした。


 今度は、少し低い。


 森の奥の暗がりが、夕方より先に夜へ沈んでいく。


 ミナは木札を見た。


 倒れていない。


 線は、まだそこにある。


 けれど、その外側にある森の静けさは、昨日までと少し違っていた。


 見回り先が、一つ増えた。


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