第16話 森から降りる獣
第1部:辺境領と教会編
第4章:魔狼の夜回り
翌朝、南の畑の端が掘り返されていた。
根菜の畝が三つ、斜めに崩れている。土は黒く湿り、葉は根元から倒れていた。掘られた穴のまわりには、白い根の切れ端が散っている。
食べ尽くされたわけではない。
掘って、かじって、また別の匂いへ向かった。
そんな荒れ方だった。
「猪か?」
トマが畝の脇にしゃがみこんで、顔をしかめる。
「たぶん」
ミナは畝には入らず、端の固い土に膝をついた。
「でも、足跡が水路の方にもある」
「水路?」
「うん」
泥のへこみを、指先でそっとなぞる。
大きい。
角兎よりずっと大きい。鹿より丸く、爪の跡が深い。前足の跡は重く、後ろ足は少し横へずれている。
「熊?」
トマの声が少し低くなった。
「熊なら、もっと引きずった跡が出ると思う。ここは鼻で掘ってる。猪に近い」
「猪か……」
「猪でも危ないよ」
「分かってる。突っ込まれたら終わるやつだろ」
「うん。子どもなら飛ぶ」
「さらっと言うなよ」
ミナは返事をせず、畝の土をもう一度見た。葉の倒れ方。足跡の向き。水路へ続く泥。柵の外へ押し戻された草。
昨夜の金色の目を思い出す。
でも、これはたぶん違う。あんな気配を残すものが、根菜を掘ってかじるとは思えない。
「魔物じゃない」
ミナは畝の端に残った爪跡を見たまま、首を振る。
「たぶん、普通の獣」
トマの肩から、少しだけ力が抜けた。
「普通なら大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。普通の猪でも、畑は荒れるし、人も怪我する」
「だよな」
水路脇の泥にも、同じ足跡があった。
ぷるが掃除しているあたりより、少し下流だ。泥の上を重いものが踏んで、水が濁っている。水路の縁に生えていた草は、横に押し倒されていた。
その奥で、ぷるが水の中に沈んでいる。
いつもより丸くない。体を低くして、水路の壁にくっつくようにしていた。
「ぷる」
ミナが声をかけると、水面が小さく震えた。ぷる、とも言えないくらい、小さい揺れだった。
「ぷるは水路」
水路の中を指で示す。
「でも、怖いなら奥。今日は無理にここまで来なくていい」
ぷるは動かなかった。分かったのか、怖くて固まっているだけなのかは分からない。
ミナはくず野菜を少しだけ、水路の上流側に置いた。いつもの場所より奥だ。畑から遠い。ぷるが水路から出なくても届く。
「畑はだめ。外もだめ。奥ならいい」
ぷるは、ほんの少し揺れた。
トマが水路脇の泥を見て、眉を寄せる。
「水の匂いに寄ったのか」
「かも。水路が戻って、泥も草も動いたから」
「水が戻るのはいいことなのにな」
「いいことなんだけど、匂いは出る」
「嫌な言い方だな」
「獣には大事」
その時、畑の方から声が上がった。
「こっちも踏まれてるぞ!」
バルドの声だった。
ミナとトマは、水路から柵の方へ回った。
南の柵は、畑と草地の境にある低い柵だ。獣を完全に止めるものではない。村の内と外を示し、子どもや家畜が森側へ行きすぎないようにするためのものでもある。
その柵の外側が、押されていた。
杭が一本、斜めに傾いている。縄は切れていないが、かなり伸びていた。下の草は踏み倒され、土には蹄の跡がいくつも重なっている。
「一頭じゃない?」
トマが柵の外側をのぞき込む。
「たぶん、二頭か三頭。小さい跡もある」
「親子か」
「それなら、近づくともっと危ない」
村人たちが集まってきた。朝の仕事の途中だった者も多い。手に鍬を持ったままの者、桶を下げた者、割った薪を抱えたまま来た者もいる。
「猪か?」
「熊じゃないのか」
「家畜小屋は見たか」
「鶏が夜中に騒いでたぞ」
「畑を囲わないと」
「囲う縄がないだろ」
声が重なる。
バルドが杖で地面を一度突いた。
「騒ぐな。足跡を踏むな」
村人たちの足が止まった。何人かは、もう踏みそうになっていた。
ミナは柵の外側を見る。
森からまっすぐ来たのではない。水路の方へ寄り、畑の端へ回り、それから薪置き場の裏へ抜けている。
「薪置き場も見る」
「また増えたな」
トマの目が、畑から薪置き場へ動く。
「見つけたから」
「だよな」
薪置き場の裏は、森番小屋へ続く道の途中にある。草が倒れていた。
薪そのものは崩れていない。けれど、裏の古い枝置きが少し乱れ、湿った土に大きな足跡が残っている。
ミナは足跡の横に手を置いた。
自分の手よりずっと大きい。
「でかいな」
トマの声が落ちる。
「うん」
「猪って、こんなでかいか?」
「大きいのはいる。でも……」
ミナは足跡の向きを見た。
薪置き場へ寄ったあと、足跡は森へ戻っている。ただ、途中で乱れていた。何かに驚いたように、横へ跳ねた跡がある。
「逃げた?」
「何からだよ」
トマが森を見る。
森は朝なのに、少し静かだった。まったく音がないわけではない。鳥もいる。草も揺れる。けれど、いつもの朝より、遠くの音が薄い。
昨日の夕方と同じ静けさが、少しだけ残っている。
バルドの低い声が、村人たちの後ろから落ちた。
「夜の見張りを立てる」
村人たちが顔を見合わせた。
「立てるって、誰が立つんだ」
「畑もあるぞ」
「家畜小屋も見ないと」
「子どもを外に出せない」
「夜に猪が来たら、明かりだけで逃げるか?」
「熊なら逃げないぞ」
また声が重なる。
バルドの眉間が深くなった。
「分かっておる」
「でも、人が足りませんよ」
トマの声は軽くなかった。
村人たちは黙った。
人が足りない。
それは、今さら誰かに教えられることではない。
畑を起こす人がいる。水路を見る人がいる。薪を割る人がいる。家畜の世話をする人がいる。子どもと年寄りを見なければいけない家もある。
夜に立てば、朝の手が減る。
朝の手が減れば、畑が遅れる。
畑が遅れれば、冬が苦しくなる。
「武器もない」
年かさの村人が、腰の小刀に目を落とした。
「槍は?」
「古いのが二本。一本は穂先が曲がってる」
「弓は」
「ガルムのがある。あと、村の古弓が一本。でも弦が怪しい」
トマは自分の足元の鍬を見た。
昨日まで使っていた直った鍬ではない。別の古い鍬だ。
「鍬で熊を止めろって言われても無理だぞ」
「熊じゃなくても無理」
ミナは鍬の柄を見た。
「鍬は畑の道具。獣に向けて振ったら、折れる。折れたら畑も困る」
バルドも重くうなずく。
「農具は武器ではない。獣相手に前へ出るな」
「じゃあ、どうするんだ」
「鳴子を直す」
ミナは柵の端を見た。
小さな板と乾いた実を吊るした鳴子が、そこにあるはずだった。夜に獣が縄へ触れると、からからと鳴る。人を呼ぶためのものだ。
でも、今は片側の紐が切れて、板が地面に落ちていた。
風で落ちたのではない。踏まれたのか、引っかかったのか、板の端が割れている。
「鳴子も壊れてる」
トマが板を拾い上げた。
「こっちの木札の紐も切れかけてるな」
「うん。直す」
「今から?」
「今から」
ミナは鳴子と木札を受け取った。
「私が預かる」
「いや、いくらミナが……」
トマは言いかけて、森番小屋の方を見た。
木札の外側。
小さな隠れ場所。
そこにいるもののことを思い出した顔だった。
「まさか」
「危なくないものだけ」
「村の中へは?」
「入れない」
「罠は?」
「触らせない」
「鳴子だけ?」
「扱っても危なくないものだけ」
トマは額を押さえた。
「お前のその、線を引けばいいだろって顔が怖いんだよ」
「線は大事」
「分かるけど」
バルドが二人を見る。
「キキか」
ミナはうなずいた。
「木札の外で。私が見てるときだけ」
「村の道具ではある」
「うん。でも、鳴らないと困る」
「壊されても困る」
「だから、見てる」
バルドは鳴子を見た。落ちた板。切れかけた紐。割れた穴。それから、南の柵を見る。足跡を見る。
「……罠は触らせるな」
「うん」
「村へは入れるな」
「うん。木札の外」
「お前一人ではやるな。トマも行け」
「俺、止める側で行くんですよね」
「そうじゃ」
「止めきれないんですけど」
「努力しろ」
トマは小さくうなった。
*
森番小屋の近くへ戻ると、キキは隠れ場所の奥にいた。
昨日より、体を低くしている。耳が伏せていた。手元には木片と、曲がった釘がある。けれど、いつものように道具へ目を向ける余裕はあまりなさそうだった。
森の匂いが違うのだと思う。
足跡の主の匂いか。
それとも、その奥の金色の目の気配か。
ミナには、そこまでは分からない。
「キキ」
キキの耳が動いた。
顔を上げる。ミナを見て、少しだけ肩の力が抜けた。トマを見て、また少し固くなる。
「木札の外」
ミナは先に、線の内側を指した。
「村はだめ」
キキは木札を見た。
それから、ミナを見る。
「だめ」
「うん。だめ」
ミナは鳴子と紐を地面に置いた。木札の内側ではなく、外側へ半分だけ押し出す。昨日の道具袋と同じくらいの位置だ。
「これ」
キキが板を見た。
「鳴るもの」
ミナは板を軽く揺らした。
から、と弱い音がする。
もう一度揺らす。
今度は、片方の板がずれて、音が止まった。
「鳴るだけ。捕まえない」
ミナは指で輪を作って、すぐ開いた。
「罠はだめ。危ない」
キキの目が、少し変わった。
木片を握る指に力が入る。
「わな」
声は、かすれていた。
トマがミナを見る。
ミナはすぐには答えなかった。
「罠は、だめ」
もう一度、ゆっくり繰り返す。
「これは、鳴るだけ」
板を鳴らす。
から。
「捕まえない」
キキは板を見ていた。怖がっている。でも、目は離さない。
「怖いなら、やめていい」
その言葉に、キキはミナを見た。
それから、少しだけ首を振った。意味が分かったわけではないかもしれない。ただ、手を伸ばした。
まず、板を嗅ぐ。次に紐をつまむ。割れた穴を指で探る。昨日の道具袋の時より、動きが慎重だった。
怖いものに近いのだ。
鳴るもの。
吊るすもの。
紐。
森の中の何かを思い出すのかもしれない。
キキは、切れかけた紐の端を引いた。古い紐はすぐほつれる。キキは一度手を止め、ミナの方を見た。
「なおす?」
「うん。小さいところだけ」
「なお、す?」
「それ。穴が割れてる」
キキは板を返した。割れた穴の横に、細い枝を差し込む。枝を折る。もう少し細くする。
トマが息を止めた。
「器用だな」
「まだ途中だよ」
「見てるだけで分かるだろ」
「うん。でも、まだ鳴らない」
「そこか」
キキは、枝を板の穴に噛ませた。紐を通す向きを変える。一度、失敗する。
板が落ちる。
キキはびくっと肩を跳ねさせ、すぐ木片を握った。
「だめじゃない」
ミナの声は短かった。
「落ちただけ」
キキはミナを見る。
トマを見る。
森を見る。
それから、落ちた板を拾った。
もう一度、紐を通す。
今度は、落ちない。
ミナが少しだけ板を揺らす。
から、から。
小さな音がした。
キキの耳が動いた。
ぷるが、水路の中で遠くから小さく震える。
「鳴った」
トマが板を見下ろしたまま、息を吐いた。
「うん。鳴るだけ」
ミナはキキを見る。
「罠はだめ。これは鳴るだけ」
キキの耳が動いた。
板を見て、それからミナを見る。
キキは、板から手を離した。
ほっとしたようにも、まだ怖いようにも見えた。
「ここまで」
ミナが手を引くと、キキも手を戻した。
少し慣れてきている。
でも、木札は越えない。
村の中へは入らない。
「小さい修理屋みたいになってきたな」
トマの声は小さかった。
ミナはすぐに首を振った。
「まだ。今は鳴子だけ」
「言うと思った」
「言うよ」
「だよな」
*
直した鳴子を持って、ミナたちは南の柵へ戻った。
バルドは、村人たちに家畜小屋と畑の端を見回らせていた。子どもたちは外へ出ないよう、エル婆の家の近くに集められているらしい。
ルシェラは森番小屋の戸口に立っていた。
出てきてはいる。ただし、キキからは少し離れていた。
「小娘」
「何」
「焼けば早いぞ」
ミナは鳴子を柵へ結び続けた。
「畑ごと焼かないで」
「加減はできる」
「薪置き場も焼かないで」
「それは少し難しい」
「じゃあ、だめ」
トマの口から、ぽつりと漏れた。
「難しいんだ」
「ふむ、小僧で試してやろうか」
「ひぃ、冗談です」
「余計なことは言わぬがよい」
「相変わらず、おっかない」
ルシェラはふんと鼻を鳴らした。
けれど、森の方を見る目は笑っていなかった。
「獣が降りてきているな」
「うん」
「だが、腹を空かせただけではない」
ミナの手が、紐の結び目で止まる。
「分かる?」
「森の奥で、食う者と食われる者の位置がずれておる」
「位置?」
「弱きものが、いつもの道を使わぬ。強きものが、水場へ寄る。逃げるものが、逃げる道を曲げる」
トマが嫌そうな顔をした。
「それ、つまり何かいるってことだよな」
「何かはいる」
「言い切らないでほしい」
「いるものを、いないとは言わぬ」
ミナは鳴子の紐を結び終えた。
から、と鳴らしてみる。
弱いが、鳴る。
「森の境を見る」
「奥へ行くなよ」
トマがすぐ前に出る。
「奥へは行かない。境だけ」
「本当だな」
「本当」
「ミナの本当はわりと雑だからなあ」
「そんなことない」
バルドも近づいてきた。
「わしも行く」
「柵を見てて」
「村長を置いて行く気か」
「足跡を踏むから」
バルドは一瞬黙った。
トマが口元を押さえる。
「笑うな」
「笑ってません」
「笑っておる」
「ちょっとだけです」
ミナは鳴子の位置をもう一度確かめ、森の縁へ向かった。
トマがついてくる。
ルシェラも、少し離れて歩いた。
南の柵の外から、黒枝の森へ入る手前に、細い獣道がある。
いつもなら鹿や角兎が通る道だ。土が少し沈み、草が左右へ分かれている。けれど、今日はそこに大きな足跡が重なっていた。
猪のもの。
小さいものが二つ。
さらに、その上を避けるように、別の跡がある。
「これは?」
トマがしゃがんだ。
「踏んでない」
ミナは別の跡の端を指す。
「大きい跡を避けてる。こっちから来て、ここで止まってる」
「鹿か?」
「たぶん。止まって、戻ってる」
「何で」
「怖かったんだと思う」
「猪が?」
「猪だけなら、横を抜けるかも」
ミナは森の奥を見た。
朝なのに、黒枝の森の奥は暗い。
まだ踏み込まない。
足元を見る。
草を見る。
枝を見る。
すると、獣道から少し外れた枯れ草の下に、赤茶びたものが見えた。
「待って」
ミナはしゃがみ、枝で枯れ草をどけた。
朽ちた金具だった。丸く曲がった輪の一部と、折れた留め具。近くに、切れた縄が埋もれている。杭らしい木片も、半分土に沈んでいた。
「罠か?」
トマの声が落ちる。
「古い」
ミナは金具に触れなかった。枝で少しだけ動かす。
土がついている。錆びも深い。最近置かれたものではなさそうだ。
ルシェラが鼻を鳴らした。
「人の匂いは薄い。古いな」
「村の罠か?」
トマの目がミナへ向く。
ミナは首を横に振る。
「分からない」
ちょうどその時、後ろからバルドが来た。
「足跡を踏まないように来た」
少し不満そうだった。
ミナは金具を指す。
「これ」
バルドの顔が険しくなった。
「古いな」
「村の?」
「今の村では使っておらん。少なくとも、わしが村長になってからは、こういう置き方はしておらん」
「昔は?」
「森番が許可した獣道の罠なら、木札をつける。これは、ない」
ミナは土に沈んだ杭を見た。
木札の欠片らしきものはある。けれど、印はほとんど消えている。村のものか、誰かが真似たものか、それすら分からない。
キキの足を思い出した。
あの時の傷。
擦れて、裂けて、泥が入り込んでいた。
こういう金具に引っかかれば、似た傷になるかもしれない。
「これで傷ついたのかも」
ミナの声は小さかった。
「キキか」
「分からない。でも、見つけたら外す」
「触るな」
バルドの杖が、金具の手前で止まる。
「むやみに触るでない」
ミナはうなずいた。
「道具を持ってくる。素手では触らない」
「よし」
「場所だけ覚える」
「それもよし」
トマが少し笑った。
「今日は村長の許可が早いな」
「危ないものを素手で触らんと言ったからじゃ」
「そこなんですね」
「そこじゃ」
ミナは小さな木札を取り出した。
地面に深く刺す。
黒い線を一本、上に向ける。
「ここ。触らない」
「また札が増えた」
トマが木札を見下ろす。
「見つけたから」
「だよな」
*
その日の午後は、村全体が落ち着かなかった。
南の柵には鳴子を戻した。家畜小屋の戸には、余った縄を足した。子どもたちは、畑の端へ行かないよう言われた。エル婆は、いつもより早く薬草の籠をしまった。ガルムには、古弓の弦を見てもらうことになった。
バルドは見張りの順番を考えたが、すぐに顔が渋くなった。
夜に立てる者は少ない。
立てても、長くは無理だ。
「二人ずつ、交代じゃな」
「二人で足りますか」
村人の一人が、畑の方を見ながら眉を寄せる。
「足りん」
バルドの眉間は深いままだった。
「じゃが、一人では危ない」
「三人にしたら」
「朝の畑が動かん」
誰も反論しなかった。
ミナは鳴子の紐をもう一度確かめた。風で鳴りすぎないよう、少し低い位置に結ぶ。
獣が柵を押せば鳴る。
人が近づいても鳴る。
傷つけない。
知らせるだけ。
「これで防げるわけじゃないよ」
トマが肩をすくめた。
「分かってる。鳴ったら気づけるってだけだ」
「鳴らないで来られるよりはいい」
「それは本当にそう」
夕方になった。
空の色が薄くなり、森の影が畑の端へ伸びてくる。
ミナは森番小屋へ戻る前に、もう一度南の柵を見た。
ぷるは水路の奥にいる。今日はあまり下流へ来なかった。くず野菜は少し減っている。
キキは木札の外側にいた。
鳴子の音が遠くで鳴るたび、耳を伏せる。でも、隠れ場所からは出ていない。
「今日は、奥で」
ミナが木札の内側で足を止めると、キキは森の方を見た。
「……だめ」
震えるような小さな声だった。
トマが少し息を呑む。
ミナは、ゆっくり近寄り、木札の内側で止まる。
「うん。だめ、怖いね」
キキはミナを見た。
「怖いなら、隠れる。木札は越えない」
「だめ」
「うん。村はだめ。でも、隠れ場所はいい」
キキは隠れ場所を見た。
それから、木片を握り直した。
その時だった。
から、から。
南の柵の鳴子が鳴った。
風ではない。
一度だけではない。
から、から、から。
何かが縄に触れて、離れ、また触れた音だった。
トマが振り向く。
畑の端から、バルドの声が飛んだ。
「明かりを持て!」
ミナは走らなかった。
走ると、足跡を踏む。
でも、早足で南の柵へ向かった。
トマが隣につく。
ルシェラは、少し後ろから森を見る。
南の柵には、獣はいなかった。
けれど、足跡があった。
新しい。
昼にはなかった場所だ。
大きな足跡が、森の方から村へ向かっていた。水路へ寄りかけ、畑の匂いへ向かい、そこで急に曲がっている。
不自然なくらい、横へ。
草が倒れている。
土がえぐれている。
逃げた跡だ。
「何かから逃げてるみたいだな」
トマは足跡の曲がった先を見た。
ミナは足跡の先を見る。
足跡は村へ入っていない。南の柵の手前で曲がり、森の端へ戻っている。
ただ、戻った先も、まっすぐではない。
何かを避けている。
ルシェラが、静かに森の奥へ目を向けた。
「獣が、道を譲っておる」
誰もすぐには返事をしなかった。
ミナは、昨日見た金色の目を思い出した。森の奥。遠い唸り。鳥の声が止まったこと。ぷるが震え、キキが半歩だけ近づいたこと。
まだ、見ていない。
だから決めない。
でも、見ないままにもできない。
「このまま、もう少し境を見る」
ミナは足跡を踏まない位置へ回り込んだ。
「奥じゃない。境だけ。足跡が残ってるところまで」
トマがすぐ隣に並ぶ。
「俺も行く」
「うん」
バルドも杖を握った。
「ガルムにも声をかける」
「弓は?」
「念のため、持たせる」
ルシェラは黒枝の森を見たまま、口の端を少し上げた。
「金の目を見たなら、ただの獣ではあるまい」
「まだ決めない」
ミナは足元の新しい跡を見た。
「でも、ただの獣ではないかもしれない」
遠くで、低い唸りがした。
昨日より遠い。
それでも、畑の土が少し震えたように感じた。
南の柵に吊るした鳴子が、風もないのに小さく揺れる。
から。
一度だけ鳴って、止まった。
ミナは木札の位置を確かめた。
線は、まだそこにある。
けれど、森のものがその線の外で動き始めている。




