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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第17話 金色の目の狩り

第1部:辺境領と教会編

第4章:魔狼の夜回り


 南の柵の鳴子は、もう鳴っていなかった。


 ただ、揺れたあとだけが残っている。紐はまだかすかに震え、乾いた実の殻が一つ、土の上に落ちていた。キキが直した板は外れていない。割れた穴に差した細い枝も、そのまま残っている。


 鳴った。


 だから、気づけた。


 それだけだ。獣を止めたわけではない。


 ミナは南の柵の外側に膝をつき、足跡を見た。


 新しい。


 泥の縁が、まだ崩れきっていない。踏まれた草も戻っていない。大きな足跡は村へ向かいかけ、水路の匂いを拾うように少し曲がり、それから不自然なくらい横へ逃げている。


「境だけ。足跡が残ってるところまで」


 ミナは泥の縁から目を離さなかった。


「それ、さっきも聞いた」


 トマが横で息を吐く。


「聞いたけど、もう一回聞きたい。奥までは行かないよな」


「奥までは行かない」


「本当だな」


「本当」


「ミナの本当はわりと雑だからなあ」


「そんなことない」


「ある」


「今は足跡を見る」


「そうやって流すところだぞ……」


 トマはそう言いながらも、弓を持ち直した。古い弓だ。弦はガルムが張り直したばかりで、昨日よりはましになっている。ましになっているだけで、新しいわけではない。


 ガルムは少し離れたところで、森の方を見ていた。


 村の猟師だ。


 口数は少ない。顔のしわも、バルドとは違う深さがある。怒っているようにも見えるが、ただ森を見ているだけの時も、だいたいああいう顔をしている。背に弓、腰に短い鉈。足音は軽い。


「風下に立つな」


 ガルムの視線が、トマの立ち位置へ動いた。


 トマが一歩ずれる。


「俺か」


「お前だ」


「はい」


 ミナも風を見た。


 湿った土の匂いが、森から村へ流れている。水路の泥、倒れた草、獣の体の匂い。そこに、少しだけ血のような匂いも混じっている気がした。


 まだ見ていない。


 でも、匂いはある。


「わたしも行く」


 背後からルシェラの声がした。


 ミナは振り返った。ルシェラは森番小屋の方から歩いてきていた。いつものように余裕のある顔をしながら、森を見ている。


「だめ。村にいて」


「小娘」


「村にいて」


「山羊の見張りか」


「家畜小屋も、子どもも、水路も」


「多いな」


「だからお願い」


 ルシェラは少し眉を上げた。


 ミナは水路の方へ目をやる。


「ぷるは水路の奥で震えてる。キキも木札の外で怖がってる。鳴子がまた鳴ったら、村側で分かる人がいる」


「わたしは便利な戸口番ではないぞ」


「便利じゃなくて、頼んでる」


 ルシェラは黙った。その顔が、少しだけ面倒そうになる。面倒そうで、少し嬉しそうでもある。


「……仕方あるまい」


「ありがとう」


「ただし、山羊が噛んだら焼く」


「焼かないで。離れてて」


「山羊がか」


「ルシェラが」


 トマが小さく吹き出しかけた。


 ルシェラの金色の目が、そちらへ向く。


「小僧」


「笑ってません」


「笑う前の顔をしておった」


「顔まで見ないでください」


「見えるものは見る」


「ミナと同じこと言うのやめてください」


 ミナは鳴子の紐をもう一度確かめた。直っている。それだけで、今は十分だ。


 村側では、バルドが人を動かしていた。子どもは家の近くへ下げ、家畜小屋の戸を閉め、薪置き場の裏には近づかないようにする。夜の見張りの順番も、まだ決まりきっていない。


「境だけと言ったな」


 バルドが杖を突きながら近づいてきた。


「うん。足跡が残ってるところまで」


「無茶はするな」


「しない」


「猪だけでも厄介じゃ」


「うん」


「熊なら、もっと厄介じゃ」


「うん」


「それ以外なら」


 バルドはそこで言葉を切った。言っても仕方がないと思ったのかもしれない。


「……ガルム」


「行く」


 ガルムの返事は短かった。


「撃つかどうかは、ミナではなくお前が判断しろ」


「分かっている」


「ミナ」


「うん」


「危険だと思えば、すぐ引き返せ」


「分かってる」


 バルドは少しだけ目を細める。


「分かっておる顔じゃな」


「たぶん」


「たぶんでは困る」


「じゃあ、分かってる」


 横で、トマが肩をすくめる。


「雑だな」


「今のはトマが言わせた」


「俺か?」


「たぶん」


「またたぶんかよ」


 バルドが咳払いした。


 ミナは南の柵をまたがず、柵の切れ目から外へ出た。草を踏む前に、足元を見る。


 足跡は柵のすぐ外を通っている。大きい。昨日見たものより、泥が深く押されている。重い体が急に向きを変えたせいで、横の草が倒れ、土がえぐれていた。


「走ってる」


 ミナは泥のえぐれた先を見たまま、息を詰める。


「村へ向かってから、曲がってる」


「何かに気づいたんだな」


 ガルムの目が、森の縁へ細く向く。


「匂いか、音か、姿か」


「鳴子じゃないのか」


 トマの目が、揺れた紐へ向く。


「鳴子は、ここ」


 ミナは柵の紐を指した。


「足跡が乱れたのは、その少し前。鳴る前に曲がってる」


「じゃあ、鳴子は逃げたあとか」


「触れただけ。突っ切ってない」


「気づけただけ、か」


「うん」


 境を見る。


 それだけのはずだった。


 でも、境は広い。南の柵の外。水路へ続く泥。薪置き場の裏へ回る草地。黒枝の森の手前にある低い茂み。人が通る道と、獣が通る道が重なっているところ。


 ミナはひとつずつ見た。


 折れた草。


 泥の乾き方。


 蹄の跡。


 土に残った腹の擦れ。


 逃げ道。


 戻る道。


「近いぞ」


 トマの声が小さくなる。


「足跡、新しすぎないか」


「新しい」


 ミナは足跡の縁を見たまま、声を落とした。


「だから、走らない」


「走らないのか」


「走ると、向こうも走るかもしれない」


「それは嫌だな」


「うん」


 ガルムが手を上げた。


 全員、止まる。


 森の中で、鳥の声が消えた。少しずつではない。急に。


 水路の方で、ぷるが震えた気配がした。音ではない。水面が細かく揺れる気配だ。森番小屋の方は見えない。けれど、さっきのキキの伏せた耳が、頭に残っていた。


 ミナは振り返らなかった。


 今は森を見る。


 黒枝の森の縁は、昼間でも暗い。枝が重なり、葉の影が地面に落ちる。そこに、湿った泥が続いている。


 大きな足跡が、またひとつ。


 その先で、草が不自然に割れていた。


「いる」


 ガルムの手が、弓の弦の近くで止まる。


 声は低かった。


「前か?」


 トマが弓を持ち直す。


「斜めだ」


 ガルムの指が少し動いた。


 ミナは息を浅くした。


 見えた。


 茂みの奥に、黒い背中。


 猪だった。


 大きい。


 村で見る家畜の豚とは違う。背が高く、肩が盛り上がり、泥で固まった毛が逆立っている。鼻先には土がつき、片方の牙が欠けていた。


 腹はへこんでいない。


 飢えきっているわけではない。


 でも、落ち着いてもいない。耳が何度も動いている。村の匂い、森の匂い、こちらの匂いを拾っている。


「下がれ」


 トマの足が半歩、後ろへ滑る。


「走らないで」


 ミナの声も小さくなる。


「分かってる。分かってるけど」


「逃げ道を塞がないで」


「どっちの」


「猪の」


「こっちのも欲しいんだけど」


「ある。柵の切れ目。ゆっくり下がる」


 猪の頭が、こちらを向いた。黒い目が見える。怒っているというより、追い詰められている目だった。


 ミナは、足元の草を見た。


 こちらから右へ逃げる道がある。でも、その先には水路がある。左は柵。正面は森。本来なら、森へ戻るのが一番いい。


 けれど、猪は森へ戻ろうとしていない。


 森を避けている。


「撃つか」


 ガルムの弓が、もう半分上がっている。


 ミナは猪の肩を見た。距離。風。ガルムの腕。猪の向き。外した時の走り先。


「まだ撃たない」


「来るぞ」


「外したらこっちへ来る。浅く刺さっても来る」


 ガルムは黙った。弓は下げない。でも、放たない。


 トマが息を呑んだ。


「猪って、あんなに速いのかよ」


 猪が一歩踏み出す。


 土が沈む。


 鼻が低くなる。


 ミナは手を少し上げた。


「下がって。走らないで」


 トマが半歩下がる。


 ガルムも、弓を構えたまま体の向きを変えた。


 その時、猪が急に止まった。耳が後ろへ倒れる。鼻先が森の奥へ向く。


 ミナも見た。


 森の影が、濃くなっていた。


 違う。


 影ではない。


 そこに、目があった。


 金色の目。


 一つ。


 二つ。


 さらに奥に、もう二つ。


 低い位置で光っている。猪の高さよりずっと低い。けれど、小さいわけではない。


「違う」


 トマの声がかすれる。


「何か来る」


 来る、というより、もういた。


 ミナたちが気づいた時には、もう囲んでいた。


 黒い影が、横から走った。


 音がほとんどない。落ち葉が少しだけ跳ねる。草が割れる。泥が飛ぶ。


 一頭が猪の前へ入った。


 進路を切る。


 猪が向きを変える。


 その横腹へ、別の黒い影が入った。牙ではない。体ごとぶつかるように見えた。


 猪の太い体が傾く。


 次の瞬間、後ろ脚が取られた。


 猪が悲鳴を上げた。森の中で聞くには、大きすぎる声だった。


 トマが一歩下がる。


 ミナは動かなかった。


 動けなかった。


 ガルムの弓は、もう猪に向いていない。金色の目の方へ向いている。


「撃つな」


 ガルムの声は低かった。


 自分に言ったのか、トマに言ったのか、ミナには分からなかった。


 黒い影は三つではなかった。


 四つ。


 五つ。


 もしかしたら、もっといた。


 猪の逃げ道が、ひとつずつ消える。前へ行こうとすると、黒い影が立つ。横へ跳ねると、別の影が押さえる。後ろへ引こうとすると、後ろ脚へ食いつくものがいる。


 ほとんど吠えない。


 唸りも低い。


 狩りの声ではなく、息の音に近かった。


 猪が暴れる。泥が跳ねる。太い体が倒れかけ、また起きようとする。その前に、首の横へ一頭が入った。


 速い。


 見えたと思った時には、もう押さえ込んでいた。


 猪の悲鳴が途切れた。


 森が、急に静かになる。


 ミナは息をしていることを思い出した。


 黒い狼だった。


 ただの狼ではない。


 大きい。


 肩の高さが、村の子どもより高い。毛は黒く、ところどころ灰色が混じっている。口元には泥と血がついていた。金色の目は、昼の森の中で不自然なほど明るい。


 狼魔獣。


 言葉にする前に、ガルムの弓先が黒い影を追った。


「狼じゃない。魔獣だ」


 声に、迷いはなかった。


 トマが震えた息を吐く。


「狼って大きさじゃないだろ」


「魔獣だ」


 ガルムの声は、さっきより硬い。


「今の村では無理だ」


 その言葉は、猪に向けたものではなかった。


 黒い狼魔獣たちは、猪のまわりに立っていた。


 一頭がこちらを見る。


 他より少し大きい。毛の色が濃く、右耳の端が少し欠けている。口元に血がついているのに、息は乱れていない。


 ミナは、その目を見た。


 金色だった。


 昨日見たものと同じ色。


 狼魔獣は、ミナを見ている。


 トマがミナの腕をつかみかけた。


 ミナは動かなかった。


 狼魔獣は近づかない。吠えもしない。尻尾を振るわけでもない。


 ただ、見ていた。


「下がるぞ」


 ガルムの足が、柵側へ向く。


「ゆっくり」


 ミナは金色の目から視線を外さなかった。


「目を離すな。けど、睨まないで」


「難しいこと言うな」


 トマの声が震えている。


「怖いなら、足元を見る」


「怖くないと思うか?」


「思わない」


「だよな」


 ミナは半歩下がった。


 狼魔獣は動かない。


 もう半歩。


 それでも動かない。


 猪を押さえていた二頭が、獲物へ牙をかけた。引く。重い体が泥の上をずるりと動いた。別の一頭が、森の奥へ先に入る。逃げ道を確かめるように。


 金色の目の一頭は、最後までミナを見ていた。


 それから、ふいと視線を外した。


 獲物を引いて、森へ消える。


 音は少ない。あれだけ大きな猪を引いているのに、枝の折れる音がわずかにしただけだった。


 森の影が、元の影へ戻る。


 鳥は、まだ鳴かない。


 トマが、ようやく息を吐いた。


「助かった……のか?」


 ミナは倒れた草と、泥に残った血と、森へ引きずられた跡を見た。猪はもう来ない。少なくとも、あの一頭は。


 でも。


「助かった」


 ミナは血のついた泥から目を上げる。


「でも、もっとまずい」


「だよな」


 トマの声が小さくなる。


「助かったとしても、もっとまずいよな」


 ガルムは弓を下ろさなかった。


「あれほどの魔獣の群れが、村の近くにいる」


「うん」


「柵は意味がない」


「うん」


「鳴子も、意味を成すまい」


「うん」


「撃っても当たる気がせん」


「うん」


 ミナは森の奥を見た。見えない。もう、金色の目はない。


 でも、いなくなったとは思えなかった。


「襲ってこなかった」


 トマは森の奥を見たまま、弓を下ろせずにいる。


「なんでだ」


「分からない」


「腹いっぱいだったからか?」


「分からない」


「猪が目当てだっただけか」


「分からない」


「お前を見てたぞ」


 ミナは答えなかった。


 見ていた。


 それは確かだった。


 でも、何のために見ていたのかは分からない。敵を見る目だったのか。獲物を見る目だったのか。森の境に立つものを見ていたのか。それとも、ただそこにいるものとして見ただけなのか。


 分からない。


 分からないものを、安全とは言えない。


「戻る」


 ミナは柵の方へ体を向けた。


「バルドに話す。ルシェラにも」


「走るか?」


 トマの視線が柵の切れ目へ走る。


「走らない。足跡を踏まない」


「そこは今も見るんだな」


「見るよ」


「分かってた」


 帰り道は、来た時より長く感じた。


 ミナは血の跡を踏まないように歩いた。足跡の向き、狼魔獣たちの走った線、猪が倒れた場所、獲物を引いた跡。ひとつずつ覚える。


 全部は覚えられない。


 でも、村の近くで何が起きたか、あとで誰かに伝えなければいけない。


 南の柵まで戻ると、バルドが待っていた。


 ルシェラもいた。


 家畜小屋の方には行っていない。けれど、立つ位置がいつもと違う。村側と森側の間にいる。


 ぷるは水路の奥で震えていた。


 いつものぷるぷるではない。水面が細かく波立っている。


 キキは木札の外側で、隠れ場所の半分後ろにいた。耳を伏せ、木片を握っている。


 ミナが戻ると、顔を上げた。


「……だめ」


 小さな声だった。


 ミナは木札の内側で止まった。


「ここ」


 キキは自分の足元を見た。


「……ここ」


「うん。キキは、ここ」


 キキは森の方を見た。肩が小さく震えている。口が少し動いたが、声にはならなかった。


「うん。だめだね、怖い」


 ミナはそれ以上近づかなかった。


 今の森の匂いを、キキはきっと強く感じている。血の匂い。狼魔獣の匂い。猪の恐怖の匂い。人より、ずっと分かるのかもしれない。


「村はだめ。隠れ場所はいい」


 キキはうなずいたようにも見えた。


 木片を握ったまま、隠れ場所の奥へ少し戻る。


 ミナは水路の方も見た。


「ぷるは奥」


 水面が震える。


「今日は、奥でいい」


 バルドが近づいてきた。


「何を見た」


 ミナは、息を整えた。


「大きな猪」


「猪か」


「うん。でも、猪はもう来ない」


「仕留めたのか」


「私たちじゃない」


 バルドの顔が変わる。


 ガルムの口調は、短く硬かった。


「狼魔獣の群れだ」


 周りにいた村人たちがざわついた。


「狼魔獣?」


「群れ?」


「村の近くにか」


 バルドが杖を地面に突いた。


「静かにせい」


 声は止まった。


 でも、空気は止まらない。


 バルドはガルムを見る。


「見間違いではないな」


「ない」


「数は」


「五つはいた。もっといたかもしれん」


 バルドの眉間が深くなった。


「それが村の近くにおるのか」


「いた」


 ガルムは森から目を離さない。


「今もいるかは分からん」


「退治できる相手か」


 ガルムはすぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、だいたい分かった。


「今の村では無理だ」


「ルシェラ殿に頼めば済む話かもしれんが……」


 バルドが言いかける。


 ルシェラは森を見たまま、口の端を少し上げた。


「焼けば、森も騒ぐぞ」


「森ごと荒れるわけにはいかん」


 バルドの顔が苦くなる。


 ルシェラは鼻を鳴らす。


「狼魔獣か。あれらがここまで寄ったか」


「知ってるの?」


 ミナの視線が、ルシェラへ動いた。


「森の奥にいるものの匂いくらいは知っておる」


「襲ってこなかった」


「おぬしをか」


「私たちを」


 ルシェラは少しだけ目を細めた。


「ふむ」


「ふむじゃ分からない」


「分からぬままでよいこともある」


「村の近くにいるなら、よくない」


「小娘らしいな」


 ミナは答えず、南の柵を見た。


 低い柵。


 直した鳴子。


 踏み倒された草。


 その外にある森。


 あの狼魔獣たちが本気でこちらへ来るなら、柵は何の役にも立たない。鳴子は鳴るかもしれない。でも、鳴った時にはもう遅い。


「村へ近づくなら、放ってはおけん」


 バルドの杖が、柵の内側で止まる。


「だが、我々だけで手を出せる相手でもない」


「うん」


 ミナはうなずいた。


「理由が分からないから、安全とは言えない」


「理由?」


「襲わなかった理由。猪だけを狩った理由。村の前で止まった理由」


「腹が満ちたからではないのか」


「それだけなら、私たちを見る必要はない」


 トマの顔にも、さっきの金色の目がまだ残っている。


「見てたもんな」


「うん」


 ガルムは森を見ていた。


「夜は出るな」


「誰が」


 トマの目が村の方へ動く。


「全員だ」


 バルドもうなずいた。


「夜の見張りは柵の内側。鳴子が鳴っても、一人で出るな。家畜小屋の戸をもう一度見ろ。子どもは外に出すな」


 村人たちが散っていく。


 足早だった。


 誰も、大声では騒がなかった。大声を出すと、森に聞こえる気がしたのかもしれない。


 夕方が近づくと、森の影は早く伸びた。


 ミナは森番小屋の戸口に立っていた。


 ルシェラは炉の近くに座っている。座っているだけだが、今日は寝転んでいない。小屋の中からでも、森を見ているようだった。


 ぷるは水路の奥。


 キキは木札の外。


 南の柵には鳴子。


 家畜小屋には、余った縄を一本。


 できることは、小さい。


 小さすぎる。


 でも、やらないよりはいい。


 から。


 森の方で、鳴子が鳴った。


 一度だけ。


 風ではない。


 トマが戸口の外で弓を持ち直した。


 バルドの声が、村の方から飛んだ。


「出るな!」


 誰も走らなかった。


 ミナも走らなかった。


 ただ、南の柵の向こうを見る。


 黒枝の森の境。


 木々の間。


 そこに、金色の目があった。


 獲物を追っているのではない。


 こちらを見ている。


 一つ。


 少し離れて、もう一つ。


 そして、奥にさらに二つ。


 ミナは息を止めた。


 狼魔獣たちは、森から出てこない。ただ、見ていた。吠えもしない。近づきもしない。


 けれど、森の縁の草が低く押される。


 柵の外側へ張った細い紐だけが、かすかに引かれる。


 から。


 もう一度、小さく鳴った。


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