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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第18話 首を垂れる魔狼

第1部:辺境領と教会編

第4章:魔狼の夜回り


 夜のあいだ、村でよく眠れた者は少なかった。


 鶏はいつもより遅く鳴いた。山羊は戸の奥で固まり、犬は吠えかけて、途中で喉を鳴らすだけにした。人の足音も、朝から小さい。誰も急いでいないのではない。急ぐ音を立てたくないのだ。


 南の柵の鳴子は、夜明け前に二度鳴った。


 から。


 少し間を置いて、もう一度。


 どちらも、風ではなかった。


 けれど、誰も外へは出ていない。バルドの声が、そう止めていたからだ。


「鳴っても一人で出るな。戸を開けるな。子どもは外へ出すな」


 その言葉は、夜の間に何度も村の中を渡った。


 ミナも眠れなかった。


 森番小屋の戸口に座り、膝の上で縄を結び直してはほどく。結び目は悪くない。悪くないのに、何度も確かめてしまう。炉の火は小さくしてあった。


 ルシェラは寝台に腰かけていた。寝転んではいない。寝ぼけてもいない。長い髪を片側へ流し、外の暗さを見ている。


 水路の奥では、ぷるがずっと沈んでいた。


 いつもなら水面の近くでぷるぷる揺れるのに、今日は影のように奥にいる。水面だけが、細かく震えていた。


 木札の外では、キキが隠れ場所の中に半分以上引っ込んでいた。


 ミナが朝の水を置きに行くと、顔だけ出した。耳は伏せたまま。木片を片手で握り、もう片方の手で隠れ場所の枝を押さえている。


「水」


 ミナは木札の内側で止まり、椀を置いた。


「ここ。キキは、ここ」


 キキは椀を見た。


 それから、森の方を見る。


「……だめ」


 小さな声だった。


「うん。だめ」


 ミナも、小さく首を縦に振った。


「怖いなら、奥でいい。木札は越えない」


 キキは返事をしなかった。


 でも、木札は越えなかった。


 それだけで、今は十分だった。


 村の広場では、バルドが杖をついて立っていた。


 いつもより背中が固い。村人たちは家の戸口や壁のそばに寄っている。子どもたちは家の中。家畜小屋の戸には、昨日より太い縄がかけられていた。新しい縄ではない。何度も使って毛羽立っている。


 それでも、ないよりはいい。


 ガルムは弓を持っていた。弦は張ってある。矢筒も腰にある。ただ、顔はいつもよりさらに固い。


「昨夜は、森の端であれらを見かけた」


 ガルムの手は、弓の近くで止まっていた。


「三度だ。動いていた」


「村へは?」


 バルドの杖先が、地面を押さえる。


「入っていない」


「柵は」


「越えていない。紐には触れた。鳴子が鳴った」


 トマが渋い顔で南の柵を見た。


「なんで触れてるんだろうな……」


「分からない」


 ミナは南の柵から目を離さなかった。


「でも、突っ切ってない」


「そこを安心していいのか、怖がっていいのか分からないんだけど」


「安心はしない」


「だよな」


 バルドは村人たちを見回した。


「今日も子どもは外へ出すな。家畜小屋の戸は二人で見る。水路へ行く時も、一人では行くな」


「畑はどうする」


 戸口の一つから、不安そうな声が上がった。


 バルドはすぐには答えなかった。


 畑を止めれば、食べ物が減る。畑へ出れば、危ない。どちらも困る。


「南は近づくな。北と井戸側だけじゃ。畑仕事は午前で切る」


「午前で?」


「命があれば、明日も畑は見られる」


 村人たちは黙った。


 誰も反論しなかった。


 ミナは南の柵へ目を向けた。昨日、金色の目があった場所。猪の血の匂いは、もう薄くなっている。それでも、土の中に残っている気がした。狼魔獣の匂いは、もっと分からない。分からないのに、森の影だけが濃く見える。


「ルシェラ殿」


 バルドの杖先が、広場の端へ向いた。


 ルシェラはそこに立っていた。いつの間に来たのか、足音はなかった。けれど、村人は全員気づいていた。あの人がいると、空気が少し違う。


「なんだ、爺」


「もし、あれらが村へ入ったら」


「焼けばよい」


 即答だった。


 村人たちの顔が、少しだけ引きつる。


 トマの声が、小さくこぼれた。


「言い方」


「分かりやすかろう」


「分かりやすすぎるんですよ」


 ミナはルシェラを見た。


「襲ってきたら、お願いする」


 ルシェラの目がミナへ向く。


「今すぐではないのか」


「うん」


「小娘、あれらは迎え撃つなどと、甘い考えでどうにかなるものではないぞ」


「分かってる」


「柵も、縄も、鳴子も、紙より少し厚い程度だ」


「分かってる」


「では、なぜ待つ」


 ミナは南の柵を見た。


 低い柵。細い紐。キキが直した板。水路。畑。家畜小屋。森の縁。


「まだ、線の外にいる」


 ミナは南の柵を見たまま、声を落とした。


「まだ、村の子も家畜も襲ってない。畑にも入ってない」


「入ってからでは遅いぞ」


「うん。だから見てる」


 トマが何か言いかけた。


 言わなかった。


 ミナは続けた。


「ルシェラに頼めば、たぶん早い。でも、畑と森がだめになる。柵も水路も、家畜小屋も近い」


「ふむ。たしかに加減が難しいかもしれん」


「ルシェラの加減次第が一番怖い」


 ルシェラは少し黙った。


 ミナは、声を落とした。


「命が危ないなら、お願いする。でも、まだなら、ぎりぎりまで待って」


 ルシェラは不満そうに鼻を鳴らした。


「小娘がそう言うなら、待とう」


「ありがとう」


「ただし、山羊がわたしを噛んだら」


「焼かないで」


「まだ何も言っておらん」


「言いそうだった」


「分かってきたではないか」


 トマが顔をしかめる。


「山羊も怖くて噛まないよ……」


 バルドが杖を鳴らした。


「冗談を言っとる場合ではない」


「冗談じゃないんだけど」


 ミナのつぶやきに、トマがさらに顔をしかめた。


「それも怖いんだよ」


 その日の午前は、何も起きなかった。


 何も起きない時間ほど、落ち着かないものはない。


 村人は何度も森を見る。水路へ行く者は二人で行き、畑の北側でさえ、背中を丸めるようにして鍬を入れた。鍬は土を起こす道具であって、魔獣を止めるものではない。それを、昨日から誰もが分かってしまっている。


 昼前、鳴子が鳴った。


 から。


 乾いた音が、広場まで届いた。


 一度だけ。


 人の動きが止まる。


 犬が小さく吠え、すぐに黙った。ガルムが弓を取る。バルドが杖を握り直す。トマはミナの横へ来た。


「ミナ」


「うん」


「前に出すぎるなよ」


「線まで」


「その線が近いんだよ」


「近いから見る」


「そういうとこだぞ……」


 ミナは答えず、南の柵へ向かった。


 走らない。


 足音を小さくする。


 焦っていると知られたくないのではない。焦ると、見落とすからだ。


 南の柵の外側。


 森の縁の草が、低く押されていた。


 その奥に、金色の目があった。


 一つ。


 二つ。


 さらに奥に、いくつも。


 昨日より多い。


 黒い影は、森の影と混じっていた。動いていないように見えるのに、位置が少しずつ変わっている。葉も枝も、ほとんど揺れない。足音もしない。


 先頭に、一頭いた。


 ほかより少し大きい。


 右耳の端が欠けている。


 昨日、猪のそばで最後までミナを見ていた魔狼だ。


 口元に血はない。毛並みは濡れていない。ただ、金色の目だけが強い。


 ガルムの弓が上がった。


 弦が、きしりと鳴る。


「まだ撃たないで」


 ミナの手が、弓と魔狼の間へ小さく上がる。


「近い」


 ガルムの声は低い。


「うん」


「外せば終わりだ」


「だから、まだ」


「当たっても終わりだ」


「うん」


「撃たずに終わるかは分からん」


「分かってる」


 トマがミナの前へ出ようとした。


 ミナは片手で止めた。


「トマ、横」


「前じゃなくていいのか」


「逃げる道を塞がないで」


「誰の逃げ道だよ」


「こっちも、向こうも」


「また難しいことを……」


 先頭の魔狼が、一歩だけ前へ出た。


 柵の外。


 細い紐の手前。


 そこで止まる。


 群れも止まった。一頭も、村側へ踏み込まない。


 ミナは息を吸った。喉が乾いていた。怖い。足の裏が、土に吸いつくようだった。


 それでも、見る。


 怖いから、見る。


「村には入れない」


 ミナは細い紐の手前に立ったまま、声を前へ置いた。


 先頭の魔狼の耳が、わずかに動いた。言葉が分かったのか、声に反応したのかは分からない。


「畑もだめ。家畜小屋もだめ。子どもにも近づかないで」


 トマが息を呑んだ。


 バルドの杖が、土の上で止まる。


「言い聞かせておるのか」


「分からない」


 ミナは目を離さない。


「でも、言わないよりはいい」


「そこは言い切らんのか」


「言い切れない」


 トマの声が、少しだけ震えた。


「正直すぎる」


 ミナは魔狼を見たまま、次の言葉を置いた。


「水路もだめ。ぷるは水路。木札の外の場所もだめ。キキは、そこ」


 森番小屋の方で、小さな音がした。キキが隠れ場所の枝を握り直したのかもしれない。水路の水面も、細かく震えた。


 先頭の魔狼は動かない。


 ただ、見ている。


 ミナの顔。手。足元。腰の道具袋。その後ろにいるトマ。弓を構えたガルム。杖を持つバルド。広場の端に立つルシェラ。


 匂いを読んでいるのかもしれない。恐怖を読んでいるのかもしれない。村の線を読んでいるのかもしれない。


 ミナには分からない。


「近づくなら、こっちは下がる」


 ミナは外套の端を握りしめる。


「襲わないなら、今は撃たない」


 先頭の魔狼の喉が動いた。


 低い唸りではない。


 息を吸う音。


 そのあと。


 吠えた。


 森の縁が揺れた。空気が胸の奥を叩いた。山羊が家畜小屋の中で暴れ、子どもの泣き声が一つ、家の中で上がりかけた。誰かがすぐ抱きしめたのか、声は途中で布に吸われた。


 ぷるが水路の奥で大きく震えた。


 水面が波立つ。


 キキが隠れ場所の中で縮こまった。木片が小さく鳴る。


 トマが一歩、前に出かける。


「動かないで」


 ミナの声は、自分で思ったより小さかった。


 でも、出た。


 ガルムの弓弦がさらに鳴る。


「動くな」


 バルドの声が重なった。


 誰に向けたのかは分からない。村人へか。ガルムへか。ミナへか。それとも、自分へか。


 先頭の魔狼は、吠えたあと、襲ってこなかった。


 一歩も出ない。


 牙も剥かない。


 吠え声の残りだけが、森の中で沈んでいく。


 そして、ゆっくりと頭を下げた。


 ミナを見たまま。


 正面から。


 首を、低く垂れる。


 一拍遅れて、後ろの魔狼たちも動いた。草が沈む。黒い頭が一つ、また一つと下がる。


 群れが、森の縁で首を垂れている。


 誰も声を出さなかった。


 鳴子の紐だけが、風もないのに少し揺れた。


 トマの口から、ようやく声が漏れた。


「な、なんなんだ……」


「分からん」


 ガルムは弓を下げていない。


「牙は見せていない」


「それ、安心していいやつか?」


「知らん」


「知らんのかよ」


「見たことがない」


 バルドが杖を鳴らした。


「近づくな」


 誰も近づいていない。


 それでも、言わずにはいられなかったのだと思う。


 ミナも、同じだった。


「今は襲わないってこと?」


 ミナは、下がったままの黒い頭を見つめた。


 先頭の魔狼は、頭を下げたまま動かなかった。


「村に入ってはだめ。畑もだめ。家畜小屋もだめ。子どももだめ」


 トマの声が、ミナの横で細くなる。


「お前、今すごいことに、普通の畑注意を混ぜなかったか」


「畑は大事」


「大事だけど」


「山羊も大事」


「それも分かるけど」


「子どもはもっと大事」


「それは分かる」


「だから、だめ」


 トマは口を閉じた。


 先頭の魔狼が、少しだけ顔を上げた。


 今度は、ミナではなく、ルシェラを見た。


 見ようとした。


 けれど、真正面からは見なかった。


 金色の目が、ルシェラの足元へ落ちる。肩のあたりへ上がる。そこで、また少し逸れる。


 ルシェラは腕を組んで立っていた。いつものように、偉そうで、眠そうで、それでいて森の奥より古いもののように静かだった。


 先頭の魔狼は、首を横へ逃がすようにして、低く垂れた。


 群れも、それに続いた。


 ミナへの時とは違う。


 まっすぐではない。


 どこか、正面を避けるような下げ方だった。


 ルシェラは満足げに顎を上げた。


「礼儀はある」


 ミナは魔狼たちの逸れた視線を見る。


「怖がってるだけじゃないの?」


「それも礼儀の一種だ」


 顔を引きつらせたまま、トマが肩をすくめる。


「便利だな、礼儀」


「小僧も覚えておくがよい」


「俺は今、膝が覚えそうです」


「震えておるからな」


「見ないでください」


「見える」


 ミナは、笑えなかった。


 少しだけ息が抜けたのは確かだ。


 でも、怖さは消えていない。


 頭を下げた。


 だから安全。


 そんなはずはない。


 昨日、猪を狩ったのはこの群れだ。柵も縄も意味がない。ガルムの弓でも止まるか分からない。ルシェラに頼めば何とかなるかもしれない。でも、森も畑もただでは済まない。


 だから、今は線を見るしかない。


「下がって」


 ミナは森側へ視線を送った。


 先頭の魔狼が、顔を上げる。


「森側へ。村には入らない。今日は、そこまで」


 魔狼は動かない。


 金色の目だけが、ミナを見ている。


「分からない」


 ミナは小さく息を吐いた。


「だから、まだ決めない。でも、今すぐ襲うつもりはないみたいだから、撃たない」


 ガルムの弓は、まだ上がっている。バルドの杖も、地面から離れていない。トマの手は、ミナの外套の端をつかみかけて止まっている。


 先頭の魔狼が、低く息を吐いた。


 返事かどうかは分からない。


 ただ、前には出なかった。


 一歩、後ろへ下がる。


 草が戻る。


 群れも、一頭ずつ森側へ下がった。音は少ない。葉が少し揺れただけ。黒い影が、また森の影に溶けていく。


 最後まで、先頭の魔狼だけがミナを見ていた。


 それから、金色の目も消えた。


 誰も、すぐには動かなかった。


 バルドが、長く息を吐いた。


「……誰も外へ出るな」


「もう外だけど」


 バルドの目が、トマへ鋭く向いた。


「口を動かす前に足を戻せ」


「はい」


 ガルムは弓をゆっくり下ろした。それでも、矢は抜いたままだった。


「今のを、どう見る」


 バルドの杖先は、まだ南の柵へ向いている。


 ガルムは森を見たまま、短く返した。


「襲わなかった」


「それだけか」


「それだけだ」


「頭を下げたのは」


「分からん」


 トマがミナを見る。


「ミナは?」


「分からない」


「だよな」


「でも、声には反応した」


「それは、俺にもそう見えた」


「線の手前で止まった」


「それも見えた」


「下がってって言ったら、下がった」


「……見てた」


 トマは言いながら、だんだん顔をしかめた。


「見てたけど、意味が分からない」


「私も」


「お前の言うことを聞いた、ってことか?」


「聞いたのか、音に反応したのか、線を見たのか、ルシェラがいたからなのか、分からない」


「全部かもしれないだろ」


「それも分からない」


 バルドの声が、低く沈む。


「分からんものを村へ入れるな」


「うん」


 ミナはすぐに首を縦に振った。


「入れない」


「名前もつけるな」


「まだつけてない」


「まだ、とは何じゃ」


 トマが小さく口を押さえた。


「今のは余計だったな」


「トマ」


「俺じゃない」


 ルシェラが、ふっと笑った。


「名が要るほど居つくなら、その時に考えればよい」


「居つかせない話をしておる」


 バルドの声には、まだ固さが残っていた。


「爺、あれらはもう見ておる。見たものをなかったことにはできぬ」


「分かっておる」


「なら、怯えるだけでは足りぬな」


「だから困っとるんじゃ」


 バルドの手が、杖を強く握った。声には怒りがあった。


 でも、それだけではなかった。


 村を守らなければならない人の声だった。


 ミナは南の柵を見た。


 キキが直した鳴子。曲がった紐。踏まれた草。少しだけ乱れた土。


「鳴子を増やす」


 ミナは南の柵の乱れた土を見た。


 トマの眉が、すぐに動く。


「また増えたな」


「うん。でも、止めるためじゃない。気づくため」


「木札も?」


「増やす。森側と畑側。キキの場所と水路にも近づけない印」


「狼魔獣が木札を読むのか?」


「分からない。でも、線は要る」


 バルドの杖先が、木札の列をなぞるように動いた。


「線は要る。人にもな」


 その日の午後、村は静かに動いた。


 騒げるほど、誰にも余裕がなかった。


 南の柵の内側に、細い紐を一本増やす。音が鳴る実の殻は足りないので、乾いた木片を吊るした。からん、とは鳴らない。から、と少し乾いた音がするだけだ。


 でも、ないよりはいい。


 家畜小屋の裏にも、古い縄を張った。水路の近くには、ミナが木札を立てた。ぷるは奥。畑側はだめ。文字ではなく、線と印だ。


 人にも見える。


 魔物に通じるかは分からない。


 でも、ミナはそうした。


 キキの隠れ場所のそばにも、木札を一本足した。


 キキは枝の陰から見ていた。


「キキは、ここ」


 キキは自分の足元を見た。


「……ここ」


「うん。ここ。森へ逃げるのはいい。でも、村はだめ」


 キキは森の方を見た。


 耳が伏せる。


「……だめ」


 言葉は、それだけだった。


 ミナは少しだけ黙った。


「うん。だめ」


 キキは木片を握り、逆の手で森の方を指した。


「だめ」


「今日は行かない」


「……だめ」


「うん。だめ。怖いね」


 キキはそれ以上言わなかった。


 ミナも、それ以上近づかなかった。


 夕方になると、村の煙が低く流れた。


 誰も大きな火を焚きたがらなかった。煙が森へ届くのを嫌がったのかもしれない。けれど、火を小さくしすぎると鍋が煮えない。煮えなければ食べられない。


 結局、どの家もいつもより少し小さな火で、いつもより早く鍋をかけた。


 ミナの小屋でも、薄い粥が煮えていた。


 ルシェラは椀を持って座っている。


「肉が少ない」


「今日はそれどころじゃない」


「それどころでなくとも腹は空く」


「分かってる。だから粥はある」


「肉が少ない」


「二回言わない」


「大事なことは二度言う」


「鍋を洗う話も二度言うよ」


 ルシェラは黙った。


 トマが小屋の戸口で、疲れた顔をして笑った。


「やっぱりそこに戻るんだな」


「鍋は明日も使うから」


「狼魔獣が首を下げた日でも?」


「下げても、鍋は汚れる」


「強いな」


「鍋が?」


「お前が」


「怖いよ」


 ミナは粥をかき混ぜる手を止めなかった。


「怖いから、明日使うものを見てる」


 トマは少し黙った。


「そういうところだよな」


「どこ?」


「怖いって言いながら、明日の鍋のことまで見てるところ」


「明日も使うから」


「……まあ、それは大事だな」


 外で、鳴子が鳴った。


 から。


 三人とも動きを止めた。


 今度は南の柵ではない。


 村の西側。


 家畜小屋の裏に張った細い紐の方だ。


 トマが弓を取る。


 ミナも戸口へ向かった。


 ルシェラが立ち上がる。


「出るなと言われたのではないか」


「戸口まで」


「それは出る一歩手前だ」


「そう」


「小娘」


「ちゃんと見ないと」


 ルシェラは鍋を名残惜しそうに見た。


 でも、止めなかった。


 戸口から見える範囲だけで、十分だった。


 村の西側。家畜小屋の向こう。森の縁ではない。村の外周を、金色の目が横切っていた。


 一つ。


 少し離れて、もう一つ。


 さらに奥に、二つ。


 狼魔獣たちは、柵の外を歩いている。


 村には入らない。家畜小屋にも寄らない。ただ、外側を回るように動いている。


 山羊は鳴かなかった。


 犬も吠えなかった。


 遠く、森の奥で、別の獣の気配が急に逃げた。


 ミナは息を止めた。


 トマの声が、すごく嫌そうに落ちる。


「……回ってる、よな」


「うん」


「……なんで回ってるんだ」


「分からない」


「村には入ってない」


「うん」


「でも、近い」


「うん」


 トマは弓を握り直した。


「怖いな」


「うん」


 金色の目が、外周の草の向こうを過ぎる。


 音は少ない。でも、確かにいる。


 ミナは戸口の木に手を置いた。


「どういうことなの」


 声は、戸口の木に吸われるくらい小さかった。


 返事はない。


 ただ、村の外側を、金色の目がまた一つ、静かに横切った。


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