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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第55話 直すより、通す方が早い

第1部:辺境領と教会編

第9章:壊れた橋と奉公の道


 橋を見るだけの日は、肉の匂いがようやく薄くなった朝に来た。


 広場の端には、まだ干しかけの皮がある。風上へ寄せたつもりでも、湿った匂いは朝の冷えた空気に少し残っていた。釘壺は閉じている。曲がった釘の箱も閉じている。丸太は、昨日と同じ場所に横たわっていた。


 オークは、その丸太のそばに立っていた。


 持ってはいない。


 ただ、見ている。


 ミナは丸太とオークを交互に見た。


「今日は、橋を見るだけ」


「見る」


「丸太は、まだ持たない」


「まだ」


「橋まで持っていくかも、まだ決めてない」


 オークは少し考えたあと、丸太へ手を出さないまま、深くうなずいた。


「持たない。まだ」


 釘壺の前にいたキキも顔を上げる。


「釘も、まだ」


「うん。釘もまだ」


「見る?」


「今日は橋を見る。釘は、橋で勝手に触らない」


「橋、勝手に触らない」


 大人ゴブリンたちも、何となく同じようにうなずいた。言葉を全部分かっているかは分からない。ただ、ミナが何度も言った「まだ」と「勝手に」は、少しずつ形になっている。


 広場の入口では、バルドが腕を組んでいた。


「見るだけじゃぞ」


「うん」


「危ないことはするな」


「しない」


「橋を直すとは、まだ言っとらん」


「言ってない」


「買うとも、売るとも、持つとも、まだ言っとらん」


「言ってない」


 横で、トマの手が胃のあたりへいった。


「村長、言ってないことが多すぎて、もう言ってるみたいになってる」


「笑いごとではない」


「笑ってない。胃が先に笑えなくなってる」


 ガルムは、少し離れたところでロウたちを見ていた。今日連れていく狼魔獣は二頭だけだ。村から外へ出る時の見張りと、森側の気配を見るためである。


 それでも、二頭の狼魔獣が道の端に座っているだけで、村人たちの目は何度もそちらへ行った。


「……見るだけにしては、多いな」


 低い声に、ミナは小さくうなずく。


「多い。だから、近づく場所を決める」


「危ない場所へ、危ないものを連れていくんだぞ」


「危ないことはさせない。できることがあるか見るだけ」


「見るだけで終わればいいがな」


 少し後ろから、トマの声がぼそりと落ちた。


「俺もそう思う」


 ルシェラは、そんな一同を見て、妙に満足そうに笑っていた。


「見る者が多いほど、道はよく見える」


「道を作りに行くんじゃないからね」


「ふむ。見るだけだな」


 ミナはルシェラをじっと見た。


「本当に見るだけ」


「聞いた」


「聞いただけじゃなくて、守って」


「考えておこう」


「そこは守って」


 トマの手が、さらに胃のあたりへ沈んだ。



 灰石橋へ向かう道は、いつもより長く感じた。


 ミナとトマが前を歩き、その少し後ろにガルムがいる。キキと大人ゴブリンたちは、道の端を選ぶように歩いた。オークは何も持っていないのに、肩だけがもう重いものを待っているように見える。ルシェラは、村にいる時と同じように、歩幅だけは穏やかだった。


 ロウたちは森側を選んで歩く。近すぎない。離れすぎない。村人たちにとっては、それでも十分近い。


 何度目か分からない息を吐いて、トマが列を見た。


「見るだけの列じゃないだろ、これ」


「見るだけ」


「見るだけでオークとゴブリンと狼魔獣とルシェラが並ぶの、普通じゃないからな」


「分かってる」


「分かってて進んでるのが、俺の胃にはいちばん悪い」


 道の途中で、ガルムが足を止めた。


 前方に、灰石橋へ続く木札が見える。まだ橋そのものは見えない。だが、川の音だけは少しずつ近くなっていた。


「焦るな」


 低い声で、キキがぴたりと止まる。大人ゴブリンたちも止まり、オークも足を止めた。


「ここからは、足元を見ろ」


 ミナも後ろの列を振り返る。


「うん。橋が見えても走らない。先に木札」


「木札」


「橋、まだ」


「まだ」


 ミナはうなずき、木札の方へ歩いた。



 灰石橋は、壊れたままそこにあった。


 全部が落ちているわけではない。石の橋脚は残り、片側の手すりも残っている。横木も、縄の一部も、まだ形を保っている。


 だからこそ、怖い。


 遠目には渡れそうに見える。ほんの少し気をつければ、足を置けそうにも見える。だが、落ちた板の隙間から川が見え、傾いた横木の先は、踏めば沈みそうだった。


 橋の手前で、ミナは足を止めた。


「ここから先は、だめ」


 キキが橋を見上げる。


「橋、だめ?」


「だめ。まだ乗らない」


「まだ」


「勝手に近づかない。足元を見る」


 壊れた板を見て、トマの顔がしかめられた。


「やっぱり、渡れそうに見えるのが一番怖いやつだな」


「うん。だから、先に止める」


 ミナは持ってきた木札を、橋の手前に立て直した。


 渡るな。


 近づくな。


 壊れている。


 短い言葉しか書けない。けれど、短い方が読む人には止まりやすい。


 ガルムは橋ではなく、橋の脇の岸も見ていた。川幅、土の硬さ、草の倒れ方、石の出方。森番ではないが、足場の危なさを見る目はある。


「人が焦れば、足を置く」


「だから、置かないようにする」


 その時、川の向こう側から声がした。


「ミナ殿!」


 ミナが顔を上げる。


 川の向こう、壊れた橋の先に、ラダーナ村の人たちが立っていた。先頭の年配の男が手を上げている。あれがヘルマンだろう。隣には村人が数人。その後ろに、旅外套の商人らしい男と、背負い荷の若者がいる。


 ラダーナ村側も、こちらへ来ていた。


 ただし、川を渡ってきたわけではない。


 向こう岸の橋詰めで、同じ壊れた灰石橋を見ている。


 川音が間にあった。普通に話しても、言葉は全部届かない。


 ミナは両手を口の横に添えた。


「聞こえますか!」


「聞こえる!」


 向こう岸から、ヘルマンの声が張り返された。


「橋には乗っておらぬな!」


「乗ってません! 今日は見るだけです!」


 向こう岸で、何人かがほっとしたように肩を下げた。旅外套の商人は、壊れた橋とこちら側の魔物たちを順に見ている。背負い荷の若者は、ロウたちを見て少し固まっていた。


「これは……ずいぶん、難しい橋ですね」


 商人の声は、川を越えて少し薄く届いた。


 ヘルマンが横を向く。


「ロレン殿、難しいで済めばよいがな」


 その名で、ミナはようやく、旅外套の男が行商人なのだと分かった。


 ロレンは帽子の縁に触れ、川越しに軽く頭を下げた。細かな話をするには遠い。商談を始める距離でもない。ただ、互いにいることだけは分かった。


「灰石橋は、このままで見るのですね!」


 ヘルマンの声には、不安が混じっていた。


 ミナはすぐに返した。


「はい! 直しません! 乗りません!」


 横で、トマが川音に紛れるくらいの声を落とした。


「川越しだと、言葉が短くなるな」


「短い方が間違えにくい」


「そうだけど、胃には響く」


 向こう岸の人間たちは、ほとんど壊れた灰石橋を見ていた。どこが落ちているか。どこに足を置いてしまいそうか。どこを塞げばいいか。顔は重く、目は橋から離れない。


 こちら側では、少し違っていた。


 キキの目は、橋の板から橋の横の岸へ移った。大人ゴブリンたちも同じように、草の切れ目、石の出たところ、土の硬そうな場所を見ている。オークは橋ではなく、川幅を測るようにゆっくり首を動かした。


 人間側には、何を見ているのか分からない。


 ミナにも、まだ半分しか分からない。


「キキ?」


「木、置くところ」


「置かないよ」


「見る」


「見るだけね」


「見る」


 トマの顔が少し引きつった。


「今の“見る”って、俺たちの見ると同じ意味か?」


「同じにしてほしい」


 少し離れた場所で、ルシェラの視線は川岸に向いていた。


 灰石橋ではない。


 橋の横、草が薄くなった岸、向こう岸の出っ張り、こちらの土の高さ。そこを見て、ふむ、と小さく喉を鳴らす。


「近いな」


「何が?」


「通すには、近い」


「通さない」


「直すよりは早かろう」


 ミナが振り向いた時には、ルシェラの目はもう橋ではなく、村の方へ向いていた。


「ルシェラ?」


「村に、ちょうどよさそうな丸太があったな」


「え?」


 返事はなかった。


 ルシェラは歩き出していた。走らない。急ぐ素振りもない。ただ、すっと木立の方へ向かい、ミナたちが橋と向こう岸を見ている間に、姿が見えなくなった。


 トマの眉が寄る。


「今、何かまずいこと言わなかったか」


「言った」


「止めなくていいのか」


 ガルムの目は、ルシェラが消えた木立の方に残っていた。


「もう無理だ」


「早いな」


「歩いてるように見えたんだけど」


「そう見えるだけだ」


 向こう岸から、ヘルマンの声が飛んできた。


「何かあったのか!」


 ミナは慌てて声を張る。


「まだ何もしてません!」


「まだ、というのが怖いな」


 トマの小声は、川の向こうまでは届かない。



 ルシェラが戻ってきたのを、最初に気づいたのはロウたちだった。


 二頭が同時に耳を伏せる。


 次に、オークが顔を上げた。


 木立の向こうから、太い丸太が見えた。一本ではない。二本でもない。五本ある。


 それを、ルシェラがまとめて肩に担いでいる。


 丸太は、村の広場で昨日から見ていたものだった。橋材として整えたものではない。まだ皮も残り、太さも少しずつ違う。けれど、細すぎはしない。短すぎもしない。


 それが五本、ルシェラの肩の上に並んでいた。


 ミナは、しばらく声が出なかった。


 向こう岸でも、人間たちが一斉に固まる。ヘルマンが口を開いたまま止まり、背負い荷の若者は一歩下がった。ロレンだけが、丸太の長さと川幅を見比べている。


 橋の手前まで来たルシェラは、丸太をどん、と地面に下ろした。


 地面が低く鳴った。


「なんで丸太持ってきたの!」


「ちょうどよさそうだった」


「そういうことじゃない!」


「直すより、通す方が早い」


 ミナは頭を抱えそうになった。


「今日は見るだけって言った!」


「見た」


「持ってきてる!」


「持ってきただけだ」


「だけじゃない!」


 胃を押さえたまま、トマは丸太五本を見下ろした。


「もう“だけ”が太すぎる……」


 キキの足が、丸太の方へ出かける。


「木、見る」


「待って」


 ミナの手がすぐに上がった。


「橋には近づかない。川にも入らない。誰も渡らない」


「渡らない」


「置かない」


 キキは少し考えた。


「見る」


「見るだけ」


 大人ゴブリンの一人が丸太の端を指で叩く。こつ、と鈍い音がした。別の一人は皮の浮いたところをのぞき込み、キキの目は丸太と川岸を行き来する。


「五つ」


「五つあるね」


「足、置く」


「置かない」


「置ける」


「置けるから困ってる」


 オークの手が、丸太の端にかかった。


「持つか」


「持たない」


 オークは丸太を持ち上げなかった。けれど、手を置いたまま言う。


「転がる、だめ」


「それはそう」


「転がらない、見る」


 ミナは返事に詰まった。


 転がるかどうかを見るのは、安全確認だ。橋に乗るわけではない。川に入るわけでもない。だが、その先に何があるかは、もう丸太五本が地面に並んでいる時点で見えてしまっている。


 ルシェラは満足そうに腕を組んだ。


「見るだけでは足りぬ時もある」


「足りる」


「では、転がるか見るだけだな」


 トマの喉から、小さなうめきが漏れた。


「逃げ道がふさがってる……」



 向こう岸から、ヘルマンが声を張った。


「ミナ殿! 灰石橋には触れぬのだな!」


 ミナは丸太から顔を上げ、すぐに声を返した。


「触りません! 橋には乗りません!」


「その丸太は何だ!」


「私も今聞きたいです!」


 川向こうで、何人かが顔を見合わせた。


 ヘルマンの少し後ろでは、ロレンが丸太と岸を見比べている。川越しに細かな声は届かないが、商人の目が荷の重さと道の幅を測っているのは分かった。


 こちら側では、ゴブリンたちが丸太の周りに集まり始めていた。


 手つきは早い。


 ただし、いきなり橋へ押していくわけではない。皮の浮いたところを剥ぎ、足を置く上面になりそうな場所を見つけ、端のささくれを小さな石でこすって落とす。木片を挟むと転がりが止まるか、丸太を少しだけ揺らして確かめる。


 ミナは何度も止める。


「川に近づきすぎない」


「近づきすぎない」


「橋の板には乗らない」


「乗らない」


「持ち上げない」


「少しだけ」


「少しもだめ」


 キキは丸太の下に小さな木片を置き、じっと見ていた。


「転がらない」


「今はね」


「端、見る」


「見るだけ」


 トマはもう何度目か分からない顔でミナを見る。


「ミナ。これ、止まってるか?」


「止めてる」


「止めてるのに進んでる」


「分かってる」


 ガルムは黙って岸を見ている。川の流れ、丸太の長さ、向こう岸の高さ、こちら側の土の硬さ。苦い顔をしているが、完全に否定する顔ではなかった。


「ガルム」


「……出来るかどうかで言えば、分からんでもない」


「分からないで」


「分からんことにはできん。見えている」


「見えてるのが困る」


 ルシェラが笑った。


「見えているなら、道はある」


「道にしないで」


「では丸太だ」


「丸太でも困る」


 その時、オークの腕で丸太の一本が持ち上がった。


 ミナが止めるより先に、ルシェラの手が反対の端を軽く押さえる。大人ゴブリンたちは足元から離れ、キキが木片を拾って後ろへ下がった。


 持ち上げた、というより、浮いた。


 普通の人間なら数人で呻くような丸太が、オークの腕とルシェラの片手で、ゆっくり岸へ向きを変えた。


「待って!」


「置くだけだ」


 ルシェラの声は悪びれていない。


「置くのがもう橋に近い!」


「直してはおらぬ」


 一本目の丸太は、灰石橋の横へ置かれた。


 石橋の板には触れていない。壊れた手すりにも触れていない。丸太の先が向こう岸の土の高いところに届き、こちら側の端は岸の硬い場所に乗っていた。


 川に落ちていない。


 橋にも乗っていない。


 それが、ミナにはいちばん困った。


「……乗ってない」


 トマの声が弱い。


「だから困る」


 二本目も置かれた。


 今度はキキと大人ゴブリンたちが端を見て、転がらないように木片を噛ませる。皮の滑りそうなところを剥ぎ、踏む面を少し平らに削る。


 三本目。


 四本目。


 五本目。


 丸太が五本並ぶと、それはもう、ただの丸太の列ではなかった。


 手すりはない。柵もない。足元は木だ。雨が降れば滑るだろう。夜なら端が見えない。増水すれば、すぐ使えなくなる。


 それでも、幅はある。


 一人ずつなら、足を置ける。


 小さな荷なら、抱えて渡れそうだった。


 灰石橋は、まだ壊れたままだ。


 だが、その横に、人が通れそうなものができてしまった。



 向こう岸は、しばらく静かだった。


 川音だけが、その間を流れている。


 やがてヘルマンが、声を張った。


「これは……渡れるのか!」


 ミナはすぐに答えられない。


 渡れない、と言いたかった。


 だが、目の前の丸太五本は、どう見ても「絶対に無理」とは言えない形をしていた。


 ガルムが低く言う。


「……出来は悪くない」


「それ、余計に困るやつだ」


 トマの声は沈んでいる。


「分かっている」


 丸太の手前にしゃがみ、ミナは足を乗せずに手だけを伸ばした。端の揺れを確かめるだけにする。キキが真似しようとしたので、すぐに視線で止めた。


「勝手に乗らない」


「乗らない」


「これ、橋じゃない」


「丸太」


「危ない丸太」


「危ない丸太」


 トマが小さく言う。


「危ない丸太にしては、通れそうなんだよな」


「言わないで」


 向こう岸で、ロレンがヘルマンへ何かを言った。小声は川に削られて、こちらへは届かない。けれど、ヘルマンが苦い顔でうなずくのは見えた。


 少しして、ロレンが一歩前へ出た。


「ミナ殿、聞こえますか」


 ミナが顔を上げる。


「聞こえます!」


「商人の目で言えば、これは道です。よい道ではありませんが、荷を選べば通ります」


 その言葉に、トマの手がまた胃のあたりへ戻った。


「商人が言うと重い……」


 ロレンは続けた。


「荷車は無理です。馬も無理です。人が持てる小荷だけ。しかも、一人ずつでしょう」


 ミナは丸太を見る。


「……一人ずつ」


 キキが繰り返す。


「一人、ずつ」


「荷車はだめ」


「荷車、だめ」


「馬もだめ。家畜もだめ。大きな荷もだめ」


 大人ゴブリンたちが、何となく丸太の幅を見た。


「夜もだめ」


 トマが足す。


「雨もだめだろ」


「雨もだめ。増水もだめ。子どもだけもだめ」


 向こう岸で、ヘルマンが深くうなずいた。


「木札が要るな」


「両側に要ります!」


 ミナはすぐに返した。


「勝手に渡られたら困ります!」


「こちら側にも立てる!」


「こっちにも立てます!」


 言いながら、ミナは頭の中で木札の文を並べ始めていた。


 だめなことは多い。


 けれど、木札に書ける言葉は少ない。


「どうしよう、これ」


 ミナの声は小さく、近くにいたトマだけが拾った。


「直ってないのに、使えるのが一番面倒なんだよ」


「直ってない」


「うん。灰石橋は壊れたまま」


「でも通れる」


「だから面倒」


 ルシェラは満足そうに、丸太五本を見下ろしている。


「直しておらん。新たに通しただけだ」


「それが問題なんだよ」


 トマが即座に返した。


「橋とは、石である必要はなかろう。渡れれば橋だ」


「橋にしないで」


 ミナの声が強くなる。


「これは橋じゃない。丸太。危ない丸太。使うなら決まりを作る」


「ふむ。法も定めるか」


「木札を書くの」


「また話が大きくなった……」


 トマは額を押さえる。



 木札は、すぐには書けなかった。


 何を書けばいいかは多い。だが、木札は小さい。小さな板に全部を書こうとすれば、誰も読まなくなる。


 丸太の手前にしゃがみ、ミナは棒で土に言葉を書いていった。


 一人ずつ。


 荷車だめ。


 馬だめ。


 夜だめ。


 雨だめ。


 水が増えたらだめ。


 子どもだけだめ。


 横から、トマがのぞき込む。


「多いな」


「多い」


「木札、何枚になるんだ」


「一枚じゃ足りない」


 ガルムは丸太の端を見たまま、短く口を開いた。


「見張りも要る」


「ずっと?」


「少なくとも、最初は」


「村の人手が減る」


「だから困る」


 向こう岸では、ヘルマンたちも同じように話し合っていた。細かい声は届かない。だが、身振りで分かる。木札をどこへ立てるか、誰が見張るか、どこまで荷を許すか。向こうも向こうで、同じように困っている。


 ロレンは丸太五本を見て、少し困ったように笑っていた。細い商売の道はできた。だが、細い道ほど、荷の選び方で揉める。そういう顔だった。


 背負い荷の若者は、まだ狼魔獣とルシェラと丸太の間で目を忙しく動かしている。


 ミナは丸太から視線を離し、灰石橋を見る。


 灰石橋は直っていない。手すりも、板も、落ちたところも、そのままだ。


 なのに、その横に丸太五本分の通り道ができている。


 もう戻る道は、なかった。


 いや、道はできてしまった。


「名前はつけないからね」


 先に釘を刺され、ルシェラは少しだけ残念そうに目を細めた。


「まだ何も言っておらぬ」


「言いそうだった」


「最初の王政の始まりだな。ミナ橋とでも――」


「名付けない」


 トマもすぐに続いた。


「名前つけたら本当に橋になりそうだからやめろ」


「道が通り、人が渡る。名を持つに足る」


「足りない。足りないままでいい」


 ミナは土に書いた言葉を見下ろす。


「橋じゃなくて、丸太。危ない丸太。使うなら、木札。両側。決まり。見張り」


 キキは、土の文字をじっと見た。


「木札、多い」


「多いね」


「丸太、五つ」


「五つあるね」


「道、できた?」


 ミナはすぐには答えない。


 向こう岸では、ヘルマンがこちらへ向かって深く頭を下げていた。慌てて、ミナは手を振る。


「まだです! まだ決まってません!」


 川音の向こうで、ヘルマンが何か返した。全部は聞こえない。それでも、顔の重さだけは分かる。


 灰石橋は壊れたまま。


 丸太五本は、通れそうなまま。


 直っていないのに、通れてしまう。


 土の上の文字をもう一度見て、ミナは小さく息を吐いた。


「だから、木札から」


 その言葉に、キキがうなずく。


「木札から」


 トマは胃を押さえる。


「橋じゃないのに、橋より先に決まりができるのか」


「橋じゃないから、決まりがいるの」


 ルシェラは楽しそうに笑う。


「よい。道が先にあり、法が後から追う」


「木札」


 ミナはすぐに言い直す。


「木札がいるだけ」


 川の上を、冷たい風が渡った。


 壊れた灰石橋の横で、丸太五本が静かに濡れた光を受けている。


 まだ名前はない。


 直った橋でもない。


 それでも、人の足を止めずに通してしまいそうなものが、そこにできてしまっていた。


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