第54話 動き出した共同
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
景気づけの肉は、たしかに景気だけはついた。
翌日のミストル村には、焼いた肉の匂いがまだうっすら残っていた。広場の端には、灰をかぶった石板が冷めきらないまま置かれ、骨を入れた桶と、脂の浮いた小鍋が並んでいる。食べられるところは食べた。余った分には塩を薄くすり込み、干せるものは干す。すぐに傷みそうなものは、村人たちで分けた。
腹は少し満ちた。
そのかわり、残るものは残った。
皮である。
ロウたちが森から持ち帰った獲物は、肉だけではなかった。皮も、骨も、脂もある。骨は道具に使えるかもしれない。脂は灯りや手入れに使えるかもしれない。皮は、なめせば何かになるかもしれない。
かもしれない、が多い。
ミナは干し場の端で、まだ湿った皮を見下ろしていた。
「これ、今日中になんとかしないとだめ?」
隣で、トマが鼻を少し押さえる。
「今日中に全部は無理だろ。けど、放っておくと、明日には村長のしわより先に匂いが大変だぞ」
「しわより先に?」
「たぶん」
少し離れたところで、バルドの眉が動いた。
「わしのしわを物差しにするな」
「じゃあ匂いだけ見ます」
「それも見たくはないわ」
村は、橋の話だけでいっぱいではなかった。食べ物があれば、皮が出る。皮が出れば、干す場所が要る。干す場所が要れば、風向きと犬と子どもと狼魔獣を見なければならない。
ロウたちは、村はずれの草地で丸くなっていた。
前夜の狩りで働いたのは分かる。大きな体を横たえ、耳だけ時々動かしている。村人たちはまだ近づきすぎない。近づきすぎないが、以前ほど一斉に後ずさりもしない。
その距離が、今のちょうどよい距離だった。
広場の反対側では、キキが釘壺の前に座っている。
壺は閉じている。手も出していない。大人ゴブリンたちも釘壺から少し離れ、しかし目だけは離さない。別の一人は、閉じた箱の前で、曲がった釘の在り処を覚えるように立っていた。
さらにその先では、オークが丸太のそばに立っていた。丸太は昨日と同じ場所にある。橋へは持っていっていない。オークも、持っていない。
ただ、見ている。
ミナは釘壺の方へ目を向けた。
「キキ、釘は?」
「見てる」
「触ってない?」
「触ってない」
「仕事じゃないよ?」
「仕事、ちがう。まだ」
その返事に、大人ゴブリンたちも何となくうなずいた。
丸太の横では、オークがゆっくり口を開く。
「丸太、持つか」
「今日は持たない」
「まだか」
「まだ」
「橋、行くか」
「今日は行かない。明日、見るだけ」
オークは少し考え、丸太から手を離したままうなずいた。
「見る。まだ」
「うん。見るだけ」
トマの手が、胃のあたりへ戻った。
「見るだけが、もう広場いっぱいなんだけど」
「触ってないから」
「触ってないのに圧があるんだよ」
ルシェラは、そんな広場を妙に満足そうに眺めていた。腕を組み、釘壺、丸太、干された皮、村はずれのロウたちを順に見る。
「役を待つ者が増えたな」
「待たせてるだけ」
「待つこともまた、役の前触れよ」
「前触れにしないで」
「食わせた。見せた。次は選ぶ」
「橋が危ないから、できることを考えてるだけだよ」
「それを人は、始まりと呼ぶ」
「呼ばない」
釘壺のふたを見下ろし、バルドは深く息を吐いた。
「重くするな。まだ何も始めとらん」
「そう言っておる間に、始まるものもある」
「だから重くするなと言っとる」
*
羽音がした。
最初に気づいたのはキキだった。釘壺から目を離して空を見ると、大人ゴブリンたちも同じ方を見た。丸太の横で、オークも顔を上げる。
低い柵の向こうから、リィナが戻ってきた。
大きく旋回せず、村の上を一度だけ回って、広場の端へ降りる。手には木札を持っていた。顔は軽い。木札だけが、少し重そうだった。
「ただいま」
「おかえり。ラダーナ村、どうだった?」
「顔が重かった」
トマは小さくうなずいた。
「だろうな」
「でも木札は軽いよ」
「軽くない時の方が怖いんだよな、あれ」
リィナは木札をミナではなく、バルドの方へ差し出した。
「ヘルマンさんから。返事」
バルドは両手で受け取った。木札を開く前に、ちらりとミナを見る。ミナも黙ってうなずいた。
広場の空気が静かになる。
釘を見ていたゴブリンたちも、丸太のそばのオークも、皮の近くにいた村人も、何となく手を止めた。
バルドは木札を読んだ。
「ラダーナ村では、古釘、板、縄を確認し始める、とある」
「出せるってこと?」
トマの顔が上がる。バルドは首を振った。
「確認じゃ。出せるとは書いておらん」
ミナはほっとしたような、まだ重いような顔で息を吐いた。
「うん。それでいい。出したら困るものは出さないでって書いたから」
「それから」
バルドは木札の続きを見る。
「ラダーナ村に行商人が来ておるそうじゃ」
「行商人?」
トマの顔が少し動いた。
柵のそばから、リィナが軽く足した。
「荷車の人。釘と縄、少しあるかもって。布と薬も少し」
「売ってくれるの?」
「商売だって」
「そりゃそうだ」
「まだ買ってないよ。多くないって」
ミナは木札の方を見た。
「多くない」
「橋を直すほどではない、ともある」
バルドの声は低かった。
「だが、何もないわけではない。値と量を聞くことはできるかもしれん、とな」
トマは胃のあたりを押さえ直した。
「商売なら、金がいるな」
「いるね」
「うちに、あるか?」
誰もすぐには答えなかった。
ミストル村に金がないわけではない。だが、余っているわけでもない。塩、針、薬、鍋の直し、冬前の布、壊れた道具。銅貨は、いつも先に行き先が決まっている。
バルドは木札を閉じず、指先で端を押さえた。
「ラダーナ村だけに払わせるわけにはいかん」
「うん」
ミナはすぐにうなずいた。
「橋はこっちにも関係あるから」
「これは奉公ではない」
バルドははっきり言った。
「ラダーナ村がこちらに差し出すものではない。あちらの橋でもあり、こちらの道でもある。買うなら、こちらの銭も考えねばならん」
「出したら困るものは出さないでって言ったのに、こっちが何もしないのは違うよね」
「違う」
トマは空の財布を想像したような顔になった。
「違うのは分かる。でも銭は増えないよな」
「申し訳なさでも釘は増えないって、行商人も言ってた」
リィナは少し得意そうだった。
バルドの眉が上がる。
「誰が言った」
「行商人」
「リィナ、それ、木札に書くなよ」
「書かないよ。覚えただけ」
ミナは少しだけ笑ったが、すぐに干し場の皮へ目を戻した。
「出せるもの、あるかな」
*
村の銭箱は、軽かった。
軽いと言っても、空ではない。木箱の底には銅貨がいくらか残り、大銅貨も数枚ある。けれど、バルドが箱を開けた時、周りにいた村人たちの顔は、誰も明るくならなかった。
それぞれの銅貨には、もう用事がある。
冬前に買う塩。鍋の修理。畑の道具。薬。針。子どもの靴底。壊れた戸口の金具。
銭箱の中身は、音より先に行き先で埋まっていた。
「これを全部出すわけにはいかん」
バルドは箱のふたを半分だけ閉じた。
「もちろん」
「少し出すにしても、何を削るか決めねばならん」
「橋で怪我したら薬がいる。薬を削ったら困る」
「塩も削れん」
トマも銭箱をのぞき込んだ。
「釘を買うために塩を減らしたら、冬に別の顔が重くなる」
「顔だけで済めばよいがな」
バルドのしわが増えた。
ミナは銭箱の中をじっと見た。銅貨は小さい。けれど、小さいから軽いわけではない。
「お金だけじゃ足りないなら、売れるものを聞くしかないよね」
「売れるものがあればな」
「売れるかもしれないものなら、ある」
トマは、すでに嫌な予感がする顔で干し場を見た。
「皮か」
「うん」
出せるものを考えると、最初に出てきたのは、やはり皮だった。
広場の端に干された皮は、まだ品物ではない。濡れていて、重くて、匂いもある。きれいに広げたつもりでも、端は丸まり、毛の残ったところには土がついていた。
ミナはしゃがんで、皮の端を指でつまんだ。
「これ、売れるの?」
「分からん」
バルドは間を置かなかった。
「なめしてもおらん。乾かしてもおらん。そもそも村で使う分もある」
「全部は出せないね」
「出す以前に、売り物になるか分からん」
「じゃあ、聞くくらいなら?」
トマは皮とロウたちの方を見比べた。
「肉のあとに残るやつだな。売れるかは、商人に聞かないと分からない」
「うん。使う分を残して、余るなら聞いてもらうくらいなら」
「余るかどうかも、まだ分からんぞ」
バルドの声は慎重だった。
「干す場所も足りん。なめすなら臭いも出る。骨も脂も、放っておけば困る」
「困るの多い」
釘壺の前から、キキがぽつりとこぼした。
「多いね」
ミナは苦笑した。
「皮、見る?」
「釘、見る」
「うん。キキは釘でいい」
ロウたちの方で、一頭の耳が動いた。
自分たちが運んだ獲物の皮の話を理解したわけではないだろう。ただ、村人たちの声がそちらへ向いたので、耳だけ反応したらしい。
ミナは草地の方へ声をかけた。
「ロウ、休んでて。村の中には来ないでね」
ロウたちは動かなかった。
それで十分だった。
皮を見下ろし、ルシェラは目を細める。
「獣の皮を銭に変え、銭を釘に変え、釘で道をつなぐか」
「つなげない。まだ聞くだけ」
「道とは、そうしてできるものよ」
「皮も売れてないし、釘も買ってないし、橋にも行ってない」
「だが、考えた」
「考えただけ」
トマの口から、小さくうめくような声が漏れた。
「考えただけなのに、外から見るともうだいぶ危ないんだよな」
「何が?」
「狼魔獣の狩りで出た皮を、ハーピー便で行商人に聞いて、釘と縄に替えようとしてるように見える」
「そう言うと変だね」
「変なんだよ」
「でも、皮が余るなら、腐る前に聞くくらいはいいでしょ」
「分かる。分かるけど、見え方が重い」
バルドはしわを押さえた。
「見え方より先に、銭と匂いじゃ」
「村長、匂いも重い?」
柵の上で、リィナが首をかしげる。
「重い。残る」
「じゃあ早い方がいいね」
「早く決めることと、早く売ることは違う」
ミナはうなずいた。
「使う分を残す。売れるかは聞くだけ。値段も決めない。売るって決めない」
「それを木札に書くのか」
トマの視線が木札へ向く。
「うん。短く」
「短くできるか?」
バルドとトマの視線が、同時にミナへ向いた。
ミナは少しだけ胸を張った。
「できるよ」
*
木札は、また短くなった。
短くしないと、重くなる。
バルドが木札を用意し、ミナが横にしゃがむ。トマはその後ろで、余計な言葉が増えないよう見ていた。リィナは柵の上で待っている。軽い木札なら、また運べる顔だった。
「まず、ラダーナ村だけに払わせない」
「そのまま書くと重い」
木炭を持つバルドの手が止まる。
「じゃあ、こちらも負担します」
「それでよい」
木札に、短く刻まれる。
こちらも負担します。
「出したら困るものは出さないで」
「前にも似たようなことを書いたな」
「大事だから」
出したら困るものは出さぬよう。
「行商人さんの釘と縄は、値段と量を聞いて」
「買うとは書かんぞ」
「うん。まだ買わない。聞くだけ」
釘と縄は、値と量を聞きたい。
買うかは、まだ決めません。
後ろで、トマが少し笑った。
「そこだけ妙にはっきりしてるな」
「買うって書いたら、お金がいるから」
「書かなくてもいるけどな」
「だからまだ」
バルドは木札の余白を見た。
「皮はどうする」
「使う分を残して、余るなら、売れるか聞けるなら聞いて」
「長い」
「だよね」
ミナは皮の干し場を見た。まだ売り物ですらないものを、売るように書くのは違う。けれど、聞かなければ分からない。
「皮は、売れるかだけ聞いて。使う分は残す」
バルドは少し考え、木札に書いた。
皮は、売れるかだけ聞いてください。
村で使う分は残します。
「丁寧だね」
「商人へ回る言葉じゃ。雑に書くと値まで雑になる」
「値段、分からないもんね」
「分からん」
最後に、ミナは少しだけ口を閉じた。
「明日、橋を見に行く」
トマの手が、また胃のあたりへ戻る。
「見るだけだよな」
「見るだけ。危ないことはしない」
バルドは木札へ目を落とした。
「橋を見に行きます。危ないことはしません」
「うん」
橋を見に行きます。
危ないことはしません。
木札はそこでいっぱいになった。
リィナが木札をのぞき込む。
「重い?」
「内容は重い。木札は軽い」
トマが答えると、ミナはリィナへ顔を向けた。
「運べる?」
「軽いなら運べるよ」
「ラダーナ村に渡して。途中で橋には近づかないで」
「飛ぶから」
「飛ぶからでも、近づかない」
「はーい」
リィナは木札を受け取り、羽を広げた。飛び立つ前に、ふと釘壺の方を見る。
「釘、まだ?」
「まだ」
キキの返事は早かった。
「丸太は?」
「まだ」
丸太の横からも返事が返る。
「皮は?」
「聞くだけ」
ミナの返事に、リィナは満足したようにうなずいた。
「まだ多いね」
「多いよ」
羽音がして、リィナは広場から飛び上がった。村の上を低く回り、ラダーナ村の方へ向かう。
ミナたちはその姿を見送った。
軽い木札が、重い返事を運んでいく。
*
リィナが見えなくなると、広場の音が少し戻った。
誰かが桶を動かし、誰かが皮の端を広げ直す。釘壺の前では、キキがまだ座っている。大人ゴブリンの一人が、閉じた箱の方へ目をやった。
「釘、見る?」
「今日は見るだけ」
ミナはそう言ってから、少し考えた。
「明日、橋に行く時、釘と木片を見てもらうかもしれない。でも、橋には勝手に乗らない。危ないところには行かない」
キキは真面目に聞いていた。
「橋、危ない?」
「危ない」
「釘、見る。橋、乗らない」
「うん」
大人ゴブリンたちが、短く何かを言い合う。キキはそれを聞いて、ミナへ向き直った。
「木、見る。悪い木、見る」
「見てもらうかも。でも、まだ」
「まだ」
その言葉は、ゴブリンたちの間で静かに広がった。
丸太の横では、オークがまだ待っていた。
「丸太、持つか」
「明日、持ってもらうかもしれない。でも、橋まで持っていくかはまだ決めてない」
「重い、持てる」
「持てるのは知ってる。でも、危ないところには乗らないで」
「危ない、乗らない」
「人も、魔物も」
オークは大きくうなずいた。
「人も、魔物も」
そのやり取りを見て、トマは胃を押さえた。
「外から見たら、もう魔物を橋に集めてるように見えるぞ」
「集めてない」
「でも、釘を見るゴブリンと、丸太を見るオークと、木札を運ぶハーピーと、皮を残した狼魔獣がいる」
「いるだけ」
「いるだけで胃に来る」
バルドもしわを押さえた。
「わしにも来とる」
ルシェラは笑った。
「よい。細き者は釘を見、重き者は丸太を待ち、翼ある者は言葉を運び、牙ある者は皮を残す。食わせ、働かせ、道を整える。共同が動き出したな」
「動き出してない」
ミナはすぐに返した。
「明日、見るだけ。できることがあるか見るだけ。危ないならやらない」
「それでも、動く」
「動かない。待つ」
釘壺の前で、キキが言った。
「まだ」
丸太の横でも、オークが言った。
「まだ」
村はずれで、ロウたちの一頭が耳を動かした。
それは返事ではない。たぶん、風の音か、羽音の残りに反応しただけだ。それでも、広場の目が一瞬そちらへ向く。
ミナは苦笑して、皮の端を押さえた石を直した。
「働いたら、ごはんは出す。でも、まだ働いてないから」
「昨日、食べた」
キキの目は、昨日の肉を思い出したように少し明るい。
「昨日は肉だった」
「明日、仕事?」
「仕事になるかは、見てから」
「見てから」
バルドは深く息を吐いた。
「明日は、橋を見る。直すとはまだ言わん。買うともまだ言わん。売るともまだ言わん。持つともまだ言わん」
「言わないことが多いな」
トマの声は小さかった。
「多い」
ミナはうなずいた。
「でも、言わないでおかないと、危なくなるから」
広場の端には、釘壺がある。
丸太がある。
干しかけの皮がある。
村はずれにはロウたちが休んでいる。
空の向こうには、リィナが木札を運んでいる。
橋はまだ直っていない。
取引も、まだない。
皮も、まだ売れていない。
それでも、昨日まではばらばらに見えていたものが、少しずつ同じ明日の方を向いていた。
ミナはその全部を見て、最後に釘壺の前のキキへ目を戻した。
「今日は、触らないでね」
「触らない」
「明日も、勝手に触らないでね」
「ミナ、言う。見る」
「うん。私が言う。見てから」
ルシェラの口元が、また少し上がった。
「王道とは、そうして始まる」
「橋が危ないだけ」
ミナはそう言い切った。
トマは胃を押さえ、バルドはしわを押さえた。
キキは釘を見て、オークは丸太のそばで待ち、ロウたちは村はずれで目を閉じる。
夕方前の風が、干しかけの皮と木札の残した気配を、広場の上でゆっくり揺らした。




