第53話 もちろん、商売ですが
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
ラダーナ村の入口は、いつもより静かだった。
荷車の横を歩きながら、ロレンはまず、その静けさを見た。
春の村なら、行商人の荷車を見つけると、誰かしら声をかけてくる。塩はあるか。針はあるか。布はどんな厚さか。軟膏は古くないか。子どもが荷台の後ろをのぞき、女たちが小袋の値を聞き、男たちは釘や縄を手に取って、値段の前に重さを確かめる。
今日は、声が少ない。
村人はいる。畑から戻る者も、井戸の近くで桶を置いた女も、家の戸口に立つ老人もいる。けれど、その目は荷車だけを見ていなかった。
村の向こう、古い道の方。それから、空。
荷台の縄へ手をかけたまま、ロレンは少しだけ目を細めた。
「今日は売れますかね、ロレンさん」
マリクは荷車を止め、馬の鼻先をなでている。道中で少し泥を跳ねたが、荷は無事だった。
「売れる日には見えます」
「なんか村がそわそわしていませんか?」
「そうですね。買う顔が、荷の方を向いていません」
マリクの視線が、村人たちの顔を追った。
「買い物どころじゃなさそうですね」
「ええ。品物より先に、何かを待っている顔です」
「何を待っているんでしょう」
「それを品物より先に聞くと、商人は嫌われます」
いつもの場所より、少し控えめなところで荷車を止めた。
ラダーナ村には何度か来ている。大きな市が立つわけではないが、春先には小物がよく動く村だ。塩を少し、針を少し、縄を少し。欲しいものは大きくないが、足りないと生活が止まるものばかりだった。
今日の荷も、それに合わせている。塩の小袋、粗い布、針と糸、小さな釘束、細縄、麻縄、油の小瓶、軟膏、簡単な薬。小さな金具や木栓、農具の留め具、桶の補修に使う薄い鉄片もある。
大きな修繕をまかなう荷ではない。村の暮らしの、鳴るところを少し押さえる荷だった。
「塩、ありますよ」
マリクが小さく声を出した。
井戸の近くにいた女が、一度こちらを見た。けれどすぐ、集会小屋の方へ目を戻す。
「針も、糸もあります」
今度は戸口の老人が、半歩だけ近づきかけた。それでも足は止まった。
「ロレンさん」
「声は届いています。ですが、目が荷台に残っていません」
「目?」
「品を見るふりをして、集会小屋の方を見ています」
「今日の買い物は、そっち次第ですか」
「ええ。まず、そちらが動かないと財布も動きません」
ロレンの目は、村の奥へ向いた。
集会小屋の前で、ヘルマンが誰かと低く話している。顔はいつもより固い。周りの村人も、手を動かしながら上の空だった。
「何か起こっているようですね」
その言葉に、近くの若い村人がびくりと肩を揺らした。
「……まだ、話し合っているところです」
ロレンは荷台の縄に置いた手をそのままに、柔らかく笑った。
「なるほど。買い物に来た方は、まず荷を見ます。今日は、皆さん、荷を見る前に同じ方を見ている」
「見ていますか」
「ええ。心配ごとがある時の目ですね」
若い村人は困ったように、集会小屋の方を見た。
ロレンも同じ方を見る。
雲は薄い。風は強くない。
それでも、村人たちは時々、空を気にしていた。
*
商売は、一応始まった。
荷台の雨除けをめくると、村人が少しずつ集まってきた。塩の小袋に手が伸び、針の包みが見られ、布の目が指で確かめられる。
だが、いつもの勢いはない。
「この布、少し粗いね」
「粗い分、丈夫です。桶の当て布にも、擦り傷の包みにもなります」
「値は?」
「この幅で、大銅貨一枚と銅貨三枚」
「ううん……」
女は布を見ている。けれど、目の端は集会小屋の方に残っていた。
別の男が釘束を手に取る。
「釘か」
「小束です。屋根一枚、柵の一部、戸口の金具。そういうところへ向きます」
「大きい修繕には」
「足りません」
男はそこで黙り、釘束を戻した。その手つきは、少し重い。
荷台の横で、マリクが声を落とした。
「釘、戻されましたね」
「戻したのではなく、考えています」
「買わないのでは」
「買わない人の指は、釘を撫でません」
男は釘束をもう一度見て、それでもまだ取らなかった。
村の奥から、「木札はまだか」という声が聞こえた。
井戸の女が布から顔を上げ、老人が戸口から身を乗り出す。集会小屋の前では、ヘルマンも空へ目を向けていた。
ロレンは釘束を荷台に戻さず、手の届くところへ置いた。
「今日は、値段より木札の方が強そうですね」
「木札が強い日なんてあるんですか」
「あります。木札一枚で、村の財布が全部止まる日も」
「それ、商売としては困りますね」
「困ります。ただ、困りごとは時々、買う顔になります」
マリクの目が、荷台の上をさまよう。
「ロレンさん、今日は少し怖いです」
「私も少し怖いです」
「そう見えません」
「怖い顔をして売ると、品が余りますから」
ロレンはいつもの顔で笑った。
けれど、荷台の上の釘と縄が、さっきより少し目立って見えていた。
*
羽音がした。
最初に気づいたのは、子どもだった。井戸のそばで桶を抱えていた子が空を指さし、次に村人たちが一斉に顔を上げる。
ロレンも空へ目を向けた。
空から、人影が降りてくる。鳥ではない。風に乗った布でもない。翼を持つ少女が低い屋根の上を越え、集会小屋の前へふわりと降りた。
ハーピーだ。
一瞬だけ、言葉が出なかった。トレオの商人宿で聞いた話が、朝の笑い話のままではなくなった。
木札を運ぶハーピー。空からひょいと来て、木札を渡したとか。
その噂が、目の前で羽音を持っていた。
「ロレンさん」
マリクの声も、小さい。
「今の、ハーピーですよね」
「ええ」
「噂、本当だったんですか」
「少なくとも、羽の部分は本当でした」
返事をしても、目はリィナから離れなかった。
ラダーナ村人たちは驚いていないわけではない。けれど、腰を抜かすほどでもなかった。何人かは「ああ、来た」とつぶやき、何人かは木札の方を見ている。
慣れ始めているらしい。
その事実の方が、ロレンには少し重かった。
リィナは集会小屋の前でヘルマンに木札を差し出した。
「木札、持ってきたよ」
ヘルマンは両手で受け取った。
「ミストル村からか」
「ミナから。確認だけだって」
「確認だけ……」
「出したら困るものは、だめだって。危ないものも、持ってこないでって。まず、何があるか見るだけ」
リィナはそこで、少しだけ首をかしげた。
「あと、報告役、休んでるよ。歩けるけど、休ませてる」
周りの村人たちの肩が、少しだけ下がった。
「そうか」
ヘルマンは短く息を吐いた。
「無事ならよい」
「じゃ、戻るね」
「待て。返事は」
「返事いる?」
ヘルマンは木札を見下ろし、すぐには答えなかった。
「読む。読んでからだ」
「じゃあ、少し待つ」
リィナは集会小屋の低い柵に腰を下ろした。足をぶらつかせるでもなく、ただ軽く羽を畳む。
ロレンは、釘束のそばに置いた手を動かせなかった。
「木札を運びましたね」
荷台の横で、マリクが小さく息をのんだ。
「運びましたね」
「人みたいに」
「人ではありませんが、用件は人より軽そうです」
「軽そうなのに、みんな顔が重いです」
「そこが商売の匂いです」
そこで、ロレンはようやく目を細めた。
羽音は軽かった。だが、木札は軽くなさそうだった。
*
ヘルマンは木札を開いた。
周りの者が、一歩だけ近づく。
ロレンは近づかなかった。まだ客の話であり、村の話だ。外から来た商人が、木札へ首を突っ込む距離ではない。
けれど、言葉は風に乗って聞こえてくる。
「古釘、使える板、縄があるか、見てほしい……」
ヘルマンの声が低くなった。
「出したら困るものは、出さないでほしい。危ないものは持ってこないでほしい。まず確認だけでよい。無理はしないでほしい」
補佐が横からのぞき込む。
「命令ではありませんな」
「命令ではない」
ヘルマンは木札を握ったまま、さらに読み進めた。
「橋はまだ始めていない。何があるか見てから考える。報告役はこちらで休ませている」
「始めていない、とありますか」
「ある」
「なら、急いで出す話では」
「急がんでよいと書いてある」
「ですが」
「だが、確認しないわけにはいかん」
その場にいた村人たちの顔が、同じ方向へ曇った。
ロレンは、釘束に置いた手を少しだけ動かした。
確認だけ。出したら困るものは出すな。危ないものは持ってくるな。
言葉だけなら、むしろやわらかい。それなのに、ラダーナ村の空気はさらに重くなった。
井戸の桶を置いたまま、村人の一人が口を開いた。
「古釘なら、倉の奥にあったかもしれません」
「曲がったものばかりだろう」
「まっすぐな釘は、柵に使う分です」
「あの柵は外せん。山羊が出る」
「板は?」
「屋根に回す分なら」
「屋根を薄くして橋を直すのか?」
「縄は畑の柵に」
「外せば畑が困る」
ひとつ言うたび、村のどこかが困る。古釘を出せば倉が困り、板を出せば屋根が困り、縄を出せば畑が困る。
確認だけなのに、確認する前から足りないものが顔を出していた。
ヘルマンは木札を閉じた。
「出したら困るものは出すな、とある」
「はい」
「だが、何もないとは言えん」
「はい」
「そんなものが村にあるなら、今ごろ困っておらん」
「はい」
補佐の返事は、だんだん小さくなった。
リィナは柵の上で、首をかしげる。
「ないなら、ないって言えばいいんじゃない?」
村人たちは一斉にリィナを見た。
リィナは少しだけ羽を縮めた。
「だめ?」
「だめではない」
ヘルマンは疲れたように息を吐いた。
「だめではないが、それで済むなら、今こういう顔にはなっておらん」
「顔、重いね」
「重い」
リィナは納得したのかしていないのか、木札の方を見た。
「確認だけだよ」
「だから重いのだ」
ヘルマンはもう一度、木札を見た。
「確認だけで済ませるために、確認せねばならん」
そこで、ロレンは軽く息を吐いた。
やっと、商人が入れる形になった。
*
荷台の横から、ロレンは一歩だけ前へ出た。出すぎず、声だけ届く距離で止まる。
「失礼。どうされました?」
ヘルマンが顔を上げた。
「ロレン殿か」
「ええ。釘と縄という言葉が、少々、こちらの荷台へ転がってまいりまして」
ヘルマンは一度、木札を見た。
「村の橋のことだ。外の商人殿に、すぐ話すようなことでもない」
「すぐ買う話でないなら、すぐ売る話でもございません」
ロレンは丁寧に頭を下げた。
「ただ、橋、釘、縄、板。そのあたりは、商人の耳に引っかかります」
マリクが荷台のそばで、少し緊張した顔をしている。
ヘルマンはしばらく黙っていた。周りの村人も、誰も先に話さない。
やがて、ヘルマンの口が重く開いた。
「灰石橋が、一部落ちた」
ロレンの表情は変わらなかった。
心の中では、帳面の余白が一枚めくられた。
「一部、ですか」
「板が三枚。片側の手すりが一部。橋脚は残っている」
「渡れるのですか」
「普通には渡れん。無理をすれば渡れそうに見える。だから危ない」
「それは、悪い壊れ方です」
村人の何人かがうなずく。
「ミストル村からは、直せという木札ではない。古釘、板、縄があるか見てほしいというだけだ」
「確認ですね」
「確認だけだ」
ヘルマンは言葉を区切った。
「だが、確認だけでも軽くない」
「ええ。釘も縄も、村では軽くありません」
ロレンの目が、荷台へ戻った。
釘束が三つ。細縄が二束。麻縄が少し。布が二枚。軟膏が二つ。小さな金具に、木栓と薄い鉄片。
橋は直らない。だが、何もないわけではない。
「ロレンさん」
マリクが荷台の陰で声を落とす。
「橋を直すほどの量じゃ、ないですよね」
「私の荷は小口です。橋を直すほどの量ではございません」
ヘルマンの顔が、少しだけ沈んだ。
沈んだ顔へ、ロレンは言葉を足した。
「ですが、釘と縄なら少しございます」
村人たちの目が、荷台へ向いた。
「布と軟膏も、少しなら」
「軟膏も?」
「橋の話には釘が要ります。怪我の話には軟膏が要ります。どちらも、足りない時に声が大きくなる品です」
荷台から釘束を一つ取り、手のひらに乗せた。小さい束だ。
それでも、村人の目はそこへ集まる。
「売っていただけるのか」
ヘルマンの声は低い。
「売り物として持ってきております」
ロレンは少しだけ笑った。
「もちろん、商売ですが」
その場の空気が、ほんの少しだけ変わった。
助けではない。施しでもない。命令への返礼でもない。
ただ、困りごとがあり、売れるものがある。ラダーナ村の誰かが、やっと息を吐いた。
ヘルマンは釘束を見つめたまま、苦い顔をした。
「これは助かる。助かるが、ますます申し訳ない」
「申し訳なさで釘は増えません」
ヘルマンが目を瞬かせる。
「代金と、使い道と、運ぶ先を決めましょう」
「運ぶ先……」
「ラダーナ村で使うのか。確認してから置いておくのか。ミストル村へ知らせるのか。橋へ近づけるのか。そこを決めないと、釘も縄も迷子になります」
マリクは釘束を見て、少し困った顔になった。
「釘も迷子になるんですか」
「人が迷うと、釘も迷います」
「商売の言葉ですか」
「荷台の言葉です」
リィナは柵の上から釘束をのぞき込んだ。
「釘、軽いね」
「数が少ないので」
「顔は重いね」
「数が少ないので」
リィナは少し考えて、うなずいた。
「同じだ」
「だいたい、同じです」
ヘルマンはようやく、ほんの少しだけ肩を落とした。
「まず、村の古釘と板と縄を確認する。ロレン殿の荷は、その後で見る」
「それがよろしいかと」
「先に買えば、村のものを見なくなる」
「後で買えば、足りないものだけ買えます」
「しかし、売り切れるのでは」
村人の一人が、不安そうに口を挟んだ。
ロレンは釘束を布の上へ戻した。
「急ぐなら取り置きにいたします」
「取り置き?」
「売ったことにはしない。だが、他へは出さない。代金と使い道を決めるまで、ここに置きます」
「それは……助かる」
「助かる顔は、あとで値を聞く顔になります」
荷台の横で、マリクが小声になる。
「ロレンさん、そこで商売に戻るんですね」
「戻らないと、釘が増えません」
リィナがまたうなずいた。
「申し訳なさで釘は増えない」
「そうです」
「覚えた」
「覚えるほどの言葉でもございません」
「木札に書く?」
「書かなくてよい」
ヘルマンとロレンの声が重なった。
村人たちの間に、少しだけ笑いが戻った。
*
それから、荷台の前で小さな確認が始まった。
ロレンは釘束を三つ、布の上に並べた。
「これは小束です。屋根や柵、戸口の金具には使えます。大きな修繕には足りません」
次に、細縄を二束。
「これは軽いものを縛る程度。人の体重を預けるものではありません」
麻縄を少し。
「こちらは細縄よりましですが、橋の手すりに使うなら足りません。仮に使うなら、場所を選ぶ必要があります」
横から、マリクが縄を見下ろした。
「これで足りますか?」
「足りません」
「足りないんですか」
「足りないものを足りると言うと、後で橋より信用が落ちます」
「信用も落ちるんですね」
「落ちます。拾うのが面倒です」
村人たちは、釘と縄を真剣に見ていた。
買えるなら少しでも、という顔がある。
だが、買えば済むわけではないことも分かっている顔だった。
ロレンは布を一枚、釘と縄の横へ広げた。
「これは当て布にもなります。荷を包むにも、擦り傷を押さえるにも使えます」
「怪我人は、今のところ軽い」
「軽い時ほど、泥を残さない方がよろしい」
「ミナ殿も、泥と冷えの話をしていた」
「なるほど」
ロレンはそこで、初めてミナという名を胸の内に置いた。
木札の主。
出したら困るものは出すなと言う者。
危ないものは持ってくるなと言う者。
確認だけでよいと言いながら、隣村の顔を重くする者。
ロレンはその名前を帳面には書かなかった。
まだ、商売相手ではない。
「軟膏は二つあります」
「買う」
村人の一人が、すぐに身を乗り出した。
「先に村の薬を見る」
「ですが」
「先に見る」
ロレンは軟膏の小瓶を布の上に置いた。
「こちらも取り置きにしましょう。使わなければ、それでよい品です」
「使わない方がいい品を売るんですか」
マリクの目が、小瓶とロレンを行き来する。
「はい。使わないで済んだなら、次の怪我まで残ります」
「商人ですね」
「商人です」
ヘルマンは、釘、縄、布、軟膏を見た。
「ロレン殿」
「はい」
「これは、助かる。だが、申し訳ない」
「その分は、値段を少しだけ真面目に聞いていただければ」
「真面目に聞く」
「高く聞こえたら言ってください。安すぎるとこちらが困ります」
ヘルマンは、思わず苦く笑った。
「商売だな」
「商売です」
ロレンは軽く頭を下げた。
*
木札への返事は、すぐには決まらなかった。
古釘、板、縄を村で確認する。出したら困るものは出さない。危ないものは持ってこない。ロレンの荷には、釘と縄と布と軟膏が少しある。買うかどうかは、村の在庫を見てから決める。
文字にすると短い。けれど、その短さへたどり着くまでに、ヘルマンのしわは増えていた。
リィナは返事の木札を待ちながら、荷台の横で釘束を見ている。
「これ、ミナに言う?」
「何をだ」
ヘルマンの目が、リィナへ向いた。
「商人さん、いたよって」
村人たちの視線が、ロレンへ集まった。
ロレンは軽く手を上げた。
「私は、ラダーナ村へ商売に来ただけです」
「でも、釘ある」
「少しだけです」
「縄もある」
「少しだけです」
「顔、重い」
「それは、少しではないかもしれません」
リィナは納得したように、うなずいた。
「じゃあ、少しあるって言う」
「少し、でお願いします」
ヘルマンは返事の木札を見下ろし、ため息をついた。
「確認する。無理はしない。危ないものは持っていかない。村の在庫を見てから、足りない分はロレン殿の荷も見る」
「それで十分でしょう」
「十分か」
「木札としては。釘としては、まだ不十分です」
「そこは分けるのだな」
「分けないと、値段がつけられません」
ヘルマンは木札に短く書き始めた。
リィナは羽を少し広げ、飛ぶ準備をする。
マリクはその姿に、まだ慣れない顔をしていた。
「本当に飛んでいくんですね」
「ええ」
「荷車より速いですね」
「荷車より落ちやすそうでもあります」
「ロレンさん、怖いことを言わないでください」
「怖いものほど、見ておかないと」
リィナは木札を受け取り、軽く羽ばたいた。
「じゃ、戻るね」
「橋には近づくな」
ヘルマンの注意が飛ぶ。
「近づかないよ。飛ぶから」
「飛ぶからと言って、近づくな」
「はーい」
リィナは軽く返事をして、空へ上がった。
今度も、ラダーナ村人たちは驚きより先に見送った。
ロレンはその姿を見上げた。
トレオで聞いた噂は、全部が腐っていたわけではない。
腐っていない部分ほど、商人には厄介だった。
*
夕方にはまだ早かったが、ラダーナ村の空気は、朝より重く、少しだけ動き始めていた。
村人たちは、古釘のありそうな倉、板をしまった小屋、畑の柵の縄を見に散っていく。誰も走らない。走れば、また何かを落としそうだった。
荷台の前で、ロレンは帳面を開いた。
そこには、ラダーナ村、と書いてある。その下には、余白があった。
ミストル村の名は、まだ書かない。書けば、少し重くなる。
だが、空白のまま閉じるには、今日見たものが多すぎた。
ハーピーは、本当に木札を運んだ。ラダーナ村は、その木札で動いた。橋は一部落ちていて、釘と縄と板が村の顔を重くしている。
帳面の余白を、木炭の先で軽くなぞった。
「書かないんですか」
横から、マリクがのぞき込んだ。
「まだ、書くほどではありません」
「でも、空いてますね」
「ええ」
帳面は、まだ閉じなかった。
「空白にはしておきましょう」
「行くんですか」
「行くとは言っていません」
「見に行くんですか」
「見に行くとも言っていません」
「じゃあ、何を見るんですか」
ロレンは顔を上げた。
村の外へ続く道がある。
その先に、灰石橋がある。
さらに向こうに、まだ帳面へ書いていない村がある。
「道です」
「道?」
「商売は、品物だけではなく、道で決まります」
ロレンは帳面を閉じ、外套の内側へしまった。
荷台の上では、取り置きにした釘束と軟膏が布の上に並んでいる。まだ売れてもいないし、運ばれてもいない。橋も直っていない。
ただ、噂だったものが、値段と重さを持ち始めていた。
ロレンは、灰石橋へ続く道の方を一度だけ見た。
まだ行くとは言わなかった。
それでも、帳面の中の余白だけは、閉じきれずに残っていた。




