表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
53/56

第53話 もちろん、商売ですが

第1部:辺境領と教会編

第9章:壊れた橋と奉公の道


 ラダーナ村の入口は、いつもより静かだった。


 荷車の横を歩きながら、ロレンはまず、その静けさを見た。


 春の村なら、行商人の荷車を見つけると、誰かしら声をかけてくる。塩はあるか。針はあるか。布はどんな厚さか。軟膏は古くないか。子どもが荷台の後ろをのぞき、女たちが小袋の値を聞き、男たちは釘や縄を手に取って、値段の前に重さを確かめる。


 今日は、声が少ない。


 村人はいる。畑から戻る者も、井戸の近くで桶を置いた女も、家の戸口に立つ老人もいる。けれど、その目は荷車だけを見ていなかった。


 村の向こう、古い道の方。それから、空。


 荷台の縄へ手をかけたまま、ロレンは少しだけ目を細めた。


「今日は売れますかね、ロレンさん」


 マリクは荷車を止め、馬の鼻先をなでている。道中で少し泥を跳ねたが、荷は無事だった。


「売れる日には見えます」


「なんか村がそわそわしていませんか?」


「そうですね。買う顔が、荷の方を向いていません」


 マリクの視線が、村人たちの顔を追った。


「買い物どころじゃなさそうですね」


「ええ。品物より先に、何かを待っている顔です」


「何を待っているんでしょう」


「それを品物より先に聞くと、商人は嫌われます」


 いつもの場所より、少し控えめなところで荷車を止めた。


 ラダーナ村には何度か来ている。大きな市が立つわけではないが、春先には小物がよく動く村だ。塩を少し、針を少し、縄を少し。欲しいものは大きくないが、足りないと生活が止まるものばかりだった。


 今日の荷も、それに合わせている。塩の小袋、粗い布、針と糸、小さな釘束、細縄、麻縄、油の小瓶、軟膏、簡単な薬。小さな金具や木栓、農具の留め具、桶の補修に使う薄い鉄片もある。


 大きな修繕をまかなう荷ではない。村の暮らしの、鳴るところを少し押さえる荷だった。


「塩、ありますよ」


 マリクが小さく声を出した。


 井戸の近くにいた女が、一度こちらを見た。けれどすぐ、集会小屋の方へ目を戻す。


「針も、糸もあります」


 今度は戸口の老人が、半歩だけ近づきかけた。それでも足は止まった。


「ロレンさん」


「声は届いています。ですが、目が荷台に残っていません」


「目?」


「品を見るふりをして、集会小屋の方を見ています」


「今日の買い物は、そっち次第ですか」


「ええ。まず、そちらが動かないと財布も動きません」


 ロレンの目は、村の奥へ向いた。


 集会小屋の前で、ヘルマンが誰かと低く話している。顔はいつもより固い。周りの村人も、手を動かしながら上の空だった。


「何か起こっているようですね」


 その言葉に、近くの若い村人がびくりと肩を揺らした。


「……まだ、話し合っているところです」


 ロレンは荷台の縄に置いた手をそのままに、柔らかく笑った。


「なるほど。買い物に来た方は、まず荷を見ます。今日は、皆さん、荷を見る前に同じ方を見ている」


「見ていますか」


「ええ。心配ごとがある時の目ですね」


 若い村人は困ったように、集会小屋の方を見た。


 ロレンも同じ方を見る。


 雲は薄い。風は強くない。


 それでも、村人たちは時々、空を気にしていた。



 商売は、一応始まった。


 荷台の雨除けをめくると、村人が少しずつ集まってきた。塩の小袋に手が伸び、針の包みが見られ、布の目が指で確かめられる。


 だが、いつもの勢いはない。


「この布、少し粗いね」


「粗い分、丈夫です。桶の当て布にも、擦り傷の包みにもなります」


「値は?」


「この幅で、大銅貨一枚と銅貨三枚」


「ううん……」


 女は布を見ている。けれど、目の端は集会小屋の方に残っていた。


 別の男が釘束を手に取る。


「釘か」


「小束です。屋根一枚、柵の一部、戸口の金具。そういうところへ向きます」


「大きい修繕には」


「足りません」


 男はそこで黙り、釘束を戻した。その手つきは、少し重い。


 荷台の横で、マリクが声を落とした。


「釘、戻されましたね」


「戻したのではなく、考えています」


「買わないのでは」


「買わない人の指は、釘を撫でません」


 男は釘束をもう一度見て、それでもまだ取らなかった。


 村の奥から、「木札はまだか」という声が聞こえた。


 井戸の女が布から顔を上げ、老人が戸口から身を乗り出す。集会小屋の前では、ヘルマンも空へ目を向けていた。


 ロレンは釘束を荷台に戻さず、手の届くところへ置いた。


「今日は、値段より木札の方が強そうですね」


「木札が強い日なんてあるんですか」


「あります。木札一枚で、村の財布が全部止まる日も」


「それ、商売としては困りますね」


「困ります。ただ、困りごとは時々、買う顔になります」


 マリクの目が、荷台の上をさまよう。


「ロレンさん、今日は少し怖いです」


「私も少し怖いです」


「そう見えません」


「怖い顔をして売ると、品が余りますから」


 ロレンはいつもの顔で笑った。


 けれど、荷台の上の釘と縄が、さっきより少し目立って見えていた。



 羽音がした。


 最初に気づいたのは、子どもだった。井戸のそばで桶を抱えていた子が空を指さし、次に村人たちが一斉に顔を上げる。


 ロレンも空へ目を向けた。


 空から、人影が降りてくる。鳥ではない。風に乗った布でもない。翼を持つ少女が低い屋根の上を越え、集会小屋の前へふわりと降りた。


 ハーピーだ。


 一瞬だけ、言葉が出なかった。トレオの商人宿で聞いた話が、朝の笑い話のままではなくなった。


 木札を運ぶハーピー。空からひょいと来て、木札を渡したとか。


 その噂が、目の前で羽音を持っていた。


「ロレンさん」


 マリクの声も、小さい。


「今の、ハーピーですよね」


「ええ」


「噂、本当だったんですか」


「少なくとも、羽の部分は本当でした」


 返事をしても、目はリィナから離れなかった。


 ラダーナ村人たちは驚いていないわけではない。けれど、腰を抜かすほどでもなかった。何人かは「ああ、来た」とつぶやき、何人かは木札の方を見ている。


 慣れ始めているらしい。


 その事実の方が、ロレンには少し重かった。


 リィナは集会小屋の前でヘルマンに木札を差し出した。


「木札、持ってきたよ」


 ヘルマンは両手で受け取った。


「ミストル村からか」


「ミナから。確認だけだって」


「確認だけ……」


「出したら困るものは、だめだって。危ないものも、持ってこないでって。まず、何があるか見るだけ」


 リィナはそこで、少しだけ首をかしげた。


「あと、報告役、休んでるよ。歩けるけど、休ませてる」


 周りの村人たちの肩が、少しだけ下がった。


「そうか」


 ヘルマンは短く息を吐いた。


「無事ならよい」


「じゃ、戻るね」


「待て。返事は」


「返事いる?」


 ヘルマンは木札を見下ろし、すぐには答えなかった。


「読む。読んでからだ」


「じゃあ、少し待つ」


 リィナは集会小屋の低い柵に腰を下ろした。足をぶらつかせるでもなく、ただ軽く羽を畳む。


 ロレンは、釘束のそばに置いた手を動かせなかった。


「木札を運びましたね」


 荷台の横で、マリクが小さく息をのんだ。


「運びましたね」


「人みたいに」


「人ではありませんが、用件は人より軽そうです」


「軽そうなのに、みんな顔が重いです」


「そこが商売の匂いです」


 そこで、ロレンはようやく目を細めた。


 羽音は軽かった。だが、木札は軽くなさそうだった。



 ヘルマンは木札を開いた。


 周りの者が、一歩だけ近づく。


 ロレンは近づかなかった。まだ客の話であり、村の話だ。外から来た商人が、木札へ首を突っ込む距離ではない。


 けれど、言葉は風に乗って聞こえてくる。


「古釘、使える板、縄があるか、見てほしい……」


 ヘルマンの声が低くなった。


「出したら困るものは、出さないでほしい。危ないものは持ってこないでほしい。まず確認だけでよい。無理はしないでほしい」


 補佐が横からのぞき込む。


「命令ではありませんな」


「命令ではない」


 ヘルマンは木札を握ったまま、さらに読み進めた。


「橋はまだ始めていない。何があるか見てから考える。報告役はこちらで休ませている」


「始めていない、とありますか」


「ある」


「なら、急いで出す話では」


「急がんでよいと書いてある」


「ですが」


「だが、確認しないわけにはいかん」


 その場にいた村人たちの顔が、同じ方向へ曇った。


 ロレンは、釘束に置いた手を少しだけ動かした。


 確認だけ。出したら困るものは出すな。危ないものは持ってくるな。


 言葉だけなら、むしろやわらかい。それなのに、ラダーナ村の空気はさらに重くなった。


 井戸の桶を置いたまま、村人の一人が口を開いた。


「古釘なら、倉の奥にあったかもしれません」


「曲がったものばかりだろう」


「まっすぐな釘は、柵に使う分です」


「あの柵は外せん。山羊が出る」


「板は?」


「屋根に回す分なら」


「屋根を薄くして橋を直すのか?」


「縄は畑の柵に」


「外せば畑が困る」


 ひとつ言うたび、村のどこかが困る。古釘を出せば倉が困り、板を出せば屋根が困り、縄を出せば畑が困る。


 確認だけなのに、確認する前から足りないものが顔を出していた。


 ヘルマンは木札を閉じた。


「出したら困るものは出すな、とある」


「はい」


「だが、何もないとは言えん」


「はい」


「そんなものが村にあるなら、今ごろ困っておらん」


「はい」


 補佐の返事は、だんだん小さくなった。


 リィナは柵の上で、首をかしげる。


「ないなら、ないって言えばいいんじゃない?」


 村人たちは一斉にリィナを見た。


 リィナは少しだけ羽を縮めた。


「だめ?」


「だめではない」


 ヘルマンは疲れたように息を吐いた。


「だめではないが、それで済むなら、今こういう顔にはなっておらん」


「顔、重いね」


「重い」


 リィナは納得したのかしていないのか、木札の方を見た。


「確認だけだよ」


「だから重いのだ」


 ヘルマンはもう一度、木札を見た。


「確認だけで済ませるために、確認せねばならん」


 そこで、ロレンは軽く息を吐いた。


 やっと、商人が入れる形になった。



 荷台の横から、ロレンは一歩だけ前へ出た。出すぎず、声だけ届く距離で止まる。


「失礼。どうされました?」


 ヘルマンが顔を上げた。


「ロレン殿か」


「ええ。釘と縄という言葉が、少々、こちらの荷台へ転がってまいりまして」


 ヘルマンは一度、木札を見た。


「村の橋のことだ。外の商人殿に、すぐ話すようなことでもない」


「すぐ買う話でないなら、すぐ売る話でもございません」


 ロレンは丁寧に頭を下げた。


「ただ、橋、釘、縄、板。そのあたりは、商人の耳に引っかかります」


 マリクが荷台のそばで、少し緊張した顔をしている。


 ヘルマンはしばらく黙っていた。周りの村人も、誰も先に話さない。


 やがて、ヘルマンの口が重く開いた。


「灰石橋が、一部落ちた」


 ロレンの表情は変わらなかった。


 心の中では、帳面の余白が一枚めくられた。


「一部、ですか」


「板が三枚。片側の手すりが一部。橋脚は残っている」


「渡れるのですか」


「普通には渡れん。無理をすれば渡れそうに見える。だから危ない」


「それは、悪い壊れ方です」


 村人の何人かがうなずく。


「ミストル村からは、直せという木札ではない。古釘、板、縄があるか見てほしいというだけだ」


「確認ですね」


「確認だけだ」


 ヘルマンは言葉を区切った。


「だが、確認だけでも軽くない」


「ええ。釘も縄も、村では軽くありません」


 ロレンの目が、荷台へ戻った。


 釘束が三つ。細縄が二束。麻縄が少し。布が二枚。軟膏が二つ。小さな金具に、木栓と薄い鉄片。


 橋は直らない。だが、何もないわけではない。


「ロレンさん」


 マリクが荷台の陰で声を落とす。


「橋を直すほどの量じゃ、ないですよね」


「私の荷は小口です。橋を直すほどの量ではございません」


 ヘルマンの顔が、少しだけ沈んだ。


 沈んだ顔へ、ロレンは言葉を足した。


「ですが、釘と縄なら少しございます」


 村人たちの目が、荷台へ向いた。


「布と軟膏も、少しなら」


「軟膏も?」


「橋の話には釘が要ります。怪我の話には軟膏が要ります。どちらも、足りない時に声が大きくなる品です」


 荷台から釘束を一つ取り、手のひらに乗せた。小さい束だ。


 それでも、村人の目はそこへ集まる。


「売っていただけるのか」


 ヘルマンの声は低い。


「売り物として持ってきております」


 ロレンは少しだけ笑った。


「もちろん、商売ですが」


 その場の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 助けではない。施しでもない。命令への返礼でもない。


 ただ、困りごとがあり、売れるものがある。ラダーナ村の誰かが、やっと息を吐いた。


 ヘルマンは釘束を見つめたまま、苦い顔をした。


「これは助かる。助かるが、ますます申し訳ない」


「申し訳なさで釘は増えません」


 ヘルマンが目を瞬かせる。


「代金と、使い道と、運ぶ先を決めましょう」


「運ぶ先……」


「ラダーナ村で使うのか。確認してから置いておくのか。ミストル村へ知らせるのか。橋へ近づけるのか。そこを決めないと、釘も縄も迷子になります」


 マリクは釘束を見て、少し困った顔になった。


「釘も迷子になるんですか」


「人が迷うと、釘も迷います」


「商売の言葉ですか」


「荷台の言葉です」


 リィナは柵の上から釘束をのぞき込んだ。


「釘、軽いね」


「数が少ないので」


「顔は重いね」


「数が少ないので」


 リィナは少し考えて、うなずいた。


「同じだ」


「だいたい、同じです」


 ヘルマンはようやく、ほんの少しだけ肩を落とした。


「まず、村の古釘と板と縄を確認する。ロレン殿の荷は、その後で見る」


「それがよろしいかと」


「先に買えば、村のものを見なくなる」


「後で買えば、足りないものだけ買えます」


「しかし、売り切れるのでは」


 村人の一人が、不安そうに口を挟んだ。


 ロレンは釘束を布の上へ戻した。


「急ぐなら取り置きにいたします」


「取り置き?」


「売ったことにはしない。だが、他へは出さない。代金と使い道を決めるまで、ここに置きます」


「それは……助かる」


「助かる顔は、あとで値を聞く顔になります」


 荷台の横で、マリクが小声になる。


「ロレンさん、そこで商売に戻るんですね」


「戻らないと、釘が増えません」


 リィナがまたうなずいた。


「申し訳なさで釘は増えない」


「そうです」


「覚えた」


「覚えるほどの言葉でもございません」


「木札に書く?」


「書かなくてよい」


 ヘルマンとロレンの声が重なった。


 村人たちの間に、少しだけ笑いが戻った。



 それから、荷台の前で小さな確認が始まった。


 ロレンは釘束を三つ、布の上に並べた。


「これは小束です。屋根や柵、戸口の金具には使えます。大きな修繕には足りません」


 次に、細縄を二束。


「これは軽いものを縛る程度。人の体重を預けるものではありません」


 麻縄を少し。


「こちらは細縄よりましですが、橋の手すりに使うなら足りません。仮に使うなら、場所を選ぶ必要があります」


 横から、マリクが縄を見下ろした。


「これで足りますか?」


「足りません」


「足りないんですか」


「足りないものを足りると言うと、後で橋より信用が落ちます」


「信用も落ちるんですね」


「落ちます。拾うのが面倒です」


 村人たちは、釘と縄を真剣に見ていた。


 買えるなら少しでも、という顔がある。


 だが、買えば済むわけではないことも分かっている顔だった。


 ロレンは布を一枚、釘と縄の横へ広げた。


「これは当て布にもなります。荷を包むにも、擦り傷を押さえるにも使えます」


「怪我人は、今のところ軽い」


「軽い時ほど、泥を残さない方がよろしい」


「ミナ殿も、泥と冷えの話をしていた」


「なるほど」


 ロレンはそこで、初めてミナという名を胸の内に置いた。


 木札の主。


 出したら困るものは出すなと言う者。


 危ないものは持ってくるなと言う者。


 確認だけでよいと言いながら、隣村の顔を重くする者。


 ロレンはその名前を帳面には書かなかった。


 まだ、商売相手ではない。


「軟膏は二つあります」


「買う」


 村人の一人が、すぐに身を乗り出した。


「先に村の薬を見る」


「ですが」


「先に見る」


 ロレンは軟膏の小瓶を布の上に置いた。


「こちらも取り置きにしましょう。使わなければ、それでよい品です」


「使わない方がいい品を売るんですか」


 マリクの目が、小瓶とロレンを行き来する。


「はい。使わないで済んだなら、次の怪我まで残ります」


「商人ですね」


「商人です」


 ヘルマンは、釘、縄、布、軟膏を見た。


「ロレン殿」


「はい」


「これは、助かる。だが、申し訳ない」


「その分は、値段を少しだけ真面目に聞いていただければ」


「真面目に聞く」


「高く聞こえたら言ってください。安すぎるとこちらが困ります」


 ヘルマンは、思わず苦く笑った。


「商売だな」


「商売です」


 ロレンは軽く頭を下げた。



 木札への返事は、すぐには決まらなかった。


 古釘、板、縄を村で確認する。出したら困るものは出さない。危ないものは持ってこない。ロレンの荷には、釘と縄と布と軟膏が少しある。買うかどうかは、村の在庫を見てから決める。


 文字にすると短い。けれど、その短さへたどり着くまでに、ヘルマンのしわは増えていた。


 リィナは返事の木札を待ちながら、荷台の横で釘束を見ている。


「これ、ミナに言う?」


「何をだ」


 ヘルマンの目が、リィナへ向いた。


「商人さん、いたよって」


 村人たちの視線が、ロレンへ集まった。


 ロレンは軽く手を上げた。


「私は、ラダーナ村へ商売に来ただけです」


「でも、釘ある」


「少しだけです」


「縄もある」


「少しだけです」


「顔、重い」


「それは、少しではないかもしれません」


 リィナは納得したように、うなずいた。


「じゃあ、少しあるって言う」


「少し、でお願いします」


 ヘルマンは返事の木札を見下ろし、ため息をついた。


「確認する。無理はしない。危ないものは持っていかない。村の在庫を見てから、足りない分はロレン殿の荷も見る」


「それで十分でしょう」


「十分か」


「木札としては。釘としては、まだ不十分です」


「そこは分けるのだな」


「分けないと、値段がつけられません」


 ヘルマンは木札に短く書き始めた。


 リィナは羽を少し広げ、飛ぶ準備をする。


 マリクはその姿に、まだ慣れない顔をしていた。


「本当に飛んでいくんですね」


「ええ」


「荷車より速いですね」


「荷車より落ちやすそうでもあります」


「ロレンさん、怖いことを言わないでください」


「怖いものほど、見ておかないと」


 リィナは木札を受け取り、軽く羽ばたいた。


「じゃ、戻るね」


「橋には近づくな」


 ヘルマンの注意が飛ぶ。


「近づかないよ。飛ぶから」


「飛ぶからと言って、近づくな」


「はーい」


 リィナは軽く返事をして、空へ上がった。


 今度も、ラダーナ村人たちは驚きより先に見送った。


 ロレンはその姿を見上げた。


 トレオで聞いた噂は、全部が腐っていたわけではない。


 腐っていない部分ほど、商人には厄介だった。



 夕方にはまだ早かったが、ラダーナ村の空気は、朝より重く、少しだけ動き始めていた。


 村人たちは、古釘のありそうな倉、板をしまった小屋、畑の柵の縄を見に散っていく。誰も走らない。走れば、また何かを落としそうだった。


 荷台の前で、ロレンは帳面を開いた。


 そこには、ラダーナ村、と書いてある。その下には、余白があった。


 ミストル村の名は、まだ書かない。書けば、少し重くなる。


 だが、空白のまま閉じるには、今日見たものが多すぎた。


 ハーピーは、本当に木札を運んだ。ラダーナ村は、その木札で動いた。橋は一部落ちていて、釘と縄と板が村の顔を重くしている。


 帳面の余白を、木炭の先で軽くなぞった。


「書かないんですか」


 横から、マリクがのぞき込んだ。


「まだ、書くほどではありません」


「でも、空いてますね」


「ええ」


 帳面は、まだ閉じなかった。


「空白にはしておきましょう」


「行くんですか」


「行くとは言っていません」


「見に行くんですか」


「見に行くとも言っていません」


「じゃあ、何を見るんですか」


 ロレンは顔を上げた。


 村の外へ続く道がある。


 その先に、灰石橋がある。


 さらに向こうに、まだ帳面へ書いていない村がある。


「道です」


「道?」


「商売は、品物だけではなく、道で決まります」


 ロレンは帳面を閉じ、外套の内側へしまった。


 荷台の上では、取り置きにした釘束と軟膏が布の上に並んでいる。まだ売れてもいないし、運ばれてもいない。橋も直っていない。


 ただ、噂だったものが、値段と重さを持ち始めていた。


 ロレンは、灰石橋へ続く道の方を一度だけ見た。


 まだ行くとは言わなかった。


 それでも、帳面の中の余白だけは、閉じきれずに残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ