第52話 行商人ロレン
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
トレオにはまだ、灰石橋の板が落ちた話は届いていなかった。
朝の宿場町は、荷の音で目を覚ます。
商人宿の裏手では、馬の鼻息と車輪のきしみが重なっていた。濡れた石畳の上に麻袋が並び、木箱のふたが開けられ、布に包まれた小物がひとつずつ確かめられていく。台所からは薄い麦粥の匂いが流れ、通りの向こうでは、早くも旅人が値段のことで揉めていた。
荷台の前で膝をついているのが、行商人ロレンだった。
年は三十に届くか届かないか。旅慣れた外套はよく手入れされているが、新しくはない。腰の小袋には銅貨と大銅貨が分けて入り、胸元には小さな帳面と木炭が収まっている。
その前に、ラダーナ村へ持っていく荷が広げられていた。
塩の小袋。粗い布。針と糸。小さな釘束。細縄。麻縄。油の小瓶。軟膏。薬草を練った簡単な薬。小さな金具。木栓。農具の留め具。桶の補修に使う薄い鉄片。
どれも、小さい。
だが、小さいものほど、村では急に必要になる。
「塩は少し」
小袋を手に取り、重さを確かめる。
「重くしすぎると、道で泣くことになりますからね」
荷台の反対側では、荷運びの若者マリクが縄を結んでいた。ロレンとは何度か一緒に道を行ったことがある。
「塩は売れるでしょう」
「売れます。だから重いのです」
「売れるなら、たくさん持てばいいのでは」
「たくさん持った塩を道の途中で落としたら、私は塩ではなく涙を売ることになります」
「それは売れませんね」
「売れません」
塩の小袋を二つだけ荷の奥へ入れる。三つ目は手に取ったものの、少し迷って戻した。
ラダーナ村は、商売先として悪くない。大きな村ではないが、春先なら売れるものがある。屋根、柵、農具、戸口、桶、鍋。冬を越した村は、どこかしら傷んでいる。
ただし、荷は重くしすぎない。
道は荷に優しくない。
「釘は……小束を二つ」
釘束を手に取り、荷台の端に置く。
置いてから、少し考えた。
「いや、三つにしておきましょう」
縄を結んでいたマリクの手が止まった。
「釘を増やすんですか」
「春先の村は、屋根も柵も農具も、どこかしら鳴きます」
「鳴きますか」
「鳴きます。戸口はぎいぎい。桶はきしきし。鍬の柄はぐらぐら。鳴くものには、釘か縄か布が要るものです」
「人も鳴きますよ」
「人には塩と薬です」
三つ目の釘束が、荷台の端へ加わった。
それでも、屋根や柵の一部を押さえるくらいの量でしかない。
屋根一枚、柵の一部、農具の継ぎ目、戸口の金具。そのあたりを何とかするための、小さな釘だ。
商人宿の裏口から、宿の女将が顔を出した。手には湯気の立つ木椀がある。
「ロレン、今日もラダーナ村かい」
「ええ。麦粥をいただく前に荷を決めておかないと、食べたあとで財布に甘くなりますから」
「腹がふくれると荷もふえるのかい」
「たいてい、そうなります」
女将は鼻で笑い、荷台をのぞいた。
「また細かいものばかりだね」
「細かいものほど、なくした時に声が大きいのですよ」
「釘が声を出すのかい」
「釘がない時の家主の声です」
「ああ、それは大きい」
女将の笑いに重なるように、隣の荷場から別の行商人が歩いてきた。髭を短く整えた男で、片手に硬い黒パンを持っている。
「ラダーナ村まで行くのか」
「そのつもりです」
「また遠いところへ行くな」
「遠いところほど、針一本で顔が明るくなることがあります」
「そのかわり、道で顔が青くなることもある」
「それは帳面に書かないことにしています」
男は黒パンを噛み、黒枝の森の方角を顎で示した。
「あの辺り、最近妙な噂があるぞ」
針の包みをまとめながら、ロレンは顔だけ上げた。
「噂のない道など、商人には物足りませんよ」
「物足りないで済めばいいがな」
「もっとも、噂で命は買えませんが」
針の包みを荷に入れる。
噂は、荷より軽い。
だが時々、荷より重くなる。
*
噂話は、宿場町では水より早く回る。
商人宿の裏手にも、朝のうちからいくつか流れ込んでいた。
「黒枝の森の方には、妙な女がいるらしいぞ」
髭の商人の声に、女将は木椀を抱えたまま眉を上げた。
「妙な女なら、トレオにもいるよ」
「そういう妙さじゃない。美しい女だそうだ」
「なら、なおさらトレオにもいる」
「妙に近づきがたいとか」
「それは借金取りから見た美人だね」
マリクが笑いをこらえる横で、ロレンは釘束を布で包み直した。
「黒枝の森で美しい女ですか。旅人の目は、朝霧と空腹でいくらでも変わりますからね」
「それだけなら笑い話だが、冬の間、狼魔獣を追い回していたって話もある」
ロレンの手が止まった。
「狼魔獣に追われた、ではなく?」
「追い回していた、らしい」
「人が?」
「女が」
「狼魔獣を?」
「そういう話だ」
女将は木椀を抱え直し、肩をすくめた。
「聞いたのは薪売りの甥の友達の兄だよ。どこまで本当かは、鍋底の焦げより分からない」
ロレンは少し黙ったあと、ふっと笑った。
「ははは。そんな馬鹿な話がありますか」
「俺もそう思う」
「狼魔獣を追い回すほど元気なら、薬はいらなさそうですね」
「薬より墓が要るかもしれん」
「それは売り物にしていません」
笑いながら、軟膏の小瓶をひとつ手に取る。
噂は馬鹿げている。
けれど、狼魔獣という言葉だけは、荷台の上で消えなかった。
「まあ、話半分でしょうね」
小瓶を布で包んだ。
「ですが、狼魔獣が出るという部分だけは、半分でも困ります」
髭の商人は黒パンを飲み込んだ。
「信じるのか」
「信じませんよ」
「なら、なぜ軟膏を増やす」
「狼魔獣を追い回す女は信じません。狼魔獣の噂を聞いた人が、傷薬を買う顔をすることは信じます」
女将の木椀が、笑いに合わせて少し揺れた。
「商人だねえ」
「ええ。噂を売るわけにはいきませんが、噂で売れるものはあります」
軟膏を二つに増やし、さらに布を一枚手元へ寄せる。
「怖い噂のある道ほど、荷は軽く、使い道は多く」
「名言みたいに言ってるが、要は臆病なんだろう」
「臆病でない商人は、帳面より先に墓石が増えます」
「墓石は売らないんだろ」
「売りません。重いので」
マリクがとうとう吹き出した。
*
黒枝の森の噂には、村の名前も混ざっていた。
「ミストル村だったか」
髭の商人は黒パンの欠片を指で払った。
「黒枝の森に近い、あの貧しい村だ」
「ミストル村ねえ」
帳面に、ラダーナ村、と書いた下へ小さく線を引く。
「怖そうな村ですね」
「怖いというより、よく分からん。魔物が出るとか、出ないとか」
「出るならなお怖い」
「出るのに、村はまだ残ってるらしい」
「それは、もっとよく分かりませんね」
女将は木椀を置いた。
「ハーピーが木札を運んだって聞いたよ」
「ハーピーが?」
「空からひょいと来て、木札を渡したとか」
荷台の縄を見下ろしたマリクが、少しだけ息を吐いた。
「荷運びとしては、少しうらやましいですね。空を飛べるなら、坂で泣かなくていい」
「ハーピーに塩を預ける気にはなりませんね」
ロレンは塩の小袋を指で軽く押した。
「空から落ちた塩は、拾う前に泣きます」
隣の荷場から、別の商人が顔を出した。荷の上に腰かけ、朝から干し肉をかじっている。
「俺は、ゴブリンが道具を見ていたと聞いたぞ」
「見ていた?」
「直していたんじゃない。見ていたらしい」
「それはまた、ずいぶん控えめな噂ですね」
「そのあと直したという話もあった。いや、壊したという話だったかもしれん」
「噂がもう曲がっていますね」
「曲がった釘みたいなもんだ」
小さな金具の包みを手に取りながら、ロレンは目だけを帳面へ戻した。
「曲がった釘は、叩けば少しは戻ります。噂は叩くと増えます」
「オークが働いているという話もあったな」
髭の商人は、思い出したように黒パンを持ち直した。
「畑か、木材か、何かを運んでいたとか」
「オークが働く村ですか」
ロレンは笑ったが、すぐに帳面へ目を落とす。
「それが本当なら、私は少し近づきたくありません。嘘なら、噂をした人の想像力に少し近づきたくありません」
「どっちでも近づかないんだな」
「今のところは、ラダーナ村までです」
女将は腕を組んだ。
「そのラダーナ村も、最近はミストル村の方を妙に気にしてるって話だよ」
「隣村なら、気にするでしょう」
「気にしかたが妙なんだとさ。木札だの、橋だの、奉公だの」
「奉公?」
「そこは私も分からないね。誰かが大げさに言ったんだろう」
帳面の端に、木札、橋、隣村、と小さく書く。
書いてから、線で消す。
「噂が多い村ですね」
「多いだろう」
「多すぎる噂は、だいたい半分腐っています」
消した文字の横に、修繕品、と書き直した。
「ただ、半分残ったところに、商売の種が混じることもあります」
髭の商人の目が細くなる。
「行くのか、ミストル村へ」
「行きませんよ」
「今、商売の種と言ったろう」
「種を見たら、すぐ畑へ走る農夫はいません。まず天気と土を見ます」
「お前は農夫じゃない」
「だから、まずラダーナ村へ行きます」
帳面を閉じる。
「森に近い。道が古い。狼魔獣の噂がある。隣の村が妙に気にしている。これで、春先の修繕品が売れないと言う方が不自然です」
「噂は信じないんじゃなかったのか」
「信じません」
針と糸の包みをもう一組、荷の端へ足した。
「ただ、噂を聞いた客は、釘や縄を買う顔をします」
*
荷は、一度決めてからが長い。
入れるものを増やすより、入れないものを決める方が難しい。
荷台の前にしゃがみ、ひとつずつ置き直す。
釘の小束を、三つ。
細縄を二束。
麻縄は少しだけ。太いものは重い。
布は二枚。売れなければ当て布にも、包帯にも、荷の保護にもなる。
針と糸をひと包み増やす。
油の小瓶をひとつ。
軟膏を二つ。
小さな金具と木栓。農具修理用の留め具。鍋や桶の補修に使える薄い鉄片。
塩は、少しだけ。
マリクは荷台の縁に手をかけ、重さを見る。
「それ以上積むと、坂で泣きますよ」
「泣くのはあなたですか、馬ですか、私ですか」
「たぶん全員です」
「では、ここまで」
塩の小袋をもうひとつ持ち上げたが、結局戻した。
「塩は重い上に、狙われると困ります」
「釘は狙われないんですか」
「釘を狙う盗賊は、屋根でも直すつもりでしょう」
「それはそれで嫌ですね」
「ええ。屋根を直す盗賊は、きっと住みつきます」
ロレンは小さく笑い、荷台の奥へ釘束を押し込む。
大きな修繕には足りない。
家一軒を直すにも心細い。
けれど、戸口の金具なら何とかなる。柵の一部なら止められる。桶の箍を押さえる金具なら売れる。鍬の柄を留めるなら、小さな釘でも役に立つ。
村の困りごとは、大きな荷より、小さな数で顔を出す。
「布は売れます」
粗い布を畳み直す。
「裂けば包帯にも、当て布にもなる」
「布を裂くのは、売る側としては惜しくないんですか」
「裂かれるほど必要なら、次も売れます」
「商人ですね」
「商人です」
女将が麦粥を持って戻ってきた。
「ずいぶん実用品ばかりになったじゃないか」
「噂のある道に飾り紐は売りません」
「飾り紐を買う村娘もいるだろうに」
「買うかもしれません。ですが、飾り紐は空腹と雨漏りに負けます」
「夢がないねえ」
「夢は軽い時に売ります。今日は少し湿った噂がありますので」
髭の商人が笑った。
「ラダーナ村までなら、まあ商売の範囲か」
「ええ。ラダーナ村までなら、まあ商売の範囲です」
「その先は?」
「その先は、話を聞いてからです」
「ミストル村ねえ」
髭の商人は、わざとらしく声を低くする。
「魔物がいて、ハーピーが飛んで、ゴブリンが道具を見て、オークが働き、美しい女が狼魔獣を追い回す村の近く」
「情報が多すぎます」
「怖いだろう」
「怖そうな村ですね」
ロレンは麦粥を受け取り、少し冷ましてから口をつけた。
「だから、まだ行きません」
「行かないのに荷を増やす」
「ラダーナ村で売れます」
「売れなかったら?」
「次の村で売ります」
「次の村でも売れなかったら?」
「自分の荷車を直します」
マリクの視線が、荷車の車輪へ落ちた。
「それは少し困りますね」
「困る前に売るのが商売です」
*
出発の前に、ロレンは荷台をもう一度確かめた。
荷車は大きくない。馬一頭で引ける、小口の行商荷だ。馬も若くはないが、道を選べばよく歩く。荷台には雨除けの布が掛けられ、縄で軽く押さえられている。
ロレンは荷台の奥へ釘を押し込み、その下へ塩を収めた。布は取り出しやすいところへ置き、薬と軟膏は揺れないよう木箱の間に挟む。
油は布で巻いた。金具と木栓は、小袋に分けて荷の隙間へ入れる。
最後に帳面を開き、ラダーナ村、とだけ書いた。
ミストル村の名は書かない。
書くほどの商売先では、まだない。
ロレンは帳面を閉じ、外套の内側へしまった。
「日が落ちる前に、道を選びたいですね」
手綱を確かめながら、マリクは黒枝の森の方角を見た。
「黒枝の森の近くは、夕方が早いと聞きます」
「森はどこでも夕方が早いものです」
「狼魔獣も?」
「出ないことを願いましょう」
「出たら?」
「荷を捨てる順番を考えます」
「逃げるんじゃないんですか」
「逃げるために、何を捨てるかを考えるのです」
マリクの顔から、笑いが消えた。
「冗談ですよね」
「半分は」
「どっちの半分ですか」
「道に出てから考えましょう」
宿の裏口では、女将が手を振っていた。
「戻りに変な噂を拾ってきたら、麦粥一杯分は聞いてやるよ」
「では、売れる噂だけ拾ってきます」
「噂は売るんじゃないんだろう」
「売りません。麦粥に替えるだけです」
髭の商人は荷台の横を軽く叩く。
「ラダーナ村へ着いたら、黒枝の森の女の話も聞いてこい」
「聞けたら、ですね」
「狼魔獣を追い回す女だぞ。商売になるかもしれん」
「なりません」
「なぜだ」
「狼魔獣を追い回す方に売れるものを、私は持っていません」
「何なら売れる」
「知りません。狼魔獣用の詫び状でしょうか」
女将が声を立てて笑う。その横で、マリクは手綱を握り直した。
荷台の後ろを押し、車輪の噛みを確かめる。小さくきしむ。まだ直すほどではない。
「では、行きましょう」
「ラダーナ村まで、ですね」
「ええ。ラダーナ村まで」
ロレンはそう返し、荷車の横を歩き出した。
宿場町トレオの朝は、まだ人と荷と噂でざわついている。通りには馬の足音が混じり、荷車の車輪が石畳をゆっくり鳴らした。
ロレンはまだ、灰石橋の板が落ちたことを知らない。
ミストル村で釘と板と縄が足りないことも知らない。
ただ、噂のある道へ向かう行商人として、釘と縄を少し増やした。
荷の奥で、釘束が小さく鳴った。




