第51話 まだ仕事ではありません
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
釘壺は、ちゃんとしまった。
ミナは確かに、そう言った。キキも「まだ」と言った。大人ゴブリンたちも釘壺から少し離れ、オークは丸太を橋へ持っていかなかった。
だから、何も始まっていない。
そのはずだった。
広場の端に置かれた釘壺の前で、キキが座っている。
壺のふたは閉じている。釘には触っていない。壺を開けてもいない。手は膝の上。
ただ、見ている。
その後ろで、大人ゴブリンたちも少し距離を取って並んでいた。こちらも触っていない。けれど、目は釘壺から離れない。
トマは道具袋を肩から下ろし、胃のあたりを押さえた。
「釘壺に見張りがついたみたいになってる……」
ミナはキキの前にしゃがんだ。
「しまったよね?」
「しまった」
「なんで見てるの?」
「見るだけ」
「触ってない?」
「触ってない」
「仕事じゃないよ?」
「仕事、ちがう。釘、見る」
キキの顔は、まじめだった。
ミナは少しだけ困った。
言っていることは守っている。釘には触っていない。仕事も始めていない。見るだけと言われれば、たしかに見てるだけだった。
バルドは釘壺とゴブリンたちを見比べ、深く息を吐いた。
「釘壺を見張るために、釘壺が不安になるとは思わなんだ」
「釘壺が不安になるの?」
「わしが不安になっとる」
「それは分かる」
トマの手が、胃のあたりに戻った。
広場の反対側では、オークの一人が丸太を置いたまま立っていた。丸太は転がらないよう、石で止められている。本人は何かを待っているような顔だが、橋へ持っていく気配はない。
報告役は、丸太の近くに置かれた腰掛けで休んでいた。足には乾いた布が巻かれ、水袋も持たされている。休んでいるはずなのに、目だけは釘壺とゴブリンたちの方へ行く。
「休んでる?」
丸太の近くで、報告役の背筋が伸びた。
「休んでおります。おりますが、気になります」
「足は?」
「足より、釘壺の前のゴブリンが気になります」
「それは分かる」
トマの手が、また胃のあたりへいった。
バルドは釘壺のふたへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「まず言っておくぞ。今日は橋へは行かん」
「うん」
「仕事も始めん」
「うん。見るだけ」
「触るなら、何を触るか決めてからじゃ」
キキの目が、少しだけ明るくなった。
「触る、あと?」
「あと。まだ」
「まだ」
キキは大人ゴブリンたちへ振り向いた。
「まだ」
大人ゴブリンたちは、ほんの少しだけ釘壺から離れた。
ほんの少しだけだった。
*
道具置き場は、広場の端にある小さな小屋だった。
屋根の端は何度も直されていて、板の色がばらばらである。入口の横には古い縄が掛けられ、壁際には割れた水桶、曲がった鍬の柄、使えそうで使えない板が立てかけられていた。
バルドが鍵代わりの木栓を外すと、村人の一人が奥から、釘を入れた小さな桶を抱えてきた。
キキの目が動く。
大人ゴブリンたちの目も動く。
釘桶を抱えた村人は、足を止めた。
「……見ているだけ、なのですか」
「見るだけ」
村人は釘桶を少し胸に寄せた。
「見ているだけにしては、目が近いです」
「釘、近い」
「釘が近いのではなく、あなたたちが近いのでは」
ミナは手を上げた。
「まだ触らないよ。まず、どれだけあるか見るだけ」
村人はおそるおそる釘桶を低い台に置いた。
ふたが開く。
中身は、思ったより少なかった。
まっすぐな釘は、数えるほどしかない。黒ずんだもの、少し錆びたもの、頭がつぶれかけたものが、桶の底に寄っている。
バルドは中を見て、すぐに顔をしかめた。
「橋を直す釘など、村には余っとらん」
「これだけ?」
「これだけでも、取っておいた方じゃ」
横から、村人が小さな木箱を出した。
「曲がった釘ならあります」
箱の中には、抜いた釘、曲がった釘、頭の潰れた釘、先の丸くなった釘が入っていた。釘というより、釘だったものに近い。
バルドが一つつまみ上げる。
「それは釘ではなく、元釘じゃ」
「元釘」
キキの口の中で、新しい言葉が転がった。
大人ゴブリンの一人が、箱の中の曲がった釘をじっと見た。手は出さない。けれど目だけが、曲がったところから先へ、先から頭へ、何度も動いている。
「曲がり、なおる?」
キキが小さく言った。
村人は目を丸くする。
「釘を?」
「釘、なおす」
「橋を直す前に、釘を直すのですか……?」
水袋を抱えたまま、報告役がつぶやいた。
「俺も今それを理解しようとしてる」
トマの声には、諦めと驚きが半分ずつ混じっていた。
キキはミナを見上げる。
「叩く?」
「まだ叩かない」
「釘、なおす?」
「直せるかも、を見るだけ」
「見るだけ」
「うん。どう直すかも、先に見てから」
ミナは曲がった釘をひとつ手に取った。まっすぐにすれば使えるかもしれない。けれど、すぐ折れるかもしれない。錆びが中まで入っているかもしれない。叩き直せても、橋に使っていい強さかどうかは分からない。
「橋に使う釘は、落ちたら困るところに使うんだよね」
「そうじゃ」
バルドは曲がった釘を指先で転がした。
「曲がった釘をまっすぐにしても、橋に使えるとは限らん」
「じゃあ、使えるかどうかも見ないと」
「見ることが増えるな」
「直す前に、見る」
キキの目は、まだ曲がった釘を追っている。
トマは釘桶と曲がった釘の箱を見比べた。
「橋を直す前に、釘を直す前に、釘を見てるんだな」
「今はそれ」
「俺の胃も、まだ仕事じゃないって言ってる」
*
板は、道具置き場の裏に積まれていた。
使えそうなものは、目に見えて少ない。厚さが合わない板、端が割れた板、屋根の修理に回すつもりの板、柵に使うには足りるが橋には心細い板。
ミナは一枚ずつ見ていった。
「これは?」
「屋根じゃ」
バルドが即答する。
「こっちは?」
「冬前に道具置き場の壁へ回すつもりじゃ」
「これは橋に使えそう」
「橋に使えば、屋根が足りん」
「屋根を残せば?」
「橋が足りん」
トマが顔をしかめた。
「橋を直す前に、村の全部が足りないって分かるの、つらいな」
「足りないものを見ないで直す方が怖いよ」
ミナは板の端を指で押した。少し湿っている。乾かせば使えるかもしれないが、橋の上で人の足を支えるには頼りない。
村人が困った顔で一枚の板を抱えた。
「これは屋根に使うつもりでした」
「屋根を空けたまま、橋を直すのは違う」
ミナが言うと、村人はほっとしたように板を戻した。
「橋が困っても、屋根が困ったら村が困る」
「橋も村も困ってますね」
報告役が小さく言った。
「困ってる。だから分ける」
「分ける?」
「使えるものと、使ったら困るもの」
ミナは木札を出して、板の横に置いた。
屋根に使う。
柵に使う。
橋に使えるか見る。
短く書いて、板の山を三つに分ける。大きな分け方だ。まだ決めたわけではない。ただ、混ざったままでは何も分からない。
次に縄を見た。
縄は板よりさらに難しかった。
古い縄はある。ほつれた縄もある。畑の柵に回している縄、道具を束ねる縄、まだ使えるが太さが足りない縄もある。
バルドは一本を持ち上げ、すぐに首を振った。
「縄も余っておらん」
「畑の柵から外すのは?」
「外すわけにもいかん。今度は畑が困る」
「うん。畑の縄を外したら、今度は畑が困る」
「同じことを言っておるな」
「大事だから」
トマが古縄をつまみ、そっと引いた。途中で細い繊維が、ぷつ、と切れる。
「橋には怖いな」
「荷物を持った人が頼るかもしれないから、弱い縄はだめ」
「橋を直すって、釘だけじゃないんだな」
「板も縄も、人もいる」
「そして全部足りない」
トマは胃のあたりを押さえた。
キキは古釘の箱の前から少しだけ移動し、今度はほつれた縄を見ていた。
「縄、なおす?」
「縄は、直すより替える方がいいかも」
「替える、ない」
「そう。だから困る」
キキは難しい顔をした。
「困る、多い」
「多いね」
*
ミストル村だけでは、足りない。
その言葉を、誰も最初に口にしたがらなかった。
釘も足りない。板も足りない。縄も足りない。丸太はあるが、丸太だけでは橋にならない。使えそうなものはあるが、橋へ出せば村のどこかが薄くなる。
バルドは曲がった釘の箱を見下ろし、報告役の方へ顔を向けた。
「ラダーナ村にも、古釘や使える板が残っておらんか」
報告役は水袋を抱えたまま、背筋を伸ばした。
「確認、ですか」
「橋はそちらにも関わる。見てもらえるなら助かる」
ミナはすぐに首を横に振った。
「無理に出してってことじゃないよ」
「はい」
「そっちも村で使うものがあるでしょ。屋根とか、柵とか、畑とか」
「あります」
「余ってるものじゃなくて、使えるものがあるか見てほしいだけ。出したら困るものは、出さないで」
報告役は、少し考えてからうなずいた。
「古釘、板、縄……確認します。ヘルマン様に伝えます」
「危ないものは持ってこないで。先に聞いて」
「先に聞く、ですね」
「うん。見ただけで運ぶと、また困るから」
報告役は何かを思い出したように、ほんの少し青ざめた。
「見ただけで済まなかった橋のことですね」
「うん」
「伝えます」
トマの口から、小さく息が漏れた。
「ラダーナ村も足りなかったら?」
「その時は、その時に考える」
「考えることが増えるな」
「増える前に、まず見る」
報告役は広場の端をちらりと見た。
そこには、丸太を置かれたオークがまだ立っている。釘壺の前にはゴブリンたちがいる。ルシェラは少し離れた場所で、妙に満足そうに腕を組み、何かを小さくつぶやいた。
「……食べ物も、ですか?」
「食べ物は、まだ」
「今、肉という声が聞こえた気がしまして……」
トマが顔をしかめた。
「まだ聞かなかったことにしてくれ」
「聞こえなかったことにします」
「助かる」
*
丸太は、見るだけでも大きかった。
オークの一人が持っている時は、少し太い木の棒に見えた。けれど地面に置くと、広場の端で道をふさいでいる。
もう一本の丸太も、柵の外に横たえられていた。転がらないよう石を置いたはずなのに、村人が近づくたび、みんな少しだけ距離を取る。
ミナは丸太の横にしゃがんだ。
「これは、橋に使えるかもしれない」
オークが顔を上げる。
「持つか」
「今日は持たない。橋には持っていかない」
「橋には、持っていかない」
「置いて。転がらないように。村の柵の中には入れないで」
オークは大きくうなずいた。
そして、丸太をどこへ置けばいいか分からない顔で固まった。
トマが小声で言う。
「持てるのは分かる」
「うん」
「でも、持てるからすぐ橋ってわけじゃないんだよな」
「そう。丸太を置く場所も決めないと」
報告役は丸太を見上げた。
「あれを……橋へ……?」
「まだ持っていかない」
「まだ、なのですね……」
「まだ」
そのあとを、キキも少し遅れて追いかけた。
「まだ」
釘壺の前のゴブリンたちも、何となく「まだ」の顔をした。
バルドは丸太、釘壺、板の山、縄の束を順に見た。
「まず釘をしまえ。次に丸太を置け。板と縄は分ける。その次に――」
言いかけて、止まった。
ルシェラが、うっすら笑っていた。
「その次があるのだな」
「おぬしは黙っておれ」
「道具が足りぬなら、人手で補う」
「まだ人手を使うとは決めておらん」
「人手を使うなら、腹を満たす」
ミナの手が止まった。
「待って」
「働く者には食わせるのであろう」
ルシェラは、当たり前のことのように言った。
それは、ミナがいつも大事にしていることだった。
働くなら食べる。食べたなら役目がある。役目があるなら、無理はさせない。村の中で、魔物も人も、そこは同じだった。
だから、否定しづらい。
「……それは、そうだけど」
トマが胃のあたりを押さえた。
「釘の話から肉までが早すぎる」
「まだ仕事じゃない」
ミナはすぐに言い直した。
「橋も直してない。丸太も置いただけ。ゴブリンたちも釘を見てるだけ。ごはんの話でも、まだ早い」
「ふむ」
ルシェラは少しだけ考える顔をした。
「では、景気づけが必要だな」
「景気づけじゃない」
「肉を用意するぞ」
「だから早い」
「働く前に食う。働くあとにも食う。どちらでも食うなら、肉は要る」
「順番が多すぎる」
トマの声は弱かった。
報告役は水袋を抱えたまま、目を白黒させている。
「橋修理の準備とは……肉を狩ることなのですか……?」
「違う」
ミナは即答した。
「違う、はず」
トマが小さく足した。
バルドはしわを押さえた。
「まず釘をしまえ。次に丸太を置け。その次が肉とは、誰が決めた」
「わたしじゃない」
ミナはすぐに言った。
ルシェラはもう、村の入口の方を見ていた。
そこには、ロウたちがいる。
朝から村の入口付近で伏せたり座ったりしていた狼魔獣たちは、こちらの騒ぎを静かに見ていた。吠えない。返事もしない。ただ、ルシェラの視線が向いた瞬間、一頭の耳がぺたりと寝た。
もう一頭が、そっと目をそらす。
ルシェラは満足そうにうなずいた。
「行くぞ」
ロウたちは返事をしなかった。
けれど、一頭ずつ立ち上がった。
のそり、ではない。
妙に速い。
立ち上がったと思った次の瞬間には、森の方へ足が向いていた。逃げているのか、狩りに行くのか、後ろから見ているミナには分からない。
ルシェラが歩き出す。
ロウたちも森へ向かう。
トマは、広場の真ん中で胃を押さえた。
「追われてるの、どっちだよ……」
報告役は小さく震えた。
「狼魔獣が、追われているように見えます……」
「見たことは、いったん忘れて」
ミナはそう言ったが、自分でもあまり忘れられそうになかった。
橋修理は、まだ始まっていない。
釘も、まだ直していない。
丸太も、橋へ行っていない。
ラダーナ村には、古釘と板と縄を見てもらうだけだ。
それなのに、肉の準備だけが先に走り出した。
「まだ仕事じゃない」
ミナはもう一度、釘壺と丸太の間で線を引いた。
キキが釘壺の前でうなずく。
「まだ」
オークも丸太の横でうなずく。
「まだ」
バルドは深く息を吐いた。
「その“まだ”の間に、なぜ肉だけが森へ向かう」
トマは答えられなかった。
ミナも、すぐには答えられなかった。
森の方から、まだ遠い足音が聞こえた気がした。
橋は直っていない。
道具は見ただけ。
ただ、夕飯だけが、少し早く動き出していた。




