第50話 渡らぬ橋にたたりなし
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
ミナが道具袋の口を結び直すと、バルドは広場の端で腕を組んだ。
報告役は丸太に座らされ、乾いた布を膝に掛けている。まだ落ち着かない顔で木札の行方を見ていたが、返事はもうリィナが運んでいった。水袋は空ではない。足首も、今のところ大きく腫れてはいない。
バルドはそれを一つずつ見てから、灰石橋の方角へ目を向けた。
「橋は見てこい。だが、渡るな」
「うん」
「無理と見たら戻れ」
「うん。渡れそうなら、ラダーナ村まで行く。渡れなかったら、渡らない」
道具袋を持ち上げかけたトマの手が止まった。
「渡れなかったら?」
「渡らない」
「うん、それを先に聞けてよかった」
ミナは袋の中をもう一度見た。乾いた布。薬草を包んだ小袋。水袋。簡単な包帯。細い縄。木札。黒パンの欠片。
釘はない。
板もない。
丸太もない。
中を覗いたトマの顔に、少しだけ安心が戻る。
「本当に橋を直しに行く袋じゃないな」
「怪我人を見る袋だよ。あと、危ないところを分かるようにする袋」
「橋を直す袋は?」
「まだ作ってない」
「作る予定みたいに聞こえるからやめろ」
バルドのしわが、また少し深くなった。
「村を空けすぎるわけにもいかん。わしは残る。報告役は休ませておけ」
「足、ちゃんと見ててね。冷えたままだと痛くなるから」
「わしは薬師ではないぞ」
「腫れてきたらエル婆を呼んで」
「それくらいは分かっとる」
報告役が丸太から立ち上がりかけた。
「私も――」
「座ってて」
ミナ、トマ、バルドの声がそろった。
報告役はそのまま、ゆっくり座り直した。
「……座っております」
「それが今の仕事だよ」
ミナは道具袋を肩にかけた。
ロウたちは、少し離れた草の上でまだこちらを見ていた。ミナが手を上げると、一頭の耳が動く。
「村の入口、見てて。近づきすぎないでね」
「通じたのか」
「分からない」
「分からんことを増やすな」
バルドが額を押さえる。トマも胃のあたりを押さえた。
「行こう、トマ」
「行くけど、俺の胃は置いていきたい」
「置いていったら見られないよ」
「見なくていいものもあるんだよ」
ミナは笑わず、灰石橋へ続く道を見た。
橋は大事だ。
けれど、怪我人を増やしてまで見るものではない。
*
灰石橋へ向かう道は、先日より重く感じた。
畑の端を抜け、草地へ入り、古い道へ移る。報告役が走ってきたらしい足跡は、ところどころ泥でつぶれていた。小さな水たまりの縁には靴の跡が斜めにつき、草の茎が折れている。
泥に潰れた足跡の前で、トマの足が止まった。
「これ、走ったんだよな」
「うん」
「木札を抱えて、水に入って、狼魔獣に見られながら」
「だから休んでもらう」
「そこは本当にそう」
川音が近づくにつれて、ミナの足は少しずつ遅くなった。
道の先に、灰石橋が見える。
遠目には、まだ橋だった。
石の橋脚は川の中に残り、橋の形も残っている。けれど、近づくほどに、橋ではなく穴の空いた道に見えてきた。
中央寄りの板が三枚ない。
片側の手すりは途中から外れ、根元の横木が斜めに傾いている。残った縄は湿って黒ずみ、まだ役に立ちそうな顔をしながら、とてもだめそうなところで揺れていた。
反対側の手すりは残っている。
橋脚も残っている。
横木も、縄の一部も、かろうじて形を保っている。
だから、怖かった。
「これ、渡れそうに見えるのが一番怖いやつだ」
いつもの軽さが、トマの声から少し落ちていた。
ミナは橋の手前で足を止めた。板の端、落ちた場所、残った横木、濡れた板、手すりの切れたところを順番に見る。
身軽な人なら、足場を選び、残った横木に手をかけ、片側の手すりを頼れば渡れそうに見える。
見えるだけだ。
濡れた板は、少し傾いている。足を置きたくなる横木は、根元が浮いている。縄は結んであるように見えて、片方がゆるんでいた。
「うん。これは渡らない」
「即答で助かる」
「行けそうと、行けるは違う」
「行けるかも、で行ったら増えるぞ。怪我人が」
「橋は逃げないけど、焦って渡ると落ちるかもしれない」
トマの視線が、思わず橋の下へ落ちた。
川は深くはない。けれど、石に当たって白く泡立つところがある。落ちれば濡れる。濡れれば冷える。板の端や石に当たれば、擦り傷では済まないかもしれない。
「……よし。渡らない」
ミナはうなずき、橋の手前の地面にしゃがんだ。
そこには、ほどけかけて落ちた印の名残があった。前につけた布のひとつがない。手すりの根元に残っている布は、泥と水を吸って色が変わっている。
「あの印、落ちたんだ」
「これを見たら、直したくなる気持ちは分からなくもないな」
「でも、直せるものを持ってきてない」
「持ってきてたら?」
「それでも、今は直さない。二人で橋に乗ったら危ないから」
「それを先に聞けてよかった。二回目だ」
ミナは道具袋から木札を出した。
まだ書かない。
まず、橋を見る。
板の抜けたところ。手すりの傾いたところ。足をかけたくなる横木。手を伸ばせば届きそうな縄。そこに人が近づかないようにするには、どう見せればいいか。
橋を直すことではなく、橋へ近づかせないことを考える。
「ここ、近づいちゃだめって分かるようにしないと」
「今はそれが一番現実的だな」
「橋はあと。まず、人が落ちないようにする」
ミナは木札に木炭を当てた。
『近づかない』
『渡らない』
『板、落ちています』
短い。
けれど、今は短くないと、読み終える前に足が進む。
トマが細い縄を持ち、橋の手前の杭と道脇の低い木に軽く回した。人の腰を止めるほど強い縄ではない。けれど、道の真ん中に線があるだけで、足は一度止まる。
「これで止まるかな」
「止まらない人もいる」
「そう言うなよ」
「だから木札も置く」
ミナは木札を縄の近くに立てた。風で倒れないよう、足元に石を置く。
橋は目の前にある。
でも、そこへまっすぐ行けないようにする。
それだけでも、何もしないよりはよかった。
*
羽音がしたのは、二人が橋から少し離れて周囲を見ている時だった。
上から影が落ち、リィナが道脇の低い枝に降りた。息は少し弾んでいるが、木札は持っていない。
「伝えてきたよ」
「ありがとう。ヘルマンさんに渡せた?」
「渡した。顔、重かった」
「顔は重いだろうな」
トマの視線は橋から動かない。
リィナは枝の上で片足を替え、ラダーナ村の方を親指で示した。
「怪我、大丈夫そうだったよ。歩いてた。赤いのはあんまり見えなかった」
「そっか」
ミナの肩が、少しだけ下がった。
「歩けてるなら、少し安心かな。でも、あとでちゃんと見ないと」
「尻の人もいた」
「尻の人って言うな」
トマが思わず顔をしかめる。
「だって、座る時に顔が変だった」
「それは尻の人だな……いや、そうだけど」
「ヘルマンさん、木札読んで、もっと顔重くなった。木札は軽かったよ。顔は重かった」
「リィナ、橋は見た?」
リィナは橋の方へちらりと目を向けた。
「見た。軽くなかった」
「重い?」
「重い。あと、穴がある。飛ぶならいいけど、歩くなら嫌」
「うん。渡らないことにした」
「いいと思う。あそこ、足が落ちそう」
リィナの言葉は軽い。けれど、見たままでもある。
ミナはもう一度橋を見た。
渡れそうに見える。
けれど、渡らない。
リィナがラダーナ村側の様子を見てきてくれたことで、その判断は少しだけしやすくなった。怪我人が完全に大丈夫だと分かったわけではない。それでも、今すぐ危ない橋を渡ってまで駆けつける理由にはならない。
「浅瀬も見る」
「報告役が渡ったところ?」
「うん。道にできるかどうか」
「泥だったよ、たぶん」
「たぶんじゃなくて見る」
「ミナ、そういうところ真面目」
「真面目じゃないと、また誰かが泥だらけになるから」
トマの顎が、小さく下がった。
「それは困る。報告役が何人いても足りない」
*
下流の浅瀬は、橋から少し離れたところにあった。
川幅は少し広がり、水は膝より下で流れている。遠目には渡れそうに見える。石もいくつか顔を出し、草の間には踏み分けた跡もある。
けれど、近づくとすぐ分かった。
石は濡れてぬめっている。岸の泥は柔らかく、片足を置くと、じわりと沈む。浅い場所を選べば渡れそうだが、少し横へずれれば急に深くなる。流れも、見た目より冷たそうだった。
ミナは靴の先で岸の泥を押した。
泥が、ぬるりと崩れる。
「これ、道にはできないね」
「道っていうより、罠に近いな」
トマは腰をかがめ、石の上に落ちていた草を拾った。草には泥がべったりついている。
「報告役が泥だらけで来た理由が分かった」
「荷物を持ったら危ない」
「子どもも年寄りも無理だな」
「怪我人を連れて渡る場所じゃない」
リィナは少し上から川を見ていた。
「あたしなら飛ぶ」
「リィナは飛ぶから別」
「人は飛べないね」
「飛べない」
「不便だね」
「便利なら今ごろ橋いらないよ」
トマの声から力が抜けた。
ミナは浅瀬の近くにも木札を置いた。
『ここも道ではありません』
『水、冷たい』
『石、すべる』
木札を覗いたトマの口元が、少しだけ緩んだ。
「最後の二つ、ほとんど生活の注意だな」
「生活の注意でいいよ。落ちたら困るから」
「雨の後はもっと危ないな」
「うん。雨の後は近づかない、も書く」
木札に文字が増えた。
『雨の後、近づかない』
ミナはそれを石で押さえ、細い縄を草の間に渡した。橋ほど目立たないが、足を止める線にはなる。
それ以上は、何もしなかった。
岸を固めることもしない。
石を動かすこともしない。
橋へ向かう道を作ることもしない。
今の手持ちでは、直せない。
「戻る」
「直さないんだな」
「今は無理。材料も人手もない。どう直すかも決めてない」
「それを聞いて今日、三回目の安心だよ」
「三回も?」
「ミナの場合、安心を数えないと逃げるからな」
リィナが首をかしげた。
「安心、逃げるの?」
「ミナが橋を見ると逃げる」
「橋、重いね」
「ほんとにな」
トマは灰石橋の方を振り返った。
近づかないための木札と縄が、川風に揺れている。
橋は、まだ直っていない。
道も、まだ戻っていない。
ただ、渡らないという線だけが、そこにあった。
*
ミストル村へ戻る道で、トマは何度か灰石橋の方を振り返った。
「戻ったら、村長のしわが増えるぞ」
「うん」
「橋もだめ。浅瀬もだめ。今の荷物じゃ直せない。近づかないようにはしてきた」
「うん」
「言うことが全部、しわに悪い」
「でも言わないと」
「分かってる。俺の胃にも来る気がする」
リィナが横を低く飛びながら、二人を見た。
「しわも胃も、増えるの重い?」
「重い」
「運べない?」
「運ばなくていい」
「じゃあ、軽くならないね」
「そういうことを言うな。胃に来る」
ミナは道具袋を持ち直した。
袋の中身はほとんど減っていない。使ったのは木札と縄だけだ。薬草も包帯も、まだ残っている。
使わずに済んだことは、悪いことではない。
けれど、何も解決していないことも分かる。
村の柵が見えてきた。
まず目に入ったのは、丸太だった。
大きな丸太である。
それを、オークの一人が抱えて立っている。
その横に、別のオークがもう一本の丸太を肩に乗せていた。
さらに足元では、ゴブリンたちが釘壺の近くに集まっている。大人ゴブリンの一人が釘壺へ手を伸ばしかけ、キキに袖を引かれて止まっていた。キキはミナを見つけると、ぱっと顔を上げた。
「ミナ、これ、仕事?」
ミナの足が止まった。
トマも止まる。
リィナは空中で一度羽ばたき、近くの柵に降りた。
「……戻ったら、もう“そのあと”が並んでるんだけど」
トマの声は、広場の真ん中で力なく落ちた。
ルシェラは、丸太とゴブリンたちの間に立っていた。妙に堂々としている。誰に命じられたというより、そこにいるだけで、周りがそれらしく並んでしまったような顔だった。
「橋を見るなら、次は橋に手を入れるのだろう?」
「まだ仕事って決めてない」
「ならばと、大きいのと小さいのを並べておいた」
「並べないで」
「丸太を持てる者と、釘に目を輝かせる者がいる。ちょうどよい」
釘壺の横で、キキが少しそわそわしながらミナを見上げる。
「釘、見る?」
「見るだけ」
「まだ?」
「まだ」
「橋、なおす?」
「まだ決めてない」
キキは「まだ」を少し考え、それから大人ゴブリンたちへ振り返った。
「まだ」
大人ゴブリンたちは、釘壺からほんの少しだけ距離を取った。けれど目は、やっぱり釘を見ている。
丸太を抱えたまま、オークの一人が困ったようにミナを見た。
「これは、置くか」
「置いて。でも村の柵の中には入れないで。あと、橋には持っていかない」
「橋には、持っていかない」
オークは大きくうなずき、丸太をどこへ置けばいいか分からない顔で固まった。
バルドが広場の反対側から歩いてきた。報告役はその後ろの丸太に座ったまま、水袋を抱えている。足元には乾いた布がある。
バルドは丸太を見た。
釘壺を見た。
ゴブリンたちを見た。
最後に、妙に満足そうなルシェラを見た。
「……なぜ、丸太がある」
「橋を見るなら、丸太がいるであろう」
「わしは、まだ何も許可しとらんぞ」
「許可の前に、持てる者を見ただけだ」
トマの手が、また胃のあたりへ行った。
「渡らなかったのに、別の何かが始まってる」
「始まってない」
ミナは丸太の方へ一歩出た。
「まだ。まず、ちゃんと見てから」
「見てきたんじゃないのか」
「橋は見た。でも、どう直すかはまだ見てない。材料も、人手も、何をどう使うかも、まだ決めてない」
ルシェラが少しだけ目を細める。
「順番の話か」
「順番の話」
「おぬしは、本当に順番を好むな」
「間違えると、また人が落ちるから」
その一言で、広場が少し静かになった。
ミナは丸太を抱えたオークを見て、釘壺の近くのゴブリンを見て、キキを見た。
怖さは消えていない。
でも、食べ物と仕事と木札を覚えた顔が、こちらの返事を待っている。
「今日は、橋には行かない。仕事も始めない。丸太は置く。釘はしまう。明るいうちに、道具だけ確認する」
「道具、見る?」
キキの顔が少しだけ明るくなる。
「見るだけ」
「まだ」
「まだ」
リィナが柵の上で羽をたたんだ。
「しわ、直すの重そう」
バルドは深く息を吐いた。
「わしのしわは、橋より先に直らんな」
「俺の胃も前に戻らない」
「胃、落ちた?」
「落ちてない。でも危ない」
トマの答えに、リィナは真面目にうなずいた。
ミナはもう一度、丸太と釘壺を見た。
橋は渡らなかった。
怪我人は増やさなかった。
けれど戻った先には、丸太を抱えたオークと、釘壺を見つめるゴブリンたちがいる。
まだ、何も始めていない。
ただ、始まりそうなものだけが、少し早く並んでいた。




