第49話 橋より人
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
ミストル村の入口では、畑から戻ってきたトマが、低い柵の縄を結び直していた。
夕方前の風が、畑の土と黒枝の森の湿った匂いを運んでくる。柵に吊るした木札が、かた、と鳴った。
結びかけの縄を押さえたまま、トマが顔を上げた。
最初に見えたのは、泥だった。
人の形をしている。けれど、靴も裾も膝も泥で、髪には草の切れ端がついていた。胸元だけを両腕で抱え込むようにして、こちらへ走ってくる。
その後ろを、狼魔獣たちが一定の距離でついてきていた。吠えない。噛みつかない。急いでもいない。
ただ、離れない。
「ま、魔狼に追われながら参りました……!」
若い男は、柵の手前で足をもつれさせた。倒れかけた体を、トマが慌てて受け止める。
「追われてるっていうか……座ってるな」
視線の先で、狼魔獣たちは柵から少し離れた草の上に座っていた。一頭は耳だけこちらへ向け、もう一頭は報告役の泥だらけの背中を見ている。
「座っておりますが、追われております!」
「座ってるのに追われてるって、どういう状態だよ」
報告役は答える代わりに、胸元を押さえた。
「木札は無事です……!」
「私は……たぶん、半分ほど無事です……!」
「木札より先に、自分を見ろって言われなかったか?」
「言われました!」
「言われてその状態か」
トマの肩に半分体重を預けたところで、畑の向こうからミナが走ってきた。手には細い縄と、さっきまで結び直していたらしい木札がある。
「トマ、誰?」
「ラダーナ村の人だと思う。あと、ロウたちは座ってる」
ミナの視線が、報告役から狼魔獣たちへ移る。狼魔獣たちは、やはり吠えない。草の上で、ただこちらを見ている。
「ロウ、そこにいて」
ロウらしき一頭が、尻尾を一度だけ動かした。
それが返事なのか、たまたまなのかは分からない。
報告役は、その尻尾だけで肩を跳ねさせた。
「う、動きました」
「尻尾だな」
「尻尾でも動きました」
トマに支えられたまま、報告役は震える手で胸元の包みをほどいた。布は泥で汚れているが、中の木札は乾いていた。
「ミストル村へ、ヘルマン様より……」
そこへ、村の広場の方からバルドが来た。顔はいつものように渋いが、泥だらけの報告役と、草の上に座る狼魔獣たちを見た瞬間、眉間のしわがひとつ深くなった。
「何があった」
報告役は木札を差し出した。
バルドが受け取ると、ミナとトマも横からのぞき込んだ。
灰石橋、一部落ちました。
軽傷あり。
申し訳ありません。
木札は小さく、書かれている言葉もそれだけだった。
けれど、その短さでは軽くならなかった。
広場の空気が、ゆっくり沈む。
「一部とは、どの程度じゃ」
木札の端を持つ指に、少し力が入る。
「板が三枚と、手すりが……片側だけです。一部です。一部です!」
「二度言わんでも聞こえとる」
「申し訳ありません!」
「軽傷あり、とだけ書かれても困るわ。誰が、どの程度じゃ」
報告役が口を開きかけた横で、トマが片手で頭を抱えた。
「やっぱり見るだけじゃ済まなかったじゃないか……」
「見るだけのつもりでした」
「つもりで橋が落ちるのが怖いんだよ」
「一部です!」
「木札が短いのに、内容が重い」
バルドは木札を見下ろしたまま、深く息を吐いた。
「灰石橋か……」
塩も、布も、釘も、薬も、遠くから勝手に歩いては来ない。橋が悪くなれば、ラダーナ村との行き来も、トレオへ向かう道も、もっと面倒になる。
ミナにも、それは分かる。
分かっているからこそ、泥だらけの報告役の足元が目に入った。
靴から水がしみ出している。片手の甲には擦り傷があり、膝の泥は乾ききっていない。肩で息をしているのに、まだ木札の方ばかり見ている。
「橋はあと。あなた、怪我してない?」
報告役は目を丸くした。
「橋は……」
「木札は見た。あなたは?」
「私は、木札を……」
「木札は乾いてる。あなたは濡れてる」
ミナは一歩近づき、報告役の靴と裾へ目を落とした。
「水に入ったの?」
「浅瀬を渡りました」
「冷えてない?」
「木札は冷えておりません」
「木札じゃなくて、足」
報告役は、ようやく自分の足を見た。
「足は……半分ほど無事です」
「半分じゃ困るよ。痛いところは?」
「少し滑りました。膝と、手を」
「足首は?」
「たぶん、大丈夫です」
「たぶんはだめ、あとで腫れることがあるから」
ミナはトマへ目を向けた。
「座らせて。水も。乾いた布、誰か持ってきて」
「分かった」
トマが報告役を広場の端の丸太へ連れていった。報告役はまだ立ったまま戻ろうとしていたが、ミナは丸太を指した。
「まず座って。息を整えて」
「ですが、返事を」
「返事はあと。水を飲んで」
「しかし、橋が」
「橋もあと。怪我を悪くしない方が先」
報告役は、怒られると思っていた顔のまま、丸太に座った。
少し遅れて、ルシェラが森番小屋の方から歩いてきた。面白そうな匂いをかぎつけたような顔をしている。
「ほう。橋を落とし、道を断ったか」
報告役の背筋が、泥ごと伸びた。
「断ってません! 落ちました! 一部です!」
「一部落としたのだな」
「一部落ちたのです!」
「重くするな」
バルドの低い声に、トマも横からうなずいた。
「落としたんじゃなくて、落ちたんだろ。たぶん。いや、どうなんだ……」
「落ちました。触ってしまいましたが、落としたつもりではありません」
「その説明、村長のしわに悪いな」
バルドの眉間がまた深くなる。
報告役の手の甲には、浅い擦り傷があった。泥が入りかけている。
「擦り傷、洗った?」
「こちらへ来る前は、木札を包んでいたので」
「じゃあ洗う。泥は残さない方がいい」
「怒られないのですか」
「怒るかどうかはあと」
「あと、ですか」
「橋もあと。まず、あなたとラダーナ村の怪我人」
報告役は、また木札の方を見た。
「軽傷者は、ラダーナ村へ戻っております」
「誰が怪我したの?」
「若手の者が尻を打ちました。あと、擦り傷が一名です」
「歩ける?」
「歩けます。尻は折れていないそうです」
「尻は、折れる前に言ってほしいな」
トマが小さくつぶやく。
ミナは手元の布を広げたまま続ける。
「血は止まってる?」
「物資係の方が洗っていました」
「泥は落とした?」
「たぶん」
「冷えたままにしてない?」
「たぶん」
「足首は腫れてない?」
「尻の話が多くて、足首までは……」
「誰か見てる?」
「はい。物資係の方と、補佐の方が。ヘルマン様も小屋に」
「それなら、まず返事を送る。あなたは戻らなくていい」
報告役が、座ったまま跳ねかけた。
「戻らないのですか」
「戻らない。走って、水に入って、泥だらけで、狼魔獣にもついてこられたんでしょ」
「追われました」
「追われたと思ってただけだけどな」
報告役はすぐに首を振った。
「思っただけではありません。ついてきました」
「そこは事実だな」
草の上では、狼魔獣の一頭が大きくあくびをした。
報告役はそれを見て、また肩を縮める。
「口が開きました」
「眠いんだと思う」
「牙が見えました」
「そこは見ない方がいい」
ミナは乾いた布を受け取り、報告役の手に水をかけた。冷たい泥が流れ、浅い擦り傷が見えた。
「痛い?」
「少しです」
「なら、これで押さえて。足はあとで見る。冷えたまま走り直したら、今夜痛くなるよ」
「ですが、ヘルマン様へ返事を」
「リィナに持っていってもらう」
その名前が出た途端、近くの柵の上から羽音がした。
リィナが、いつの間にか低い柵に降りていた。手には、どこから拾ったのか細い枝を持っている。
「呼んだ?」
「まだ呼んでないけど、ちょうどよかった。ラダーナ村へ木札を運べる?」
「木札だけなら軽いよ。人は運ばないよ。重いから」
「人は運ばなくていい」
報告役はリィナを見て、少しだけ背筋を伸ばした。名前は知っている。けれど、泥だらけで座らされたところに柵の上から顔を出されると、どう返していいか分からなかった。
「リィナ殿……」
「リィナでいいよ」
リィナは枝をくるりと回し、報告役の泥だらけの足を見た。
「顔も足も重いね」
「木札は軽いです」
「それは分かった」
トマが横から水袋を差し出した。
「まず飲め。木札よりお前の喉が先だ」
報告役は両手で水袋を受け取り、少しだけ飲んだ。飲み終えても、まだ木札の方を見ている。
バルドは新しい木札を取り出した。
「返答を書く。だが、命じる文にはせぬ」
「命令に見えると、また話が重くなるな」
バルドはうなずいた。
「橋に関わると、どうして重くなるんじゃ……」
「今は、怪我の話だから」
ミナは木札の横にしゃがみ、言葉を探した。
「橋の命令じゃないよ。近づかないで、ってだけ。危ないから」
「それも命令に見えんか」
「じゃあ、短くする」
バルドが木炭を持ち、ミナは木札の空きを見た。
「怪我人を先に見てください」
「丁寧すぎるか」
「じゃあ、怪我人を先に」
バルドは短く刻むように書いた。
怪我人を先に。
「橋には近づかないで」
「橋には近づかぬよう、か」
「うん」
橋には近づかぬよう。
「泥を落として、冷やさないように」
「泥と冷えか。橋より細かいな」
「放っておくと悪くなるから」
泥を落とし、冷やさぬよう。
「こちらから見に行きます」
最後に、その言葉を短く添えた。
木札は、それでいっぱいになった。
リィナが木札をのぞき込む。
「木札、軽いね」
それから、周りの顔へ視線を移した。
「でも顔が重いね」
「中身が重いんだよ」
トマは胃のあたりを押さえた。
「落とさないようにするね」
「お願い。ラダーナ村についたら、ヘルマンさんに渡して。途中で橋には近づかないで」
「橋は運ばないよ。重いから」
「橋は運ばなくていい」
リィナは木札を受け取り、軽く羽を広げた。
「返事だけね。人は休む。橋はまだ」
「うん」
「分かった」
羽音がして、リィナは低く飛び上がった。まっすぐ行かず、一度村の上を回る。風を見ているのか、ただそうしたかったのかは分からない。けれど木札はしっかり抱えていた。
報告役は、その姿が小さくなるまで見送った。
「本当に、戻らなくてよいのですか」
「戻らなくていい。乾かして、足を見る」
「休む、のですか」
「休むのも仕事だよ。倒れたら、見る人が増える」
報告役は、少しだけ黙った。
「……休みます」
「うん」
ミナは立ち上がり、道具袋を取りに行く。森番小屋まで戻るほどではない。広場の端に置いていた古い袋から、乾いた布、薬草を包んだ小袋、水袋、簡単な包帯、細い縄、木札を出す。少し迷って、黒パンの欠片も布に包んだ。
トマが袋の中をのぞき込む。
「釘は?」
「持たない」
「板は?」
「持たない」
「橋を見に行くのに?」
「まず怪我人。橋は、近づかないようにしてから見る。直すかどうかは、そのあと」
バルドは木札を握ったまま、灰石橋の方角へ目をやった。
「橋は大事じゃ」
「うん」
「塩も布も薬も、道がなければ来ん」
「うん。でも、怪我人を放って橋を見るわけにもいかない」
バルドは、長い息を吐いた。
「……しわは増えるがな」
「しわはあとでエル婆に見てもらって」
「しわは薬で戻らん」
「じゃあ増やさないようにしないと」
「もう遅いわ」
その横で、ルシェラが腕を組んで、どこか楽しそうに橋の方角を眺めていた。
「ふむ。丸太を抱えたがる大きいのと、釘を見れば目の色を変える小さいのにも、新しい仕事ができたな」
トマは、胃のあたりから目に見えない音がしたような顔になった。
「今、その話をすると、俺の胃が悪くなる」
「胃は増えぬぞ」
「増えた気がするんだよ」
バルドも眉間を押さえた。
「今、わしのしわが増える音がしたぞ」
「まだ仕事って決めてない」
ミナは道具袋の口を結び直した。
「まず人。橋は見てから。手伝ってもらうかも、そのあと」
「順番の話か」
「順番の話」
ルシェラは、少しだけ目を細めた。
「おぬしらしいな」
「乾いた布、もう一枚いるかな」
「余韻を返せ」
「泥があるから」
トマは小さく笑い、すぐに真面目な顔に戻った。
「誰が行く?」
「私とトマ。バルドさんは村で報告役を見てて」
「わしが残るのか」
「戻ってきた時、誰がどこにいるか分かる人がいる方がいい。あと、この人、足を見てからじゃないと帰しちゃだめ」
報告役は水袋を抱えたまま、背筋を伸ばした。
「帰れないのですか」
「まだだめ。足首が腫れてないか見てから」
「木札は……」
「リィナが持っていった」
「返事は……」
「届く」
「私は……」
「乾かす」
報告役は、少しだけ目を伏せた。
「はい」
ロウたちは、まだ草の上にいた。こちらが動くのを待っているのか、ただ休んでいるのかは分からない。一頭が立ち上がり、体をゆっくり伸ばす。
報告役の肩がまた跳ねた。
「また動きました」
「動くよ。生きてるから」
ミナはロウたちへ向かって、手を少し上げた。
「橋の方は危ないから、近づきすぎないで。人が来たら、吠える前に知らせて」
ロウたちが理解したかどうかは分からない。
ただ、草の上で耳が動いた。
それを見て、バルドのしわがさらに深くなる。
「……今のは、通じたのか」
「分からない」
「分からんのに言うな」
「言わないよりはいいかなって」
「そこも胃に悪いな」
道具袋を肩にかけながら、トマがつぶやいた。
ミナは最後に、乾いた布と薬草の包みをもう一度確かめた。
橋は大事だ。
落ちた板も、傾いた手すりも、放っておけるものではない。あの道が使えなければ、塩も布も薬も、今よりずっと遠くなる。
けれど、橋は今、川の上にある。
人は、泥と冷えを抱えて目の前にいる。
「行くよ」
ミナは灰石橋の方角ではなく、まずラダーナ村へ続く道を見た。
「橋じゃなくて、まず人」




