第48話 早すぎた橋直し
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
ラダーナ村から灰石橋へ向かう道は、昼前の光の中でも少し湿っていた。
畑の端を抜け、低い草地を越え、古い道へ入る。荷馬車の轍は途中で浅くなり、ところどころに水を含んだ泥が残っている。風が吹くたび、黒枝の森の方から湿った匂いが流れてきた。
下見役は、四人だけだった。
灰石橋を昔から知っている年長者。木札を持った記録役。手先の動く若い者。それから、走って戻れる若い付き添い。
先頭の年長者は、古い縄を肩にかけている。記録役は木札と木炭を布に包み、手先の動く若い者は細い紐と古布を持っていた。若い付き添いは何も持たない代わりに、何度も後ろを振り返っている。
「これは修理道具ではありません」
記録役は、布に包んだ木札を胸元で押さえた。
「見るための道具です」
「木炭は」
「写すためです」
「紐は」
「近づきすぎぬためです」
「古布は」
そこで、三人の視線が手先の動く若い者へ向いた。
若い者は、古布を両手で持ち直す。
「手を拭くためです」
「橋ではなく?」
「手を拭くためです」
年長者はうなずいた。
「小刀は」
「持ってきておりません」
「えらい」
「釘は」
「持ってきておりません」
「とてもえらい」
若い付き添いだけが、あまり安心していない顔をしていた。
「何も持っていなくても、手はありますよね」
全員が、自分の手を見た。
誰も、すぐには否定できなかった。
「手も、見るためです」
記録役が苦しげにまとめる。
「触るためではありません」
「そこを忘れるな」
年長者は肩の縄をかけ直し、灰石橋の方へ目を戻した。
道の先で、川音が近づいてくる。
*
灰石橋は、まだ落ちていなかった。
古い石の橋脚は川の中で形を保ち、その上に渡された木の床板も、遠目には道のように見える。片側の手すりは少し傾き、もう片側はところどころ縄で縛り直されていた。板の色はばらばらで、湿って黒いところもあれば、乾いて白っぽくなったところもある。
川幅は広くない。
けれど、水音は近い。
若い付き添いは、橋の手前で足を止めた。
「見るだけ、ですよね」
「見るだけだ」
年長者は橋の入り口に近づきすぎないところでしゃがみ、板の並びを目で追った。
橋の手すりには、細い布がいくつか結ばれていた。
ミナがつけた印である。
下見役たちは、そのことを知らないわけではない。集会小屋の木札にも残っていた。危ない板。頼りない手すり。雨の後は怖い場所。
それでも、現物を見ると、木札よりずっと分かりやすい。
「これが、ミナ殿の印か」
「ここを踏むな、ということですね」
記録役は木札を出し、板の数を目で数える。
「こちらにもあります」
「……多いな」
「橋が、それだけ傷んでいるのです」
若い付き添いは、川の方を見ないようにして橋を見た。
「見ただけで、見なかったことにしたいです」
「見に来ておる」
「はい」
年長者は橋のたもとの石を足で軽く押した。石は動かない。そこは、まだよかった。
しかし、中央寄りの手すりに結ばれた布のひとつが、風にあおられていた。
結び目がゆるんでいる。
短く二度結ばれていたはずの布が、片方だけほどけかけ、手すりの根元から少し下がっていた。
記録役の木炭が止まる。
「あれは」
「見えぬほどではない」
年長者は目を細めた。
「だが、このままでは落ちる」
「落ちたら、次に来た者が危ないですね」
「そうだ」
「しかし、触るなと言われています」
若い付き添いは、ほどけかけた布から少しだけ目をそらした。
手先の動く若い者は、古布を握りしめる。
「橋には触りません」
「何を触るのだ」
「印です」
「その印は橋についている」
「では、橋ではなく、印の端にだけ触ります」
「その端も橋についている」
四人は黙った。
川の音だけが、橋の下で白く鳴っている。
記録役が、木札を見下ろした。
「見えぬなら、見えぬと書いて戻る。そう言われています」
「見えてはいる」
「見えています」
「だが、このままでは落ちる」
「落ちると、次に来た者には見えません」
「すると、見えぬなら戻れ、になります」
「今は見えている」
「今、結び直せば、次も見える」
「結び直すとは、直すことではありませんか」
若い付き添いの問いに、手先の動く若い者の顔が真剣になった。
「橋を直すのではありません」
「では」
「見えるようにします」
「それは、直すとは違いますか」
「違うと思いたいです」
年長者は深く息を吐いた。
「あの印が落ちれば、次に来た者が分からずに踏む」
「そうかもしれませんが……」
「あの板は、昔から鳴る」
「鳴る板は危ないのですか」
「鳴るだけならまだよい。鳴らなくなった板の方が怖い」
「今、怖い話を増やさないでください」
若い付き添いは、真面目に青ざめた。
記録役は木札に小さく書き込む。
中央寄り。手すり根元。布、ほどけかけ。
書き終えてから、橋を見る。
「遠くからでは、何枚目の板か分かりません」
「近づくなと言われています」
「近づかずに近づく方法を」
「ありません」
誰も笑わなかった。
本気だった。
*
最初の一歩は、橋の上ではなかった。
年長者が縄を橋のたもとの杭に軽く回し、自分たちが橋へ入りすぎない目印にした。縛るためではない。足を止めるためである。
記録役は、橋の入り口から板を数えた。
一枚目。
二枚目。
三枚目は端が黒い。
四枚目は少し浮いている。
五枚目の先に、ミナの印がある。
「五枚目の先、です」
「五枚目に乗るな」
「乗りません」
手先の動く若い者は、細い紐を手にした。紐の端に古布を引っかけ、ほどけかけた印の近くへ、橋の外側からそっと伸ばす。
届きそうで、届かない。
「もう少しです」
「その“もう少し”が、橋の上だ」
「橋の上ではありません。橋の横です」
「足はどこにある」
若い者は、自分の足元を見た。
片足のつま先が、一枚目の板に少しだけ乗っていた。
板が、こ、と鳴った。
全員が止まった。
「鳴りました」
「鳴っただけだ」
年長者の手が、肩の縄を押さえた。
「鳴る板は危ないのでは」
「鳴る板は、まだ教えてくれる」
「教えられました」
「では戻れ」
若い者は戻ろうとして、紐を見た。
紐の先が、ほどけかけた布に少しだけ絡んでいる。
「絡みました」
「何が」
「紐が、印に」
「外せ」
「外すには、動かす必要があります」
「それは触るうちに入りますか」
若い付き添いは、橋の方を見たまま喉を鳴らした。
記録役は木札へ目を落とす。
「触らない、とあります」
「紐が勝手に触りました」
「紐は誰の手にある」
若い者は、ゆっくり自分の手を見た。
「私です」
「では、お前が触っている」
「紐を通じて、です」
「通じるな」
年長者の足は、橋の手前で止まったまま動かない。
若い者は、慎重に紐を引こうとした。布が少し持ち上がる。ほどけかけた印は、落ちる代わりに、手すりの根元に引っかかった。
あと少しで、結び直せそうだった。
結び直すつもりはない。
ないが、結び目がそこにあった。
「端だけ、押さえれば」
「押さえるな」
「布です」
「布でもだ」
「板には触りません。手すりにも触りません」
「足は」
また、全員が足元を見た。
若い者の片足は、一枚目の板から少し内側へずれていた。
二枚目ではない。
けれど、一枚目でもない。
橋の上だった。
「戻れ」
「はい」
若い者は戻ろうとして、手すりを避けた。
手すりに触らないために、体をひねった。
体をひねったせいで、足元の板が、ぎ、と鳴った。
記録役が息を飲む。
「今の板は、何枚目ですか」
「数えるな」
若い者は、手すりに触らないよう、さらに避けた。
避けた先に、ほどけかけた印が揺れている。
それを見て、反射的に手が伸びた。
「触るな」
「触りません」
「触るな」
「触りま――」
手が、手すりに触れた。
若い者の顔から血の気が引いた。
「……触りました」
次の瞬間、手すりがぐらりと動いた。
古い縄が、乾いた音を立てて切れる。
ばちん。
それほど大きな音ではなかった。
けれど、橋の上では十分すぎた。
片側の手すりが少し外れ、根元の横木が傾いた。
その拍子に、中央寄りの板が一枚、下へ沈む。
こつん。
水音がした。
誰も動けないうちに、隣の板の端が、かたん、と遅れて落ちる。
さらにもう一枚。
どぼん。
川だけが、何も知らない顔で板を濡らしていた。
全員が固まった。
橋が全部落ちたわけではない。
橋脚は残っている。反対側の手すりも、横木も、縄の一部も、まだかろうじて形を保っている。
身軽な者なら、無理をすれば渡れそうに見えた。
だからこそ、絶対に渡ってはいけない壊れ方だった。
「橋が……」
若い付き添いは、喉を詰まらせた。
「落ちたのか」
年長者の口から、ようやく言葉が出た。
「一部です」
記録役は木札を握ったまま、橋を見た。
「一部とは」
「板が二枚……いえ、三枚です」
「三枚……」
「手すりも」
「片側だけです」
「片側だけ……」
手先の動く若い者は、橋の入り口で尻もちをついていた。手には、ほどけかけていた布がある。
布は、結び直されていない。
橋は、少し壊れた。
「怪我人は」
年長者が、やっと村の言葉に戻った。
若い者は自分の腰を押さえる。
「尻を打ちました」
「……尻か」
「村の名誉も、打った気がします」
「折れたのは尻ではないのか」
「たぶん、尻は折れていません」
「では立て」
「立てます」
若い者は立とうとして、少しよろめいた。若い付き添いが手を伸ばしかけ、全員が同時に橋を見る。
誰も、橋には触らなかった。
年長者は、声を低くした。
「これ以上、何も触るな」
「はい」
「見るだけは、終わりだ」
若い付き添いは、泣きそうな顔でうなずいた。
「戻ります」
「走れるか」
「戻る役ですから」
膝は震えていたが、足は動いた。
*
ラダーナ村へ戻った下見役たちは、集会小屋の前で一度止まった。
止まっても、何も軽くならなかった。
木札は無事だった。木炭も無事だった。古布は一枚、少し泥で汚れている。細い紐はほどけ、縄はまだ肩にある。
手先の動く若い者の尻は、本人によれば無事だった。
ただ、顔色が無事ではなかった。
ヘルマンは、小屋の中で報告を受けた。
最初の一言を聞いた時、顔から血の気が引いた。だが、怒鳴らなかった。椅子から立ち上がり、卓に置いていた手を一度だけ握りしめる。
「怪我人は」
「尻を打った者が一名。擦り傷が一名。歩けます」
「誰か流されたか」
「大丈夫です」
「橋はどこまで落ちた」
「中央寄りの板が三枚。片側の手すりが一部外れました。橋脚は残っています。横木と縄も、一部は」
「それ以上、橋には触っていないな」
「触っていません」
ヘルマンは、目を閉じた。
少しだけ。
開いた時には、村長の顔に戻っていた。
「触るな。もう何もするな」
「はい」
「隠すな」
その言葉で、小屋の中の空気が変わった。
「ミストル村へ知らせろ」
補佐が木札を取った。物資係の女は、怪我をした若い者の腕を見る。
「まず、擦り傷を洗います」
「尻は」
「尻は本人が座れるなら後です」
「座れます」
「では後です」
手先の動く若い者は、青い顔で座った。座った瞬間に少し顔をしかめたが、何も言わなかった。
補佐は木札を前にして固まっている。
「どこまで書きますか」
「言い訳は短くしろ」
ヘルマンは即答した。
「木札も短く書け」
「短くすると、申し訳なさが足りないのでは」
「長く書けば、言い訳になる」
物資係の女が、濡れた布を絞りながら言う。
「言い訳を書くには、木札が足りません」
「では、何を書く」
「短く書くなら、橋、一部、怪我、謝罪です」
補佐は木札に木炭を当てた。
灰石橋、一部落ちました。
軽傷あり。
申し訳ありません。
短い。
短すぎる気もする。
しかし、長くすればするほど、橋がさらに落ちる気がした。
「これでよい」
ヘルマンは木札から目を上げた。
「誰が行く」
小屋の中が止まる。
若い付き添いが、手を上げた。
「私が行きます」
「橋は」
「通れません」
「ならどうする」
若い付き添いは、少しだけ胸を張った。
「泳ぎます」
「泳ぐな」
ヘルマン、物資係の女、年長者、補佐の声がほとんど重なった。
「でも、報告が遅れます」
「お前まで流れたら、橋と人と報せが全部なくなる」
「木札だけは守ります」
「自分を守れ」
物資係の女は、濡れた布を桶の縁に置いた。
「報せを届ける者が流れたら、何も届きません」
「では」
「下流の浅瀬を探せ。渡れるところを使え。水が深ければ戻れ」
ヘルマンは木札を若い付き添いへ渡した。
「濡らすな、とは言わん」
「濡らしません」
「お前が無事なら、少し濡れてもよい」
「木札は無事にします」
「お前もだ」
「はい」
若い付き添いは木札を布で包み、胸元に入れた。物資係の女が、さらに上から古布を巻く。
「木札は、これで少しは濡れにくいです」
「木札より、足元を見ろ」
「はい。足元を見ます」
「危ないと思ったら戻れ。報せは、その後でいい」
ヘルマンは、木札を渡した手をすぐには戻さなかった。
怒るより先に、知らせることがあった。
*
若い付き添いは、下流の浅瀬を探して歩いた。
灰石橋の上は通らない。
橋を見ないようにしても、川音はついてくる。板が落ちた音はもう聞こえない。けれど耳の奥に、ばちん、こつん、かたん、どぼん、が残っていた。
浅瀬は、思っていたより遠かった。
川は深くない場所もある。だが、冷たい。石はぬめり、足を置くたびに靴の中へ水が入る。若い付き添いは、木札を包んだ胸元だけを両腕で守りながら、慎重に渡った。
一度、足を滑らせた。
膝まで泥についた。
それでも木札は胸元にある。
「木札は無事です」
返事はない。
次に、もう片方の足が沈んだ。
「私は……半分ほど無事です」
やはり、返事はない。
川を渡りきった時には、靴も裾も泥まみれだった。片手は擦りむき、髪に草がついている。だが、木札は乾いていた。
若い付き添いは、胸元を押さえて息を吐く。
「届けます」
そこから先は、ミストル村へ向かう道だった。
灰石橋を通らない分、遠回りになる。古い道は草に覆われ、ところどころで足を取られる。木の根が張り出し、低い枝が顔に当たる。
泥だらけの足で走るには、向いていなかった。
それでも走った。
橋が一部落ちた。
軽傷はある。
申し訳ありません。
短い木札の中身を、何度も頭の中で繰り返す。途中で言い訳が増えそうになり、そのたびにヘルマンの声が戻ってくる。
言い訳は短くしろ。
木札も短く書け。
報告役まで長くなってはいけない。
そう思ったところで、茂みの向こうが黒く動いた。
若い付き添いは足を止める。
狼。
いや、ただの狼ではない。背の低い草の上から、こちらを静かに見ている。濡れた土より暗い毛並みの中で、目だけが夕方前の光を受けていた。
ミストル村にいるという、狼魔獣だ。
若い付き添いは、胸の奥で息を詰めた。
「狼魔……」
狼魔獣は吠えもせず、噛みつきもせず、少し離れたところで止まっていた。
襲ってこない。
それが、かえって怖かった。
若い付き添いが一歩下がると、狼魔獣も一歩だけ横へ動く。道をふさぐのではなく、逃げ道を塞ぐのでもなく、ただ視界の端に残る位置へ移った。
「吠えない」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
「噛まない。でも、離れない」
胸元の木札を押さえた手に、力がこもる。逃げても無駄だと思った。けれど、届けなければならない。
彼は走り出した。
狼魔獣たちは急がなかった。一定の距離を保ったままついてくる。若い付き添いが道を外れかけると、一頭が横へ回り、吠えもせず、追い立てるほど近づきもしない。
ただ、離れない。
それは、見張りのようでもあり、案内のようでもあり、泥だらけの報告役からは無言の追跡にしか見えなかった。
「木札は無事です」
走りながら、また口からこぼれた。
「私は……たぶん、まだ半分ほど無事です」
狼魔獣は何も答えない。
その沈黙を背中に受けたまま、若い付き添いは走った。やがて、ミストル村の低い柵と、畑の端、木札の吊るされた入口が見えてくる。
若い付き添いは、胸元の木札をさらに強く押さえた。
後ろには、吠えない狼魔獣たちの足音がある。
前には、ミストル村がある。
彼は最後の力で、柵へ向かって走った。




