第47話 橋は奉公になりますか
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
ミストル村の空に、昼を少し過ぎた風が流れていた。
畑の端では、春の土を起こす音がまだ続いている。森番小屋の方からは、薪を割る音が一度だけ響いた。村道では、犬が眠そうに伏せている。
その上を、軽い羽音が横切った。
「あ、リィナだ」
ミナが顔を上げるより先に、トマが眉を寄せた。
「軽そうに飛んでるな」
「リィナはだいたい軽いよ」
「いや、今はそこじゃない」
リィナは村の柵の上にふわりと降りた。片足で器用に止まり、もう片方の足で柵をこつんとたたく。手には小さな木札がひとつ。袋はない。
「ただいま。木札、軽かったよ」
バルドの眉間に、早くも一本しわが寄った。
「中身は」
「軽い」
「重さの話ではない」
「ええとね、ラダーナ村は、隣村として灰石橋を見るって」
リィナは木札を差し出した。
「橋を見るだけ。軽いね」
村道の空気が、少しだけ止まった。
ミナは木札を見た。トマは橋のある方角を見た。バルドはリィナではなく、木札を受け取る自分の手を見た。
「……見るだけで済めばよいが」
「絶対、軽いやつじゃない」
その声は、いつもの軽口より少し低かった。
リィナは柵の上で、爪先をこつんと鳴らした。
「橋は運ばないよ。重いから」
「そういう話でもない」
バルドは木札を開いた。そこには、返書を受け取ったこと、下ではなく隣村として扱うことを承知したこと、そして隣村として灰石橋を見ることが短く記されていた。
橋を見るだけ。
最後に、そう添えられている。
文字は軽い。
しかし、読み終えたバルドの顔は軽くなかった。
「橋の話は、橋の話じゃ」
バルドは木札から目を離さない。
「礼の話にするな。村同士の話から外すな」
「でも、ラダーナ村の人、顔が重かったよ」
「手紙より重かった」
「顔の重さは量らんでいい」
トマの視線は、自然とバルドの眉間へ寄った。
「また増えてる」
「何がじゃ」
「しわ」
「増やしたくて増やしとるわけではない」
ミナは木札を見たまま、小さく息をついた。
「灰石橋を見るんだよね」
「そう書いてある」
「あの印、まだ残ってるかな」
バルドとトマの視線が、ミナへ向いた。
ミナは道具袋も何も持っていない自分の手を見下ろす。
「この前、危ない板のところに布を結んだでしょ。手すりの根元にも。雨が降ってたら、緩んでるかもしれない」
「ラダーナ村の方でも、印の話は知っとるはずじゃ」
「うん。だから、教えなきゃっていうんじゃなくて」
ミナは少し考えた。
「見えるかなって。踏んじゃだめな板が、ちゃんと分かるといいけど」
トマは腕を組んだ。
「見るだけって言う時ほど、見るだけじゃ済まないやつだろ」
「見るだけで済ませるのじゃ」
バルドの声は硬かった。
「済ませたいのは分かるけどさ」
「分かるなら黙っとれ」
その時、森番小屋の方からルシェラがのそのそと歩いてきた。手には、どこから持ってきたのか焼いた芋がある。
「ふむ。橋をもって働きを示すか。よいではないか。それもまた奉公であろう」
「重くするな」
「今それを言うな」
バルドとトマの声が重なった。
ルシェラは芋をかじりながら、少しだけ不満そうに目を細めた。
「橋が重いのであろう。わたしは事実を言っただけだ」
「事実でも、今は黙ってて」
ミナの一言で、ルシェラは素直に黙った。芋は食べた。
バルドは木札を畳み直す。
「返すか」
「返事?」
「何も返さねば、危ないところへ向かう者に何も言わんことになる。だが、書けばこちらが橋を見ろと命じたように見えんか」
「また難しいやつだ」
トマが頭をかいた。
ミナは、灰石橋の板の音を思い出していた。ガルムが足を置いた時の、低い音。折れる音ではない。けれど、安心できる音でもなかった。
「命令じゃなくて、怪我しないで、ならいいんじゃない?」
バルドは、すぐには答えなかった。
「……書くなら、そのくらいで止めることじゃ」
「そのくらい?」
「長く書けば書くほど重くなる」
「えっと……印が見えなかったら、無理に探さなくていい。危ないと思ったら戻って。手すりには頼りすぎないで。雨の後は行かない方がよくて、あと、踏む板は――」
「もう増えとる」
「ほらな」
トマが少し笑った。
ミナは頬をふくらませたが、言い返さずに考え直す。
「じゃあ、危ないなら戻って。印が消えてたら探さないで。触らないで。怪我しないで」
「まだ多いが、だいぶましじゃな」
「ほとんどお願いだな」
「命令よりはよい」
バルドは木札を一枚取り出すと、少し迷ってから、短く刻むように書いた。
危なければ戻られたい。
印が見えぬなら、無理をされぬよう。
橋には触れぬよう。
怪我なきよう。
書き終えた木札は、手のひらに収まるほど小さかった。
けれど、バルドはそれをしばらく見ていた。
「軽い?」
リィナがのぞき込む。
「木札は軽い」
バルドは深く息を吐いた。
「中身は知らん」
「じゃあ、持てる」
リィナは木札を受け取った。羽を広げる前に、ミナの顔を見る。
「橋は運ばないよ?」
「うん。橋は運ばなくていい」
「怪我しないでって言えばいい?」
「それは言って」
「分かった。怪我しないで。軽いね」
リィナは空へ上がった。
木札は軽い。
羽音も軽い。
けれど、バルドのしわは少しも軽くならなかった。
*
ラダーナ村の集会小屋では、また豆皿が出ていた。
前より少ない。
物資係の女は、皿を置く時に少しだけ目をそらした。リィナはそれに気づかず、一粒つまんで噛む。
「ただいま。木札、軽かったよ」
ヘルマンは両手で木札を受け取った。補佐が木札を構え、物資係の女が帳面を開く。若い付き添いは、リィナの手元とヘルマンの顔を交互に見ていた。
「ミストル村からです」
「うむ」
ヘルマンは木札を読む。
読み終えるまでの間、集会小屋の中では、豆を噛む音だけが小さく響いた。
「危なければ戻られたい。印が見えぬなら、無理をされぬよう。橋には触れぬよう。怪我なきよう」
補佐が、言葉をひとつずつ木札へ写していく。
若い付き添いが、小さく息を吐いた。
「命令、ではありませんね」
「念押しだ」
ヘルマンは木札を卓に置いた。
「そして、正しい」
物資係の女が帳面の端へ印をつける。
「触れぬよう、が増えました」
「こちらでも同じことを書いておる」
ヘルマンは帳面の端を見た。
「見るだけだ。直す話ではない」
年長者の一人が、灰石橋の木札を見た。
「あの橋は、足元からして危ない」
「はい。だから、確かめます」
「だからといって、直すなよ」
「直しません」
補佐の返事が早すぎて、何人かが少し不安そうな顔をした。
リィナは豆をもう一粒つまむ。
「ミナ、怪我しないでって言ってたよ」
「それは、ありがたい」
「あと、橋は運ばなくていいって」
「それも、ありがたい」
若い付き添いが、少しだけ肩の力を抜いた。
ヘルマンはその様子を見て、すぐに咳払いをした。
「よいか。これは隣村としての下見だ。村中へ広げる話ではない」
補佐がうなずく。
「ミナ殿が印をつけてくださった箇所を、改めて確認する」
「新しく探し回るのではない」
「はい」
「木札へ写す。帳面にも残す。見えぬなら、見えぬと書いて戻る」
若い付き添いが、おそるおそる手を上げた。
「印が薄れていた場合は」
「薄れていた、と書け」
「落ちそうな場合は」
「落ちそう、と書け」
「落ちないように押さえるのは」
ヘルマンの眉が動いた。
「押さえるな」
物資係の女が、静かに帳面へ書き足す。
「落ちそうでも、押さえない」
「そこまで書くのですか」
「書かないと、誰かが押さえます」
若い付き添いは目をそらした。
ヘルマンは卓を見回す。
「下見は少人数だ。年寄りをぞろぞろ連れて行くな。若い者を何人も出すな。畑を空けるな。橋のたもとに人を集めるな」
「では、灰石橋を昔から知っている者を一人。記録役を一人。手元を見る若い者を一人か二人」
補佐の木札に人数が並ぶと、物資係の女がすぐに身を乗り出した。
「それと、若い付き添いを一人。走って戻れる者が必要です」
「走るのですか」
「危ないなら戻る、です」
若い付き添いは、自分の足元を見た。
「……戻る役ですか」
「見る役でもあります」
「見るだけ、ですよね」
「見るだけだ」
ヘルマンの返事は短かった。
その短さが、かえって重かった。
*
下見役の支度は、集会小屋の端で行われた。
木札が二枚。
木炭が一本。
帳面代わりの薄い板。
細い紐。
小刀。
古布。
それから、縄。
並べるたびに、若い付き添いの顔が少しずつ曇っていく。
「木札は、印を書き写すためです」
記録役に選ばれた男は、細い指で木札を撫で、木目の向きを確かめている。
「木炭も、印や板の位置を写すためです」
「小刀は」
「木札を削るだけです」
手先の動く若い者は、小刀を鞘に戻した。
「橋は削りません」
「先に言うな」
ヘルマンの声が低く落ちた。
「言わねば、言われると思いました」
物資係の女は古布を畳み直した。
「古布は、濡れた印を拭うためです」
「拭うのは、触るうちに入りますか」
若い付き添いの顔は真剣だった。
小屋の中が、少しだけ止まった。
物資係の女は、古布を見た。
「印が見えるように、そっとです」
「そっとなら、触っていないことになりますか」
「なりません」
間を置かず、ヘルマンの声が返った。
「見えぬなら、見えぬと書け。拭わずに済むなら拭うな」
物資係の女は、古布を一枚減らした。
「では、一枚だけ」
「なぜ残す」
「手が汚れた時に使います」
ヘルマンは少しだけ考え、うなずいた。
「橋ではなく、手を拭け」
「はい」
次に細い紐が出た。
「これは、印の位置を測るためです」
「測るには近づくのでは」
「近づきすぎないように、端から測ります」
「端が危なければ」
「測りません」
物資係の女の返事が先に出た。
若い付き添いは、小さくうなずいたが、まだ安心していない。
「縄は」
「近づきすぎぬようにするためです」
年長者が、昔から使っているらしい古い縄を持ち上げた。
「橋を縛るものではない。人を引くものでもない。足を止めるためだ」
「足を止める縄って、軽いの?」
リィナが窓枠から顔を出した。まだ帰っていなかった。
「重い」
年長者の顔は真面目だった。
「でも、落ちるよりは軽い」
「それは分かる」
リィナは納得した顔で羽を整えた。
ヘルマンは、下見役の前に立った。だが、外へ出る支度はしていなかった。
「わしは行かん」
その一言で、何人かが顔を上げる。
「村で待つ。戻ってから報告せよ。橋の上で何かを決めるな」
「はい」
「見るだけだ。直すな。外すな。橋に手を入れるな。危ないと思ったら戻れ。ミナ殿の印を確認し、木札へ写すだけだ」
補佐が、一つずつ木札へ写していく。
「見えぬなら、見えぬと書いて戻れ」
手先の動く若い者が、小刀の鞘を指で押さえた。
「板が浮いているように見えた場合は」
「浮いている、と書け」
「本当に浮いているか、近くで見ないと」
「近くで見て危なければ、戻れ」
「軽く押して確かめるのは」
「押すな」
ヘルマンの返事は早かった。
若い付き添いの声が、ぽつりと落ちた。
「見るだけが、少し重くなっていませんか」
誰もすぐには答えなかった。
物資係の女は、帳面へ二つの言葉を書いた。
灰石橋を見る。
触らない。
それだけなら、木札一枚で済むはずだった。
けれど卓の上には、木札と木炭、細い紐、小刀、古布、縄が並んでいる。
橋を直すためではない。
ミナがつけた印を確かめ、写し、危ないところを知るためである。
若い付き添いは、その並びを見てから、帳面の文字をもう一度見た。
「……まだ、見るだけですよね」
ヘルマンは答えなかった。
代わりに、帳面の端を指で押さえた。
そこには、はっきりと書かれている。
触らない。
下見役は、それぞれの道具を手に取った。
まだ、誰も橋を直すとは言っていなかった。




