第46話 御恩と奉公
第1部:辺境領と教会編
第9章:壊れた橋と奉公の道
ラダーナ村の見張り台に、昼の風が引っかかっていた。
薄い雲が流れ、村道の土は少し乾いている。灰石橋へ続く道は、いつもより静かだった。荷馬車のきしむ音はなく、商人の鈴も聞こえない。畑の端で鍬を置く音と、鶏が落ち葉をつつく音だけが、いつもの昼に小さく混じっていた。
その静けさを破るように、空から羽音が降りてきた。
「あ、来た」
若い付き添いは、言ってから慌てて口を押さえた。声に出したところで悪いわけではない。それでも、空から何かが来た時に、村全体へ響くような声を出すのは心臓に悪い。
ハーピーのリィナは、村の入口近くの柵にふわりと降りた。片手には封をされた手紙を持ち、もう片方の手は空いていた。
「手紙だけだから軽かったよ」
最初の一言が、それだった。
若い付き添いは一度うなずきかけて、途中で止まった。
「……軽かった、ですか」
「うん。袋もいらないくらい」
「それは、よかったです」
よかったのか。
若い付き添いは、自分でそう答えてから迷った。手紙はたしかに軽い。けれど、ラダーナ村の上に降りてきたものまで軽いとは、とても思えない。
近くにいた村人が、畑の方と集会小屋の方を交互に見た。次の瞬間、集会小屋へ走る。途中で一度戻ってきて、水差しの置き場所を聞くと、また走った。
リィナは柵の上で羽を畳む。
「ここで待つの?」
「はい。少しだけ。村長を呼んできます」
「待つのは平気。飛んだあとだし」
「椅子を用意します」
「柵でもいいよ」
「柵は、こちらの心臓に悪いです」
「柵なのに?」
若い付き添いは、返事をあきらめた。
まもなく、集会小屋の方からヘルマンが出てきた。早足ではあるが、走ってはいない。走れば慌てているように見えるし、歩けば遅い。その間を選ぼうとして、かえって歩幅がおかしくなっている。
補佐が木札を抱えて続く。物資係の女は、水差しと小さな皿を持っていた。皿の上には干した豆が少しだけある。
丁寧にしすぎてもいけない。かといって、粗末に扱うわけにもいかない。その加減を探すせいで、三人とも少しぎこちない。
ヘルマンは柵の前で止まり、深すぎない程度に頭を下げた。
「届けてくれたこと、感謝します」
「うん。バルド、すっごいしわだった」
ヘルマンの顔が固まり、補佐の木札がかたりと鳴った。物資係の女は、なぜか皿の向きを少しだけ直した。
「しわ、ですか」
「うん。すっごいの。余計なことは言うなって言われたから、言わないよ」
リィナは胸を張った。
「言ってないよ。たぶん」
「今ので、少し出ました」
補佐の声はとても小さかった。
リィナは首を傾げる。
「そう? でも、手紙はちゃんと持ってきたよ。重くなかった」
ヘルマンは両手で手紙を受け取った。封のある紙一枚が、手の中に収まる。そこにバルドの名があるだけで、柵の周りにいた者たちの肩が少し重くなった。
リィナは柵の上で羽を整えた。
「手紙って軽いのに、みんな重そうだね」
その通りすぎて、誰も返せなかった。
*
集会小屋には、すぐに人が集まった。
卓の周りには、ヘルマン、補佐、物資係の女、年長者が二人、若い付き添いが揃った。リィナは、窓際に用意された椅子にちょこんと座っている。
リィナの前には水差しと豆皿が置かれていた。皿は小さい。村の丁寧さとしては十分で、備蓄としては少し痛かった。そのあたりが、いかにもラダーナ村らしかった。
「食べていいの?」
「どうぞ」
「甘い?」
「甘くはありません」
「じゃあ、豆だね」
リィナは一粒つまんで噛んだ。
「軽い」
若い付き添いは、少しだけ豆皿を見た。
「……豆の感想としては、珍しいですね」
その小さな声は、誰にも拾われなかった。
ヘルマンが封を切ると、紙を開く音が集会小屋の中でやけに大きく響いた。補佐は木札を構え、物資係の女は帳面を開く。年長者たちは椅子ごと少し卓へ寄り、リィナも豆を持ったまま身を乗り出したが、たぶん文字は読んでいない。
ヘルマンは、最初の文を読んだ。
「ミストル村は、ラダーナ村を下に置くつもりはない」
沈黙が落ちた。
年長者の一人が、膝の上で手を組み直した。
「……傘下は、受け入れられぬか」
「はい」
補佐が木札に印をつける。
「上下は作らない、ということです」
若い付き添いは、少しだけ肩を落とした。
「では、村同士は」
ヘルマンは次の行へ目を移す。
「今まで通り隣村として付き合う、とある」
「隣村」
物資係の女が、帳面にそのまま書きつけた。
「隣村なら、塩も布も、相談と対価ですね」
「続きにある」
ヘルマンの指が紙を追う。
「物のやり取りは、これまで通り対価と相談を忘れぬこと」
物資係の女は小さくうなずいた。
「分かりました。傘下ではなく、取引です」
「取引だけではない。隣村だ」
年長者の一人が、低く言う。
「それでも、下には置いてもらえぬ、か」
「そうだ」
ヘルマンは返書から目を離さない。
「そこは、はっきりしている」
リィナが豆を飲み込んだ。
「バルド、そこはすごく強く言ってたよ。下じゃないって」
全員の目がリィナへ向いた。
リィナは少し考えた。
「これは、余計なこと?」
「……助かります」
補佐は木札に『傘下ではない』と書き、その横に小さく『隣村』と足した。
ヘルマンは、さらに読み進める。
「灰石橋は危ない。重い荷は無理をするな」
年長者の一人が、鼻の奥で小さく息を漏らした。
「あそこはな」
「はい。無理をすれば落ちます」
物資係の女は、帳面に何も書かなかった。書くまでもない、という顔だった。
「では、今まで通りだ」
「今までより、少し丁寧に」
そこでようやく、物資係の女は帳面の端に小さく印をつける。
「重い荷は分ける。急がせない。雨上がりは渡らせない」
「……それは、今までもそうでは」
「これからも、です」
若い付き添いが、そっと目をそらした。
そこで少しだけ、小屋の空気がゆるんだ。
リィナが豆をつまんだまま、首を傾げた。
「橋って、手紙より重い?」
「比べるものではありません」
「でも、重いんだよね?」
「重い」
ヘルマンは返書から目を離さない。
「だから、無理はするな」
ヘルマンは咳払いをして、最後に近い文へ目を落とした。
「村同士の正式な話は、ミストル村長バルドを通すこと。ミナは村長ではない」
今度は、全員がはっきりとうなずいた。
バルドは村長で、ミナは森番の娘。正式な話は村長を通す。そこは分かっているし、ラダーナ村側も間違えたつもりはない。
ただ、あの日に見たものが大きすぎる。
リィナは三粒目の豆をつまみながら、不思議そうに言った。
「でも、みんなミナの話をしてるよね」
軽い声だった。卓の上の豆よりも軽い。
けれど、その一言で、全員の視線が紙へ戻った。
*
ヘルマンの目が、返書の最後で止まった。
補佐の筆も止まり、物資係の女が帳面から顔を上げる。
「まだありますか」
「ある」
ヘルマンの声が少し低くなった。
「ミナ個人へ礼を尽くしたいというなら、本人へ迷惑をかけぬ範囲で、そちらの心として扱われたい」
小屋の中が静かになった。
さっきまでの重さとは少し違う。落ち込む静けさではなく、細い道を見つけた者たちが、その足元を確かめるような静けさだった。
「……禁じられては、いないのですね」
若い付き添いの声には、少しだけ安堵が混じっていた。
ヘルマンは紙から目を離さない。
「そう読める」
「ミナ殿への礼は、まだよいと」
「迷惑をかけぬ範囲で、だ」
物資係の女が、帳面に筆を置いたまま止まる。
「範囲、ですか」
「そこが難しい」
年長者の一人が、膝の上の手を組み直した。
「だが、道が残った」
その言葉に、何人かが小さく息を吐いた。
ラダーナ村は、ミストル村の下には置かれなかった。正式な話はバルドを通す。それでも、ミナ個人への礼まで閉じられたわけではない。
恐ろしい相手へ失礼にならない形で何かを示すための道が、細くではあるが、まだ残っていた。
リィナが豆を見ながら聞く。
「礼って、重いの?」
「軽くはできん」
ヘルマンは言った。
「でも、重くしては迷惑になる」
「じゃあ、ちょうどいい重さ?」
「それを今から考える」
若い付き添いが、そっと顔を上げた。
「あの時、ミナ殿のそばにいた女の方が……言っておられました」
補佐の筆先が止まる。
「御恩に報い、奉公を示す、と」
小屋の中が、また静かになった。
誰も軽く扱えない。だが、正面から受け止めるには大きすぎる言葉だった。
リィナが豆をつまんだまま、首を傾げた。
「それって、手紙より重い?」
「重い」
ヘルマンは即答した。
「鍋より?」
「鍋の方がまだ分かる」
「鍋、無理だよ?」
「だから困っておる」
小屋の空気が、少しだけ揺れた。
年長者の一人が、膝の上で手を組み直す。
「要は、役に立つところを見せねばならん、ということか」
「ミナ殿に迷惑をかけずに、です」
物資係の女が、すぐに付け加える。
「こちらの村を削らずに、でもあります」
「削れば、冬が越せん」
「では、何を差し出せばよいのでしょう」
若い付き添いの声は真剣だった。
ヘルマンが返書へ目を落とし、補佐は木札を見た。物資係の女が豆皿を見ると、リィナもつられて同じ皿を見る。
豆は、何も答えなかった。
「……まず、できるものから考えるしかあるまい」
「では、豆ですか」
全員の視線が、皿へ集まった。
干した豆は軽くて硬く、腹には入る。けれど、さっきの重い言葉の横に置くには、いくらなんでも小さい。
年長者の一人が、真剣に言った。
「豆で魔獣が退くか」
「魔獣に渡すとは言っておりません」
「では誰に渡す」
「ミナ殿です」
「ミナ殿が豆で喜ぶか」
リィナがすぐ顔を上げた。
「ミナ、食べ物は無駄にしないよ」
「喜ぶのか」
「食べられるなら、たぶん」
若い付き添いは、皿の豆を真剣に見た。
「では、候補では」
「豆を出せば、こちらの冬が薄くなります」
物資係の女の一言で、候補は皿ごと小さくなった。
「豆は足りぬか」
「足りません。食べる豆です」
「礼の豆ではないと」
「礼にできるほどの豆ではありません」
リィナは最後の一粒をつまんだ。
「これは?」
「それは、お休みいただく豆です」
「豆、役目が多いね」
「多いので足りません」
補佐が木札に『豆、足りない』と書く。ヘルマンはそれを見て、止めるか迷ったが、結局止めなかった。
「では、塩では」
物資係の女が自分で言い、自分で帳面を見て、自分で首を横に振った。
「塩は足りません」
「早いな」
「開く前から足りません」
「帳面を見てもか」
「見れば、さらに足りません」
年長者がうなった。
「塩で礼を形にするには、うちの塩が足りんか」
「はい」
「礼の方を小さくできぬか」
「できません」
「塩を増やす方は」
「もっとできません」
若い付き添いが、恐る恐る口を開く。
「手紙はどうでしょう」
リィナが元気よく手を上げた。
「手紙は軽いよ」
「軽すぎる」
ヘルマンの返事も早かった。
「でも届くよ」
「届けばよい話ではない」
「重い手紙にする?」
「するな」
補佐が木札に『重い手紙』と書きかけて、削った。
「今のは消すのですね」
「残すと誰かが考えます」
物資係の女は、次々に指を折る。
「干し肉はありません。布も冬前に減らせません。金品はそもそもありません。ミナ殿へ荷を送れば、迷惑になるかもしれません。対価と相談を忘れるな、ともあります」
若い付き添いが小さくつぶやいた。
「つまり、何を出しても重くなります」
「重くならずに役に立つものはないのか」
ヘルマンの眉間に、バルドとは別の種類のしわが寄った。
リィナが羽を揺らす。
「軽い荷物なら運べるよ」
「荷物の重さの話ではありません」
「でも、重いと無理だよ」
「そこは合っています」
小屋の中で、全員が少しだけ頷いた。正しいのに、役に立たない。
「人手はどうだ」
年長者の一人が言った。
若い付き添いの背筋が伸びる。
「重すぎます」
「人は重いか」
「意味が、です」
物資係の女もすぐに続けた。
「人を出せば、差し出すように見えます。若い者を何人も出せば、こちらの畑が遅れます。年寄りを出せば、橋まで歩けません。子どもは論外です」
「役に立ちたい。だが、村は空にできん」
ヘルマンの指が、卓を二度叩いた。その音に押されたように、豆皿の横に置かれていた灰石橋の木札が少しずれる。
物資係の女の目が、そこへ止まった。
「橋なら」
全員の視線が木札に集まった。
リィナも覗き込む。
「橋?」
年長者の一人が、ゆっくりうなずいた。
「ミナ殿が見ていた橋だ」
「バルド殿の返書にも、危ないとある」
補佐が返書を見直す。
「重い荷は無理をするな、と」
「あれは、我らにも関わる」
年長者の指が、木札の上をなぞる。
「道が切れれば、隣村としても遠くなる。こちら側だけでも、危ないところを見ることはできる」
若い付き添いは、すぐに眉を寄せた。
「勝手に触るのはまずくないですか」
「触るとは言っていない」
ヘルマンは返書から視線を上げない。
「まず、見る」
「見るだけですか」
「見るだけだ」
物資係の女が、静かに帳面へ筆を置いた。
「その“見るだけ”で、ミナ殿たちも大変なことになりましたが」
「……大変にしたのは、我々だがな」
沈黙。
リィナが羽を小さく揺らす。
「橋の板は重いから、あたし無理だよ」
「運ばなくてよい」
「手紙なら運ぶよ」
「今は手紙ではない」
「橋を見るって手紙にする?」
「しない」
若い付き添いの目は、木札に残ったままだった。
「見るだけで済むでしょうか」
ヘルマンは、すぐには答えなかった。
見に行けば、傷んだ板も、頼りない手すりも、石の隙間も、こちらの目に入る。目に入ってしまえば、知らぬとは言えなくなるかもしれない。
手紙なら、木札一枚で済んだ。
豆は減らない。塩も減らない。誰かを差し出す話でもない。
それでも、手紙よりずっと重かった。
「……見るだけだ」
物資係の女は帳面に、灰石橋を見る、と書いた。その横に、少し小さく、触らない、と書き足す。
若い付き添いは、その文字を見ても、まったく安心しなかった。
*
夕方近くになっても、はっきり形になったものは少なかった。
ミストル村の下には入らず、村同士は隣村として付き合う。正式な話はバルドを通し、ミナ個人への礼は、迷惑をかけぬ範囲に限る。
そこまでは、どうにか木札へ収まった。
だが、豆は足りず、塩も干し肉も余っていない。手紙は軽すぎて、人手は重すぎる。
残ったのは、灰石橋を見る、という一つだけだった。
ただし、触らない。
それだけのはずなのに、集会小屋の中では誰も軽い顔にはなっていなかった。
リィナは窓枠に片足をかける。
「じゃあ、帰っていい?」
「はい。お届け、感謝します」
「返事は?」
ヘルマンは少し迷った。返事を書けば重くなる。書かなければ、届いたことが伝わらない。
物資係の女が、小さな木札を差し出した。
「届きました、だけでよいのでは」
「それ、軽い?」
「軽いです」
「なら持てる」
リィナは木札を受け取って羽を広げた。飛び立つ前に、ふと思い出したように振り返る。
「バルドに何て言う?」
ヘルマンは、全員の顔を見た。けれど、誰もうまい言葉を持っていなかった。
最後に、補佐が木札を見ながら言った。
「ラダーナ村は、隣村として灰石橋を見ます」
「さっきの重いやつは言わなくていいの?」
ヘルマンの肩がぴくりと動く。
「言わなくていい」
「じゃあ、橋を見るだけ?」
「そうだ。橋を見るだけだ」
リィナはうなずいた。
「分かった。橋を見るだけ。軽いね」
羽音が、窓の外へ抜けていった。
集会小屋に残った者たちは、しばらく黙っていた。
やがて、若い付き添いがぽつりと言う。
「……見るだけなのに、どうしてこんなに重いんでしょう」
物資係の女は、空になった豆皿を片づけながら答えた。
「きっと、橋だからでしょう」
誰も、うまく反論できなかった。
灰石橋は、まだ何も変わっていない。板も手すりも、石の隙間もそのままだ。
けれどラダーナ村の集会小屋では、まだ何も形にならないまま、なぜか灰石橋だけが、豆皿と帳面のあいだで重くなっていた。




