第45話 バルドのしわが限界
第1部:辺境領と教会編
第8章:ラダーナ村の勝手な恭順
ラダーナ村を出る前に、ミナはもう一度だけ足を止めた。
集会小屋の戸口には、ヘルマンと補佐、使節団の代表、それに物資係の女が並んでいる。さっきまでより背筋は伸びているが、それでもまだ少し低い。村道の向こうには、遠巻きにこちらを見る村人たちの顔もあった。
ミナは道具袋の紐を握り直した。
「これは、私だけで返事できないよ」
ヘルマンの頭が、深く下がった。
「承知しております。ミストル村長バルド殿のご判断を仰ぐ、ということですね」
「うん。村の話なら、バルドさんに聞かないと」
「だから、返事は少し待って」
「ミナ殿のお言葉も、しかと」
「私の言葉だけじゃなくて」
道具袋の紐をつかんだまま、ミナは慌てて手を振った。
「バルドさんに聞くから。うん、待って。待ってて」
ヘルマンの顔つきが、さらに固くなる。
「お待ちいたします」
真剣すぎる。
待つ、というだけの言葉が、なんだか冬を越す準備みたいに重くなっている。
困ったまま、ミナはもうひとつだけ口にした。
「あと、地面に手をつかなくていいからね」
ヘルマンの肩がぴくりと揺れた。
「それは……」
「手、冷たいでしょ。膝も痛くなるし」
補佐が、一瞬だけ自分の膝を見る。物資係の女も、すぐに視線をそらした。
トマが横で小さく息を吐いた。
「ミナ、それもたぶん向こうは重く受け取る」
「手をつかなくていいってだけだよ」
「だから、それが」
後ろで、ルシェラが満足げに腕を組んだ。
「手を汚さずとも、心で頭を垂れよということか。悪くない」
「違う」
ミナとトマの声が重なった。
ヘルマンの顔がまた少し固くなり、ミナは急いで首を振る。
「違うからね。本当に、土がつくから言っただけ」
「承知しました」
「本当に?」
「……承知するよう努めます」
それは、あまり承知していないときの返事に聞こえた。
その様子に、ルシェラの口元がますます機嫌よく上がる。
「その間に、示すべき働きを考えておくがよい」
「考えなくていいよ」
ミナはすぐに振り返る。
「ルシェラ、今は増やさないで」
「増やしてはおらぬ。整えておる」
「増えてるよ」
リィナが羽をぱたぱたさせる。
「働きって、荷物のこと? 重いのは無理だからね」
「リィナはそこだけ覚えておいて」
「そこは覚えてる!」
ガルムの視線が、村道の端と周囲の人の距離を確かめた。
「行くぞ。長くいれば、また言葉が増える」
それは本当にそうだった。
ミナはヘルマンたちにもう一度だけ頭を下げ、ミストル村へ戻る道へ足を向けた。
*
帰り道の灰石橋は、来た時よりも少し細く見えた。
実際に細くなったわけではない。けれど、板の鳴る場所に布切れを結び、頼れない手すりに木札をつけたあとだと、危ない場所ばかりが目に入ってしまう。
橋は、やっぱり危ない。
人が一人ずつ慎重に渡るなら、まだどうにかなる。けれど、荷馬車は無理だ。重い荷を背負った人が雨のあとに渡るのも怖い。端には、かつて手すりだったのだろう朽ちた木材が残っている。
ミナは渡り終えてから、振り返った。
「橋の話は、橋の話だよね?」
誰に聞いたのか、自分でも少し分からなかった。
トマが胃のあたりを押さえた。
「たぶん、向こうにとっては橋の話だけじゃない」
「でも、橋が危ないから見たんだよ」
「俺も分かるのが嫌なんだけどな。あの村から見ると、ミナが魔物を止めて、橋を見に来て、バルドさんがいなかった」
「バルドさんはミストル村にいたよ」
「そういう意味じゃない」
トマの声が少し弱くなる。
「バルドさん、これ聞いたらしわで顔が埋まるぞ」
「そんなに?」
「そんなに」
ガルムの靴先が、橋のたもとの土を押した。
「恐怖は分かる」
短い声だった。
「魔物が働く村と敵対したくはない。だが、村を下に置く話は受けるべきではない」
「うん。だから持ち帰る」
「それでいい。バルドに戻す判断は正しい」
ミナは、少しだけ安心した。
けれど、安心しきる前に、隣でルシェラがふっと笑った。
「悪くない流れだ」
「よくない流れだよ」
「小娘の外が広がる」
「広げない」
「村が頭を垂れるなら、次は働きを示す番であろう」
「頭を下げなくていいし、働きは、畑とか薪とか橋とか、困ってることがある時だけでいいよ」
「それを奉公という」
「言わないで」
トマがさらに胃のあたりを押さえた。
「頼むから、バルドさんの前ではそれを言うなよ」
「なぜだ。村長であれば分かるであろう」
「分かるから困るんだよ」
リィナは空から少し低く降り、ミナたちの前をくるりと回った。
「結局、重い荷は持たなくていいんだよね?」
「うん。重い荷はだめ」
「じゃあ大丈夫」
「大丈夫かな」
「手紙なら運ぶけど、塩は一袋くらいまでだからね」
トマの視線が空へ逃げた。
「今は誰も塩を持てとは言ってない」
「でもラダーナ、ずっとかたかったよ。ミナ、またなんか増やしたの?」
「増やしてない」
「増えたのは、バルドさんのしわ予定だな」
「予定にしないで」
ミナは道具袋を抱え直し、ミストル村の方へ歩き出した。
橋の板に結んだ布切れが、風で小さく揺れている。
あれだけでも、ちゃんとバルドに言わないといけない。
荷馬車は無理。
重い荷も危ない。
雨の後は渡らない方がいい。
印をつけたところは、早めに誰かに見てもらう。
そういう話なら、ちゃんと分かる。
でも、傘下は分からない。
分からないものは、村長に聞くしかない。
*
ミストル村に戻ると、バルドは集会小屋の端で待っていた。
大きな会議ではない。卓の上に水差しが一つ、古い木札が二つ、書きつけ用の板が一枚。橋を見てきた者から、村長が話を聞くための場だった。
バルドはミナたちの顔を見るなり、まず橋の方角へ目を向けた。
「戻ったか。灰石橋はどうじゃ」
「荷馬車は無理だと思う」
座る前に出た報告に、バルドの眉間へいつものしわが寄る。けれどそれは、まだ村長として受け止められる範囲のしわだった。
「やはりか」
「人が一人ずつなら渡れるけど、雨の後は危ない。板が鳴るところに印をつけてきた。手すりも頼りないところがある」
「重い荷は」
「やめた方がいい。背負うなら軽くして、片方ずつ。できれば天気がいい日だけ」
バルドの顎が、低く沈んだ。
「塩も布も、しばらくは小口で考えるしかあるまい」
「うん。商人さんが来たがらないのは分かる。釘とか薬とか、軽いものならまだいいけど、鍋とか大きい布とかは怖い」
「橋は、すぐどうこうできる話ではないな」
「うん。見るだけでも怖かった」
書きつけ板に、短い印が増えていく。
灰石橋。
荷馬車不可。
重荷注意。
雨後危険。
それだけなら、全部が生活の話だった。塩、布、鉄、釘、薬。運べるものと運べないもの。今すぐどうにもならないなら、どう避けるか。
バルドの顔は渋いが、崩れてはいない。
ミナは少し安心して、道具袋を膝の上に置いた。
「あと、ラダーナ村が、ミストル村の傘下に入るって」
「そうか」
書きつけ板に置かれた手が、一度だけ動く。
それから、ぴたりと止まった。
「ん?」
ミナは首を傾げる。
「ラダーナ村が」
「……ふむ」
バルドの目が、書きつけ板からゆっくり上がる。
「ふむ?」
沈黙が落ちた。
トマが、そっと顔をそらした。
ガルムは黙っている。
ルシェラは、どこか楽しそうに口元を上げていた。
リィナだけが、椅子の背で羽を整えている。
ゆっくりと、バルドの目がミナへ向く。
「ミナ」
「うん」
「今、何と言った」
「ラダーナ村が、ミストル村の傘下に入るって」
バルドの眉間に、一本、深い線が足された。
「……橋を見に行ったのではなかったか」
「うん。橋も見たよ」
「橋“も”って言うな」
トマの声が、すぐ横から飛んだ。
バルドは書きつけ板を握ったまま、深く息を吸った。
「何をどうしたらそうなるんじゃ」
「橋はちゃんと見たよ」
「なぜ橋を見に行って、村が増える話になる!」
「増えてはないよ」
「増えるじゃろうが、傘下とはそういう話じゃ!」
バルドの声が集会小屋の壁に当たって戻った。
外にいた誰かが、戸口の向こうで足を止める気配がした。トマがすぐに扉を閉める。
「村長、声、外に」
「外へ出したいくらいじゃ」
バルドは額に手を当てた。
「わしの顔は一枚しかないんじゃぞ」
「顔?」
「しわが足りん」
「しわは足りなくていいよ」
「もう増やす場所がない」
ミナは本気で心配になって、バルドの眉間を見た。
たしかに、すでに深い。
「薬草の軟膏、いる?」
「いらん!」
トマが両手で顔を覆った。
「ミナ、そこじゃない」
「でも痛そう」
「痛いのは俺の胃だ」
ガルムの指が、卓を短く叩いた。
「話を戻せ」
その一言で、ようやく場が少し落ち着く。
バルドはまだ眉間を押さえていたが、村長の顔に戻ろうとしている。戻りきれてはいないが、戻ろうとはしていた。
「何があった」
トマは一度、息を整えた。
「ラダーナ村は、ミナが怖いみたいで……。敵対する気がないと示したかったんです。バルドさんが村長なのは分かってました。でも、魔物たちがミナを見ていた。ミナが火場と寝る場所を分けたり、オークに丸太の場所を直してもらったり、ロウたちを止めたりしているのを見て、どう扱えばいいか分からなくなったみたいで」
「火場と寝る場所は分けないと危ないよ」
「それはそうなんだけどな」
トマは弱くうなずく。
「灰石橋まで見に行った。バルドさんがいなかった。ミナが来た。ラダーナ村側からすると、たぶん、かなり怖い」
バルドは黙った。
怒鳴るだけなら、ここで怒鳴れたはずだった。
けれど、バルドは怒鳴らなかった。
ラダーナ村から見たミストル村。
水路にスライムがいる。ゴブリンが道具を直す。狼魔獣が夜を歩く。ハーピーが空を飛ぶ。オークが丸太を運ぶ。そこに森番の娘がいて、魔物たちがその声を聞いている。
村の中にいる者には、ひとつずつ理由がある。
畑を守るため。
水路を流すため。
夜の獣を避けるため。
重い丸太を動かすため。
でも外から見れば、理由より先に魔物が目に入る。
バルドのしわは、怒りだけで深くなっているわけではない。
「恐怖は分かる」
ガルムの低い声が、卓の上に落ちた。
「だが、村を下に置く話とは別だ。村長が返すべき話だ。ミナ一人の返事にはできない」
「それで持って帰った」
ミナは道具袋を押さえたまま、うなずく。
「私だけで返事できないから。村同士の話なら、バルドさんに聞かないと」
「そこはよく戻した」
バルドの顔は苦い。
「よく戻したが、持ち帰ったものが重すぎる」
「重い荷は橋でだめって言ったよ」
「そういう重さではない」
リィナの首が傾く。
「手紙なら軽いよ?」
「今は手紙の話でもない」
「あとで手紙になる気がする」
その言葉に、バルドの眉間がまた動いた。
とても嫌な当たり方をした顔だった。
*
バルドは水差しの水を一口飲み、書きつけ板を置いた。
「ミストル村は、ラダーナ村の恭順を受けん」
今度の声は、はっきりしていた。
「村同士は、今まで通り隣村じゃ。上下は作らん。これは村長として言う」
ミナは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「うん。それなら分かる」
「ラダーナ村の敵意がないことは、受け取る。怖がっておるのも分かる。じゃが、傘下ではない」
バルドの指が卓を叩いた。
「橋は橋で考える。危ないなら危ない。荷は軽くする。雨の日は避ける。必要なら向こうとも相談する。だが、それは傘下の話ではない」
「うん」
「物のやり取りは、対価と相談を忘れん。塩も布も鉄も薬も、ただもらう話にはせん。正式な村同士の話は、わしを通せ」
トマも真剣にうなずく。
「そこは本当に大事です」
バルドの目が、ミナへ戻った。
「ミナは森番の娘じゃ。村長ではない」
「うん。私、村長じゃないよ」
「分かっておるなら、橋のついでに村を持って帰るな」
「持って帰ってないよ」
「話を持って帰ったんじゃ」
「それはそう」
「そこを素直に認めるでない」
バルドはまた額を押さえた。
けれど、すぐに手を下ろした。
「ラダーナ村へ返事を書く」
「手紙?」
リィナの羽が、少し上がった。
「まだ持たんでよい」
「分かってる。重い?」
「紙一枚じゃ」
「なら持てる」
バルドはリィナを見て、少しだけ不安そうな顔をした。
それから、書きつけ板の横に紙を置いた。貴重な紙だ。失敗すれば、それだけで眉間のしわが増えそうだった。
バルドは筆を持ち、しばらく止まった。
「ラダーナ村が、ミナへ礼を尽くしたいというなら……」
ミナの背筋が伸びた。
「え?」
「それを、わしが村長として完全に止めるのもおかしな話じゃ」
「それ、私の方に来てない?」
「来ておる」
「バルドさん、そこ止めないの?」
「止めたい」
「止めようよ」
「止めすぎると、あちらは拒絶されたと思う。何も認めねば、別の形でもっと重くなるかもしれん」
トマが眉を寄せた。
「それ、逃げ道作っただけじゃないですか。しかもミナの方へ流れるやつです」
「逃げ道も道じゃ」
苦い顔のまま、バルドは息を吐いた。
「塞いだら、別のところが壊れる」
ミナは納得しきれない顔で卓を見る。
「私、村長じゃないよ」
「だから、村の話はわしを通せと書く。ミナへ負担をかけるなとも書く。だが、礼を言いたい心まで、わしが縛るのも変じゃ」
「礼って、ありがとうでいいよ」
「向こうのありがとうが、たぶん重い」
トマの声が、横で小さく落ちる。
リィナの首が傾く。
「ありがとうって重いの?」
「今は重い」
「手紙より?」
「たぶん」
「持てないやつだ」
そこで、ルシェラが満足げに顎を上げる。
「ミストル村ではなく、小娘への礼か」
「通っとらん」
バルドの声が低くなる。
「筋は通ったな」
「通すな」
「御恩は、受け取る者の心にも宿る」
「わしのしわを増やすな」
ミナは自分の胸元を指した。
「私に通ってきてるよ」
「わしにも来ておる」
トマが小さく言う。
「俺の胃にも来てる」
ガルムは黙っていたが、否定はしなかった。
バルドは筆を持ち直した。
紙の上に、慎重に文字が増えていった。
ミストル村は、ラダーナ村を下に置くつもりはない。
村同士は、今まで通り隣村として付き合う。
敵意なき心は受け取った。
物のやり取りは、これまで通り対価と相談を忘れぬこと。
灰石橋は危ない。重い荷は無理をするな。
村同士の正式な話は、ミストル村長バルドを通すこと。
ミナは村長ではない。
そこで、バルドの筆が止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
「消す?」
バルドは首を振った。
「書かねば、別の穴を掘る」
「穴?」
「塞げば掘る。そういう時がある」
バルドは、眉間をこれ以上ないほど寄せながら、最後に一文を書き足した。
ミナ個人へ礼を尽くしたいというなら、本人へ迷惑をかけぬ範囲で、そちらの心として扱われたい。
トマが横から紙を覗き込み、顔をしかめた。
「その一文、危ない気がするんですけど」
「分かっておる」
「分かってて書くんですか」
「書かん方がもっと危ない気がする」
「どっちも危ないじゃないですか」
「だから、わしのしわが足りんと言っておる」
ミナは紙を見て、困った顔をした。
「迷惑をかけない範囲って、どこまで?」
「それを越えたら、わしへ持ってこい」
「また持ってくるの?」
「持ってこい」
「持ってきたら、またしわが増えるよ」
「もう増える場所はない」
それは、たぶん本当だった。
*
手紙を折り、封をするころには、集会小屋の外の光が少し傾いていた。
リィナは椅子の背で待っていたが、途中から何度も羽を動かしていた。飛びたいというより、早く用を済ませたい顔をしている。
バルドは封をした手紙を、リィナへ差し出す前に止めた。
「手紙だけじゃ」
「分かってる。重いのは無理だからね」
「余計なことは言うな」
「言わないよ!」
「聞かれたことだけ答えろ」
「うん」
「いや、聞かれても考えてから答えろ」
リィナは少しむっとした顔になった。
「あたし、ちゃんと届けるし」
トマの視線が、不安そうにリィナへ向く。
「リィナ、思いついたことを全部言うなよ」
「言わないってば!」
「あと、例え話もするな」
「例え話?」
「重いとか軽いとか、それだけでいい」
「じゃあ、手紙は軽いって言う」
「それも聞かれたらでいい」
ミナも手紙を見てから、リィナへ視線を戻す。
「リィナ、手紙だけね。あと、重い荷は持たなくていいから」
「そこは分かってる!」
リィナは胸を張った。
分かっているところが少しずれている気もしたが、手紙を運ぶ仕事はちゃんとできる。軽い荷を運ぶ時のリィナは、いつも速いし、道も間違えない。
問題は、道ではなかった。
バルドは、手紙を渡した。
「これで、村同士の話は終わりじゃ」
トマのつぶやきが、小さく落ちた。
「終わるといいですね」
「終わらせるんじゃ」
その横で、ルシェラが静かに笑った。
「小娘への礼は残ったな」
バルドの眉間が、また深くなった。
「言うな」
「事実であろう」
「言うなと言った」
リィナは手紙を大事そうに持ち、窓の方へ軽く跳ねた。
「じゃあ、ラダーナ行ってくるね。手紙だけ。重いのはなし。余計なことは言わない」
「最後のを一番守れ」
「守るってば!」
羽音がして、リィナは外へ飛び出した。
集会小屋の中に、しばらく沈黙が残る。
閉じた窓を見送ってから、ミナはバルドの顔へ視線を戻した。
「バルドさん、眉間、大丈夫?」
「大丈夫ではない」
「軟膏、本当にいらない?」
「いらん」
バルドは深く息を吐いた。
村長の顔には、橋より先に補修が必要そうな線が増えていた。




