第44話 ミナ、困惑する
第1部:辺境領と教会編
第8章:ラダーナ村の勝手な恭順
ミナの声が村道に落ちても、ラダーナ村の者たちはすぐには動かなかった。
ヘルマンは地面に両手をついたまま、わずかに顔だけを上げている。その後ろでも、補佐、使節団の代表、物資係の女、年長者、若い付き添いたちが、同じように低い姿勢で固まっていた。
伏せた手には、湿った土がついている。
膝も、手も、きっと冷たい。
ミナは道具袋を抱えたまま、困った顔をするしかなかった。
「立って」
「いえ、このままでも」
「土がつくよ」
「無礼を避けるには、この姿勢が」
「その姿勢がもう話しにくいよ」
ヘルマンの肩が、さらに縮こまった。
ミナは道具袋を胸に寄せ、慌てて首を振る。
「低くならなくていいから。膝、痛くない?」
横でトマが小さく呻いた。
「ミナ、今の、受け入れたみたいに聞こえるからな」
「受け入れるって何を?」
「今、それを俺に聞くな」
後ろで、ルシェラが満足そうに顎を上げている。
「ふむ。己の置かれた場所を見たか」
「ルシェラ、重い言葉を足さないで」
「重くはない。釣り合いの話だ」
「釣り合いの話でもないよ」
リィナはミナとヘルマンたちを交互に見て、羽を小さく揺らした。
「ラダーナ、立たないの?」
その声で、ようやく補佐がそろそろと動いた。ヘルマンも膝に力を入れ、ゆっくり立ち上がる。後ろの者たちも倣ったが、姿勢はまだ低い。背筋を伸ばしきるのが失礼だとでも思っているようだった。
ミナはそれでも少し安心した。
少なくとも、みんなの手は土から離れた。
「まず普通に話そう」
ヘルマンは深く頭を下げた。
「承知しました。では、集会小屋へ」
「うん。道の真ん中だと、村の人も見てるし」
その言葉に、遠巻きにしていた村人たちが、いっせいに視線を落とした。
見ていないふりをするには、少し遅かった。
*
集会小屋の中には、夜の名残がまだ残っていた。
窓は開けられているのに、灯皿の油の匂いが薄く漂っている。低い卓の上には、灰石橋の形を刻んだ木札が置かれ、古い地図板の端には誰かの指の跡が白く残っていた。
手紙の下書きらしい紙片。
何度も使われた湯飲み。
置き直された布包み。
口を折られた、空に近い塩袋。
返礼用の小袋は、きれいに並んでいるのに、どれも少しだけ位置がずれていた。何度も迷った手の跡みたいだった。
ヘルマンの目の下には、薄い影がある。補佐も、使節団の代表も、物資係の女も、立っているだけで肩が重そうだった。
ミナは卓の上の灯皿を見た。
「昨日、遅くまで話してたの?」
「必要な話し合いでした」
「灯り、こんなに減ってる」
「ミナ殿をお迎えするためです」
「橋の話で?」
横から、トマがそっと声を落とした。
「ミナ、たぶん橋だけじゃなかったんだ」
「橋だけじゃなかったの?」
ミナは灰石橋の木札を見る。
たしかに橋は危なかった。荷馬車は無理だったし、手すりも頼れないところがあった。けれど、夜通しで話すほどのことだったのかと考えると、少し分からない。
ヘルマンが、卓の片側を手で示した。
ミナたちは卓の片側へ移った。隣にトマが座り、その少し後ろにガルム。ルシェラは当然のようにミナの後ろ側に立ち、リィナは梁に止まりかけたところで、ミナに見られて椅子の背へ移った。
「止まり木じゃないよ」
「分かってるよ。ちょっと高かったから」
ヘルマンは向かいに座ったが、まだ背が低い。椅子に座っているのに、気持ちだけ膝をついているように見えた。
「まず、無礼をお許しください」
「許すとかじゃなくて」
手元の道具袋を押さえ、ミナは卓の向こうを見た。
「よくわからないけど、敵意がないっていうのは分かったよ。でも、傘下って何?」
その一言で、卓の向こう側が少し揺れた。
ヘルマンはすぐには答えなかった。言葉を選んでいる顔だった。
「ミストル村と争う気はありません」
「うん」
「バルド殿が村長であることも、承知しております」
「うん。バルドさんが村長だよ」
「ですが、魔物たちはミナ殿を見ておりました」
ミナの目が、ぱちりと瞬いた。
「見てた?」
「オークも、ゴブリンも、狼魔獣も、ハーピーも。ミストル村では、魔物たちがミナ殿の言葉を待っているように見えました」
「待ってるっていうか、火の場所と寝る場所を分けただけだよ」
補佐が息を止めた。
使節団の代表が、手元の湯飲みを見たまま固まる。
トマは片手で顔を覆った。
「ミナ、それで余計に分からなくなるんだ」
「なんで?」
「火の場所と寝る場所を分けるだけで、オークとゴブリンと魔狼が落ち着く村は、普通じゃない」
「でも、火のそばで寝たら危ないでしょ」
「そういうところだ」
ガルムは短く息を吐いた。
「恐れるのは分かる」
低い声に、ヘルマンが顔を上げる。
「魔物がいる村と敵対したい者はいない。村人を守るなら、避けたいと思うのは当然だ」
「ガルム」
「だが、傘下とは別だ」
その一言で、道具袋を握るミナの手が少し緩んだ。
「そう。別だよね」
ヘルマンは、唇を引き結んだ。
「灰石橋を見ると聞き、軽く受けるわけにはいきませんでした。あの橋は、ラダーナ村とミストル村の間にあります。塩も、布も、鉄も、荷も、人の行き来も、あの道に関わります」
「だから見たんだよ」
「はい。だからこそ、重かったのです」
「重い荷は持ってなかったよ」
リィナが小さくうなずいた。
「うん。ミナたちの荷物、軽かった。あたしでも半分くらいなら持てそうだった」
トマは卓に両手をついた。
「リィナ、今はそういう重さじゃない」
「違うの?」
「違う」
ヘルマンは、少しだけ目を伏せた。
「我らは、敵ではないと示したかったのです。低く出ることが、最も無礼の少ない形だと考えました」
「低く出ると、膝が痛いよ」
「ミナ」
トマの声が弱い。
「そこじゃない」
「でも本当に痛そうだったし」
ヘルマンの後ろで、若い付き添いが無意識に膝をさすった。物資係の女が、そっとその手を下ろさせる。
その動きに、ミナの胸の奥がますます落ち着かなくなる。
「村同士で普通に付き合えばいいんじゃないの?」
今度は、ラダーナ村側が困った顔をした。
ヘルマンは、言葉を選ぶように口を開いた。
「普通に、とは……どの程度の礼を」
「礼の量の話じゃなくて」
「では、挨拶の順でしょうか」
「そうでもなくて」
「返礼の包みを改めれば」
「包みの話でもなくて」
ミナは道具袋の紐をつまんだ。
「橋が危ないなら、一緒に見ればいいし。荷物が困るなら、どう運ぶか考えればいいし。ラダーナ村が困ってるなら、困ってるって言えばいいと思う」
ヘルマンの顔に、少しだけ光が差した。
「では、我らの困りごとも、聞いてくださると」
「聞くけど」
ミナは、すぐに言葉を足した。
「聞くけど、それと傘下は違うよね?」
トマが胸を押さえた。
「違う。たぶん違う。違うことにしよう」
「たぶんじゃ困るよ」
「俺も困ってる」
ガルムが卓の端を指で軽く叩いた。
「線を引け」
短い言葉に、場の視線が集まる。
「恐怖は分かる。敵意がないことを示したいのも分かる。だが、下手に出ることと、傘下に入ることは別だ」
ヘルマンは深く息を吸った。
「では、我らはどこまで下がれば無礼にならぬのでしょう」
トマは一度息を吸い、少しだけ強い声を出した。
「下がる前提から離れてください」
その場が静かになった。
トマ自身も、自分で言ってから胃のあたりを押さえた。
「……いや、向こうが怖がるのは分かる。分かるけど、傘下は飛びすぎだろ」
「トマ」
「ミナ、これ、橋だけの話じゃ済まなくなってる」
「橋だけの話に戻したい」
「俺も戻したい」
少し考えてから、トマはヘルマンの方を見た。
「傘下じゃなくて、友好的な隣村ってことでいいんじゃないか」
ヘルマンの口の中で、その言葉がゆっくり転がった。
「友好的な、隣村」
「そうです。橋のことは、両方が使う道なんだから相談する。荷物も、無理のない範囲で融通する。何かある時は、先に知らせる。村同士の正式な話は、バルドさんを通す」
隣で、ミナが何度もうなずいた。
「うん、それなら分かる。橋と荷物の話なら、分かる」
「あと、リィナ便も、軽い連絡なら」
「あたし?」
リィナが椅子の背で羽を広げる。
「手紙ならいけるよ。重くなければ」
「そういう感じだ。短い手紙とか、小さい荷とか。無理はしない」
「無理はしない。重いのは無理」
ヘルマンの後ろで、補佐が小さく頷いた。使節団の代表も、ようやく息を吐く。物資係の女は、返礼の布包みへ視線を落とし、少しだけ肩の力を抜いた。
「友好的な隣村」
ヘルマンは、言葉をもう一度確かめるように口にした。
「橋の相談。無理のない範囲。先に知らせる。正式な話はバルド殿へ」
「それで敵意がないってことにはならないか?」
トマの声には、願いが混じっていた。
しばらくの沈黙のあと、ヘルマンが深く頭を下げた。
「……それなら、我らにも形が取れます」
ミナの胸の奥が、ようやく少しだけ軽くなった。
これなら分かる。
橋は危ない。荷物は重い。手紙は軽い。困ったら先に知らせる。バルドに聞く。
やっと、手の届くところに戻ってきた気がした。
その時だった。
「では、賦役はどうする?」
ルシェラの声が、卓の上に落ちた。
空気が止まった。
ミナの手も止まった。
トマの顔から、血の気がさらに引いた。
「今それを言うな」
「なぜだ。敵意なきことを形にし、庇護を求め、友好を結ぶ。ならば、働きを示すのが筋であろう」
「ややこしくするな」
「御恩に報い、奉公を示す。悪くない」
「いや、もう遅いかもしれない」
ヘルマンの目が、妙に真剣になっていた。
「仕事を示せばよい、ということでしょうか」
「違う」
考えるより早く、ミナの声が出た。
「たぶん違う。少なくとも、今決める話じゃない」
リィナが首を傾げる。
「ふえきって何?」
「今聞かなくていい」
「それ、運ぶやつ?」
「違うと思う」
「重いのは無理だからね」
「そこはずっと合ってる」
ルシェラは少し不満そうに眉を上げた。
「小娘、働いた者へ食を返す。それはおぬしの流儀であろう」
「働いたら食べるは、薪とか丸太とか畑の話だよ」
「村も働くではないか」
「村同士の話にしないで」
トマが、両手で顔を覆った。
「無理だ。言葉が全部重くなる」
ガルムが短く告げた。
「余計な言葉を増やすな。まず意味を確かめろ」
「もう意味が多すぎるよ」
ミナは、卓の上にある灰石橋の木札を見た。
橋の板には、印をつけてきた。
踏んではいけない板。
頼ってはいけない手すり。
雨の後は怖い場所。
でも、この話には印がつけられない。
傘下。
庇護。
賦役。
奉公。
どれも、聞けば聞くほど足元が分からなくなる。
ミナは、ゆっくり息を吸った。
「待って」
声は大きくない。
けれど、卓の周りは静かになった。
「これは、私だけで返事しちゃだめ」
ヘルマンが顔を上げる。
「ミナ殿」
「村の話だから」
ミナは道具袋を抱え直した。
「橋のことも、荷物のことも、ラダーナ村のことも、順番に話す。でも、村同士の話はバルドさんに聞かないと」
トマが、すぐにうなずいた。
「それがいい。絶対それがいい。むしろ最初からそうするべきだった」
「最初は橋の話だったよ」
「今は違う」
ガルムも短く続けた。
「持ち帰れ。ここで決めるな」
ヘルマンは、深く息を吐いた。
「では、我らはお返事を待てばよいのでしょうか」
「返事っていうか」
少し考えてから、ミナは言葉を探した。
「まず、話を持って帰る。橋のことも、荷物のことも、ラダーナ村のことも。バルドさんに話して、それから」
「それから」
「また話す」
ヘルマンは、今度こそ少しだけ顔を上げた。
安心したのか、さらに緊張したのか、ミナには分からなかった。
リィナが羽を揺らす。
「じゃあ、また運ぶ?」
「何を?」
「手紙。重くなければ」
トマが、弱々しく笑った。
「手紙まで重くなりそうだな」
「紙は軽いよ?」
「そういう重さじゃないんだ」
ミナは卓の上の木札を見て、それからヘルマンたちを見た。
まだ何も決まっていない。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
橋の板より先に、バルドの眉間が危ない。
「……バルドさんに、ちゃんと話すね」
その言葉に、トマはそっと胃のあたりを押さえた。
「俺も行く。ひとりで説明したら、たぶん村長のしわが割れる」
ルシェラは、どこか満足げにうなずく。
「国政とは、かくも難しいものよ」
「国じゃない」
ミナとトマの声が、ほとんど同時に重なった。




