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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第41話 ハーピー便と丁寧な笑顔

第1部:辺境領と教会編

第8章:ラダーナ村の勝手な恭順


 ラダーナ村の集会小屋には、朝から小さな包みが並んでいた。


 塩の小袋が二つ。干し豆を少しずつ入れた布包み。春先に摘んで乾かした薬草の束。洗って畳んだ古布。どれも村の倉から出せる分としては多くない。多くないからこそ、物資を見ている女は、塩袋の口を何度も結び直していた。


 低い卓の向こうで、ヘルマン村長は帳面を閉じずに見ている。畑の種、井戸縄の傷み、灰石橋の板鳴り、塩の残り。春の村はただでさえ忙しい。そこへ今日は、いつ来るか分からないリィナへの返礼まで乗っていた。


 手紙を運び、塩のことを急かし、塩袋を抱えて飛び、広場で羽をばたつかせる。余計なことを二つ三つ言ってから帰っていく、ハーピーの騒がしい娘だ。ラダーナ村の者たちも、あの声と羽音はもう覚えている。珍しい相手ではある。けれど、話せば通じる。荷の重さには正直で、塩を濡らすとミナに怒られると言う。


 だからこそ、難しかった。


 次に来た時、今まで通りに迎えれば軽すぎる。かといって、急にへりくだれば、それはそれでおかしい。相手はリィナだ。だが、その羽の向こうには、ミストル村の外側を見ている森番の娘がいる。


「塩の小袋は二つでよろしいですか」


 物資係の女は、指先で袋の重さを確かめた。


「それ以上は増やすな」


 ヘルマンの声は低い。


「だが、雑に包むな」


「包みを二重にします」


 横にいたまとめ役は、布の端を指で測った。


「三重にすると、少し重くなります」


「重くするな」


「しかし、一重では粗末に見えます」


「二重だ」


 ヘルマンの返事は早かった。それから、少しだけ眉間を押さえる。


「やりすぎるな。だが、粗末にもするな」


 その言葉は、昨日から何度も出ていた。出るたびに、集会小屋の者たちはうなずく。うなずくのだが、何をどこまでやればよいのか、誰も完全には分かっていない。


 干し豆の袋は、少しだけ形を整えた。薬草は軽いので、汚れの少ない古布で巻いた。手紙は、バルド宛てを本筋にした。ミストル村長への礼、春の挨拶、灰石橋の状態、荷の軽さへの気遣い。そこまでは普通の隣村同士の文面だ。


 問題は、そのあとだった。


「ミナ殿への礼は、一文だけ添えます」


 まとめ役は、手紙の下書きへ慎重に目を落とした。


「荷の扱いと橋へのお気遣いについて、感謝を」


「一文だけだ」


 ヘルマンは、手紙から目を離さなかった。


「バルド殿を差し置くように見せるな。村同士の形は崩すな」


「はい。ですが、抜くと粗末に見えます」


「だから一文だけだ」


 低い卓の端で、年長者が紐を持ったまま固まっていた。


「この結び方は、きれいすぎませんか」


「きれいすぎるとは」


「礼を尽くしているようには見えますが、奉納の品のようにも見えます」


 その場の全員が、紐を見た。


 たしかに、いつもの荷結びより少し整っている。だが、祭りの飾りほどではない。なのに今のラダーナ村には、その少し整った結び目すら、過剰か不足か分からなかった。


 ヘルマンは長く見てから、息を吐いた。


「ほどけにくく、見苦しくなく、飾りすぎない結びにしろ」


「それが一番難しいのですが」


「難しくても、そうしろ」


 物資係の女は、苦い顔で紐を受け取った。


「軽く、濡れず、粗末に見えず、飾りすぎず、ですね」


「そうだ」


「リィナが嫌がらない重さで」


「それもだ」


 戸口の外で、子どもの声がした。畑から戻った誰かが、空を見上げているらしい。羽音ではない。ただの風だった。


 それでも、集会小屋の中の者たちは、そろって一度、口を閉じた。


 次にいつリィナが来るかは分からない。


 今日かもしれない。明日かもしれない。三日後かもしれない。いつものように、空からいきなり声が降ってくるかもしれない。


 だから、準備は先にしておくしかなかった。


 ヘルマンの視線が、まとめ役へ動いた。


「村人へも伝えておけ。来てから慌てるな」



 集会小屋の前には、何人かが呼ばれていた。


 全員ではない。畑仕事を止めてまで集めるほど、ラダーナ村には余裕がない。だが、井戸のそばにいる者、入口に近い家の者、子どもを下げる役の女、荷を受ける時に近くへ出る者には、先に話を伝えておく必要があった。


 まとめ役は、手元の木札を見ながら、一つずつ確認した。


「リィナが来たら、いつも通りに」


 村人たちはうなずく。


「急に近づかない」


 また、うなずく。


「荷を勝手に触らない」


 そこまでは、今までと同じだった。


「ただし、いつもより丁寧に」


 うなずきが少し遅れた。


「いつもより丁寧に、でも急に変わりすぎないように」


「それが難しいんだが」


 年長者の一人が、小さく唸った。


「いつも通りなのか、丁寧なのか、どっちだ」


「いつも通りに丁寧に、です」


「それは言葉として合っているのか」


「今は、それでやるしかありません」


 若い男が、困ったように自分の頬を触った。


「笑顔は、作った方がよいのですか」


「失礼に見えぬ程度に」


「笑いすぎても、急に変わったと思われませんか」


「笑いすぎるな」


「では、前と同じくらいで」


「いや、前より少し丁寧に」


「前より少し……」


 誰かが小声で繰り返し、別の誰かが顔をこわばらせた。


「少しの加減が一番難しい」


 ヘルマンが前へ出る。


「逃げる必要はない。相手はリィナだ。だが、粗末に扱うな」


 村人たちは、今度はしっかりうなずいた。


「降りる場所を空ける。返礼の包みは、決めた者が渡す。子どもは前へ出すぎない。話しかけられたら普通に返せ」


「普通に」


「ただし、余計なことは言うな」


「普通が遠い」


 まとめ役は真面目な顔のままだった。


「石を投げる者が出たら止めてください」


「いまさらリィナに石など投げん」


 年長者がむっとする。


「念のためです」


「念が多い」


「多いくらいでちょうどよいです」


 集まった村人たちは真面目だった。リィナにはもう何度も会っている。だが、今までのリィナと、次に迎えるリィナは同じではない。少なくとも、ラダーナ村側の見え方が変わってしまった。


 その時、空の上で風が切れた。


 全員の顔が、一斉に上を向いた。


 青い空の端から、翼の影が滑ってきた。


「……今日か」


 ヘルマンの声は、ほとんど息だった。



「来たよー!」


 その声は、緊張したラダーナ村の上に、いつもと同じ軽さで落ちた。


 若いハーピーは、両腕と翼を少し広げ、布包みを抱えたまま村の広場へ降りてくる。着地の寸前に羽が少しばたついたが、荷は落とさなかった。本人もそこが一番大事だったらしく、足元が落ち着くより先に胸を張る。


「荷物、ちゃんと持ってきたから! 落としてないから!」


 村人の何人かが、反射で一歩下がりかけた。


 だが、前ほど大きくは下がらない。リィナもそれには気づいたらしく、少しだけ首をかしげた。


「今日、みんなちゃんと立ってる」


 褒めたつもりなのかどうか、誰にも分からない。


 ヘルマンがすぐに手を上げる。村人たちの足が止まった。まとめ役は、あらかじめ空けておいた平たい台を指す。大きな台ではない。荷を置けて、翼がぶつからず、地面の泥がつかない高さの、古い板を重ねたものだ。


「リィナ殿、遠いところを」


 ヘルマンが頭を下げる。


 リィナの目が丸くなった。


「え、今日なに?」


「お疲れでしょう。荷はこちらへ」


 まとめ役は、台の前で丁寧に手を添えた。


「翼を休める場所も、用意しました」


「翼を休める場所?」


 リィナは台を見て、村人たちを見て、もう一度台を見る。


「これ、あたし用?」


「はい。荷を置く場所として」


「あたし用の台?」


 その言い方に、村人の丁寧な笑顔が少し引きつった。


 リィナは気づかない。むしろ、羽をぱっと広げて得意そうになる。


「ラダーナ、分かってきたじゃん!」


 誰も、すぐには返せなかった。


 褒められたのか、まずい方向に進んだのか。判断に困ったからだ。


 ヘルマンは短く息を吸い、笑顔を崩さないようにする。


「荷を、お預かりします」


「うん。バルドさんから。あと、ミナが、濡らさないでって言ってた。中身は見てないからね。たぶん」


 まとめ役の指が、一瞬だけ止まった。


「たぶん」


「見てないってば。布がちょっとめくれたけど、字は読んでないし」


「それは……承知しました」


 手紙と軽い荷が、丁寧に台へ置かれる。ミストル村からの手紙と、小さな包み。中身は軽い。リィナが無理なく運べる範囲だった。


 物資係の女がそれを受け取る時、自然に両手になった。


 リィナはさらに胸を張る。


「今日、なんか優しくない?」


「いつも失礼であったつもりはありませんが」


「いや、前よりすごい丁寧。あたし、ちゃんと運べるって分かった?」


 村人たちの笑顔が、さらに少し硬くなる。


 違う。


 いや、違わない部分もある。


 だが、それだけではない。


 誰も、それをそのまま言えなかった。


「はい。助かっております」


 まとめ役は慎重に言葉を重ねた。


「大変、助かっております」


「まあね!」


 リィナは、完全に良い方へ受け取った。



 リィナのために用意された台の横には、少し低い止まり木のような棒も立ててあった。


 正確には、古い支柱を地面に差し、足を置けるように横木を渡しただけだ。ハーピーにとってどれほど楽なのか、ラダーナ村の誰にも分からない。ただ、以前からリィナは地面でじっとしているより、少し高いところへ乗りたがる。荷を置く台と別に待つ場所を決めておけば、広場の中をうろうろされずに済む。そんな真面目な配慮だった。


 リィナはそれを見つけると、目を輝かせる。


「止まり木?」


「ご不快でなければ」


「え、使っていいの?」


「もちろんです」


「ラダーナ、ほんと分かってきた!」


 リィナは横木へ軽く跳ね上がった。少しだけ羽がばたつき、村人たちの笑顔が一斉に固まる。だが、叫ぶ者はいない。急に逃げる者もいない。前にも見た動きだ。前にも見た動きだが、今日は全員がそれを丁寧に受け止めようとしている。


 頑張っている。


 全員、かなり頑張っていた。


「なんか今日、みんな顔すごいね」


 リィナは首をかしげた。


「嬉しい?」


 村人の一人が、引きつった笑顔のまま固まった。


 物資係の女は、横から静かに姿勢を正した。


「遠くから来ていただいておりますので」


「まあね。風、ちょっと強かったけど、あたしだから大丈夫だったし」


「ご無理のない範囲で」


「無理はしてないよ。重いのは無理だけど」


「はい。重くしないようにいたします」


 ヘルマンは、リィナの軽さを見ながら、その背後を見ないようにしていた。


 それでも見える。


 ミナに頼まれた荷。


 バルドの手紙。


 ミナの近くで飛び、ミナ周辺のことを知り、ミナへ戻るハーピー。


 目の前にいるのは、若く、口が回り、すぐ調子に乗るハーピーだ。恐怖そのものではない。だが、その羽の向こう側に、ミストル村の外側が透けている。


 オークの丸太。


 ゴブリンの釘皿。


 魔狼の金色の目。


 水路のぷる。


 そして、火と水と荷を見ていた森番の娘。


「それでさ」


 リィナは、そんなラダーナ側の緊張をまったく知らない顔で、止まり木の上から足を揺らした。


「ミナが、荷物は濡らさないでって言ってた。あと、塩はちゃんと包んでって。落としたら怒られるから」


 物資係の女の手が、無意識に塩袋へ置かれた。


「承知しております。塩は濡れぬように二重に包みます」


「二重なら大丈夫かな。三重だと重い?」


「三重は、少し重くなります」


「じゃあ二重。重いのは無理だからね」


 当たり前のように決まった。


 ラダーナ村の者たちは、また一つ、顔を見合わせた。


 これはただの荷の相談だ。


 ただの荷の相談なのに、森番の娘の指示が、空から届いているように聞こえる。



 手紙を受け取っている間、リィナは止まり木の上で足をぶらつかせていた。


 落ち着きはない。だが、荷を勝手に開ける様子もない。仕事として来ていることは、本人なりに分かっているらしい。


「ミストル村は、変わりありませんか」


 まとめ役は、なるべく普通の声を選んだ。


「変わり?」


 リィナは少し考える。


「うーん、オークたち、最近丸太運ぶの上手くなってきたよ」


 普通ではなかった。


 年長者の笑顔が、そのまま固まる。


「丸太を」


「うん。でも、ミナがすぐ止めるんだよ。まだ、とか、ゆっくり、とか、そこは火に近い、とか。オークたち、最近は先にミナを見るの。動かしていい? って」


 リィナは身振りで、大きな何かを持つ真似をする。


「で、ゴブリンたちは棚とか直してる。キキがね、すぐ、リィナうるさいって言うんだよ。あたし、そんなにうるさくないのに」


 村人の一人が、笑うべきか迷って、顔の筋肉だけ動かした。


 まとめ役は、帳面を開きそうになって、やめた。


 ここで書き留めたら、あまりにも報告の場のようになる。だが、書き留めたい。


 オークが丸太に慣れている。


 ゴブリンが棚を直している。


 キキというゴブリンがハーピーを叱っている。


 森番の娘が、火場と丸太の位置を見ている。


 リィナは、ただの近況のつもりで続ける。


「ロウは相変わらず怖いけど、ちゃんと線の外にいるし。あ、ロウって魔狼ね。金色の目のやつ。近いと怖いから、ミナがそこまでって言うの」


 慎重派の男の笑顔が、今度こそ消えかけた。


 ヘルマンの横目が、それを止めた。


 笑顔。


 丁寧な笑顔。


 崩すな。


「線の外に」


「うん。線の外。肉を置く石もあるよ。水路に血が流れたらだめなんだって。ぷる三ついると水路きれいになるけど、変なの流したら困るし」


「ぷるが三つ」


 年長者の口から、ほとんど息だけの声が漏れる。


「そう。ぷる、ぷる、ぷる。三つ。最初、どれがどれか分からなくてさ。トマがまた胃が痛そうな顔してた」


 リィナはけらけら笑う。


 ラダーナ村側は、笑えなかった。


 笑えないが、笑顔は保った。


 リィナの話す一つ一つは軽い。軽いのに、軽くない。


 丸太。


 棚。


 魔狼の線。


 水路のぷる。


 肉を置く石。


 森番の娘の判断。


 全部が、ミストル村の外側で日常になっている。


 リィナは、その日常を羽にくっつけて運んできた。


「ミナ、橋のことも気にしてたよ」


 その一言で、ヘルマンの目が動いた。


「橋、ですか」


「うん。灰石橋。前に、帰り気をつけてって言ってたでしょ。荷物が片方だけ重いと危ないとか、濡れると困るとか。そういうの」


「そういうの」


「ミナ、そういうの気にするんだよ。水路とか、火とか、荷物とか、橋とか」


 リィナには、何でもないことだった。


 ヘルマンには、何でもないようには聞けなかった。



 返礼を渡す時、ラダーナ村側の丁寧さは、また少しぎこちなくなった。


 低い台の上に、二重に包んだ塩の小袋が置かれる。干し豆。古布。薬草。手紙。どれも軽い。どれも少ない。けれど、包み目はきちんと揃えられ、紐はほどけにくく、飾りすぎない結びになっていた。


 リィナが台の上をのぞき込む。


「これ、全部?」


 物資係の女の肩が、わずかに強張った。


「出せる量は、多くありません」


「いや、重すぎないかなって」


「あ、はい。重くしすぎぬようにいたしました」


「これくらいならいける」


 リィナは塩袋をひとつ持ち上げ、すぐに真面目な顔になった。


「でも、これ以上は無理だからね。塩は落としたら怒られるから、ちゃんと包んで」


「落とされては困りますので、包みは二重に」


 物資係の女はそこまで言って、はっとした。


「いえ、失礼。落とされるとは思っておりません。ただ、塩は濡れると困りますので」


 リィナの口元が、にやっと動いた。


「まあね。あたし、ちゃんと運ぶし」


 調子に乗っている。


 だが、悪い調子の乗り方ではない。仕事を認められて、少し胸を張っているだけだ。


 ヘルマンは手紙を手に取り、丁寧にリィナへ差し出す。


「バルド殿に、よろしくお伝えください」


「うん」


「ミナ殿にも、礼を」


 少しだけ、言葉が止まる。


「……いや、まずはバルド殿に。そのうえで、ミナ殿にも」


「どっちも言えばいい?」


「はい」


「バルドさんによろしく。ミナにも礼。分かった」


 まとめ役が、横からそっと補った。


「手紙にも記しております」


「じゃあ、忘れても大丈夫だね」


「いえ、できれば忘れずに」


「分かってるって。ミナに渡しとく!」


 その軽さに、何人かの肩から力が抜けかけた。


 抜けきる前に、リィナが次の包みを拾い上げる。


「薬草軽い。これなら平気。干し豆も平気。古布は……風で広がると面倒だから、きつめに結んで」


「きつめに」


 物資係の女はすぐに紐を結び直す。


「あと、あんまり端がひらひらすると、飛んでる時に邪魔」


「端を内側へ入れます」


「ラダーナ、ほんと分かってきたね」


 褒められた。


 また、誰も返事に困った。



 荷の確認が終わる頃には、村人たちの丁寧な笑顔も少しだけ慣れてきていた。


 リィナが派手に羽を広げても、最初ほど下がらない。笑顔はまだ硬いが、前よりは崩れない。子どもたちは家の陰から見ているが、叫ばない。年長者の一人は、うっかり普通の顔に戻りかけて、隣の女に肘でつつかれた。


 リィナは、返礼の包みをまとめながら顔を上げた。


「これ、風が強かったら途中で休むからね」


「無理はなさらず」


「重いのは無理。でも、これくらいならいける。あたし、前にがんばったんだから」


「助かっております」


「まあね!」


 完全に得意になっている。


 ヘルマンはそれを見ても、これでよいのか、よくないのか、まだ分からなかった。ハーピー便を雑に扱わずに済んだ。返礼も粗末には見えない。荷の重さも抑えた。村人も急に態度を崩さなかった。


 ひとまず、失礼はなかったはずだ。


 そう思いかけた時、リィナの顔が上がった。


「あ、そういえば」


 軽い声だった。


 誰も、身構える暇がなかった。


「ミナたち、灰石橋を見るついでに、こっちまで挨拶に来るっぽいよ」


 丁寧な笑顔が、そのまま固まった。


 風だけが、広場の端を抜ける。


 リィナは気づかないまま続ける。


「たぶん、近いうち。詳しい日は知らないけど。橋、危なそうだから見たいって言ってたし、ラダーナにも挨拶した方がいいよねって」


 ヘルマンの口元が、笑顔の形のまま止まっている。


「ミナ殿が……こちらへ?」


「うん」


「灰石橋を、見ると?」


「そうそう。橋、ぎしぎしするんでしょ? ガルムも見るかも。あの偉そうな人も、勝手についてくるかもしれないけど、そこは知らない」


「偉そうな人」


 まとめ役の声が乾いた。


「ルシェラ? 来るか知らないけど、来たらうるさいよ。ミナのそばにいるから、気づいたらいるかも」


 ルシェラという女の話はどうでもいい。


 ラダーナ村側にとっても、今はそこではなかった。


 ミナ本人が来る。


 灰石橋を見る。


 灰石橋は、ラダーナ村とミストル村をつなぐ古い橋だ。板が鳴り、荷を軽くしなければ渡れず、雨の後はさらに危ない。両村の往来を縛っている場所でもある。


 そこへ、森番の娘が来る。


 火と丸太と水路と荷を見る娘が、橋を見る。


 ヘルマンは、ようやく言葉を探す。


「近いうち、とは」


「知らない」


「日取りは」


「知らない」


「人数は」


「知らない。でも、ミナは来るっぽい。あたし、先に言っといたからね!」


 リィナは胸を張る。


 仕事を一つ済ませた顔だった。


 ラダーナ村の者たちは、笑顔のまま凍っていた。


「それは……知らせてくださり、感謝します」


 まとめ役が、どうにか言葉を絞り出す。


「うん! ちゃんと言ったからね」


 リィナは返礼の包みを抱え直した。


「じゃ、帰るねー!」



 リィナは、最後まで軽かった。


 塩の小袋を内側に寄せ、干し豆と薬草を布で押さえ、古布の端が羽に引っかからないように少し結び直す。荷物の確認だけは真面目だった。そこは仕事として分かっているらしい。


「これ以上は無理だからね。風が強かったら休むから」


「お気をつけて」


「バルド殿にも、よろしくお伝えください」


「ミナ様……いえ、ミナ殿にも、よろしくお願いいたします」


 年長者の言い直しに、リィナは首をかしげる。


「ミナでいいと思うけど」


「……よろしくお願いいたします」


「うん、言っとくー!」


 羽が広がる。


 村人たちは、今度は下がらなかった。下がらなかったが、全員の体が少しだけ硬くなった。リィナはそれを、見送りの姿勢だと思ったらしい。


「じゃ、ラダーナ! またね!」


 軽い声を残して、リィナは空へ上がった。


 上がる時に一度、包みが少し揺れた。物資係の女の顔が青くなる。リィナはすぐに持ち直し、空中で振り返った。


「落としてないから!」


 それだけ言って、ハーピーはミストル村の方角へ飛んでいった。


 羽音が遠ざかる。


 空で小さくなり、やがて見えなくなる。


 見えなくなった瞬間、ラダーナ村の広場から笑顔が消えた。



 誰も、すぐには動かなかった。


 古い台の上には、リィナが立っていた跡が残っている。羽で乱れたほこりが、少しだけ板の端に寄っていた。笑顔を作っていた村人たちは、頬を押さえたり、息を吐いたり、無言で空を見上げたりしていた。


 ヘルマンの声が、低く落ちた。


「……今夜、集会小屋へ」


 まとめ役は、すぐにうなずいた。


「はい」


「聞き間違いではないな」


「ミナ殿が来る、と」


「灰石橋を見る、と」


 年長者の目が、橋の方角へ向いた。


「橋は、こちらとミストル村をつなぐ場所だ。軽くは扱えん」


 物資係の女は、空になった台を見つめたまま唇を動かした。


「ミストル村側は、ただの挨拶のつもりかもしれません」


「だからこそ、難しい」


 まとめ役の声は静かだった。


「こちらが重くしすぎれば、おかしく見える。軽く扱えば、無礼になる」


 慎重派の男が、引きつった笑顔の名残を手でこすった。


「丁寧な笑顔だけで済む相手ではない、ということですね」


「笑顔は要る」


 ヘルマンは、空の向こうを見据えた。


「だが、それだけでは足りん」


 リィナは軽い声で置いていった。


 先に言っといたからね。


 たったそれだけの調子だった。


 けれど、ラダーナ村に残ったものは軽くなかった。


 ミナ・フォレルが来る。


 灰石橋を見る。


 日取りは分からない。


 人数も分からない。


 もしかすると、あのミストル村の外側にいる者たちの一部も来るかもしれない。


 ヘルマンは、集会小屋の方へ歩き出した。


「ミナ・フォレルを迎える話をする」


 村人たちは道を空ける。


「丁寧に、だ」


 その声は、朝よりも重かった。


「やりすぎず、粗末にせず、今度こそ間違えるな」


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