第40話 ラダーナ村の長い報告
第1部:辺境領と教会編
第8章:ラダーナ村の勝手な恭順
灰石橋は、春の水音を下に聞きながら、ぎしりと鳴った。
ラダーナ村の使節団は、一人ずつ橋を渡っていた。先に渡った者が向こう岸で待ち、次の者が板の継ぎ目を避けるように足を置く。背負い籠は軽くしたはずなのに、肩紐がいつもより重く感じた。塩も干し豆も、渡してきた。帰りの荷は、受け取った返事と少しの手土産だけ。来た時より軽い。
それでも、足は重かった。
橋の古い板は、踏む場所によって鳴り方が違う。低く沈む音。乾いた音。まだ持つ音。もう長くは持たない音。石積みの端は少し欠け、雪解け水に濡れた苔が光っている。荷馬車を通すなど、今は考えたくもない。軽い荷の人間が一人ずつ渡るだけでも、自然と息が浅くなる。
若い付き添いは、橋の真ん中で一度口を開きかけた。
「……本当に、報告するんですよね」
先に渡っていた代表の男の足は止まらなかった。
「見たことは報告する」
「見なかったことにはできませんよね」
「できん」
それだけだった。
橋の上で長く話す気になれない。足元に集中しないといけないし、口を開けば、ミストル村で見たものがそのまま溢れそうだった。
オークがいた。
丸太を持っていた。
ゴブリンが釘皿を抱えていた。
ハーピーが塩の礼を受け取り、当たり前のように話していた。
魔狼は、森の線の外で止まっていた。
スライムは水路に三ついた。
そして、森番の娘が、火場と丸太と水路を見ていた。
橋を渡り終えた女が、背負い籠の紐を直しながら小さく息を吐いた。
「どう言えばよいのでしょう」
「そのまま言うしかない」
「そのまま言えば、余計に分からなくなる気がします」
代表の男は、灰石橋の向こうに続く道を見た。ラダーナ村へ戻る道だ。見慣れた道のはずなのに、少し遠く見えた。
「だから、順に言う」
誰もすぐには返事をしなかった。
春の風が橋の下を抜け、古い板がもう一度、ぎしりと鳴った。
*
ラダーナ村の入口に着く頃には、使節団の姿を見つけたのか、村人たちが集まり始めていた。
春支度の手を止めた者。畑から戻る途中の者。井戸の水桶を抱えたままの女。小屋の影から顔だけ出した子ども。みんな、聞きたいことを抱えていた。
「どうだった?」
「ミストル村は無事だったのか?」
「バルド殿は?」
「塩の話はどうなった?」
「魔物はいたのか?」
「あのハーピー、本当にいたのか?」
声は一度に重なった。責める声ではない。不安で待っていた声だった。
代表の男は、背負っていた荷を少し下ろし、集まった顔を見回した。
「無事だった」
それだけで、村人たちの肩が少し落ちる。
「ミストル村は、冬を越していた。バルド殿も健在だった」
「なら、よかったじゃないか」
誰かがそう言いかけた。
代表の男は、すぐにうなずかなかった。
「……それだけではない」
入口の空気が、そこで止まった。
若い付き添いは、村人たちの顔を見て、言葉を飲み込んだ。ここで口にすれば、かえって騒ぎになる。オークも、魔狼も、ハーピーも、スライムも、順番を間違えれば何も伝わらない。
「まず、村長に報告する」
代表の男が荷を持ち直す。
「ここでは、話しきれません」
若い付き添いの声は小さかったが、周りには聞こえた。
村人たちは、それ以上追ってこなかった。ただ、道を空けた。報告を受ける場所へ向かう使節団の背中を、井戸の前から、畑の端から、家の戸口から見送っていた。
*
集会小屋は、立派な場所ではない。
春の泥がまだ乾ききっていない土間の壁際には、鍬、鋤、古い縄、折れた柄、種袋、干し草の束が寄せてある。低い卓の上には帳面と木札、簡単な地図代わりの板、橋の状態を書き留めた古布の切れ端、塩袋、干し豆の小袋、薬草の束が並んでいた。
ラダーナ村長のヘルマンは、その卓の向こうに座っていた。
小心な男ではある。だが、村のことを人任せにする顔はしていない。春支度の帳面を閉じ、使節団の顔を見ると、すぐに隣のまとめ役へ合図した。
「人を絞れ。入口に集めすぎるな」
まとめ役はうなずき、戸口の外へ目を向ける。会議に残ったのは、ヘルマン、まとめ役、畑と水を見ている年長者、物資を見ている女、慎重派の男。それから使節団の代表と若い付き添い、荷を背負っていた女だった。
干し草の匂いと、塩袋の乾いた匂いが混ざっている。
「まず、順に話せ」
使節団代表は、その声に背筋を伸ばした。
「ミストル村は、冬を越していました」
集会小屋の空気が、少し緩む。
「村人も暮らしておりました。畑も、春支度に入っているようでした。バルド殿が、村長として迎えてくださいました」
「バルド殿が迎えたのか」
「はい。春の挨拶も、村として受け取っていただきました。塩の件にも、礼を言われました。こちらへの不満などは見えませんでした」
物資を見ている女は、ほっとしたように塩袋へ目を落とした。
「では、塩の礼は受け取られたのですね」
「はい」
「橋のことは」
畑と水の年長者が、身を乗り出す。
「帰りの橋も気遣われました。荷は軽く、一人ずつ渡るように、と」
ヘルマンは一度だけ目を閉じた。
「では、村としての形は残っている」
「はい」
その返事に、集まった者たちはもう一度息を吐いた。
無事だった。
バルドもいた。
挨拶は通った。
そこまでなら、春の隣村報告で済んだ。
代表の男は、卓の上の地図板を見つめたまま、少し間を置いた。
「しかし、魔物がいました」
息を吐いたばかりの空気が、今度は固まった。
*
最初に口を開いたのは、慎重派の男だった。
「魔物というのは、森の中に、ですか」
「いいえ。見えるところに」
「村の中に入っていたのか」
ヘルマンの声が低くなる。
代表の男は、すぐ首を横へ振った。
「村の中ではありません。村の外側です。木札と縄で場所が分けられていました」
まとめ役が帳面を開く。
「ひとつずつ確認しましょう。魔物は何がいましたか」
「水路に、スライムがいました」
畑と水の年長者の眉が寄る。
「水路にスライムだと?」
「はい。三ついました。水路の中で、泥を取っているように見えました」
「畑は荒れていなかったのか」
「畑側へ出ないよう、木札と縄がありました」
年長者は、顔をしかめたまま黙った。
代表の男は、膝の上の手を握り直す。
「ゴブリンもいました。道具棚のそばで、釘と縄を見ていました。子どものゴブリンもいました」
「ゴブリンが釘を?」
まとめ役の筆が止まる。
若い付き添いが、少し身を乗り出した。
「釘皿を抱えて、ハーピーを叱っていました」
「ハーピーを、ゴブリンが?」
「はい。短く。ミストル村の者たちは、それに驚いていませんでした」
その場に、言葉にならない沈黙が落ちた。
「ハーピーもいたのだな」
「いました。普通に話していました。塩の人たち、と私たちを呼びました」
物資の女が、両手を膝の上で握った。
「塩の人たち……」
「オークもいました」
若い付き添いの声が、少し硬くなる。
「丸太を持っていました。大きな丸太です」
慎重派の男が低く息をのむ。
「暴れていたのか」
「いいえ」
代表の男は、はっきり首を横へ振った。
「暴れてはいませんでした。隠れてもいませんでした。見えるところにいました」
「では、何をしていた」
ヘルマンの問いに、代表の男は少しだけ言葉を探した。
「働いていました」
集会小屋の中で、誰かの椅子が小さく鳴った。
「働いていた?」
畑と水の年長者の声が、少し裏返る。
「オークが?」
「ゴブリンも、です」
若い付き添いは、あの丸太の重さを思い出すように手を握った。
「オークは丸太を扱っていました。ゴブリンは釘や縄を見ていました。火場があり、食べ物を渡す場所があり、材置き場もありました。木札と縄で、場所が分けられていました」
まとめ役が、ゆっくりと筆を置いた。
「魔物が、作業の場所にいた、と」
「はい」
「受け入れている、ということか」
年長者は、眉間を押さえた。
「どういうことなのだ……」
*
ヘルマンは、しばらく何も言わなかった。
卓の上には、ラダーナ村の畑を示す木札と、灰石橋の位置を書いた板がある。ミストル村へ続く道は、細い線でしかない。その先に、今の報告が全部乗っていた。
「ミストル村は、魔物に支配された村なのか」
代表の男は、すぐには答えなかった。
「そうは見えませんでした」
「理由は」
「バルド殿が村長として応対されました。村人は怯えていましたが、逃げてはいませんでした。生活もしていました。魔物は村の中に押し入っているのではなく、外側の決められた場所にいました」
「バルド殿は、魔物に命じられていたか」
「いいえ」
「ならば、村としての形は残っている」
「はい」
まとめ役が、帳面の端を指で押さえた。
「では、魔物はなぜ暴れていないのです。誰が止めているのですか」
代表の男は、そこで初めて少し困った顔をした。
若い付き添いが、先に口を開く。
「森番の娘です」
誰もすぐには動かなかった。
「名は、ミナ……ミナ・フォレル」
代表の男は、小さく息を整える。
「村の代表ではありません。挨拶を受けたのはバルド殿です。あの娘は、わきまえておりました」
「では、命じていたのか」
ヘルマンの声に、代表の男は首をひねる。
「命じていた、というより……火と丸太と水路を見ていました」
「火と丸太と水路」
「はい。丸太は火に近いから、こちらへ。水路に灰を流さないように。村道を塞がないように。そういう言葉でした」
若い付き添いが、息を詰めたように補う。
「それで、オークは止まりました」
まとめ役の視線が動く。
「止まった」
「はい。大きなオークが丸太を持っていました。あの娘が、そこは火に近い、と。それでオークは止まって、別の場所へ動かしました」
「魔狼は」
「線の外で止まっていました。猟師の男が先に言っても動かず、あの娘が言うと、引きました」
慎重派の男の喉が動く。
「魔狼が、人の言葉で」
「言葉をどこまで分かっているかは、分かりません。ただ、線は越えませんでした」
代表の男は、両手を膝の上で組む。
「ゴブリンも、あの娘へ確認していました。ハーピーは、あの娘へ文句を言っていました。スライムの水路も、あの娘が見ていました」
畑と水の年長者が、ぽつりと漏らす。
「ただの森番を、魔物が……」
その言葉が、集会小屋の中に残った。
強そうなら分かりやすい。
武器を持って立ち、命令していたなら、危険な者として扱える。魔物を従える恐ろしい女だと決めればよい。けれど、報告の中の森番の娘は、火と水路と丸太を見ているだけだった。橋の帰りを心配し、荷物が濡れないようにと言っただけだった。
それなのに、魔物が止まる。
それが、いちばん分からなかった。
「ただ者ではなさそうな女もいたと言ったな」
ヘルマンの視線が、代表の男へ向いた。
「はい。美しい女でしたが、空気が違いました。ミナを中心に、大きな言葉を使っていました」
「何と」
「小娘の外側、重き腕、小さき手、牙、羽、水……そういった言い方を」
物資の女が少し顔をしかめた。
「それは、どういう意味です」
「分かりません」
代表の男は、正直に首を横へ振った。
「ただ、ミナはそれを、火の場所と寝る場所を分けただけだと返していました」
若い付き添いの声は小さい。
「本当に、そういう感じでした。大きな言葉を使う女がいて、森番の娘はそれを小さく戻していました。でも、周りの魔物は、あの娘を見ていました」
ヘルマンは、卓の上の灰石橋の板へ目を落とした。
「普通ではない」
誰も否定しなかった。
*
最初に強い言葉を出したのは、慎重派の男だった。
「領主へ知らせるべきではありませんか」
集会小屋の空気が揺れる。
「教会へ相談するべきでは。魔物がいる村と付き合うなど、危うすぎる」
別の年長者が、灰石橋の位置を示す木札を見た。
「橋を閉じれば、こちらへ来られないのでは」
「しかしそれでは、こちらの荷も遠回りになります」
まとめ役の声は静かだった。
「塩のやり取りも切れます。春の荷も、トレオへ回す道も、余計に遠くなる。橋を使わないで済むほど、うちは余裕がありません」
「だが、魔物だぞ」
「その魔物は、こちらへ敵意を見せていましたか?」
慎重派の男は黙った。
代表の男が首を横へ振る。
「敵意は見えませんでした。恐ろしいものはいました。ですが、こちらを襲ってはいません。むしろ、帰りの橋を気遣われました」
物資の女が、塩袋へ手を置いた。
「塩の礼も受け取られたのですね」
「はい」
「なら、次の返礼を急に止めれば、それはそれで不自然です。こちらから関係を切る形になります」
畑と水の年長者は、低くうなる。
「魔物が暴れていないなら、刺激する方が怖い。扱いを間違えて余計な問題が起きないとも限らん」
「だからこそ領主へ」
「雑に知らせれば、こちらにも火の粉が来る」
ヘルマンの声が、そこではっきりと入った。
全員が村長を見る。
「領主へも、教会へも、いずれ話が行くかもしれん。だが、今ここで、こちらから騒ぎ立てるのは早い」
「しかし」
「ミストル村はこちらへ不満を見せていない。バルド殿との村同士の形も残っている。こちらから橋を閉じ、塩を切り、教会の名を出して壁を作れば、関係がこじれる」
ヘルマンは、灰石橋の木札を指で押さえた。
「相手がただの魔物なら、逃げることも考えるが……報告の通りなら、魔物は線の外で止まっている。働いている。あの娘の声で動く。ならば、刺激する方が危ない」
慎重派の男は、唇を引き結んだ。
怖いから距離を置きたい。
それは誰もが思っている。
けれど、距離の置き方を間違えれば、それもまた危険になる。灰石橋を閉じれば、ラダーナ村の荷も困る。塩のやり取りを切れば、隣村同士の顔も潰れる。害意のない相手を無下にするほど、ラダーナ村は恥知らずではない。
ヘルマンは、灰石橋の木札から手を離さなかった。
「今はまだ大事にはせん……」
誰もすぐには動かない。
「だが、普通の隣村として扱うには、危うい」
まとめ役が、帳面に筆を戻した。
「丁寧に、ですか」
「丁寧に」
ヘルマンはうなずく。
「バルド殿との形は守る。村同士の挨拶も、礼も、橋の話も続ける。だが、あの森番の娘を軽く見てはならん」
若い付き添いの顔が、少し強張る。
ヘルマンの視線が、その顔から離れなかった。
「あの娘の機嫌を損ねるな」
集会小屋の中で、その言葉だけが妙にはっきり残った。
ラダーナ村として、まず無事に春を越すための方針だった。
*
方針が決まると、話は急に生活の方へ戻った。
戻らないと、村は動かない。怖いものがあっても、畑は待たない。塩袋は湿気る。橋は傷んで嫌な音を立てる。返礼は用意しなければならない。
物資を見ている女が、塩袋の口をほどいた。
「返礼は、粗末に見えぬよう包み直します。ただ、出せるものは多くありません」
「古布なら少し出せる」
別の年長者は壁際の布束を見た。
「干し豆は多くありませんが、少しなら。薬草も、春のものを束にできます」
「塩の小袋は」
「濡れぬように包みます。前より布を厚くしましょう」
まとめ役が帳面に書きつける。
「手紙の書き出しは、いつもより丁寧に。バルド殿宛ては当然として……」
筆が止まった。
全員の目が、少しだけ同じところで止まった。
「森番の娘にも、礼を添えた方がよいかもしれません」
慎重派の男が眉を寄せる。
「やりすぎでは」
「やりすぎるな」
ヘルマンがすぐ止めた。
「だが、粗末にもするな」
物資の女が、ゆっくりうなずいた。
「バルド殿への挨拶を本筋にします。橋を気遣っていただいたこと、塩を受け取っていただいたことへの礼を添えます。森番の娘には、荷の扱いを気遣っていただいた礼として、一文だけ」
「一文だけ」
ヘルマンは念を押した。
「はい」
若い付き添いが、不安そうに口を開く。
「次に、あのハーピーはいつ来るのですか」
「数日内ではないかと」
まとめ役は戸口の外を見た。
「村の入口で騒がぬよう、先に伝えます。子どもたちは下げる。荷は落とさせない。渡す者を決める。笑う必要はありませんが、叫ばないように」
「ハーピーに、笑って渡すのですか」
若い付き添いの声に、物資の女は塩袋を包みながら少しだけ苦い顔をした。
「怖くても、落とされるよりはよいです」
その言葉には、何人かが思わずうなずいた。
塩を落とされては困る。
ハーピーの娘は怖くはないが……それは別の問題だ。
ヘルマンは、帳面と塩袋と灰石橋の木札を順に見た。
「軽い荷に限る。返礼も、多くするな。だが、包みは丁寧にせよ」
「はい」
「手紙は、言葉を選ぶ」
「はい」
「バルド殿との形を崩すな。村長はバルド殿だ」
「はい」
少し間が空く。
ヘルマンの声は、さらに低くなる。
「だが、あの娘への礼を忘れるな」
まとめ役の筆が、帳面の上をゆっくり動いた。
外では、春支度の音が戻り始めている。誰かが鍬を運び、誰かが干し草を叩き、井戸の水桶が揺れる音がした。いつものラダーナ村だ。
ただ、低い卓の上には、いつもより丁寧に包み直される塩の小袋があった。
干し豆の袋も、古布も、薬草の束も、並び方が変わった。
ヘルマンはそれを見て、深く息を吐いた。
「やりすぎるな」
そして、もう一度だけ、同じ重さで締めた。
「だが、粗末にもするな」




