第39話 ラダーナ村からの春の挨拶
第1部:辺境領と教会編
第7章:オークと倉庫づくり
春の朝は、見回る場所が増えていた。
森番小屋の外側には、木札と縄がいくつも立っている。冬前なら、木札といえば森の境や、水路の危ないところに立てるものだった。
今は違う。
水路、火場、食べ物を渡す石、丸太置き場、ゴブリンたちの道具棚、オークたちの休む場所、リィナの荷置き場、ロウたちが近づきすぎない外縁。どこにも、それぞれの印がある。
どれも立派ではない。
古い板。余り縄。曲がった釘。拾った石。雨を避けるための古布と草束。
風が強ければ直しが要るし、雨が続けばまた場所を見直さないといけない。けれど、二週間も使っていると、最初よりは少しだけ形が落ち着いてきていた。
ミナは火場の石の内側を見る。灰は湿っているが、外へ流れてはいない。水路へ向かう溝もできていない。
近くに木くずが寄っていたので、拾って、丸太置き場とは反対側へ移した。
「灰は水路に流さない」
代表格のオークは、少し離れたところで大きく首を縦に動かした。
「灰、水、だめ」
「あと、丸太は火に近づけすぎない」
「木、あっち」
大柄なオークは、丸太を抱えてはいない。ただ、昨日の仕事で動かした木の端をじっと見ていた。動かしていいかどうか、先にミナを見る癖がつき始めている。
若いオークは、食べ物を渡す石の方を見ていた。
「飯、あと?」
「まだ朝の見回り」
「言葉、多い」
「順番も多いよ」
若いオークは少ししょんぼりしたが、木札の内側へは来なかった。
ゴブリンたちの小さな棚は、昨夜の雨を何とかしのいでいた。低い板の下に釘皿があり、縄の束は内側へ寄せられている。
キキが早くからそこにいて、湿った縄を手で触っていた。
「縄、少し濡れた」
「乾かそう。火場には近づけすぎないで」
「火、だめ」
「うん。日が当たるところ」
キキは縄を抱え、少し考えてから、薪小屋の壁に近い乾いた石の上へ置いた。
そこなら火場からは離れていて、水路の水も届かない。
水路では、ぷるが三つ、ゆっくり揺れていた。泥はまだあるが、畑側には出ていない。ミナは木札の根元を押さえ、縄が緩んでいないか確かめた。
「ぷるは水路。畑側はだめ」
ぷる、ぷる、ぷる。
「三つ返事みたいになってるの、まだ慣れないな」
背後で、水桶と古い布を持ったトマの肩が少し落ちる。
「慣れたの?」
「慣れてきた自分が嫌だ」
トマは水桶を置き、火場、丸太置き場、肉を置く石、水路を順に見た。
「毎朝、魔物の火場と肉置き場を見回る森番ってなんだよ。しかも必要なのが困る」
「必要だよ。灰が水路に流れたら困るし、肉の場所が近すぎるとみんな怖がるでしょ」
「分かる。分かるから嫌なんだよ」
バルドは少し離れたところで、腕を組んで外側を見ていた。眉間のしわは朝から深い。
「慣れてはならん」
「だよな」
「慣れてはならんが、場所を分けたのは助かっておる」
杖の先が、地面を一度突く。
「助かっておるのが困る」
トマの首が深く沈んだ。
「そこです」
森側では、ロウたちの金色の目がいくつか動いていた。肉を置く石のさらに外側、木札より向こうだ。朝の見回りに合わせるように顔を出したが、近づきすぎてはいない。
「ロウ、そこより中はだめ」
ロウの耳が動く。
「今日は水路を見るから、そこまで」
ロウは何も言わない。ただ、前へ出かけていた足を止めた。
リィナは止まり木の上で、布包みを抱えていた。棚の上へ置くように言った荷物を、なぜか膝の上に抱えている。
「リィナ、荷物は棚の上」
「落ちないように持ってるだけだし」
「持ってたら、落とすでしょ」
「落とさないし」
ミナが黙って見ると、リィナは少しむくれながら棚へ布包みを置いた。
「この棚、もう少し高くしてよ」
「高すぎると、落とした時に危ない」
「落とさないって言ってるのに」
トマが水桶を持ち上げながら、小さく笑った。
「こういうやり取りまで日課になってるのが怖いな」
ミナは木札の結び目をもう一つ引いた。
日課。
たしかに、少しだけそうなっている。
怖いまま、困るまま、でも放っておけないまま。朝の仕事の中に、少しずつ入り始めていた。
*
昼前、村道の方で声が上がった。
最初に気づいたのは、ガルムだった。森側を見ていた目が、村道の方へ動く。弓へ手は伸ばさない。ただ、道の幅と、外側の木札、丸太置き場の位置を一度に見た。
「客だ」
トマが顔を上げる。
「この時期に?」
「ラダーナの方からだ」
村道の先に、人影が三つ。それから少し遅れて、もう一つ見えた。
荷馬車ではない。背負い籠と布包みを持ち、泥のついた靴でゆっくり歩いてくる。長い道を歩いてきた足取りだった。
先頭にいるのは、年かさの男だった。村長本人ではなさそうだが、立ち方にまとめ役の匂いがある。後ろに若い男と、荷を背負った女、少し怖がりそうな顔の村人が続く。
どの荷も軽い。
重い荷を持って灰石橋を越えるのは、まだ危ないのだろう。
バルドが杖を持ち直した。
「ラダーナか」
「春の挨拶かな」
ミナは水路の縄をもう一度押さえる。
「橋、危なかったのかな。泥がついてる」
「そういう問題だけじゃなさそうだけどな」
トマは外側の木札と、オークの雨よけと、火場と、ロウのいる森側を見て、顔をしかめた。
「こんな日に来るなんて、運がいいのか悪いのか分からないな」
ガルムの声が短く飛んだ。
「村道を空けろ。丸太は動かすな。ロウ、そこから先はだめだ」
ロウの耳が動いた。
だが、足は動かなかった。
ガルムは一拍置いて、ミナを見る。
「……お前が言え」
「ロウ、そこより中はだめ。今日はお客さんが来てるから、森側で待ってて」
ロウの耳がもう一度動き、森側の影が少し引いた。
オークたちは、バルドの顔とミナの顔を交互に見ている。
「オークたちは、丸太はそのまま。今日は人が来てる」
「人、来た」
若いオークが目を丸くした。
「ラダーナ?」
「たぶん。近づかないで。木札の外」
「近づかん」
大柄なオークは、動かしかけていた石から手を離した。
「待つ」
「うん。待つ」
バルドがミナを一度見た。
「迎えるのは、わしじゃ」
「うん」
「お前は、外側を見ておれ」
「分かった」
バルドは村道へ出た。
村長の顔だった。
*
ラダーナ村の一行は、木札の手前で足を止めた。
止められたわけではない。そこに木札と縄があるから、自然に足が止まったのだ。
年かさの男は、まずバルドへ深く頭を下げた。
「遠いところをよう来た」
「春の挨拶に参りました。冬越し、お見事でした、バルド殿」
「そちらも越せたか」
「何とか。畑はまだこれからですが、雪解けの水は悪くありません。塩の件では、こちらも助かりました」
男は背負い籠の紐を少し直し、後ろの若い男へ目を向けた。若い男が布包みを差し出す。
中身は少しの塩、干し豆、春先に採ったらしい薬草、古布。それから、折り畳んだ手紙が一通。
「村長は春支度と畑の段取りで動けず、私どもが挨拶を預かってまいりました。ささやかですが、春の品です」
「気を遣わせたな」
バルドは受け取り、手紙を丁寧に懐へ入れた。
「橋はどうじゃった」
荷を背負った女が、少しだけ顔をしかめた。
「やはり危ういです。晴れていたので渡れましたが、荷は軽くしました。馬を引くのは、まだやめた方がよいかと」
「そうか」
「板の鳴りが、去年より悪い気がします」
バルドのしわが深くなる。
「春支度は進んでおるか」
「畑の手は足りませんが、何とか。商人がこちらへ回るかもしれない話もありまして、塩や荷のことはまた相談できればと」
「うむ。こちらも何とか春を迎えた」
そこまでは、隣村同士の挨拶だった。
少し疲れた足。泥のついた靴。軽い荷。冬を越した村同士の言葉。バルドが受け、ラダーナの者が頭を下げる。ミナは少し離れた水路側で、木札の縄を見ていた。
でも、挨拶が進むほど、ラダーナ村の一行の視線は、少しずつ横へ流れた。
森番小屋の外側。
まず、オークの雨よけが見えた。
古布と草束で作っただけの粗い屋根。その下に、大きな影が五つ。代表格のオークが、木札の外で動かず立っている。若いオークは食べ物の石を見ていたが、代表格に肩を押さえられていた。大柄なオークは、丸太のそばで手を止めている。
次に、ゴブリンたちの小さな棚が見えた。
釘皿。縄。低い屋根。小さな手が、濡れた縄を直している。キキが釘皿を抱え、ミナの方をちらりと見る。
水路には、ぷるが三ついた。
その周りに木札と縄。畑側へ出ないように、細い線が引かれている。ぷるはただ揺れているだけなのに、ラダーナの若い男が、一歩下がりそうになった。
森側にはロウたちの金色の目がある。
近づいてはいない。むしろ、木札の外で止まっている。だが、魔狼がそこにいるというだけで、ラダーナの空気は固まった。
そして、止まり木の上にリィナがいた。
リィナはラダーナの一行を見つけた瞬間、ぱっと羽を広げた。
「ラダーナ! 塩の人たち!」
ラダーナの一行が固まった。
リィナは気にしない。
「見た!? オークでかいでしょ! あたしの荷置き場もあるから! この止まり木、ちょっと低いけどね!」
キキが釘皿を抱えたまま、顔だけを上げた。
「リィナ、うるさい」
その場が止まった。
ハーピーが話している。
ゴブリンが、それを叱った。
ミストル村の者たちは、誰もそれに驚いていない。
トマだけが、ラダーナ側の顔を見て小さく口元を引きつらせた。
「今のは、だいぶまずいな」
「まずい?」
ミナは水路の木札を持ったまま振り返る。
「ラダーナの人たち、疲れてる?」
「そういう疲れじゃない」
*
挨拶の途中で、丸太が動きかけた。
大柄なオークが、材置き場の端に寄った丸太へ手を伸ばしたのだ。火場の石に少し近い。昨日の雨で土が緩み、丸太がじわりと低い方へずれていた。
「木、動かす?」
代表格のオークが、先にミナを見る。
ラダーナ村の一行の視線が、一斉にそちらへ向いた。
丸太の横で、ゴブリンの一体が釘皿を抱え直した。
「まだ」
大柄なオークの手が止まった。
ラダーナの若い男が息を止める。
ミナは丸太と火場の石、水路への流れを見てから、木札を地面へ刺した。
「そこは火に近いね。丸太はこっち。村道は塞がないで。ゆっくり」
大柄なオークの太い首が、ゆっくり上下した。
「ゆっくり」
「釘、こっち」
ゴブリンが釘皿を抱えて横へずれる。
「置く、ここ?」
「もう少し奥。食べ物の台の横は空けて。人が通るから」
「奥。台、空ける」
大柄なオークは丸太を持ち上げた。
持ち上げるだけなら、きっと早い。けれど、今は違う。ゆっくり、足元を見て、ゴブリンの釘皿を避け、食べ物の台の横を空けて、火場から離す。
丸太が、どすん、ではなく、ずし、と土に下りた。
ラダーナ村の一行は、誰も声を出さなかった。
止まった。
動いた。
また止まった。
それが全部、ミナの声のあとに起きたように見えた。
ミナ自身は、丸太の端を見ているだけだった。
「これなら火に近くない。道も塞いでない」
「勝手、動かさん」
代表格のオークの首が、大きく上下する。
「ミナ、こっち?」
「うん、そっちでいい。でも、積みすぎると転がるから、石を下に入れて」
「石」
若いオークが、食べ物の台から目を離して小さな石を拾おうとする。
「飯、あと?」
「あと。先に石」
「言葉、多い」
「順番も多い」
ラダーナの荷を背負った女が、思わずバルドを見た。
バルドは、村長として立っている。
けれど、オークはミナを見ていた。
ゴブリンも、ミナの手元を見ていた。
リィナはミナに文句を言い、ロウはミナが決めた線の外に止まっている。水路のぷるも、木札の中にいる。
バルドは、その視線の動きに気づいた。
「村長はわしじゃ」
ラダーナのまとめ役が、はっとして頭を下げる。
「もちろんです、バルド殿」
「あれは森番の娘じゃ。外側のことを見ておるだけじゃ」
少し間が空く。
バルドは、オークの丸太、ゴブリンの釘皿、火場、水路、森側のロウを順に見た。
「……外側のことは、あれが一番見ておるのも事実じゃが」
言ってから、自分でも深くしわを寄せた。
「ややこしいな」
トマの声が小さく落ちた。
「すごく」
*
ルシェラは、そのややこしさを少しも減らさなかった。
森番小屋の影から、当然のように歩いてくる。ラダーナの一行は、最初にオークを見た時とは別の固まり方をした。
ルシェラは、ぱっと見は美しい女性のように見える。
けれど、そこにいるだけで、空気の重さが変わる。
「外の者も、小娘の外側を見るか」
ラダーナの若い男の喉が動いた。
ミナはすぐに振り返る。
「ルシェラ、言い方」
「まだ粗いが、形はできた。重き腕、小さき手、牙、羽、水。場を得れば乱れぬ」
「火の場所と寝る場所を分けただけだよ」
「小娘は、置くだけでは足りぬと知った」
「丸太と釘を一緒に置くと危ないから」
「春だな。外側が育つ」
「ご飯を渡す場所がないと、みんな怖がるでしょ」
ラダーナのまとめ役は、ミナとルシェラを交互に見た。
説明は聞こえている。
火の場所と寝る場所。丸太と釘。食べ物を渡す台。水路に灰を流さないこと。
どれも、生活の話だ。
けれど、目の前にはオークがいて、ゴブリンがいて、ハーピーがいて、魔狼がいて、水路にぷるがいて、ルシェラがいる。
生活の話にしては、見えるものが強すぎた。
「村の中には入れてないよ」
その言葉に、ラダーナの怖がりそうな村人の首が、ぎこちなく縦に動いた。
「はい。村の、外に」
その言い方は、とても丁寧だった。
ミナは少し首をかしげた。
「そんなにかしこまらなくても」
トマが横で顔を覆いかけた。
「ミナ、これ、たぶんただの挨拶じゃないぞ」
「春の挨拶でしょ」
「春の挨拶って顔じゃない」
ラダーナの女が、持っていた古布の包みを丁寧に両手で持ち直した。
「ご無事で何よりです。ミストル村の冬越し、本当にお見事でした」
「何とか越しただけだよ」
「いえ」
まとめ役の男も、バルドに向き直る。向き直ったが、目の端はどうしてもミナの方へ残った。
「今後とも、よい隣人として。何かございましたら、先にお知らせください。ラダーナ村としても、穏やかな関係を望んでおります」
バルドのあごが、重く下がった。
「こちらもじゃ。橋のことも、また話さねばならん」
「はい。橋の件も、また相談させていただければ」
そこで、若い男が森側のロウを見た。
ロウは動かない。
だが、見ている。
ミナはすぐに手を上げた。
「ロウ、客人がいるから、今日はそこまで。肉を置くなら、いつもの石」
ロウの耳が動いた。
森側の影が、それ以上前へ来ない。
ラダーナの若い男の顔が、少し白くなる。
「……止まった」
小さな声だった。
ミナには、聞こえたかどうか分からない。
「ロウたちは、あの石より中に来ないようにしてるの。怖いから」
「はい」
返事は丁寧だった。
丁寧すぎた。
*
挨拶は、予定より長くなった。
ラダーナ村の一行は、バルドへ手紙を渡し、塩と干し豆と薬草のことを話し、橋の危なさをもう一度伝えた。商人が春のうちにラダーナへ来るかもしれないという話もあったが、詳しい名や日取りまでは決まっていないらしい。
話自体は、村同士のものだった。
けれど、話すたびに、少しずつ間ができる。
食べ物の台の方で若いオークが動きかけると、代表格が肩を押さえた。
「勝手、取らん」
「飯、あと?」
「あと」
キキが釘皿を棚に戻す。
「釘、濡れる」
リィナが止まり木から身を乗り出す。
「ラダーナの人たち、橋こわかった? あたしなら飛べるけど、荷物は重いと落ちるからね!」
トマの顔がすぐ上がった。
「そこ、誇るところじゃない」
「あたし、落とさない時もあるし!」
「あるし、じゃない」
ラダーナの一行は、ハーピーが塩の話をしていることにも、村人がそれに普通に突っ込んでいることにも、だんだん返事を失っていった。
ミナだけが、少し不思議そうに見ている。
「橋、帰りも気をつけてね。荷物、濡らさないように」
「ありがとうございます」
まとめ役の男は、また深く頭を下げた。
「そこまで丁寧じゃなくていいよ。塩、ありがとう」
「いえ。こちらこそ、今後とも」
ミナは首をかしげた。
「春の挨拶って、重いんだね」
トマはすぐ横で、声を潜める。
「向こう、完全にお前を見てる」
「私?」
「バルドさんと話してるけど、外側を見るたびにお前を見てる」
「橋が危ないから疲れたんじゃない?」
「そういう疲れじゃない」
バルドもそれに気づいていた。
気づいているからこそ、何度も村長として話を戻した。冬越し、畑、橋、荷、春の支度。バルドは村長だ。ラダーナの一行も、それを間違えてはいない。
でも、火場の石が動くと、オークはミナを見る。
縄が濡れると、ゴブリンがミナを呼ぶ。
リィナの文句はミナへ飛ぶ。
ロウはミナの線で止まる。
ルシェラは小娘の外側などと、大きな言葉を重ねる。
バルドは杖を握り直し、深く息を吐いた。
「村長はわしじゃ」
「はい」
ラダーナのまとめ役は、慌てて首を縦に振った。
「あれは森番の娘じゃ」
「はい」
「外側のことを見ておるだけじゃ」
「……はい」
返事は丁寧だった。
丁寧だったが、安心した顔ではなかった。
*
ラダーナ村の一行が帰る時、ミナは橋の方角へ目を向けた。
「灰石橋、帰りも一人ずつ渡ってね。荷物は軽くして。雨が降りそうなら、無理しない方がいいよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
「荷物、背負い直した方がいいかも。片方だけ重いと、橋で危ないから」
荷を背負った女が、少しだけ表情を緩めた。
「そこまで見てくださるのですね」
「橋で転ぶと危ないから」
「……はい」
ミナとしては、それだけだった。
橋は危ない。荷が濡れると困る。片側に重いと足を取られる。ラダーナの人たちは疲れているように見えるから、帰りも気をつけた方がいい。
ただ、それだけだった。
ラダーナのまとめ役は、バルドへ頭を下げた。
「本日は、ありがとうございました。今後とも、よい隣人として」
「こちらこそじゃ。村長にもよろしく伝えてくれ」
「必ず」
そのあと、ほんの少しだけ、ミナの方へも頭を下げた。
「……森番の娘殿にも、よろしく」
「うん。帰り、気をつけてね」
トマが横で小さく息を吐いた。
「軽い。返しが軽い」
「重くした方がいいの?」
「いや、たぶん重くしたらもっとまずい」
リィナが上から手を振る。
「ラダーナ! 塩、ありがとー! 今度は止まり木も見てってね!」
キキはもう何も言わなかった。
ゴブリンたちは棚の下で縄を片づけ、オークたちは木札の外で動かず、ロウたちは森側から静かに見ていた。ぷるは水路で揺れている。
ラダーナの一行は、何度か振り返りながら村道を戻っていった。
バルドはその背中を見送り、深く、深くため息をついた。
「……まずいな」
「挨拶、まずかった?」
バルドは少しだけ目を細めた。
「挨拶は悪くない」
「じゃあ、橋?」
「橋も悪い」
「じゃあ、何?」
トマが、外側に並ぶ木札を見た。
「見られたことだろ」
ミナは振り返る。
火場。丸太置き場。食べ物の石。ぷるの水路。ゴブリンの棚。オークの雨よけ。リィナの止まり木。ロウたちの外縁。
「でも、隠すものじゃないよ」
「隠せるものでもない」
バルドの声は低かった。
「そこが困る」
*
ラダーナ村の一行は、ミストル村から少し離れたところで、ようやく息を吐いた。
まだ灰石橋までは距離がある。道の端には雪解けの泥が残り、背負い籠の紐が肩に食い込む。誰もすぐには話さなかった。
最初に口を開いたのは、若い男だった。
「……挨拶に来ておいてよかったですね」
まとめ役の男は、前を見たまま小さく首を縦に動かした。
「村長はバルド殿だ」
「はい」
「それは間違いない。あの方が迎え、あの方が受けた」
荷を背負った女が、後ろを振り返る。
もうミストル村は木々に隠れ始めていた。けれど、森番小屋の外側に並んでいた木札と縄、オークの影、魔狼の目、止まり木のハーピー、水路のぷるは、目の奥に残っている。
「でも、魔物は……あの娘を見ていました」
まとめ役の男は、しばらく口を開かなかった。
泥を避け、足元を選び、少し進んでから声を低くした。
「ミストル村は、もう普通の村ではない」
若い男が息をのむ。
「支配されている、ということですか」
「分からん」
男は首を横へ振った。
「バルド殿は村長だ。村人も、怯えてはいたが逃げてはいなかった。あの娘も、偉そうにはしていない。ただ、火と丸太と水路を見ていただけだ」
「それなのに、オークが止まりました」
「魔狼も線を越えませんでした」
「ゴブリンが、ハーピーを叱りました」
言葉にすると、どれも信じがたかった。
まとめ役の男は、灰石橋へ向かう道を見た。
「あの娘の機嫌を損ねない方がいいのかもしれない」
誰も笑わなかった。
怖がりの村人が、背負い籠の紐を握り直す。
「橋のことも、軽くは扱えませんね」
「そうだ。あちらは橋を見ている。荷の重さも見ている。道も、水も、火も、魔物の場所も見ている」
「次は、言葉を選んだ方がいいですね」
「うむ」
まとめ役の男は、もう一度だけミストル村の方を振り返った。
森番の娘。
そう聞いていた。
だが、あの娘が見ている外側には、オークが待ち、ゴブリンが働き、ハーピーが騒ぎ、魔狼が止まり、水路の魔物が揺れていた。
春の挨拶に来ただけだった。
けれど、見てしまった。
男は黙って歩き出した。
灰石橋へ向かう足取りは、来た時より少し慎重になっていた。




