第38話 春の村が少し広くなる
第1部:辺境領と教会編
第7章:オークと倉庫づくり
朝の森番小屋の外で、ミナは泥のついた木札を並べていた。
昨日のうちに拭いたつもりだったが、乾いてみると、縄の結び目や板の割れ目に細かい土が残っている。薪置き場、倉庫、水路、古い材置き場跡。木札は一日であちこちを行き来したせいで、どれがどこの札だったか、一度見ただけでは分からなくなっていた。
ミナは札の端を指でこすり、薄く残った泥を落とす。
「これは水路。こっちは肉置き場。これは……オークのところ」
ひとつ置くたびに、昨日の光景がひとつずつ浮かぶ。
ぷるが三つ、水路で揺れていた。ゴブリンたちは縄と釘を見て、オークたちは丸太を支えた。ロウたちは森の外縁に肉を置き、リィナは薪小屋から騒いだ。みんな、村の中には入れていない。
でも、村の外側はずいぶん混んできた。
炉のそばで粥をすすっていたルシェラが、椀を置いた。
「小娘の外側にも、形が要る」
ミナは木札から顔を上げた。
「外側?」
「置くだけでは、いずれぶつかる。火、食、眠り、役目。混ぜるな」
朝から言葉が大きい。
トマは水桶を運びながら、すでに嫌な顔をしている。
「また始まったぞ」
ルシェラは気にせず続けた。
「小さき手と重き腕を同じ場に置けば、どちらかが潰れる。水の者には水の場。牙ある者には森の縁。羽ある者には荷を置く場」
「寝る場所と、仕事する場所を分けるってこと?」
木札を見下ろしたまま返すと、ルシェラは少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「言い方が地味だな」
「でも、そういうことでしょ」
ミナは木札をひとつ拾った。
「ゴブリンたちの釘と、オークたちの丸太を一緒に置くと危ないもんね。火は離した方がいいし、ご飯を渡す場所も決めた方がいい。ぷるの水路に灰が入ると困るし」
「ほら、形だ」
「火と水と木の場所だよ」
トマが水桶を置き、両手で顔をこすった。
「いや、それ、外から見たら完全に町割りだぞ」
「町じゃないよ」
「魔物の寝る場所と働く場所を分けるって、言葉だけで胃が痛いんだよ。村の外に、もう一つ村を作ってるように見える」
「村の中に入れないために、外に場所を決めるだけ」
「分かる。分かるんだけど、言い方を変えたらだめなやつなんだ」
ルシェラは楽しそうに笑った。
「狭く取るな。どうせ増える」
「増えないでほしい」
トマの声は、かなり本気だった。
「余白を持て。後から詰めるより、先に空けておく方がよい」
「余白はいるかも。丸太とか、火とか、逃げる道とか」
「そういうところだけ現実的なんだよな」
ミナは木札をまとめて抱えた。
「バルドさんとガルムさんに聞こう。私だけで決めると、たぶん怒られる」
「たぶんじゃなくて絶対に怒られる」
トマは水桶を持ち直した。
「俺も怒られない位置にいたい」
「一緒に来て」
「やっぱり怒られる位置だ」
*
バルドは、森番小屋の前に来るなり、深いため息をついた。
まだ何も言っていないのに、眉間のしわは朝から深い。ガルムはその横で、森番小屋の外側と水路、古い材置き場跡、村道の向きを順に見ていた。
ミナは、抱えていた木札を地面に置いた。
「昨日、いろいろ混ざって危なかったから、場所を少し分けたい」
「場所を分ける、か」
バルドのしわが一段深くなる。
「村の中には入れないよ。だから外で、近づいていい場所とだめな場所を分ける。ご飯を渡す場所がないと、みんな怖いでしょ。火と木も離したいし、水路に灰が流れたら困る」
「分かる」
短い返事のあと、バルドの声はさらに低くなった。
「分かるが、分かりたくない」
トマが小さくうなずく。
「俺も同じです」
「村の中には入れてはおらん」
「うん」
「入れてはおらんが、村の外に場所ができておる」
「まだできてないよ」
「これから作る相談をしておるのじゃろうが」
「作るっていうか、木札を立てて、縄を張って、火と木を離すだけ」
バルドは杖の先で地面を突いた。
「それを世の中では、場所を作ると言う」
ガルムは口を挟まず、森側の道を見ていた。しばらくして、低く言う。
「線を引くなら、先に逃げ道を見ろ」
「逃げ道」
「村人が下がる道だ。オークの材置き場で村道を塞がせるな。丸太が転がる向きも見る。火場は水路から離せ。灰が流れる」
「うん」
「ロウたちは村へ近すぎると人が動けなくなる。肉を置く場所は水路から離せ。血が流れる」
「分かった」
ガルムの目が、古い材置き場跡の方へ動く。
「場所を分けること自体は、危険を減らす。だが、線を増やせば安心という話でもない。誰がどこを通るかを決めろ」
「通る道も見る」
トマが横からぼそりとつぶやいた。
「とうとう道まで出てきたぞ。もう地図だろ」
「地図じゃないよ」
「歩けば歩くほど、場所決めが増えていく気がする」
「増えたら、危ないところが見つかったってことだよ」
「その言い方も胃に悪い」
ルシェラは腕を組み、満足げにうなずいた。
「よい。形を見る者が増えた」
「頼むから、言い方を増やさないでくれ」
*
最初に見て回ったのは、水路だった。
朝の水は細いが、三体のぷるがいるせいか、黒い泥のかたまりは昨日より少し崩れている。畑側には出ていない。けれど、水路の近くには昨日の作業で出た木くずが残り、倉庫から運んだ湿った古布も、誰かが迷って石の上に置いたままだった。
リオが遠くから水路を見ている。
手には、なぜか細い枝がある。
「リオ」
ミナの声だけで、枝の先がぴたりと止まった。
「まだ何もしてない」
「見るだけ。つつかない」
「分かってる」
「灰も木くずも入れない。畑側はだめ。ぷるは役に立ってるけど、安全って決めたわけじゃないよ」
「分かってるって」
リオは枝を後ろへ隠した。隠した時点で、あまり分かっていない。
トマが水路の木くずを拾う。
「スライムの水路まで場所決めか」
「灰が流れたら困るでしょ」
「いや、必要なのは分かる。分かるんだけど、絵面がどんどんすごい」
ミナは水路の手前に木札を一本立てた。
「ここから水路側。灰と木くずは置かない。洗う場所も別」
ぷるが、ぷる、と揺れる。
「返事に見えるから困るんだよな」
「返事じゃないと思う」
「思う、なのが怖い」
キキが木札の位置をじっと見て、短く首をかしげた。
「ミナ、札、ここ?」
「もう少し手前かな」
「こっち、濡れる」
小さな指の先に、水のにじんだ土がある。たしかに、そこへ札を立てると、雨のあとに倒れそうだった。
「じゃあ、こっち」
「うん」
ゴブリンの一体が短い木片を持ってきて、木札の根元へ添える。別のゴブリンが縄を結ぶ。きれいではない。けれど、昨日より線が見やすくなった。
その横を、リィナが布包みを抱えて通りかかった。
そして、何気なく水路の近くへ置こうとした。
「リィナ」
「え、何?」
「塩袋は地面に置かないで」
「塩じゃないし。布だし」
「布でも、濡れたら困る」
「じゃあ高いところ!」
リィナはすぐ羽を広げた。
「あたしの止まり木、高くしてよ! 荷物置き場、雨が入らないところ!」
縄を結んでいたキキが顔を上げる。
「リィナ、うるさい」
「今のは必要な主張!」
「うるさい」
「二回言った!」
バルドは水路、リィナ、布包み、ぷるを順に見て、深く息を吐いた。
「荷を置く場所も要るのか」
「濡れると困るから」
「分かる」
そこで一度、言葉が止まる。
「分かるのが困る」
*
次に、古い材置き場跡へ向かった。
オークたちは、昨日決めた木札の外側にいた。村へは近づいていない。火も使っていない。代表格のオークはミナたちを見るとすぐ立ち上がり、両手を見えるところに出した。
「村、入らん。畑、行かん。勝手、取らん」
「うん。見た」
若いオークは腹を押さえているが、今日は少しだけ目が仕事の方を向いていた。
「今日、仕事?」
「仕事の前に、場所を見る」
「場所、多い」
「多いよ」
大柄なオークは、昨日動かした丸太のそばに立っていた。横に置いてあった別の丸太へ手を伸ばしかけて、すぐミナを見る。
「木、ここ?」
「まだ」
その「まだ」に、キキがすぐ反応した。
ゴブリンたちの釘皿と縄の束が、丸太のすぐ横にあったのだ。大柄なオークが少し動かすだけで、釘皿がひっくり返る位置だった。
「だめ」
キキの声は短い。
「釘、ある。オーク、待つ」
大柄なオークの手が止まる。
「待つ」
「丸太はこっち」
ミナは少し離れた平らな場所を指した。
「釘と縄はあっち。小さいものの近くに、大きい木は置かない」
代表格のオークが、真剣に繰り返す。
「小さいの、潰さん。木、大きい、こっち」
若いオークが首をひねった。
「場所、多い」
「多いけど、覚える」
「言葉も多い」
「場所が多いから」
「飯、ここ?」
「それはあとで決める」
トマがこめかみを押さえた。
「寝る場所、仕事する場所、材置き場、釘と縄、飯。言葉にすると、もう完全に施設だろ」
「施設じゃないよ。丸太と釘を分けてるだけ」
「言い張るには、ちょっと形がありすぎる」
ルシェラは、材置き場跡をぐるりと見ていた。
「狭いな」
「狭い?」
「重き腕が動く場としては狭い。寝る場と材の場を同じにすれば、夜に丸太を蹴るぞ」
若いオークが、まじめな顔でうなずく。
「寝る。蹴る。ある」
「あるんだ」
トマが一歩下がった。
ミナは、オークの座っていた場所と丸太の場所を見比べる。たしかに近い。夜、暗い中で動けば、丸太に足を引っかけるか、逆にゴブリンの道具を潰すかもしれない。
「寝る場所は、もう少し森寄り。丸太は道沿い。仕事するところは、村から見えるけど近すぎない場所」
「村から見えるけど近すぎないって、難しいな」
「見えないと怖いでしょ」
「見えても怖いんだよ」
「でも、見えないよりはまし」
ガルムがうなずいた。
「見えた方がいい。だが村道は塞ぐな。逃げる道も残せ」
「うん」
*
火場候補は、最初に見つけた場所がすぐ駄目になった。
古い板と木くずが近すぎたのだ。昨日の倉庫修理で出た濡れた木片を、誰かがまとめて置いていた。乾かすには良さそうに見えるが、火のそばに置くには近い。風が吹けば、火の粉が飛ぶ。
ガルムが一目見て、短く言う。
「ここは燃える」
ミナは木くずの山を見る。
「火場にするなら、木をどける?」
「どけても、下が乾けば燃える。火場は水路からも離せ。灰が流れる」
バルドが杖で地面をつついた。
「このあたりは、雨のあと水が流れる」
「じゃあ、火はもう少し上」
ミナは少し高い場所を指した。畑からは離れている。水路にも近すぎない。村道からは見えるが、通り道の真ん中ではない。
「火はここだけ。木材は離す。灰は水路に流さない」
代表格のオークが火場候補を見て、丸太置き場の方を見た。
「火、あっち。木、こっち」
「そう」
若いオークがまた首をかしげる。
「飯、火?」
「食べ物を温める時は、ここ。勝手に火を使わない。火を使う時は呼ぶ」
「飯、ここ?」
「食べ物を渡す場所は別」
「場所、多い」
「多いね」
トマは笑う気力もなくした顔で言った。
「魔物の寝る場所と働く場所を分けるだけじゃなくて、火の場所と飯の場所まで分けるんだな」
「火とご飯が同じだと、みんな寄るでしょ」
「寄るな」
「だから分ける」
「正しいのに、会話がもうおかしい」
ルシェラは火場候補の近くに立ち、満足げに見下ろした。
「火、食、眠り、役目。混ぜるなと言ったであろう」
「そうだけど、言い方が大きい」
「火は大きくなるものだ」
「そういう意味じゃない」
*
森寄りに、休む場所を決めた。
立派な家ではない。そんなものを建てる材料も時間もない。古い丸太を二本ずらし、雨を避けるように古布と草束をかける。風が抜けすぎないよう、倒れた板を斜めに立てる。火場から離し、丸太置き場からも少し離す。
オークたちの場所は、思ったより広く取ることになった。
最初にミナが木札を立てようとした場所を見て、ルシェラが首を振った。
「狭い」
「広すぎると村に近くなる」
「狭く取るな。どうせ増える」
「増えないでほしいって言ったよね」
「増えずとも、重き腕は場所を食う。寝返りで潰すぞ」
大柄なオークが、少し気まずそうに視線を落とした。
「寝る。動く。ある」
「あるのか」
トマがまた一歩下がる。
ミナは木札を持ったまま考えた。広く取りすぎると、村が外へ伸びたように見える。狭すぎると、寝返りや荷物で壊す。木札の内側へ押し込むためではなく、ぶつからないための場所だ。
「じゃあ、少しだけ広く」
木札を一本、外側へずらす。
「ここからこっちで休む。火は使わない。丸太は置かない。食べ物もここでは渡さない」
代表格がうなずく。
「ここ、寝る。火、だめ。木、置かん。飯、別」
若いオークが少し困った顔をする。
「飯、別……」
「寝る場所に食べ物を置くと、虫が来るし、ロウたちも見るでしょ」
若いオークは森側を見た。
ちょうど、ロウの金色の目が木々の影で動いた。
「飯、別」
すぐ納得した。
ゴブリンたちの場所は、オークより小さく、道具置き場に近い。雨を避ける小さな屋根を兼ねるように、古い板を低く渡した。キキが下をくぐり、少し首をかしげる。
「ここ、キキ、入れる?」
「入れる。でも、濡れない?」
「こっち、濡れる」
キキが指した方を見ると、屋根代わりの板の端から水が落ちる場所だった。
「じゃあ板をずらす」
「縄、濡れる、だめ」
大人ゴブリンが、余り縄の束を持ち上げて見せる。雨が吹き込めば、すぐ湿る位置だ。
「縄は内側。釘は棚」
「棚、作る」
ゴブリンたちの手が動き始めた。
棚といっても、立派なものではない。古い板を二枚、石と枝で支え、釘皿を置ける高さにするだけだ。それでも、地面に直に置くよりずっといい。
リィナはそれを見て、すぐに羽を広げた。
「あたしのは?」
「リィナはこっち」
ミナは森番小屋に近すぎず、でも雨が吹き込みにくい木の下を指した。枝が低く、太い。止まり木にはできそうだ。下には、荷物を置くための小さな棚も作れる。
「低くない?」
「高すぎると、荷物を落とした時に危ない」
「落とさないし」
「昨日、布包み落とした」
「あれは地面が近づいてきた」
「落としたの」
棚板を押さえたまま、キキが短く言う。
「リィナ、うるさい」
「今、落とした話してたから!」
「うるさい」
リィナは少しむくれたが、木の枝には興味があるらしく、すぐ上を見た。
「でも、荷物置き場は雨が入らないところね。塩袋とか、濡れたらミナが怖いし」
「塩は怖いよ」
「塩が怖いんじゃなくて、怒るミナが怖いんだけど」
「濡らさなければ怒らない」
「じゃあ、ここでいい」
リィナはあっさり決めた。
*
道沿いには、仕事の場所を分けた。
こちらも、立派な作業場ではない。地面に石を置き、木札を立て、古い板を並べる。丸太を置く場所、釘と縄を見る場所、食べ物を渡す場所、火を使う場所。ひとつずつ、近すぎないようにする。
ミナは丸太置き場の端に札を立てた。
「丸太はこっち。石もここ。道は塞がない」
代表格のオークが、重い石を抱えて止まる。
「石、ここ?」
「もう少し奥。村道に転がらないように」
「奥」
大柄なオークが、丸太を持って待っている。昨日から何度も言われたせいか、動く前に必ずミナを見るようになっていた。
「置く、ここ?」
「そこは釘皿が近い。もう少し右」
「小さいの、潰さん」
「うん」
キキが釘皿を抱えて、すばやく横へ逃げる。
「オーク、待つ」
「待つ」
大柄なオークは丸太を持ったまま止まった。
トマはその光景を見て、また胃のあたりを押さえた。
「オークが丸太持って、ゴブリンが釘皿持って、キキが待てって言ってる。これ、外から見たら本当にまずいぞ」
「外から見なくても、近くで見てもだいぶすごいよ」
リィナが止まり木候補から口を挟む。
「上から見るともっと分かるし。なんか、場所ができてる」
「そういうこと言うな」
「だってできてるもん」
バルドはそれを聞いて、深く息を吐いた。
「村の中には入れておらん」
「うん」
「入れておらんが、村の外に場所ができておる」
「しわ、大丈夫?」
トマが余計なことを言い、バルドににらまれた。
「しわが足りん」
「増やすものじゃないよ」
ミナは火場候補へ移った。石を丸く置き、周りの木くずを遠ざける。ゴブリンたちが小さな枝を拾い、オークが大きな石を運び、ガルムが水路との距離を見た。
「そこは少し低い。雨で灰が流れる」
「じゃあ、こっち」
「煙は村へ行きすぎない方がいい」
「風はこっちから来るから……火場はこの石の内側だけ」
ミナは札を立てる。
「火はここだけ。木材は向こう。灰は水路に流さない。火を使う時は、先に言う」
代表格が繰り返す。
「火、ここ。木、あっち。灰、水、だめ。先、言う」
若いオークは食べ物を渡す場所の札を見ていた。
「飯、ここ?」
「働いた分の食べ物はここ。村の肉置き場には来ない。勝手に取らない」
「飯、ここ」
「ご飯をもらう前に、何をしたか言う」
「仕事、聞く。勝手、取らん」
「そう」
トマが小声でつぶやく。
「食べ物を渡す場所、火の場所、材置き場、寝床。言い方を変えたら完全に施設だろ」
「雨よけと、火の場所と、丸太置き場だよ」
「村じゃないって言い張るには、ちょっと形がありすぎる」
「村の中に入れないために決めてるんだから」
「正しい。正しいんだけど、正しさが外から見るとおかしい」
ルシェラはひどく楽しそうだった。
「小娘は知らずに形を作る」
「知らずにって言わないで」
「知っていたら、もっと大きく取る」
「取らない」
「取れ」
「取らない」
*
昼過ぎ、ロウたちが森側に現れた。
肉はない。ただ、森の外縁を静かに歩いている。金色の目がいくつか木々の間で動くと、村人たちの背中が一斉に固まった。
「ロウ、そこより中は今日はだめ」
ミナが森側の札を指すと、ロウの耳が動いた。
少しだけ前へ出ようとしていた足が止まる。
「見張ってくれるのは助かるけど、近すぎるとみんな固まるから」
ロウは何も言わない。ただ、金色の目を村人の方へ向け、それからミナへ戻した。
「肉を置くなら、ここ」
水路から離れた石を指す。
「村の入口には置かないで。水路に血が流れないように。畑側もだめ」
ガルムが横でうなずく。
「肉を置く場所は水路から離せ。村人が逃げる道も塞ぐな」
ロウの耳がもう一度動く。
森側にいた別の魔狼が、低く息を吐いた。唸りではない。けれど、村人たちはそれだけで半歩下がる。
トマが顔をしかめた。
「魔狼の肉置き場と外縁線って、言葉にするともう駄目だろ」
「必要だよ」
「分かる。分かるんだけど、俺の胃が先に分かりたくないって言ってる」
ロウたちは、木札の外で止まった。
家はいらない。
屋根もいらない。
ただ、近づきすぎない線と、肉を置く場所だけが必要だった。
ミナはその位置に札を立て、縄を低く張った。魔狼を止める強さではない。村人に、そこから先へ不用意に近づかないための印でもあった。
「ここから森側。ロウたちはこの外。肉はあの石」
村人の一人が、遠くから小さく言った。
「分かるんだ」
別の声が続く。
「分かるんだけどな」
「あれ、もう場所だよな」
「いや、村には入れてないから……」
「入れてないけど、近いぞ」
「でも薪置き場は助かったしな……」
声はどれも小さい。
誰も、はっきり賛成とは言わない。反対とも言い切れない。昨日、薪置き場と倉庫が助かったことを、みんな見ている。
怖い。
でも、助かってる。
その二つが、同じ場所に立っていた。
*
午後は、手作りの作業になった。
オークたちが石を運ぶ。ゴブリンたちが縄を結ぶ。キキが釘皿を抱えて「だめ」「まだ」「こっち」と短く止める。リィナは止まり木の高さに文句を言いながら、布包みを棚の上へ置き直す。トマは板を運び、村人に「近づきすぎない」「まだ入らない」「あれは村じゃない、たぶん」と説明していた。
ガルムはあちこちで立ち止まり、逃げ道を塞ぐものをどかした。
「そこに丸太を置くな。走る道が消える」
「ここ?」
「もう少し森側だ」
「森側」
大柄なオークが丸太を抱えたまま向きを変えると、ゴブリンたちが一斉に下がった。
「小さいの、避ける」
「避けるのはそっち」
キキが釘皿を抱えたまま、きっぱり言う。
大柄なオークは真面目にうなずいた。
「おで、避ける」
そのやり取りを見て、トマが小さく笑った。
「オークがキキに怒られてる」
「怒ってない。止めてる」
キキは真面目だった。
ゴブリンたちの棚は、少しずつ形になった。古い板を低く渡し、釘皿を置き、濡れた縄を引っかける場所を作る。道具置き場と呼ぶには頼りない。けれど、地面に散らばっていた釘と縄が、ひとまとまりになった。
オークたちの材置き場には、丸太と石が分けて置かれた。道を塞がないように、少し斜めに。転がらないように、下に石を噛ませる。若いオークは途中で何度も「場所、多い」と言ったが、代表格がそのたびに「覚える」と返した。
火場は、石で浅く囲っただけだった。
中にはまだ火を入れない。木くずを遠ざけ、灰を捨てる穴を水路から離して掘る。ガルムが流れを見て、バルドが杖で土を確かめる。ミナはその横に木札を立てた。
「火はここだけ」
代表格がうなずく。
「火、ここ」
「木はあっち」
「木、あっち」
「灰は水路に流さない」
「灰、水、だめ」
「食べ物はあっち」
「飯、あっち」
若いオークが、食べ物の札を見て少しだけ明るい顔になった。
ミナはすぐに言い添えた。
「勝手に行かない」
「勝手、取らん」
「働く前に、何をするか聞いて」
「仕事、聞く」
リィナが止まり木候補から見下ろした。
「ねえ、やっぱりそこ、もう村っぽくない?」
「村じゃないよ」
「でも、寝るところ、仕事するところ、ご飯もらうところ、火を使うところがあるよ?」
「リィナ、うるさい」
「キキまでそういうところだけ早い!」
トマは板を肩に担いだまま、空を見上げた。
「外から見たら完全に魔物の町割りだぞ」
「町じゃない」
「じゃあ何だよ」
「火と木とご飯と寝る場所」
「それが町っぽいんだよ」
バルドは、遠巻きに見ている村人たちと、木札が増えていく外側を順に見た。
「村の中には入れておらん」
「うん」
「入れておらんが……」
その先は、言葉にならなかった。
しわだけが深くなった。
*
夕方、森番小屋の外側には、まだ粗いながらも形が見え始めていた。
森寄りには、雨を避けるための古布と草束の屋根がいくつか並んだ。オークたちの休む場所は少し広く、ゴブリンたちの小さな道具置き場は、その端に低くまとまっている。リィナの止まり木と荷置き棚は、森番小屋に近すぎず、雨が吹き込みにくい木の下にできた。
道沿いには、丸太と石を置く場所があり、釘と縄を見る棚がある。火を使う石の輪があり、灰を捨てる穴は水路から離れている。食べ物を渡す場所には平たい石が置かれ、村の肉置き場とは別になった。
水路のそばには、ぷるのためではなく、ぷるに近づきすぎないための木札が増えた。灰も木くずも置かない。子どもが枝でつつかない。畑側へ出たら止める。
森側には、ロウたちが近づきすぎない外縁の札が立った。肉を置く石は、水路から離れている。
どれも、立派ではない。
古い板、余り縄、曲がった釘、石、木札、古布、草束。少し風が吹けば、すぐ直しが必要になるものばかりだった。
それでも、朝より分かりやすい。
ミナは泥のついた手で、最後の木札の結び目を引いた。
「少し分かりやすくなったね」
トマはしばらく黙っていた。
それから、外側に並んだ木札と縄、雨よけと火場、材置き場と食べ物の石を見渡した。
「外から見たら、村が広がったようにしか見えないぞ」
「村じゃないよ。村の外だよ」
「外から見たら同じだぞ」
ミナは少し考えた。
「でも、村の中には入れてない」
「そうなんだけどな」
バルドが杖をつき、深く息を吐く。
「分かる。火を分けるのも、食べ物を渡す場所を決めるのも、寝る場所を分けるのも分かる」
少し間が空く。
「分かるが、分かりたくない」
遠くで、若いオークが食べ物の石を見ていた。代表格がその肩を押さえる。大柄なオークは、丸太が転がらないか真面目に見ている。ゴブリンたちは棚の下に釘皿をしまい、キキはリィナの方を見て、また「うるさい」と言った。リィナはまだ何も言っていなかったので、ちゃんと怒っていた。
森側では、ロウの金色の目が木々の間で動く。
水路では、ぷるが三つ、夕方の水に揺れていた。
ルシェラはそれらを見て、満足げに目を細めた。
「春だな」
夕方の風が、木札の縄を少し鳴らす。
「小娘の外側が、少し広がった」




