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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第37話 倉庫の壁を直す手

第1部:辺境領と教会編

第7章:オークと倉庫づくり


 朝の水路は、いつもより静かに動いていた。


 昨日まで泥と腐った葉が溜まっていた場所が、少しだけ浅く見える。水は細い筋のままだが、底の黒いかたまりを避けるようにして、畑の方へゆっくり流れていた。きれいになった、とは言えない。けれど、詰まっているだけだった頃とは違う。


 水路の中には、ぷるが三ついた。


 三体とも、泥の上でぷるぷるしている。ひとつは水の流れに沿って、腐った葉をゆっくり取り込んでいた。もうひとつは石の陰で、黒い泥の端を少しずつ丸くしている。最後のひとつは、何をしているのか分からないが、ときどき小さく揺れていた。


「……三ついるな」


 トマは水路の端でしゃがみ込んだまま、少しだけ声を低くした。


「昨日も三ついたよ」


「そうなんだけど、朝に見ると改めて怖いな。増えて役に立ってるのは助かるけど、増えたって言葉がもう怖い」


「水は少し通ってる」


「そこがまた困る。怖いのに助かってる」


 ミナは水路板の端を見た。昨日より泥が減ったせいか、木札の下まで水が届いている。畑側の葉にはまだ触れていない。ぷるたちは木札の内側にも出ていない。


 今のところは。


「畑側には出てない」


 ミナは棒で木札の線を指した。


「泥と腐った葉は減ってる。でも、近づきすぎない。触っていいかは、まだ決めてない」


「ぷるぷるぷる、って三ついるとややこしいな」


「一体ずつ呼ぶわけにもいかないし」


「呼ばなくていいと思うぞ」


 その時、後ろで小さな足音がした。


 リオだった。両手に細い木の枝を持っている。目はもう、水路へ向いていた。


「リオ」


 ミナが名前を呼ぶ前に、リオの枝が水路の方へ伸びた。


「ちょっとだけ」


「つつかない」


 枝の先が、ぷるの少し手前で止まる。


「枝だからいいかなって」


「枝だからいい、じゃないよ」


 ミナはリオの手から枝を受け取り、水路から離した。


「もし跳ねたら目に入るでしょ。ぷるが何をするか、まだ全部分かってない」


「ぷる、跳ねる?」


「分からないから、つつかない」


「見るだけ?」


「見るだけ」


 リオは少しむくれたが、木札の手前に足を戻した。足は戻した。目は戻らない。


 薪小屋の入口から、リィナが顔を出す。朝から羽だけは元気そうだった。


「あたしも三人いたら塩袋三つ運べるのに」


 木札の外で小さな釘をより分けていたキキが、すぐに顔を上げた。


「リィナ、うるさい」


「今の、そんなにうるさかった!?」


「朝、うるさい」


「朝じゃなくても言うでしょ!」


 トマが肩を揺らして笑いかけ、すぐに水路へ目を戻した。


「で、これはどうするんだ」


「あとでまた見る」


「また見るものが増えた」


「増えたね」


 ミナは水路の流れをもう一度確認した。ぷる三体は、たしかに役に立っているように見える。けれど、それで安全とは言えない。働いているように見えるものほど、近づきたくなる人が増える。


 それは、それで危ない。


「水路は、見るだけ。枝もだめ。手もだめ。畑側に出たらすぐ止める」


「はい」


 リオの返事は素直だった。素直すぎて、明日も同じことを言う必要がありそうだった。


 ミナは木札の紐を軽く引いて、緩みがないことを確かめた。


「次、薪置き場」


「ぷる三体の次が薪置き場か」


 トマは立ち上がりながら、空を見た。


「今日も朝から順番がおかしい」


「春だから」


「便利な言葉になってきたな、それ」



 薪置き場は、村の外寄りにある。


 森番小屋からも見え、村道からも少し離れている。冬の間、切った薪や乾かしかけの枝を置き、雪が来るたびに布をかけ、風が強い日は石を置いて押さえていた。何度も直し、何度も持たせてきた場所だ。


 春になって、無理が見えた。


 屋根代わりの板は端が浮き、支えの柱は片方だけ少し沈んでいる。土台の丸太は湿って重くなり、下の方の薪には嫌な湿り気が残っていた。まだ使える薪もある。けれど、このまま積み直しても、次の雨でまた濡れる。


 ミナは柱の根元を見て、指で泥を少し掘った。


「沈んでる」


「見れば分かる」


 トマが柱を軽く押す。ぎし、と細い音がした。


「押さないで」


「今ので分かった」


「分かりたくなかったよ」


「俺も」


 バルドは少し離れたところで、杖をついて薪置き場を見ていた。眉間のしわは、朝なのにあまり浅くなっていない。


「あまり良くなさそうじゃの」


「うん。それに倉庫の壁も見ないと」


 ミナは村はずれの共同倉庫の方を見た。壁板の下が湿って、昨日からずっと気になっている。中には干し肉を干す道具、塩を包んだ布、古い釘、縄、根菜の箱がある。壁が倒れたら、困るどころではない。


「でも、先に薪置き場」


「倉庫じゃないのか」


「倉庫は村に近い。いきなりオークを近づけるのは怖い」


 トマの目が、一度森側へ動く。


「まあ、そりゃ怖いな」


「ここなら村の外寄りでできる。重い木もある。ゴブリンたちの細かい修理も見られる。村の人も遠くから見られる」


「見たい、の中身がもう普通じゃないんだよな」


 ガルムは薪置き場の傾きを横から見ていた。弓は背にあるが、手はいつでも届く位置にある。


「試すならここだ。倒れる方向も見える。人を下げやすい」


「うん」


「だが、オークを信用したわけではない」


「分かってる。できることを見るだけ」


 キキは木札の外から少し離れた場所で、古い釘の入った小皿を抱えていた。大人ゴブリンたちも、遠巻きに薪置き場を見ている。ゴブリンたちの小さな手は、細かい木組みを見るのに向いている。けれど、湿った丸太を持ち上げるには小さい。


 逆に、オークたちは大きすぎる。


 ミナは薪置き場と共同倉庫を、もう一度見比べた。


「まず、薪置き場。重い木を、壊さず動かせるか見る」


「持つだけじゃないやつだな」


「持つだけじゃないよ。ゆっくり動かして、ちゃんと下ろすまでが仕事」


 トマが少しだけ笑った。


「オークに最初に教えるのが、下ろすまでが仕事、か」


「大事」


「大事だな。怖いけど」



 古い材置き場跡では、オークたちが木札の外にいた。


 村へは来ていない。畑にも近づいていない。火を使った跡もない。昨日決めた木札の線の外で、五体ともまとまって座っていた。代表格のオークは、ミナたちが近づくとすぐ立ち上がり、両手を見えるところに出した。


「村、入らん」


「うん。見た」


「畑、行かん。勝手、取らん。火、使わん」


「守ってるね」


 若いオークが腹を押さえる。


「飯、ある?」


 代表格の手が、すぐ若いオークの肩に乗った。


「先、話」


「まだ、腹、鳴る」


「鳴っても、待つ」


「鳴るもの、待てん」


「待つ」


 若いオークはしょんぼりしたが、動かなかった。


 ガルムはオークたちの足元と荷物、木札の線を順に見た。


「約束を守っていることは見た。だが、まだ油断はしない」


 代表格はうなずいた。


「分かる。おでたち、大きい。こわい」


 トマが少し困った顔になる。


「自分で言われると返しに困るな」


 ルシェラは斜め後ろで腕を組んでいた。オークたちがちらちらとそちらを見る。昨日褒めた相手だからか、それともただ怖いからか、距離を測っているようだった。


「ルシェラ様、今日も、つよい」


「ふむ」


 ルシェラの口元がわずかに緩む。


「見る目は保っておるようだな」


「おだてられてる」


「おだてられてはおらぬ。事実だ」


 ミナは木札の束を持ち直した。


「今日は、できることを見る」


 オークたちの目がこちらへ集まる。


「まだ村には入らない。畑にも行かない。薪置き場で、重い木を壊さず動かせるか見る。勝手に動かさない。持ち上げるだけじゃなくて、言われた場所へゆっくり下ろせるかも見る」


 代表格が真剣にうなずいた。


「木、持てる。石、持てる」


「釘は?」


「釘、むずい」


 若いオークも手を見下ろした。


「小さい。なくなる」


「なくさないで」


「だから、持たん」


 トマが小さく吹き出す。


「そこは賢い」


 ミナは大人ゴブリンたちの方を振り返った。ゴブリンたちは、オークより少し離れたところで固まっている。木札の外にはいるが、近づきすぎてはいない。


「細かいところは、ゴブリンたちに見てもらう。縄、釘、木組み。オークたちは、ゴブリンたちが見るまで待って」


 代表格が、少し考えながら繰り返す。


「小さいの、見る。おで、待つ」


「そう」


「待つ、仕事?」


「仕事」


 若いオークが顔をしかめた。


「待つ、むずい」


「今日はそれも見る」


 ガルムの声は硬い。


「動く前に声を出せ。人がいる方へ倒すな。持ったら、置く前に待て。勝手に近づくな」


「言葉、多い」


 若いオークの肩が落ちる。


 代表格が、また肩を押さえた。


「覚える。ここ、いるため」


 大柄なオークは黙ってうなずいた。口数は少ないが、目は薪置き場の方へ向いている。何かを持つ気は、あるらしい。


「まず、ひとつだけ」


 ミナは念を押した。


「一体ずつ。呼ばれたら来る。ほかは待つ」


「一体。待つ」


 代表格が振り返ると、若いオークがまた腹を押さえた。


「仕事、したら、飯?」


「働いた分だけ」


「よし」


 返事だけは早かった。



 薪置き場へ戻ると、村人たちはさらに遠くへ下がった。


 オークが一体、木札の外側をゆっくり歩くだけで、空気が変わる。代表格と大柄な一体だけが前に出て、残りは古い材置き場跡の近くで待っている。ミナがそう決めたからだ。五体そろって来られると、薪置き場より先に村人の心臓がもたない。


 大柄なオークは、近くで見るとさらに大きかった。


 柱の横に立つと、柱の方が細く見える。村人の一人が小さく息をのんだ。大柄なオークはそれに気づいたのか、半歩下がる。


「小さいの、こわい。おで、下がる」


「人、って言っていいよ」


「人、こわい。おで、下がる」


「いや、おでが怖い側だと思うけどな……」


 トマはそう言いながらも、村人が少し息を吐いたのを見て黙った。


 ミナは薪置き場の沈んだ土台を指した。


「これ、動かせる?」


 大柄なオークが丸太へ手を伸ばす。


「待って」


 大きな手が止まった。


「持つ前に、人がどいたか見る。ゴブリンたちが縄を見る。ガルムさんが倒れる方向を見る」


「持つ、まだ?」


「まだ」


 大人ゴブリンの一体が、おそるおそる近づいてきた。オークの足元を見て、すぐミナの方を見る。キキも釘の小皿を抱えたまま、少しだけ前へ出た。


「釘、キキ、見る」


「お願い。近づきすぎないで」


 キキはうなずいたが、オークを見上げて少し固まった。


 大柄なオークは、それを見て膝を曲げた。しゃがむというより、岩が少し低くなるような動きだった。


「小さいの、近い。おで、下がる」


「いい。そこ、待つ」


 キキの声は小さいが、はっきりしていた。


 大人ゴブリンが縄の結び目を見る。


「ここ、縄。古い。切れる」


 別のゴブリンが柱の根元を指す。


「そこ、石。沈む」


 ガルムが柱の横から、村人たちの位置を確認した。


「人は下がった。倒れるなら森側だ。だが、倒すな」


「倒すな」


 代表格が大柄なオークへ繰り返す。


 大柄なオークはうなずき、両手を丸太へかけた。


「人、どく」


 その声だけで、さらに二人ほど村人が下がった。


「持つ」


「ゆっくり」


 ミナの言葉に、大柄なオークの眉が寄る。


「ゆっくり、むずい」


「でも、ゆっくり」


「壊さん」


 丸太が、ず、と浮いた。


 村人たちの息が止まる。


 人間なら四人で声を合わせて持つような湿った丸太が、大柄なオークの手で少し持ち上がった。軽々、というより、重さを受け止めている。腕は太い。足元は沈む。それでも、丸太は折れなかった。


「まだ置かない」


 ミナの手が、すぐ上がった。


 大柄なオークの手が、空中で止まる。


「置く、まだ?」


「まだ。ゴブリンたちが見るまで待って」


 大人ゴブリンたちが、丸太の下へは入らない距離で石と木片を動かした。ひとりが木片を差し、ひとりが古い釘を抜き、キキが小さな手で縄を引く。


「まだ」


「まだ、置く、だめ」


「そこ、石」


「木、まっすぐ」


 代表格のオークは、大柄なオークの横でそわそわしている。


「置く、まだか」


「まだ」


 キキは縄から目を離さない。


「オーク、待つ」


 大柄なオークは、丸太を持ったまま真剣にうなずいた。


「待つ」


 トマが額を押さえた。


「力仕事なのに、待つ方が大変そうだな」


「待てるなら助かる」


 ミナは丸太の位置を見る。


「持つだけじゃなくて、置くまでが仕事」


「置く、仕事」


 代表格は言葉を口の中で転がすように繰り返した。


「置く、むずい」


 遠くで、若いオークの肩が落ちた。しっかり聞こえていた。


 やがて、ゴブリンの手が止まり、小さく首が動いた。


「今。少し。そこ」


「ゆっくり」


 ミナとガルムの声が重なる。


 大柄なオークは、息を詰めるようにして丸太を下ろした。どすん、といくかと思ったが、音は思ったより小さかった。湿った土が少し沈み、木片がきしむ。ゴブリンがすぐ縄を引き、別のゴブリンが板を差し込む。


「できた」


 キキの小さな声に、薪置き場のまわりの空気が少しだけ緩んだ。


 薪置き場の柱は、まだ古い。屋根板も傷んでいる。けれど、傾きは少し戻った。


 村人たちは、誰もすぐには声を出さなかった。


「……早いな」


 村人の輪のどこかで、息が声になった。


「怖いけど、早い」


「そこを一緒に言うな」


 トマの眉が寄る。


「いや、合ってるけど」


 ミナは柱の根元を見た。


「次、支え。全部は直せないけど、今日の雨は避けたい」


「次、持つ?」


 代表格の目が少し明るくなる。


「持つ。でも、待つ」


「待つ」


 オークたちの仕事は、そこから少しずつ形になった。


 大きな木材はオークが持つ。大人ゴブリンたちが縄と釘を見る。キキが短く止める。ミナが水の溜まる向きを見る。ガルムが人の位置と倒れる方向を見る。トマが文句を言いながら古い板を運ぶ。


 何度も止まった。


 何度も「まだ」と言われた。


 大柄なオークは、そのたびに手を止めた。若いオークは、遠くで待ちながら腹を鳴らし、代表格に見られて口を閉じた。


 薪置き場は、昼前には前よりずっとましになった。


 新しくなったわけではない。古い板は古いまま。縄も余りもの。釘も曲がったものを打ち直しただけだ。


 それでも、柱は前よりまっすぐ立ち、屋根板の傾きは水が流れる向きに変わり、湿った薪は上へ移され、下には石と古い木片が入った。


 前より、少し強い。


 少なくとも、今日の雨で崩れる感じではなかった。


 バルドは長く黙っていた。杖を持つ手に、少しだけ力が入っている。


「助かる」


 そのあと、しわが深くなった。


「助かるが……」


「助かるから困る、だよな」


 トマの言葉に、バルドは否定しなかった。


「薪置き場を直してるだけなのに、絵面がひどい。ゴブリンが縄見て、オークが柱持って、ミナが順番を整えてる」


「整えないと危ないでしょ」


「そこは分かる。分かるんだけど、外から見たら完全に何かの作業場だぞ」


「薪置き場だよ」


「そうなんだけどな」


 ガルムは大柄なオークの手元を見ていた。


「壊さずに持ったことは見た。だが、それで安全になったわけじゃない」


「うん」


「力があるから危ない。それは変わらん」


 大柄なオークは、その言葉を聞いて少しだけ肩を落とした。


「壊さん」


「壊さなかった。だが、次も声をかけろ」


「声、かける」


 代表格が横で深くうなずいた。


「仕事、する。待つ。声、かける」


 ミナは薪置き場の下へ手を伸ばし、湿った木片を引き抜いた。


「もうひとつ、見るよ」


 トマが嫌そうな顔をする。


「倉庫か」


「うん。完全には直せないと思う。でも、壁が倒れないようにはしたい」


 バルドのしわが、また少し深くなった。



 共同倉庫は、村はずれにある。


 村の中ではないが、薪置き場よりは村に近い。だから、オークたちを連れていく時は、人数を絞った。代表格と大柄な一体だけ。残りのオークは古い材置き場跡で待つ。ロウたちは森側から出ない。ゴブリンたちは木札の外側を通り、村人は倉庫の入口に近づきすぎない。


 それだけでも、準備に時間がかかった。


 倉庫の壁は、やはり良くなかった。


 下の板が湿り、土台が片側だけ沈んでいる。中の箱や壺を置いた場所も悪い。重い根菜箱が壁際に寄りすぎて、そこだけ床板が少し浮いていた。干し肉用の道具や古い縄を入れた木箱も、奥で湿っている。


「完全には直せない」


 ミナは入口から中を見た。


「今日は倒れないようにする。湿った箱を手前へ出して、壁に支えを入れる」


「その言い方、すごく不安になるな」


「不安だから直すんだよ」


 トマは返せなかった。


 ガルムが入口で人の位置を見た。


「中に入る人数を減らせ。箱を動かす時は声をかけろ。オークは壁に手をかける前に、ミナを見る」


「壁、押す?」


 大柄なオークの手が壁へ向かう。


「押しすぎない」


 手が止まった。


「押す、少し」


「まだ。ゴブリンたちが見るまで待って」


 大人ゴブリンたちは、倉庫の入口近くで少し固まっていた。オークと同じ狭い場所に入るのが怖いらしい。無理もない。オークが一歩ずれるだけで、ゴブリンの頭の横に、壁みたいな脚が来る。


 代表格はそれに気づき、自分から少し下がった。


「小さいの、先」


 キキがミナのそばで釘の小皿を抱え直す。


「オーク、待つ」


「待つ」


 大柄なオークも、入口の外でしゃがんだ。しゃがんでも大きいが、立っているよりはましだった。


 ゴブリンたちが壁の下を見る。曲がった釘を抜き、使える釘をより分け、湿った板の端へ薄い木片を差し込む。キキは釘を持ち、別のゴブリンが縄を引いた。


「ここ、釘」


「縄、締める」


「まだ動く、だめ」


「壁、待つ」


 ミナは倉庫の中の箱を指した。


「この箱、少し手前。中は重いから、私とトマで先に軽くする。いきなり持たない」


 若い村人が中へ入ろうとして、オークと目が合い、入口で止まった。


 代表格がすぐ半歩下がる。


「人、こわい。おで、下がる」


「逆だと思うけど、助かる」


 トマが木箱を抱えながら、苦い顔で笑った。


 箱の中身を少し移し、壺を手前へ出し、湿った布を外へ運ぶ。人間が中身を動かす。ゴブリンが床板の隙間を見る。オークが壁を支える。少しずつ、少しずつだった。


「壁、重い」


 大柄なオークの手が、壁の内側でじっと止まっている。


「押しすぎないで」


「壊さん」


「ゴブリンたちが止めるまで待って」


「待つ」


 ゴブリンが板を差し込む。


「まだ」


 縄を締める。


「まだ」


 曲がった釘を打ち直す。


「できた」


 ミナは壁板へ手を当てた。揺れは、まだある。けれど、さっきよりずっと小さい。倒れかけたものを完全に直したわけではない。応急で支えを入れただけだ。それでも、今日明日で中身が崩れる危険は減った。


「今日はここまで」


 バルドが倉庫の入口に立ち、壁を見た。


「……助かる」


 しわは深い。


「仕事をした分を食わせる。それも分かる」


「分かるんだ」


 トマの声は、倉庫の中に届かないくらい小さかった。


「分かるが、分かりたくない」


 バルドはそのまま、オークとゴブリンを見た。


「これをどう説明すればよいのじゃ」


「倉庫の壁を倒れないようにした」


 ミナは壁板から目をそらさなかった。


「それだけじゃ」


「そう」


「それだけに見えんのじゃ」


「困ったね」


「お前も困れ」


 トマが深くうなずいた。


「働いたオークに肉を渡す村……言葉だけなら普通っぽいのに、絵面が全部だめだ」


「まだ肉は渡してないよ」


「これから渡すんだろ」


「働いた分だから」


「そういうところだぞ」


 ガルムは倉庫の壁を軽く押し、すぐ手を離した。


「倒れにくくはなった。完全ではない」


「うん。あとでまた見る」


「倉庫に近づける時は、毎回呼べ。勝手に壁へ手をかけさせるな」


「分かった」


 大柄なオークは、入口の外で小さく頭を下げた。


「勝手、入らん」


 その声が低くて、入口にいた村人がまた少し下がった。大柄なオークは慌てて、もう一歩下がる。


「すまん」


 怖い。


 でも、下がった。


 ミナはそれを見た。


 安全になったわけではない。けれど、守ろうとしていることは見えた。



 夕方近く、森の外縁でロウの耳が動いた。


 先に気づいたのはガルムだった。弓へ手を伸ばしかけ、すぐに止める。森側の木々の間から、黒い影がいくつか戻ってくる。金色の目。低い体。湿った毛。その足元に、獣の肉があった。


 春になって、森の獣も動き始めている。


 ロウたちは、獲物を村のすぐ近くへは持ってこなかった。いつもの石の手前で止まり、そこで肉を下ろす。血が水路へ流れない場所だ。ミナが何度も指した場所でもある。


「ロウ、そこ」


 耳が動く。


 ロウはそれ以上近づかなかった。


 村人たちは、肉を見てほっとしかけ、ロウと目が合ってすぐ固まった。助かる。怖い。どちらも顔に出ている。


「肉だ!」


 リィナが薪小屋の柱から半分だけ出て、羽をばたつかせた。


「肉だよね? あたしの分ある?」


「まだ分けてない」


「分けよう。早く分けよう。肉は早い方がいい」


「解体が先」


「そこを省けないの、知ってるけどつらい」


 キキは道具を持って、炭焼き跡の方から出てきた。大人ゴブリンたちも、少し遅れて動く。最近、皮を剥ぐ補助や骨と筋を分ける作業には慣れてきている。慣れてきたと言っても、村人はまだ距離を取る。刃物も、置いて、見せて、使う。


「キキ、洗う」


「うん。道具を洗ってから」


「肉、小さく」


「干す分は小さく。今日食べる分は別」


 大人ゴブリンの一体が骨の位置を見て、短く手を動かした。


「筋、こっち」


「皮、ここ」


「水、使う。汚す、だめ」


 ミナは洗い場の方を指した。


「水路には流さない。洗う場所はこっち」


 ロウたちは離れて見ていた。肉を置いたら終わりではない。下処理がいる。塩もいる。干す場所もいる。分け方も決めないといけない。


 肉はありがたい。


 ありがたいものほど、手間がいる。


 オークたちは、古い材置き場跡から肉を見ていた。若いオークの口が、分かりやすく開いている。代表格がすぐに肩を押さえた。


「勝手、取らん」


「まだ何も言ってない」


「顔、言った」


「顔、鳴った」


「腹だろ」


 トマの声に、若いオークがうつむく。


「腹、鳴った」


 ミナは解体された肉の一部を見た。村の分。保存する分。今日働いた人たちの分。ロウたちの分は別に置く。ゴブリンたちにも、働いた分を少し。オークたちにも、今日の分を渡す。


 多くはない。


 それでも、朝の薄い粥よりはずっと肉らしい肉だった。


 バルドは横で分け方を見ている。眉間のしわは深いままだ。


「仕事をした分じゃな」


「うん」


「勝手に取りに来させんためじゃな」


「うん」


「分かる」


 少し間が空く。


「分かるが……」


「分かりたくない?」


「言うな」


 トマが肉の包みを持ち、オークたちの木札前へ運んだ。ミナも一緒に行く。ガルムは少し離れて見る。ロウたちは森側で止まる。


「今日の分」


 ミナは石の上に肉を置いた。


「働いたから。でも、勝手に取りに来るのはだめ。食べ物はここで渡す。村の肉置き場には来ない。仕事の前に話す。村へ勝手に入らない」


 代表格が真剣にうなずいた。


「仕事、飯、ありがたい。勝手、取らん」


 若いオークの手が、少しだけ前へ出る。


 代表格の手が、その手首を押さえた。


「待つ」


「飯……!」


「弱いの、先」


 肉は、座っている二体へ先に渡された。次に大柄なオーク。大柄なオークは一度首を横へ振ったが、代表格が強く見て、少しだけ受け取った。若いオークは最後に自分の分を受け取り、両手で大事そうに持った。


「肉、重い」


「食べる時は早そうだけどな」


 トマは肉を見て、少しだけ眉を下げた。


 若いオークは真面目にうなずいた。


「早い」


「認めるな」


 代表格は最後に自分の分を取った。小さい分だったが、不満そうではなかった。


「明日も、仕事、する」


「明日、まず話してから」


「話、してから。仕事」


「勝手に木を動かさない」


「勝手、動かさん」


「火も勝手に使わない」


「火、使わん」


 若いオークが肉から顔を上げる。


「言葉、多い」


「大事だから」


「飯も大事」


「それも大事」


 代表格が若いオークの肩を軽く押した。


「両方、覚える」


 ミナは肉を受け取る順番を見ていた。奪わない。待つ。弱い仲間に先に渡す。食べ物を見ても、木札を越えない。


 安全になったわけではない。


 でも、今日見たことは、今日見たこととして残る。



 夜になると、村の外側はいつもより広く見えた。


 薪置き場は、少しだけまっすぐになっている。屋根板は古いままだが、雨の流れは前よりましだ。共同倉庫の壁も、応急の支えが入って、ひとまず倒れにくくなった。炭焼き跡ではゴブリンたちが道具を片づけ、古い材置き場跡ではオークたちが肉を分けている。


 水路では、ぷるが三つ、夜の水を受けて静かに揺れていた。


 森の外縁にはロウたちの金色の目がある。


 薪小屋の方では、リィナがまだ何か言っていた。内容は聞こえないが、キキの「うるさい」が一度だけ聞こえたので、だいたい分かった。


 村人たちは戸口や柵の内側から、遠巻きにその全部を見ていた。


 怖い。


 でも、薪置き場は直った。


 怖い。


 でも、倉庫の壁は少し持った。


 怖い。


 でも、肉はある。


 怖いものばかりが、少しずつ生活の役に立っている。そのせいで、誰も簡単に「よかった」とは言えなかった。


 ルシェラは森番小屋の近くで、腕を組んでそれを見ていた。


 昼間は、面白かった。


 小さき手が縄を締め、重き腕が壁を支えた。魔狼は肉を置き、水の小さき者は泥を食い、羽の娘はうるさく、緑の子は短く叱る。小娘は、それらを王の言葉ではなく、薪と水と肉と縄の言葉で動かしていた。


 だが、見ているうちに、ひとつ分かった。


 置くだけでは、いずれぶつかる。


 火と木を近づけすぎれば燃える。食べ物を渡す場所と村の肉置き場が近すぎれば、腹を空かせた者が迷う。小さき手と重き腕を同じ場所に押し込めば、どちらかが潰れる。水を汚してはならぬ場所と、血を洗う場所も分けねばならない。


 眠る場所。


 食を受ける場所。


 働く場所。


 火を使う場所。


 木材を置く場所。


 道具を広げる場所。


 人が踏み込まぬ場所。


 魔狼が近づきすぎぬ外縁。


 羽の娘が荷を置いて騒ぐ場所。


 ルシェラは少しだけ目を細めた。


「小娘の外側にも、形が要るな」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 森番小屋の戸口では、ミナが使った木札を拭いている。今日一日で泥だらけになった札だ。疲れているはずなのに、明日の水路と肉と食べ物の数をもう考えている顔だった。


 ルシェラは口元を少し上げた。


「明日、小娘に言うか」


 森の外縁で、ロウの目が一度動いた。


 水路で、ぷるが小さく揺れる。


 古い材置き場跡では、オークたちが火を使わずに、静かに肉を分けていた。


 村の春は、少しだけ広くなっていた。


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