第37話 倉庫の壁を直す手
第1部:辺境領と教会編
第7章:オークと倉庫づくり
朝の水路は、いつもより静かに動いていた。
昨日まで泥と腐った葉が溜まっていた場所が、少しだけ浅く見える。水は細い筋のままだが、底の黒いかたまりを避けるようにして、畑の方へゆっくり流れていた。きれいになった、とは言えない。けれど、詰まっているだけだった頃とは違う。
水路の中には、ぷるが三ついた。
三体とも、泥の上でぷるぷるしている。ひとつは水の流れに沿って、腐った葉をゆっくり取り込んでいた。もうひとつは石の陰で、黒い泥の端を少しずつ丸くしている。最後のひとつは、何をしているのか分からないが、ときどき小さく揺れていた。
「……三ついるな」
トマは水路の端でしゃがみ込んだまま、少しだけ声を低くした。
「昨日も三ついたよ」
「そうなんだけど、朝に見ると改めて怖いな。増えて役に立ってるのは助かるけど、増えたって言葉がもう怖い」
「水は少し通ってる」
「そこがまた困る。怖いのに助かってる」
ミナは水路板の端を見た。昨日より泥が減ったせいか、木札の下まで水が届いている。畑側の葉にはまだ触れていない。ぷるたちは木札の内側にも出ていない。
今のところは。
「畑側には出てない」
ミナは棒で木札の線を指した。
「泥と腐った葉は減ってる。でも、近づきすぎない。触っていいかは、まだ決めてない」
「ぷるぷるぷる、って三ついるとややこしいな」
「一体ずつ呼ぶわけにもいかないし」
「呼ばなくていいと思うぞ」
その時、後ろで小さな足音がした。
リオだった。両手に細い木の枝を持っている。目はもう、水路へ向いていた。
「リオ」
ミナが名前を呼ぶ前に、リオの枝が水路の方へ伸びた。
「ちょっとだけ」
「つつかない」
枝の先が、ぷるの少し手前で止まる。
「枝だからいいかなって」
「枝だからいい、じゃないよ」
ミナはリオの手から枝を受け取り、水路から離した。
「もし跳ねたら目に入るでしょ。ぷるが何をするか、まだ全部分かってない」
「ぷる、跳ねる?」
「分からないから、つつかない」
「見るだけ?」
「見るだけ」
リオは少しむくれたが、木札の手前に足を戻した。足は戻した。目は戻らない。
薪小屋の入口から、リィナが顔を出す。朝から羽だけは元気そうだった。
「あたしも三人いたら塩袋三つ運べるのに」
木札の外で小さな釘をより分けていたキキが、すぐに顔を上げた。
「リィナ、うるさい」
「今の、そんなにうるさかった!?」
「朝、うるさい」
「朝じゃなくても言うでしょ!」
トマが肩を揺らして笑いかけ、すぐに水路へ目を戻した。
「で、これはどうするんだ」
「あとでまた見る」
「また見るものが増えた」
「増えたね」
ミナは水路の流れをもう一度確認した。ぷる三体は、たしかに役に立っているように見える。けれど、それで安全とは言えない。働いているように見えるものほど、近づきたくなる人が増える。
それは、それで危ない。
「水路は、見るだけ。枝もだめ。手もだめ。畑側に出たらすぐ止める」
「はい」
リオの返事は素直だった。素直すぎて、明日も同じことを言う必要がありそうだった。
ミナは木札の紐を軽く引いて、緩みがないことを確かめた。
「次、薪置き場」
「ぷる三体の次が薪置き場か」
トマは立ち上がりながら、空を見た。
「今日も朝から順番がおかしい」
「春だから」
「便利な言葉になってきたな、それ」
*
薪置き場は、村の外寄りにある。
森番小屋からも見え、村道からも少し離れている。冬の間、切った薪や乾かしかけの枝を置き、雪が来るたびに布をかけ、風が強い日は石を置いて押さえていた。何度も直し、何度も持たせてきた場所だ。
春になって、無理が見えた。
屋根代わりの板は端が浮き、支えの柱は片方だけ少し沈んでいる。土台の丸太は湿って重くなり、下の方の薪には嫌な湿り気が残っていた。まだ使える薪もある。けれど、このまま積み直しても、次の雨でまた濡れる。
ミナは柱の根元を見て、指で泥を少し掘った。
「沈んでる」
「見れば分かる」
トマが柱を軽く押す。ぎし、と細い音がした。
「押さないで」
「今ので分かった」
「分かりたくなかったよ」
「俺も」
バルドは少し離れたところで、杖をついて薪置き場を見ていた。眉間のしわは、朝なのにあまり浅くなっていない。
「あまり良くなさそうじゃの」
「うん。それに倉庫の壁も見ないと」
ミナは村はずれの共同倉庫の方を見た。壁板の下が湿って、昨日からずっと気になっている。中には干し肉を干す道具、塩を包んだ布、古い釘、縄、根菜の箱がある。壁が倒れたら、困るどころではない。
「でも、先に薪置き場」
「倉庫じゃないのか」
「倉庫は村に近い。いきなりオークを近づけるのは怖い」
トマの目が、一度森側へ動く。
「まあ、そりゃ怖いな」
「ここなら村の外寄りでできる。重い木もある。ゴブリンたちの細かい修理も見られる。村の人も遠くから見られる」
「見たい、の中身がもう普通じゃないんだよな」
ガルムは薪置き場の傾きを横から見ていた。弓は背にあるが、手はいつでも届く位置にある。
「試すならここだ。倒れる方向も見える。人を下げやすい」
「うん」
「だが、オークを信用したわけではない」
「分かってる。できることを見るだけ」
キキは木札の外から少し離れた場所で、古い釘の入った小皿を抱えていた。大人ゴブリンたちも、遠巻きに薪置き場を見ている。ゴブリンたちの小さな手は、細かい木組みを見るのに向いている。けれど、湿った丸太を持ち上げるには小さい。
逆に、オークたちは大きすぎる。
ミナは薪置き場と共同倉庫を、もう一度見比べた。
「まず、薪置き場。重い木を、壊さず動かせるか見る」
「持つだけじゃないやつだな」
「持つだけじゃないよ。ゆっくり動かして、ちゃんと下ろすまでが仕事」
トマが少しだけ笑った。
「オークに最初に教えるのが、下ろすまでが仕事、か」
「大事」
「大事だな。怖いけど」
*
古い材置き場跡では、オークたちが木札の外にいた。
村へは来ていない。畑にも近づいていない。火を使った跡もない。昨日決めた木札の線の外で、五体ともまとまって座っていた。代表格のオークは、ミナたちが近づくとすぐ立ち上がり、両手を見えるところに出した。
「村、入らん」
「うん。見た」
「畑、行かん。勝手、取らん。火、使わん」
「守ってるね」
若いオークが腹を押さえる。
「飯、ある?」
代表格の手が、すぐ若いオークの肩に乗った。
「先、話」
「まだ、腹、鳴る」
「鳴っても、待つ」
「鳴るもの、待てん」
「待つ」
若いオークはしょんぼりしたが、動かなかった。
ガルムはオークたちの足元と荷物、木札の線を順に見た。
「約束を守っていることは見た。だが、まだ油断はしない」
代表格はうなずいた。
「分かる。おでたち、大きい。こわい」
トマが少し困った顔になる。
「自分で言われると返しに困るな」
ルシェラは斜め後ろで腕を組んでいた。オークたちがちらちらとそちらを見る。昨日褒めた相手だからか、それともただ怖いからか、距離を測っているようだった。
「ルシェラ様、今日も、つよい」
「ふむ」
ルシェラの口元がわずかに緩む。
「見る目は保っておるようだな」
「おだてられてる」
「おだてられてはおらぬ。事実だ」
ミナは木札の束を持ち直した。
「今日は、できることを見る」
オークたちの目がこちらへ集まる。
「まだ村には入らない。畑にも行かない。薪置き場で、重い木を壊さず動かせるか見る。勝手に動かさない。持ち上げるだけじゃなくて、言われた場所へゆっくり下ろせるかも見る」
代表格が真剣にうなずいた。
「木、持てる。石、持てる」
「釘は?」
「釘、むずい」
若いオークも手を見下ろした。
「小さい。なくなる」
「なくさないで」
「だから、持たん」
トマが小さく吹き出す。
「そこは賢い」
ミナは大人ゴブリンたちの方を振り返った。ゴブリンたちは、オークより少し離れたところで固まっている。木札の外にはいるが、近づきすぎてはいない。
「細かいところは、ゴブリンたちに見てもらう。縄、釘、木組み。オークたちは、ゴブリンたちが見るまで待って」
代表格が、少し考えながら繰り返す。
「小さいの、見る。おで、待つ」
「そう」
「待つ、仕事?」
「仕事」
若いオークが顔をしかめた。
「待つ、むずい」
「今日はそれも見る」
ガルムの声は硬い。
「動く前に声を出せ。人がいる方へ倒すな。持ったら、置く前に待て。勝手に近づくな」
「言葉、多い」
若いオークの肩が落ちる。
代表格が、また肩を押さえた。
「覚える。ここ、いるため」
大柄なオークは黙ってうなずいた。口数は少ないが、目は薪置き場の方へ向いている。何かを持つ気は、あるらしい。
「まず、ひとつだけ」
ミナは念を押した。
「一体ずつ。呼ばれたら来る。ほかは待つ」
「一体。待つ」
代表格が振り返ると、若いオークがまた腹を押さえた。
「仕事、したら、飯?」
「働いた分だけ」
「よし」
返事だけは早かった。
*
薪置き場へ戻ると、村人たちはさらに遠くへ下がった。
オークが一体、木札の外側をゆっくり歩くだけで、空気が変わる。代表格と大柄な一体だけが前に出て、残りは古い材置き場跡の近くで待っている。ミナがそう決めたからだ。五体そろって来られると、薪置き場より先に村人の心臓がもたない。
大柄なオークは、近くで見るとさらに大きかった。
柱の横に立つと、柱の方が細く見える。村人の一人が小さく息をのんだ。大柄なオークはそれに気づいたのか、半歩下がる。
「小さいの、こわい。おで、下がる」
「人、って言っていいよ」
「人、こわい。おで、下がる」
「いや、おでが怖い側だと思うけどな……」
トマはそう言いながらも、村人が少し息を吐いたのを見て黙った。
ミナは薪置き場の沈んだ土台を指した。
「これ、動かせる?」
大柄なオークが丸太へ手を伸ばす。
「待って」
大きな手が止まった。
「持つ前に、人がどいたか見る。ゴブリンたちが縄を見る。ガルムさんが倒れる方向を見る」
「持つ、まだ?」
「まだ」
大人ゴブリンの一体が、おそるおそる近づいてきた。オークの足元を見て、すぐミナの方を見る。キキも釘の小皿を抱えたまま、少しだけ前へ出た。
「釘、キキ、見る」
「お願い。近づきすぎないで」
キキはうなずいたが、オークを見上げて少し固まった。
大柄なオークは、それを見て膝を曲げた。しゃがむというより、岩が少し低くなるような動きだった。
「小さいの、近い。おで、下がる」
「いい。そこ、待つ」
キキの声は小さいが、はっきりしていた。
大人ゴブリンが縄の結び目を見る。
「ここ、縄。古い。切れる」
別のゴブリンが柱の根元を指す。
「そこ、石。沈む」
ガルムが柱の横から、村人たちの位置を確認した。
「人は下がった。倒れるなら森側だ。だが、倒すな」
「倒すな」
代表格が大柄なオークへ繰り返す。
大柄なオークはうなずき、両手を丸太へかけた。
「人、どく」
その声だけで、さらに二人ほど村人が下がった。
「持つ」
「ゆっくり」
ミナの言葉に、大柄なオークの眉が寄る。
「ゆっくり、むずい」
「でも、ゆっくり」
「壊さん」
丸太が、ず、と浮いた。
村人たちの息が止まる。
人間なら四人で声を合わせて持つような湿った丸太が、大柄なオークの手で少し持ち上がった。軽々、というより、重さを受け止めている。腕は太い。足元は沈む。それでも、丸太は折れなかった。
「まだ置かない」
ミナの手が、すぐ上がった。
大柄なオークの手が、空中で止まる。
「置く、まだ?」
「まだ。ゴブリンたちが見るまで待って」
大人ゴブリンたちが、丸太の下へは入らない距離で石と木片を動かした。ひとりが木片を差し、ひとりが古い釘を抜き、キキが小さな手で縄を引く。
「まだ」
「まだ、置く、だめ」
「そこ、石」
「木、まっすぐ」
代表格のオークは、大柄なオークの横でそわそわしている。
「置く、まだか」
「まだ」
キキは縄から目を離さない。
「オーク、待つ」
大柄なオークは、丸太を持ったまま真剣にうなずいた。
「待つ」
トマが額を押さえた。
「力仕事なのに、待つ方が大変そうだな」
「待てるなら助かる」
ミナは丸太の位置を見る。
「持つだけじゃなくて、置くまでが仕事」
「置く、仕事」
代表格は言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「置く、むずい」
遠くで、若いオークの肩が落ちた。しっかり聞こえていた。
やがて、ゴブリンの手が止まり、小さく首が動いた。
「今。少し。そこ」
「ゆっくり」
ミナとガルムの声が重なる。
大柄なオークは、息を詰めるようにして丸太を下ろした。どすん、といくかと思ったが、音は思ったより小さかった。湿った土が少し沈み、木片がきしむ。ゴブリンがすぐ縄を引き、別のゴブリンが板を差し込む。
「できた」
キキの小さな声に、薪置き場のまわりの空気が少しだけ緩んだ。
薪置き場の柱は、まだ古い。屋根板も傷んでいる。けれど、傾きは少し戻った。
村人たちは、誰もすぐには声を出さなかった。
「……早いな」
村人の輪のどこかで、息が声になった。
「怖いけど、早い」
「そこを一緒に言うな」
トマの眉が寄る。
「いや、合ってるけど」
ミナは柱の根元を見た。
「次、支え。全部は直せないけど、今日の雨は避けたい」
「次、持つ?」
代表格の目が少し明るくなる。
「持つ。でも、待つ」
「待つ」
オークたちの仕事は、そこから少しずつ形になった。
大きな木材はオークが持つ。大人ゴブリンたちが縄と釘を見る。キキが短く止める。ミナが水の溜まる向きを見る。ガルムが人の位置と倒れる方向を見る。トマが文句を言いながら古い板を運ぶ。
何度も止まった。
何度も「まだ」と言われた。
大柄なオークは、そのたびに手を止めた。若いオークは、遠くで待ちながら腹を鳴らし、代表格に見られて口を閉じた。
薪置き場は、昼前には前よりずっとましになった。
新しくなったわけではない。古い板は古いまま。縄も余りもの。釘も曲がったものを打ち直しただけだ。
それでも、柱は前よりまっすぐ立ち、屋根板の傾きは水が流れる向きに変わり、湿った薪は上へ移され、下には石と古い木片が入った。
前より、少し強い。
少なくとも、今日の雨で崩れる感じではなかった。
バルドは長く黙っていた。杖を持つ手に、少しだけ力が入っている。
「助かる」
そのあと、しわが深くなった。
「助かるが……」
「助かるから困る、だよな」
トマの言葉に、バルドは否定しなかった。
「薪置き場を直してるだけなのに、絵面がひどい。ゴブリンが縄見て、オークが柱持って、ミナが順番を整えてる」
「整えないと危ないでしょ」
「そこは分かる。分かるんだけど、外から見たら完全に何かの作業場だぞ」
「薪置き場だよ」
「そうなんだけどな」
ガルムは大柄なオークの手元を見ていた。
「壊さずに持ったことは見た。だが、それで安全になったわけじゃない」
「うん」
「力があるから危ない。それは変わらん」
大柄なオークは、その言葉を聞いて少しだけ肩を落とした。
「壊さん」
「壊さなかった。だが、次も声をかけろ」
「声、かける」
代表格が横で深くうなずいた。
「仕事、する。待つ。声、かける」
ミナは薪置き場の下へ手を伸ばし、湿った木片を引き抜いた。
「もうひとつ、見るよ」
トマが嫌そうな顔をする。
「倉庫か」
「うん。完全には直せないと思う。でも、壁が倒れないようにはしたい」
バルドのしわが、また少し深くなった。
*
共同倉庫は、村はずれにある。
村の中ではないが、薪置き場よりは村に近い。だから、オークたちを連れていく時は、人数を絞った。代表格と大柄な一体だけ。残りのオークは古い材置き場跡で待つ。ロウたちは森側から出ない。ゴブリンたちは木札の外側を通り、村人は倉庫の入口に近づきすぎない。
それだけでも、準備に時間がかかった。
倉庫の壁は、やはり良くなかった。
下の板が湿り、土台が片側だけ沈んでいる。中の箱や壺を置いた場所も悪い。重い根菜箱が壁際に寄りすぎて、そこだけ床板が少し浮いていた。干し肉用の道具や古い縄を入れた木箱も、奥で湿っている。
「完全には直せない」
ミナは入口から中を見た。
「今日は倒れないようにする。湿った箱を手前へ出して、壁に支えを入れる」
「その言い方、すごく不安になるな」
「不安だから直すんだよ」
トマは返せなかった。
ガルムが入口で人の位置を見た。
「中に入る人数を減らせ。箱を動かす時は声をかけろ。オークは壁に手をかける前に、ミナを見る」
「壁、押す?」
大柄なオークの手が壁へ向かう。
「押しすぎない」
手が止まった。
「押す、少し」
「まだ。ゴブリンたちが見るまで待って」
大人ゴブリンたちは、倉庫の入口近くで少し固まっていた。オークと同じ狭い場所に入るのが怖いらしい。無理もない。オークが一歩ずれるだけで、ゴブリンの頭の横に、壁みたいな脚が来る。
代表格はそれに気づき、自分から少し下がった。
「小さいの、先」
キキがミナのそばで釘の小皿を抱え直す。
「オーク、待つ」
「待つ」
大柄なオークも、入口の外でしゃがんだ。しゃがんでも大きいが、立っているよりはましだった。
ゴブリンたちが壁の下を見る。曲がった釘を抜き、使える釘をより分け、湿った板の端へ薄い木片を差し込む。キキは釘を持ち、別のゴブリンが縄を引いた。
「ここ、釘」
「縄、締める」
「まだ動く、だめ」
「壁、待つ」
ミナは倉庫の中の箱を指した。
「この箱、少し手前。中は重いから、私とトマで先に軽くする。いきなり持たない」
若い村人が中へ入ろうとして、オークと目が合い、入口で止まった。
代表格がすぐ半歩下がる。
「人、こわい。おで、下がる」
「逆だと思うけど、助かる」
トマが木箱を抱えながら、苦い顔で笑った。
箱の中身を少し移し、壺を手前へ出し、湿った布を外へ運ぶ。人間が中身を動かす。ゴブリンが床板の隙間を見る。オークが壁を支える。少しずつ、少しずつだった。
「壁、重い」
大柄なオークの手が、壁の内側でじっと止まっている。
「押しすぎないで」
「壊さん」
「ゴブリンたちが止めるまで待って」
「待つ」
ゴブリンが板を差し込む。
「まだ」
縄を締める。
「まだ」
曲がった釘を打ち直す。
「できた」
ミナは壁板へ手を当てた。揺れは、まだある。けれど、さっきよりずっと小さい。倒れかけたものを完全に直したわけではない。応急で支えを入れただけだ。それでも、今日明日で中身が崩れる危険は減った。
「今日はここまで」
バルドが倉庫の入口に立ち、壁を見た。
「……助かる」
しわは深い。
「仕事をした分を食わせる。それも分かる」
「分かるんだ」
トマの声は、倉庫の中に届かないくらい小さかった。
「分かるが、分かりたくない」
バルドはそのまま、オークとゴブリンを見た。
「これをどう説明すればよいのじゃ」
「倉庫の壁を倒れないようにした」
ミナは壁板から目をそらさなかった。
「それだけじゃ」
「そう」
「それだけに見えんのじゃ」
「困ったね」
「お前も困れ」
トマが深くうなずいた。
「働いたオークに肉を渡す村……言葉だけなら普通っぽいのに、絵面が全部だめだ」
「まだ肉は渡してないよ」
「これから渡すんだろ」
「働いた分だから」
「そういうところだぞ」
ガルムは倉庫の壁を軽く押し、すぐ手を離した。
「倒れにくくはなった。完全ではない」
「うん。あとでまた見る」
「倉庫に近づける時は、毎回呼べ。勝手に壁へ手をかけさせるな」
「分かった」
大柄なオークは、入口の外で小さく頭を下げた。
「勝手、入らん」
その声が低くて、入口にいた村人がまた少し下がった。大柄なオークは慌てて、もう一歩下がる。
「すまん」
怖い。
でも、下がった。
ミナはそれを見た。
安全になったわけではない。けれど、守ろうとしていることは見えた。
*
夕方近く、森の外縁でロウの耳が動いた。
先に気づいたのはガルムだった。弓へ手を伸ばしかけ、すぐに止める。森側の木々の間から、黒い影がいくつか戻ってくる。金色の目。低い体。湿った毛。その足元に、獣の肉があった。
春になって、森の獣も動き始めている。
ロウたちは、獲物を村のすぐ近くへは持ってこなかった。いつもの石の手前で止まり、そこで肉を下ろす。血が水路へ流れない場所だ。ミナが何度も指した場所でもある。
「ロウ、そこ」
耳が動く。
ロウはそれ以上近づかなかった。
村人たちは、肉を見てほっとしかけ、ロウと目が合ってすぐ固まった。助かる。怖い。どちらも顔に出ている。
「肉だ!」
リィナが薪小屋の柱から半分だけ出て、羽をばたつかせた。
「肉だよね? あたしの分ある?」
「まだ分けてない」
「分けよう。早く分けよう。肉は早い方がいい」
「解体が先」
「そこを省けないの、知ってるけどつらい」
キキは道具を持って、炭焼き跡の方から出てきた。大人ゴブリンたちも、少し遅れて動く。最近、皮を剥ぐ補助や骨と筋を分ける作業には慣れてきている。慣れてきたと言っても、村人はまだ距離を取る。刃物も、置いて、見せて、使う。
「キキ、洗う」
「うん。道具を洗ってから」
「肉、小さく」
「干す分は小さく。今日食べる分は別」
大人ゴブリンの一体が骨の位置を見て、短く手を動かした。
「筋、こっち」
「皮、ここ」
「水、使う。汚す、だめ」
ミナは洗い場の方を指した。
「水路には流さない。洗う場所はこっち」
ロウたちは離れて見ていた。肉を置いたら終わりではない。下処理がいる。塩もいる。干す場所もいる。分け方も決めないといけない。
肉はありがたい。
ありがたいものほど、手間がいる。
オークたちは、古い材置き場跡から肉を見ていた。若いオークの口が、分かりやすく開いている。代表格がすぐに肩を押さえた。
「勝手、取らん」
「まだ何も言ってない」
「顔、言った」
「顔、鳴った」
「腹だろ」
トマの声に、若いオークがうつむく。
「腹、鳴った」
ミナは解体された肉の一部を見た。村の分。保存する分。今日働いた人たちの分。ロウたちの分は別に置く。ゴブリンたちにも、働いた分を少し。オークたちにも、今日の分を渡す。
多くはない。
それでも、朝の薄い粥よりはずっと肉らしい肉だった。
バルドは横で分け方を見ている。眉間のしわは深いままだ。
「仕事をした分じゃな」
「うん」
「勝手に取りに来させんためじゃな」
「うん」
「分かる」
少し間が空く。
「分かるが……」
「分かりたくない?」
「言うな」
トマが肉の包みを持ち、オークたちの木札前へ運んだ。ミナも一緒に行く。ガルムは少し離れて見る。ロウたちは森側で止まる。
「今日の分」
ミナは石の上に肉を置いた。
「働いたから。でも、勝手に取りに来るのはだめ。食べ物はここで渡す。村の肉置き場には来ない。仕事の前に話す。村へ勝手に入らない」
代表格が真剣にうなずいた。
「仕事、飯、ありがたい。勝手、取らん」
若いオークの手が、少しだけ前へ出る。
代表格の手が、その手首を押さえた。
「待つ」
「飯……!」
「弱いの、先」
肉は、座っている二体へ先に渡された。次に大柄なオーク。大柄なオークは一度首を横へ振ったが、代表格が強く見て、少しだけ受け取った。若いオークは最後に自分の分を受け取り、両手で大事そうに持った。
「肉、重い」
「食べる時は早そうだけどな」
トマは肉を見て、少しだけ眉を下げた。
若いオークは真面目にうなずいた。
「早い」
「認めるな」
代表格は最後に自分の分を取った。小さい分だったが、不満そうではなかった。
「明日も、仕事、する」
「明日、まず話してから」
「話、してから。仕事」
「勝手に木を動かさない」
「勝手、動かさん」
「火も勝手に使わない」
「火、使わん」
若いオークが肉から顔を上げる。
「言葉、多い」
「大事だから」
「飯も大事」
「それも大事」
代表格が若いオークの肩を軽く押した。
「両方、覚える」
ミナは肉を受け取る順番を見ていた。奪わない。待つ。弱い仲間に先に渡す。食べ物を見ても、木札を越えない。
安全になったわけではない。
でも、今日見たことは、今日見たこととして残る。
*
夜になると、村の外側はいつもより広く見えた。
薪置き場は、少しだけまっすぐになっている。屋根板は古いままだが、雨の流れは前よりましだ。共同倉庫の壁も、応急の支えが入って、ひとまず倒れにくくなった。炭焼き跡ではゴブリンたちが道具を片づけ、古い材置き場跡ではオークたちが肉を分けている。
水路では、ぷるが三つ、夜の水を受けて静かに揺れていた。
森の外縁にはロウたちの金色の目がある。
薪小屋の方では、リィナがまだ何か言っていた。内容は聞こえないが、キキの「うるさい」が一度だけ聞こえたので、だいたい分かった。
村人たちは戸口や柵の内側から、遠巻きにその全部を見ていた。
怖い。
でも、薪置き場は直った。
怖い。
でも、倉庫の壁は少し持った。
怖い。
でも、肉はある。
怖いものばかりが、少しずつ生活の役に立っている。そのせいで、誰も簡単に「よかった」とは言えなかった。
ルシェラは森番小屋の近くで、腕を組んでそれを見ていた。
昼間は、面白かった。
小さき手が縄を締め、重き腕が壁を支えた。魔狼は肉を置き、水の小さき者は泥を食い、羽の娘はうるさく、緑の子は短く叱る。小娘は、それらを王の言葉ではなく、薪と水と肉と縄の言葉で動かしていた。
だが、見ているうちに、ひとつ分かった。
置くだけでは、いずれぶつかる。
火と木を近づけすぎれば燃える。食べ物を渡す場所と村の肉置き場が近すぎれば、腹を空かせた者が迷う。小さき手と重き腕を同じ場所に押し込めば、どちらかが潰れる。水を汚してはならぬ場所と、血を洗う場所も分けねばならない。
眠る場所。
食を受ける場所。
働く場所。
火を使う場所。
木材を置く場所。
道具を広げる場所。
人が踏み込まぬ場所。
魔狼が近づきすぎぬ外縁。
羽の娘が荷を置いて騒ぐ場所。
ルシェラは少しだけ目を細めた。
「小娘の外側にも、形が要るな」
誰に向けた言葉でもなかった。
森番小屋の戸口では、ミナが使った木札を拭いている。今日一日で泥だらけになった札だ。疲れているはずなのに、明日の水路と肉と食べ物の数をもう考えている顔だった。
ルシェラは口元を少し上げた。
「明日、小娘に言うか」
森の外縁で、ロウの目が一度動いた。
水路で、ぷるが小さく揺れる。
古い材置き場跡では、オークたちが火を使わずに、静かに肉を分けていた。
村の春は、少しだけ広くなっていた。




