第34話 黒枝の森と大きな足跡
第1部:辺境領と教会編
第7章:オークと倉庫づくり
春の仕事は、森番小屋の戸口にも積まれていた。
乾かしかけの縄。湿って音が鈍くなった鳴子。替えの木札。細く裂いた古布。小刀と、目印に使う短い枝。どれも大きな道具ではないが、忘れると森を見るときに困るものばかりだった。
ミナはそれらを床に並べ、ひとつずつ道具袋へ入れていく。外では、雪解け水がぽたぽたと軒下から落ちていた。薪小屋の柱は少し傾き、昨日結び直したばかりの木札も、朝の湿気で紐が重く見える。
「倉庫は見た」
指で数えて、ミナは小さく息をつく。
「次は、森側の柵と鳴子。獣道が畑側に寄ってたら困るし、水場が濁ってたら、獣が村の方へ来るかもしれない。そのあとに、薪置き場も見る」
戸口の横で縄を巻いていたトマが、空を見上げるように息を吐いた。
「春って、もっと明るい季節じゃなかったか」
「明るいよ」
ミナは乾いた布を畳む。
「やることが多いだけ」
「やること少ないと嬉しいなあ」
「あとで困るよ」
「それはそうなんだけどな」
トマは言い返しながらも、予備の木札を自分の袋へ入れた。慣れている。文句は言うが、手は止めない。
森番小屋の前には、ガルムも来ていた。弓を持ち、矢筒を背負い、足元の泥を見ている。冬明けの森へ入るときの顔だった。ただ、獲物を追うときではなく、危ないものを避けるときの顔だ。
「冬明けは足元が悪い」
「ぬかるみに足を取られる。倒木の下は不用意に覗くな。獣が寝ていることがある」
「うん。危なそうなところには手を入れない。足元から見る」
作業を続けながら、トマが苦笑いした。
「それ、お前が一番忘れそうなんだよな」
「忘れないよ……たぶん」
「たぶんを持って森に入るな」
ガルムに言われ、ミナは素直にうなずいた。
「気をつける」
その横で、リィナが薪小屋の入口から顔を出した。古い毛布を肩にかけたまま、羽だけは元気に動いている。
「空から見れば早いんじゃない?」
「木の下と泥の跡は、歩かないと見えないよ」
「ふうん。じゃあ、あたしは留守番でいいし」
言い方は軽いが、少しだけ残念そうだった。
「今日は飛ばないで、木札外の紐を乾かす方を見てて」
「飛ばない仕事、地味」
「でも大事」
「出た、大事」
リィナはむくれたが、立ち去りはしなかった。塩袋を運んだあとから、自分ができることとできないことを、少しだけ見るようになっている。少しだけだが。
キキは木札の外で、湿った紐を両手で持っていた。大人ゴブリンたちが道具置き場を開け、紐や曲がった釘をより分けている。細かい修理はそちらに任せられる。けれど森の中を歩かせるには、まだ危ない。
「キキ、ここ」
「うん。今日はそこね。トマが戻ったら紐を見る」
「トマ、うるさい。でも悪くない」
「俺がいないところで言うなよ」
トマが横からぼやくと、キキは真面目にうなずいた。
「いる。言う」
「そういう意味じゃないんだよな」
ミナは少し笑ってから、道具袋の口を結んだ。
「森の浅いところだけ見る。柵と鳴子。水場と獣道。奥へは行かない」
「奥へは行かない、か」
炉のそばから声がした。
ルシェラが立っていた。いつの間に起きたのか、朝から妙に機嫌がいい。裾が少し湿っているのに、まったく気にしていない。
「小娘の見回りに付き合ってやろう」
「留守番でいいよ」
「春の森を見るのだ。暇ではないが、見極めだ」
「暇だからでしょ」
「暇ではない」
ルシェラは胸を張った。
「ロウを追うなと言われたので、今日は追わぬ」
「追わない、木を折らない、鳴子を踏まない。森を見るだけだよ」
「注文が多い」
「ルシェラが張り切ると、仕事が増えるの」
「わたしは仕事を減らすために同行するのだが」
「俺は増える方に賭ける」
「小僧が、言いおる」
ルシェラは不満そうだったが、ミナの隣から離れる気はなさそうだった。ミナは諦めて、もう一つだけ念を押す。
「本当に、追いかけないでね」
「しつこいな」
「冬の間にも、何度も追いかけてたから」
「鍛えた」
「追いかけてた」
森側で、金色の目が動いた。
ロウだった。
黒枝の森の縁、湿った木々の影に立っている。ほかの魔狼の姿も、少し離れたところにいくつか見えた。冬のあいだ、ロウたちは肉を置き、夜に外周を回った。獣害も少し減った。村人は助かったと言う。
でも、怖いものは怖い。
森の近くで作業していた村人が、話しかけようとしていた手を止めた。子どもがロウの方を見て一歩動きかけ、大人に肩を引かれる。ロウがただ視線を動かしただけで、空気が少し固まった。
ロウはミナを見たあと、ルシェラを見た。
耳が、ほんの少しだけ倒れる。
「嫌そうだな」
「なんだ、その顔は」
トマがこぼし、ルシェラが一歩出ると、ロウは半歩ずれた。逃げるわけではない。けれど、近づかれたくはなさそうだった。
「ルシェラ、追いかけたからでしょ」
「鍛えた」
「追いかけた」
ロウは低く息を吐いた。唸りではない。けれど、あまり楽しそうでもない。
ミナは森側の線を指した。
「今日は見てるだけ。村の方には来ないで。肉を置く時も、あの石より手前はだめ。血が流れると土がぬかるむから」
ロウの耳が動く。
分かっているのかどうかは分からない。ただ、ロウはミナの指した石の手前で止まり、それ以上は出てこなかった。
「助かった」
遠くで、村人が小さく息を吐く。
「でも怖いな」
「怖いよね」
ミナは否定しなかった。
怖いものは怖いままでいい。怖いのに近づきすぎないよう、線を引く。そのために、木札と鳴子がある。
「行こう」
ミナは道具袋を肩にかけた。
*
黒枝の森の浅いところは、冬の終わりをまだ引きずっていた。
落ち葉は水を吸って重くなり、踏むと靴の底にまとわりつく。雪の重みで曲がった低木は、まだ自分の形を思い出せずに斜めに伏せていた。折れた枝があちこちに落ち、倒木の下には黒い水が溜まっている。春の匂いはあるのに、土の下だけはまだ冷たい。
ミナは一歩ごとに足元を見た。草の起き方、泥の崩れ方、水が流れた跡。森番の仕事は、遠くを見るより先に足元を見ることが多い。大きな異変も、小さな曲がり方から始まる。
「ここ、雪で押されたね」
木札の立っている杭に触れる。杭は倒れてはいないが、少しだけ森側へ傾いている。縄も湿って、いつもより重い。
「紐、伸びてる」
「替えるか?」
トマが予備紐を出す。
「今日は印だけ。全部替えると時間が足りない。ここはあとで」
ミナは短い枝を杭のそばに刺した。目印だ。
「あとで、あとで、あとで。春はあとでが増えるな」
「見つけた順に直すと、奥まで見られなくなる」
「奥へ行かないって言ってなかったか?」
「浅いところの、もう少し先」
「へりくつだなあ」
ガルムは古い獣道の状態を確認しながら頭を振る。
「先に浅いところを終わらせろ。水場を見るなら、昼前までだ」
「うん」
ミナは次の鳴子へ向かった。
鳴子は、湿った縄にぶら下がっていた。小さな木片と石が触れ合うはずなのに、指で揺らしても音が鈍い。からん、ではなく、こもった音がする。中の小石まで湿っているようだった。
「ここは外す。乾かす」
「音が鈍いもんなあ」
「うん。獣が近づいても、これだと気づけないかもしれない」
結び目は湿って固くなっている。ミナは無理に引かず、小刀の背で少しずつゆるめた。
ルシェラが退屈そうに見ていた。
「面倒なものだな。鳴らしたいなら、わたしが一声出せば森中が起きる」
「鳴らない方がいいの」
「ふむ」
「だめだよ」
トマは湿った鳴子をつつきながら苦笑いした。
「知らない人が見たら、罠を増やしてるみたいだよな」
「罠じゃない」
「近づくと音が鳴るやつだろ」
「だから、知らせるだけ」
「その違い、外の人に伝わるかな」
「伝わらなくても、鳴らないと困る」
ミナは外した鳴子を布に包み、トマへ渡した。
「乾いたら、音を見る」
「見るもの、多いな」
「多いよ」
それから、一行は獣道の方へ回った。
冬のあいだ、人も獣も歩きやすいところを選ぶ。雪が深い時は木の下へ寄り、風が強い時は斜面を避ける。春になると、その跡が泥の上に残る。細い獣道は、去年より少しだけ畑側へ寄っていた。
「ここ、嫌だな」
「畑に近いね」
「水がこっちへ流れてるよな」
トマと話しながら、ミナはしゃがみ、泥を触った。雪解け水が小さな溝を作り、獣道の低いところへ集まっている。水が集まれば、足跡も残る。獣も、歩きやすい方へ行く。
「このままだと、畑側へ抜けやすくなる」
「柵を足すか」
「柵というより、枝を寄せる。通りにくくするだけ。強く塞ぐと、別のところを破られる」
ガルムがうなずいた。
「逃げ道を消すな。獣は追い詰めると荒れる」
「うん。近づいてほしくないだけ」
ルシェラは腕を組み、つまらなさそうに獣道を見ている。
「獣に遠慮が多い」
「遠慮じゃなくて、畑を守るため」
「ならば獣を叩けばよい」
「叩くと森が騒ぐ。血の匂いも残る。あと片づけが増える」
「片づけで考えるな」
「片づけまでが仕事だよ」
トマが小さく笑った。
「ルシェラに一番向いてない言葉だな」
「聞こえておるぞ」
「聞こえるように言った」
そのやり取りの間にも、ロウたちは少し離れた森側を移動していた。黒い影が、木々の間をゆっくり渡る。先に行きすぎるわけではない。ミナたちの後ろへ回るわけでもない。浅い森の外側を、いつもの巡回のように動いている。
ただ、時々、森の奥を見る。
ミナはそれに気づいたが、すぐには言わなかった。ロウたちは冬のあいだにも、森の奥を見ていた。何かがあるのかもしれないし、ただ風を聞いているだけかもしれない。
*
水場は、思ったより濁っていた。
浅い森の中で、いくつかの細い流れが集まる場所だ。村の水路へ直接つながるものではないが、獣が飲みに来ることがあり、ここが荒れると獣道も変わる。冬のあいだは雪の下で静かだったはずの水が、春になって泥を巻き上げていた。
ミナは持ってきた細い棒で、水の底を軽く探った。泥は深い。枝が沈み、枯れ草が絡んでいる。上流側には、雪の重みで倒れた細い木が何本か重なっていた。水はそこで一度止められ、横へ逃げている。
「倒木で流れが変わってる」
「動かすか?」
「細いのだけ。太いのは触らない」
倒木の下を覗き込もうとして、ミナは肩を止められた。
「そこは覗くなと言った」
「あ」
「忘れるな」
「気をつける」
トマが肩を揺らして小さく笑っている。
「だから言っただろ」
「言ったね」
「素直だと逆に怖いな」
ミナは少し下がり、棒で枯れ草を引き寄せた。ガルムが横から倒木の隙間を見て、獣が寝ていないことを確認する。ルシェラは、倒木を片手で持ち上げようとしてミナに止められた。
「持ち上げない」
「細いぞ」
「水の流れが急に変わる。下が崩れるかもしれない」
「面倒だな」
「面倒だから、少しずつ」
ルシェラは不満そうに手を下ろした。
トマとガルムが細い枝だけをどかし、ミナが泥の流れを見る。水は少しだけ通るようになったが、完全には戻らない。上流側に、もっと大きな倒木があるのかもしれない。そこを見なければ、なぜ水が横へ逃げているのか分からない。
ミナは空を見た。
まだ昼前だった。
「少し先まで見る」
トマがすぐ顔を向ける。
「奥へは行かないって言ったよな」
「いつもの水場の少し先。倒木の向きだけ見る」
「それ、奥じゃないのか」
「浅いところの続き」
ガルムは森の中を見た。湿った土、倒れた枝、曲がった低木。危なくないとは言えない。だが、日が高い今なら、もう少しだけ見られる。
「足元からだ。深いところには入るな」
「うん」
ロウが、少し前方の木立へ視線を向けた。
ルシェラも、同じ方を見る。
その顔が、ほんの少しだけ静かになった。
「なに?」
「水の匂いが濁っておる」
「それは見れば分かるよ」
「それだけではないが、今言うほどでもない」
「言い方が嫌だな」
トマがぼやく。
ミナはルシェラの顔を少し見た。楽しそうではない。騒ぐほどでもない。だから、まだ決めない。
「倒木のところまで」
「そこを見たら戻るか、印をつける」
「戻る、が先じゃないのか」
「見てから」
「見てからが一番怖いんだよな」
トマはそう言いながらも、予備札を握り直した。
*
いつもの浅い森より少し奥へ入ると、音が変わった。
村の方から聞こえていた薪を割る音や、遠くの話し声が薄くなる。代わりに、鳥たちのさえずりと、枝から滴るしずくの音がはっきりした。黒枝の森は深くなったわけではない。けれど、ほんの少し奥へ入るだけで、木々の間の影は濃くなる。
ミナは木の幹に目印札を結んだ。
「ここまで来た印」
「帰り道か」
「うん。ぬかるみで足跡が消えるから」
ガルムが前を歩き、ミナがその少し後ろ。トマは左手に縄を持ち、ルシェラは何も持たずに歩いている。何も持っていないのに、一番やらかしそうなのはルシェラだった。低い枝が肩に当たり、ぱき、と音を立てる。
「ルシェラ、枝」
「枝が弱い」
「弱くても折らない」
「森に甘いな」
「折れた枝もあとで片づけるの」
「やはり片づけか」
「森の奥まで片づけの話してるの、ミナくらいじゃないか」
「足に刺さると困るでしょ」
「そうだけど」
そんなふうに言い合っているうちに、倒木はすぐに見つかった。
太い幹ではない。だが何本かが重なって、水の流れを斜めに押している。雪の重みで折れ、春の水で少しずつ動いたらしい。枝の間に枯れ草が詰まり、小さな流れが横へ逃げていた。
「これなら、細いのだけ外せば少し戻るかな」
ミナは近づこうとして、足元で止まった。
泥が、深い。
倒木の手前だけではない。その横、少し広い範囲で、土が重く沈んでいた。雪解け水で柔らかくなっただけにも見える。けれど、ミナの靴跡よりずっと深い沈みが、二つ並んでいる。
ミナはしゃがんだ。
「踏まないで」
トマが足を止める。ガルムも止まる。ルシェラも、珍しくすぐ止まった。
泥のくぼみは大きかった。丸いというより、広い。獣の蹄の跡ではない。爪の跡もはっきりしない。雪解けで崩れて形は悪いが、重いものが足を置いた跡に見える。
ひとつ。
少し離れて、もうひとつ。
その間隔は、人より広い。
「足跡か?」
「まだ分からない」
ミナは指を伸ばしかけ、触れずに止めた。
「雪解けで土が崩れただけかもしれない」
ガルムは周囲を見た。泥のくぼみ、倒木の位置、少し高いところで折れた枝、苔の剥がれた石。弓を持つ手に、少しだけ力が入る。
「獣ではないな」
「まだ決めない」
「蹄ではない。四つ足の歩き方でもない」
「二本で歩いたかもしれん」
トマの顔が少し引きつる。
「この大きさで?」
ミナは泥の並びを見た。大きい。重い。二本脚で歩いたものかもしれない。でも、まだ何も見ていない。泥だけで決めるには早い。
「村へ向かってる?」
「今見ている」
ガルムがうなずく。
ロウは、少し離れた木の影にいた。いつからそこにいたのか分からない。金色の目が、泥のくぼみではなく、その先の森を見ている。
唸ってはいない。
耳も、強く立ってはいない。
ただ、知っているような顔だった。
「ロウ、気づいてたのかな」
「たぶん」
ミナはロウを見た。
「でも、警戒してる感じじゃないかも」
ルシェラも森の奥を見ていた。先ほどまでの退屈そうな顔ではない。かといって、剣呑でもない。
「敵意の匂いは薄い」
「匂い?」
「大きい。重い。だが、荒れてはおらぬ」
「見たの?」
「見てはおらぬ」
「じゃあ、まだ決めない」
「小娘は、すぐそれだな」
「見てないものは決められない」
トマは泥の跡と森の奥を交互に見た。
「魔狼連れて、森の奥で大きい足跡を見るって、なかなかだな……」
「追わない」
「そうなのか?」
「村へ向かってるかだけ見る」
ミナは立ち上がり、足元を確かめた。昼は過ぎている。だが、まだ日が高い。ここで帰ってしまえば、この大きな跡が村側へ向かっているのか、森の奥へ戻っているのかも分からない。
分からないものを、分からないまま村の近くに残すのは嫌だった。
「奥へは入りすぎない。追い詰めない。近づきすぎない。村の方へ向かってるかだけ見る」
「……やっぱり、もう少し見るんだな」
「まだ昼過ぎだし、もう少し見られるからね」
ガルムは泥の跡の先を見た。
「見つけてしまったからな。村へ向いたかどうかだけは、確かめる」
「危なくなったら戻る」
「無理はしない」
「たぶんは?」
「言わない」
「よし」
ルシェラが少しだけ笑った。
「なら、見に行くか。春の森は、なかなか飽きぬ」
「走らないで」
「注文が多い」
「枝も折らないで」
「さらに増えた」
ロウが先に、音もなく木々の間を移動した。案内しているのか、ただ同じ方へ行くだけなのかは分からない。ほかの魔狼たちは距離を取り、ミナたちの左右に散る。
ミナは泥のくぼみを踏まないように、横から回った。目印札をもう一つ、湿った枝に結ぶ。帰る道を忘れないため。あとで、もう一度見るため。
黒枝の森は、昼過ぎの光の中でも暗い。
けれど、足元の泥はまだ新しい。
ミナは道具袋の紐を握り直し、一歩だけ、いつもの浅い森の外へ進んだ。




